たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

好摩駅の啄木歌碑

2011-05-17 | 啄木歌碑
盛岡市玉山区の姫神山(1124m)の山開きは15日行われました。また、この日は玉山区のIGRいわて銀河鉄道好摩駅の東西自由通路の開通と新駅舎落成記念式が行われた。以前ホームに置かれていた啄木歌碑は新しい駅舎の中に移され、駅を利用するお客さんに親しまれるのでしょう。







霧ふかき好摩の原の
 停車場の
 朝の虫こそすずろなりけれ

 啄木





歌碑は 黒っぽい板に、白色の塗料で歌を書いたものです。この歌は雑誌スバル「秋のなかばに歌える」に掲載(明治43年11月号)されている。なお、「霧深き・・・」として東京朝日新聞「手帳の中より」にも発表(明治43年8月11日)した。

渋民には現在は渋民駅があるが、啄木の頃にはなかったので、啄木の育った宝徳寺から5km先の好摩駅を利用していた。文学を志して上京するとき、挫折して故郷へ帰るときなど啄木は何度も好摩駅に立ったのでしょう。啄木が最後に好摩駅に立ったのは、明治40年5月4日、渋民村を追われ、函館に旅立った時です。 





好摩駅の東西連絡通路。歌碑は二階の切符購入室にある。




姫神山



宝徳寺の門前から見た岩手山




啄木の歌には姫神山は出てきません。啄木の思い出の山は岩手山だったのですね。たしかに、啄木が育った宝徳寺の門で毎日見る岩手山は綺麗で、頭に沁みこんでいるのでしょう。

啄木が現在の玉山区で生活したのは次のようになっている。啄木は日戸村の常光寺で明治19年2月に生まれ、明治20年3月に父一禎が渋民村宝徳寺住職に任ぜられ渋民村に一家で移った、渋民村には同村の宝徳寺に明治20年の3月から盛岡中学を退学し、上京する明治35年10月までと、上京後体調を崩し戻ってきた明治37年2月から再び上京した明治37年10月まで住んでいた。結婚後は明治39年3月から北海道に旅たった明治40年5月までで、合わせて18年6か月になる。

なお、玉山村は、明治22年4月に日戸村と合併、その後明治29年に渋民村と合併し新しい玉山村になる。その後、平成18年1月、盛岡市に編入合併のうえ廃止された。旧村域には合併特例法に基づく地域自治区が平成28年3月31日を期限として設置され、地名にも玉山区が使われている。












御衣黄桜

2011-05-14 | ぶらり盛岡
御衣黄桜(ぎょいこうさくら)の色は淡緑色で珍しい桜です。「御衣黄」という名前は江戸時代中期からあったようですが、その由来は貴族の衣服の萌黄色に近いためとも言われております。岩手県では一関市で咲くようですが、盛岡でも隣村の滝沢村の「土・日ジャンボ市」の駐車場脇で咲いていおり、この時期になると多くの人が訪れ桜を観賞していきます。この場所は盛岡から秋田方向に国道46号線を進むと右側にあり、盛岡ICの近くです。














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啄木の盛岡中学時代の歌   ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

灯ともしてやがてまたよむ経のみ声尊(たふと)みてらの戸により聞きぬ 

啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その16)

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米内浄水場のシダレ桜(市の指定保存樹木)

2011-05-12 | ぶらり盛岡
米内浄水場のシダレザクラは30本ほどあり、盛岡市内の桜が散った頃に満開になります。この桜は盛岡市の指定保存樹木になっています。

















浄水場までは
盛岡駅前から、桜台団地ゆきバス( ⑪番線のりば)に乗り、「桜台団地東口」下車、歩いて10分ぐらいです。盛岡駅からJR山田線(宮古行き)で二つ目の駅の上米内(かみよない)で下車すぐです。
車の場合は国道4号盛岡バイパスの北山トンネルを過ぎ岩泉方向に進むとトンネルから約9kmほどのところです。




上米内駅




米内浄水場


米内浄水場は盛岡市最初の浄水場で1934年に完成し、施設能力は1日3万2450立方メートルのようです。緩速ろ過池、緩速系施設は,場内にある水道記念館とともに,1999年に国の有形文化財に登録されています。







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啄木の盛岡中学時代の歌  ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

二十(はた)とせを懸想(けさふ)になきし人二人江の東に暁(あけ)の月見る 

啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その15)

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小岩井農場の一本桜

2011-05-09 | ぶらり盛岡
小岩井農場は盛岡市の隣雫石町にあり、盛岡駅から20㎞程あります。この農場は明治24年に開設されております。NHK連続テレビ小説「どんど晴れ」にも登場し、有名になった一本桜(エドヒガン)は、樹齢は不明のようですが、明治40年代(約100年前)に植えられたと推定されています。5月9日の盛岡は曇っていましたが、岩手山ははっきり見えましたので、出かけました。桜はちょうど満開で多くの人が訪れていました。













小岩井農場まきば園までの道路沿いの桜









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啄木の盛岡中学時代の歌  ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

さらでだにただかりそめの惑ひよとそとほゝゑみし君や悶(もだ)えの 

啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その14)

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啄木「小天地」発行の地

2011-05-07 | 啄木歌碑
啄木は明治38年節子と結婚し盛岡市内帷子小路に新居(啄木新婚の家)を構えたが、この家には3週間しか住まず、盛岡市内の加賀野に転居しました。啄木はここで文芸雑誌「小天地」を発行しております。「小天地」には啄木の妻せつ子も多くの歌を載せており、盛岡の「啄木であい道」には、節子の次の歌碑も建っている。






眞洞出る
流れに添ひし
白樺の
木立をつつむ
夏大日かな

石川せつ子
(小天地)







夏潮や二人のゐなる舟なれば
五反帆なれど日の色そめて

石川節子
(小天地)




啄木が住んでいた当時の家は現在は無く、その跡地にはマンションが建っており、その壁には次の案内板がある。なお、この場所は上の橋(かみのはし)の上流500mほどのところです。