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わたしって変?

2011-03-31 10:55:48 | 日記・エッセイ・コラム
わたしって、自分中心かなぁ?
大家さんへ家賃を届けたときのこと。お店をやっていたので、前から都合のいい時間帯を確認しておきました。それで、今回も十分ぐらい前に持って行ったのです。そしたら、言われました。できたら、夜おそいので?すぎにしてほしいと。つまり、十分はやすぎたという意味です。申し訳なさそうな口調で、決して悪気はなかったと思います。
そして、分りましたで済むことなのに 何日か経てば忘れちゃうことなのに しかし、何故か気になって、ずうっと憂鬱なのです。
五、六年まえのあの出来事があってから もう、泣かなくなったはずなのに、またぞろ、彼女の名前をつぶやいてシュクシュク 
わたしの何かが壊れちゃいました。自分の耳に心地いい言葉だけ受け入れる。そんな身勝手さに我ながら情けないです。
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生きてるということ

2011-03-06 12:16:41 | 日記・エッセイ・コラム
わたしは生きている。なんの為に 日々の営みには、どんな意味があるのだろう 
よく、なんの為に生きているのか、わたしの人生云々とさまざまな論争がおこる。
 
 わたしは考えた。自分の気持ちと格闘しているのこそ、わたしが生きているということなのだと。
夢を叶えるために、生きているという人もいる。それは、夢に向かって努力しているということ。それもまた、自分の気持ちと闘っていることに他ならない。
或いは、気持ちよく過ごしたいと努めていると言う人もいる。これも、自分の気持ちと闘っていることになる。
つまり、自分と格闘している=生きていること。 人間は無心になれない いや、えらい人は私心を〇に出来るかもしれない。でも、わたしは利己主義のかたまり。自分以外の人を傷つけて気がつかないことだってある。そうなると、因果応報の教え通り自分に返ってくるだろう。
そんなことを考えたりして、わたしは怯える。怯える感情を抑え込もうとするのも生きているから。
 生が終われば、何にでも闘うことはなくなる。それとも 経験したことないから、断定はできない。
少なくとも、わたしの場合、自分の気持ちと闘っている、生きているかぎり。 闘うのを止めたいときもあるけど、怖くて出来ない。恐怖を抑えようとするのも闘っているとおなじ。それは生きているということ。恐怖に勝ったら闘いもおわる。
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新春 おめでとうございます

今年はわたしの年  ひつじです。    あっと驚くような 善いことめざしてがんばります\(^o^)/