岩田拓郎のほっとTIME

俳句、白血病闘病記、地域活動、趣味の世界、
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白鹿城の戦いとその後

2009-02-25 08:03:55 | Weblog
写真は昭和3年の松陽新報に掲載された松田廟と岩田栄之助。


白鹿城の戦い(参照:出雲尼子一族・米原正義)=前編
       
 永禄五年六月、尼子の驍将本城常光が毛利に寝返って、大森銀山を失ったことが合図で尼子の本国出雲に警鐘が鳴り渡たった。
 元就は雲・芸講和不成立の責任を尼子に転嫁しながら、分国諸将士一万五千を統率して同年七月三日吉田郡山城を発し征雲の途についた。
 毛利軍は石見路を阿須奈・都賀を経て出雲に入り、二十八日に赤名に陣し、先陣は三刀屋、宍道を経て来待に進んだ。
 十一月五日になって、元就は本城常光とその一党を暗殺し、銀山を手中に収め、中国征覇の財政的基盤を確立したが。毛利に服従していた松田誠保等、雲・伯の諸将は自ら危ぶんで尼子の許に帰った。
 元就は、人心の動揺を心配して赤名に退陣したが、十二月十日再び赤名を発し、白潟を経て宍道湖の北岸、天綸寺山の洗合に半永久的な本陣を構え、宍道湖と中海の間の和久羅山を攻略し支城を構えた。
 安芸水軍の児玉就方は大根島を擁し、中海から宍道湖を制して海上権も握った。
 こうして、富田本城と随一の支城白鹿城および島根半島との連絡は不可能となってしまった。

 永禄六年正月、富田城から宇山、牛尾、立原らの諸将が三刀屋川を隔てて相対し激戦を展開した。宇山、牛尾は戦期におくれ明日を期したものの、毛利の援軍洗合から出発の虚報を信じて、月山に帰陣した。
 八月四日元就嫡男隆元が安芸郡佐々部に於いて急逝。八月十三日毛利の全軍は隆元の弔い合戦と白鹿城総攻撃を始めた。
 攻めくる毛利は一万五千。守る尼子は豪将松田兵部丞誠保の手勢一千余と、牛尾太郎左衛門尉久清の率いる富田の援兵八百余人。
 第一回の総攻撃を受けて小白鹿(二ノ城)が落され、白鹿の外郭が破られてしまった。
 ついで、九月十一日元就は大森銀山の鉱夫数百人を呼び寄せ、穴を掘って城内の水の手を断とうとした。これを知って城中からも地下道を作って迎え撃った(雲陽誌)。
 富田の城将義久もこの白鹿城の攻防を黙って見ていたわけではなかった。
八月六日馬潟原、同十九日白鹿城麓船本、同二十八日宍道中蔵に戦い、九月十日熊野兵庫介らが熊野城で毛利軍と激戦を展開した。
 また、九月二十三日には、義久の弟倫久を総帥として白鹿城の後巻きを策し、和久羅から馬潟に至る地点まで進出したものの、毛利の両川に迎撃され敗北してしまった。
 このとき義久の近習山中鹿介幸盛が勇戦したことは諸軍記の伝えるところだ。
十月十三日に小高丸が落ちた。八十日近く篭城を続けた白鹿城も、ついに二十九日に明け渡し、援将牛尾久清は富田に送還された。
 白鹿城落城の寸前、松田兄弟らが毛利に降参しようとした時、誠保の妻(晴久妹と)が「各はともかくもしたまへ、みづからは自害せん」と叫んだ。城将松田誠保は隠岐へ渡ったとも自刃したとも伝えられている。
 とまれ尼子十旗の第一白鹿が落城、富田城はいまや孤城落日の悲境にさらされてしまった。

白鹿城主松田左近将監誠久の後裔について=後編

 明治三年五月五日・六日の松陽新報(現山陰中央新報)につぎのような大見出しで特集連載されているので現代文に要約して紹介する。
「永禄の出雲戦史を飾る白鹿城主松田左近の後裔により左近の碑廟大修理本庄街道の路傍に立つ」
「本庄灘の敵軍に支へられ隠岐落ちの目的を達し得なかった左近とその従臣墓廟を修理した岩田氏」

 尼子の態勢を支える為、白鹿の要塞に拠って孤軍奮闘を続けた松田左近の碑が、一寒村の叢の中に置かれてある。此の碑廟の位置する細工峠は本庄街道で、白鹿城を脱した左近が一族郎党と共にここに至ったのは、富田の本拠の尼子軍に合しようとした為であろうとも、又再挙を図る為ひとまず隠岐へ脱走する為、此の道を選んだものであろうとも云われている。
 左近が此の地で一切の希望を棄てるに至ったのは、吉川軍の急追に堪え得なかった為だが、實は此時既に吉川方の海軍が本庄灘方面を遠巻きにしていて、又此の碑廟の位置するその前面に大きな池沼があったので、最早それ以上逃避する余地なきものとし天を仰ぎ無念を忍んでここに自刃するに至ったものであろうといわれている。

 この碑は、松田左近将監の後生を弔うため建立せられたことが村民の口碑、伝説で伝えられている。今日現存する四個の五輪塔中、その一個には明らかに「松田廟」の文字が歴然として残り、然も一等大きい為、何人にも左近の廟であることを首肯せしめる。
 此の五輪塔が特別に管理するものも無く、ただ児童の病気を癒すお墓なりとして、附近村民が時々碑前に線香を備えたり、左近が武人で、然も長刀の達人であったと言うところから、常に大小数個の木剣が備えられたり、又、この碑石の笠石がの若い衆の力石になったり、殆ど荒るると朽るとに任せて今日に至ったものである。
 
 「此の白鹿落ちの際に最も悲哀を留めたのは、この時未だ乳母の懐ろで無心に眠って居た幼児の勝則(左近の第五子)である。
 當時、勝則の最期を見届くべく左近から厳しく云ひ付けられて居た乳母は、白鹿の落城と共に左近等の跡を追ってそっと城を出で川津村方面に向かった。 
 しかし、道を遮る敵の軍兵の為何れにも進み得ず、殊に大切な御曹司を懐に秘めて居るので特に危険を感じ、あちらこちらと逃げ廻った。
 その時、路傍に藁屑かなにかの盛立てあるのを認め、そっとその中に勝則を埋込み、自分は付近の山に隠れて人目を忍んだ。
 夜に入って再び元の藁屑を探して見ると、無心の勝則は何人にも潰されず元のまま息も通っているので、即時抱き上げてここを落ち延びた。
 それから乳母の実家に當る大原郡月坂村に引き上げ、能義郡山佐村に移って勝則は農となった。
 その後更に鍋谷を経て、今の下山佐堀田に移り爾来十三代を経過し現戸主の兵次郎氏に至った。」

「左近の裔に當る岩田氏の一族が、右五輪塔の修理を計画し、同村玉理寺住職の参同を得て玉垣を新設し、何れかに取り除かれて居る中央松田廟の臺石を新調した。
 三百六十有余の長い歳月をここに埋もれ盡した五輪塔としても、又無念の一刀を恨み得ず空しく路傍に消え去った左近の霊としても、正しき血縁によって今日新たに碑廟の大修理を見るに至った。
 それは慥に四燐を掩ふ幽暗の中に燦たる天日を仰ぐの感銘を覺ゆるものに相違なかろう。」と結んでいる。

尚、兵次郎弟陸軍少将岩田加太郎が記した資料には、当時先祖の墓地の玉垣修築の企を聞いて資を寄するもの多く、伯爵亀井家の如きは其の先祖の尼子氏の臣下たりし因縁により多額の寄付をされたと記されている。

付録(新屋岩田家について)
宗家堀田家之系譜曰
清和天皇十五代松田七郎太郎重經の後裔也(中略)永禄の初年本國嶋根郡白鹿城主松田十郎蔵人與毛利挑戦時哉取敗城郭陥没父子共戦死只有一産兒乳母懐之遁走(中略)遁身舊家厚奉養之遂懐之還干故郷大原郡引坂村愛護如我子矣及其成長以第五男稱五左衛門改氏松田為岩田號變九曜為井字章變更其氏號者有以也(中略)堀田三代九兵衛勝治之末子襲父に名稱九兵衛別家干村内連綿今日新家是也(下略)

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