くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

大関家の保存の賜物

2010年12月07日 | 知識補給
先月の21日(日)。
栃木県都の宇都宮に在る栃木県立博物館で同月23日まで開かれていた企画展「改革と学問に生きた殿様-黒羽藩主大関増業-」の招待券が手に入ったので、武者友さんお誘いして行って来ました。

武者友さんとは12時に現地待ち合わせとして、県立博物館にも近い東武宇都宮に出るべく、朝の6:30に起きて向かう計画を立てていました。
けど、起きたのは8:00過ぎ...。
完全に出遅れてしまい計画は断念。
急いで身支度を整えて家を出るも、待ち合わせ時間に間に合うかどうかすら覚束なくなったので、上野から新幹線に乗って行きました。
お蔭で宇都宮駅には11:30過ぎに到着。
完全に遅刻する在来線より50分近く時間を縮めて着けました。
事前に調べた行き方だと、ここからバスなんですが・・・複雑すぎて見付からず(^^ゞ
ならば歩きだ!と、てくてき歩いて向かいました。
距離としておよそ3kmほど。
この程度の距離ならなんてことはありません。
日頃の運動不足解消も兼ねて行くと、途中、バス停を探して彷徨っていた武者友さんにバッタリ出くわし、供に歩いて向かいました。

繁華街から住宅街の道に逸れて進むこと数十分。
結果的には、待ち合わせの時間よりも30分近く遅く到着しましたが...
初めてのそこは、広々とした公園の奥にあります。
途中、公園内の池の畔にある小屋で一息つきましたが、晩秋の日曜日の昼下がり。
穏やかな陽の下、聞こえて来るのは百舌の鳴き声くらいです。
実に休日らしい、のんびりとした光景と時間を過ごしました。。。

さて。
一息終えた後、ここから直ぐの博物館へ。
受付で招待券を提示して中へ進み、真直ぐ企画展へ・・・でもよかったんですが、それでは勿体無いので、常設展も見て周りました。
ここは、各時代史だけではなく、自然科学史の展示もあり、観応えあって面白かったです。
中でも地層については、栃木と私的に縁があるので興味深かったです。

常設展を一巡して、いよいよメインの企画展に。

大関家には前々から、特に今回の主人公たる土佐守増業公の4代後の肥後守増裕が幕政に参与して陸軍創設に尽力したことから関心があり、この企画展のことを知ってわざわざ来て観て見たのですが...
端的に、観に来てとてもよかったです。
始めは、展示内容の下調べもせず、マイナーな人物の企画展だからさほど史料もないだろう直ぐ観終わるだろう・・・と高を括っていたのが大間違いでした。
これほど充実した企画展は、久しぶりでした。
中でも圧巻だったのが文献史料の多さ。
展示の多くは甲冑や什器などですが、大関家は有史以来様々な文献書籍を遺していて、特にこの土佐守増業公は自らも大関家の歴史(『創垂可継』)を始めとして多くの著書と史料保存に腐心した成果として、今回の展示はそれら史料文献群が多数を占めていました。
お蔭で、史料一点一点読みながら観てしまったので、予想外に時間と労力と体力を要してしまいました(^^ゞ

この企画展の主人公たる土佐守増業公は、予州大洲城主加藤加賀守泰ミチ(行の間に令)公の末子として誕生。
養子に入るまでは舎人と称し、藩政にも参与していましたが、財政事情が破綻しかけていた大関家当主の美作守増陽が事態の打開に持参金目当ての養子縁組することと決め、迎えられた・・・という、苦しい事情がありました。
ゆえに増業公は自活の道を拓くべく藩政改革に尽力し、多くの政策を打ち出すも、家臣団がそれに付いて行かず、次第に家臣団との間に溝が開き、遂には当主の座を養父の実子に譲って隠居せざるを得なくなります。
正に、家臣からのクーデターに遭って、志半ばで表舞台から去らざるを得ず、その後も藩政はおろか学問も慎み、交際外出も制限され、養君の補導にも関与することが禁じられ、半ば家臣に軟禁されてしまいます。
これらの軌跡を展示の史料で追いながら見ましたが、良きにつけ悪しきにつけ、藩政改革に尽力すればするほど家臣団から見放され、溝が深まり孤立をし、遂には志半ばで失脚してしまった増業公の姿を思うと、胸詰まり、涙の込み上げて来るものがありました。

江戸の、特に中期以降はどこの御家も財政難に喘いでいました。
そこで、その窮状を打破すべく藩政改革に尽力しています。
しかし、成功を遂げることが出来たのは我が敬慕する上杉治憲公や肥後熊本の細川重賢公などの数例。
例え当主が改革を率先して行っても、多くは保守的な家臣、特に上層部の妨害に遭って頓挫することが多く、中には阿波国主蜂須賀重喜公の様に、主君が家臣に押込めるなどのクーデター的実力阻止行動をも何例かあります。
上杉治憲公も、一度は重臣層の反発を受けて改革が頓挫しかけたことがあります(七家騒動)が、与党が居たお蔭でその危機を乗り越えました。
しかし、増業公にはそうした家臣は居なかったのか、執政を務めた瀧田家の日記には、主たる増業公への批難(不満)が書き連ねてありました。
改革が如何に大変か、今の時代にも通じるところがあるのでは・・・とも感じました。

隠居後の殿様は学問に専心することが多く、増業公もまた、様々な分野に探究心を旺盛にしていました。
中でも熱中したのが兵学と“甲冑作り”で、総皮製の甲冑まで作る入れ込みようだったようです。

増業公は幅広い交友関係があり、それに関連した文献や肖像画も多数展示されていました。
特に私は肖像画が大好きで(笑)
今回、増業公を始め、松平定信公、堀田正敦公、真田幸貫公、松浦静山公などの肖像画が見られたことが、実に嬉しかったです。

この、あまりに充実した企画展に敬意を表し、館内のミュージアムショップで図録を買いましたが...

その隣に、大関家の史料を研究した本が、定価の半額で販売されていたので、思わず買ってしまいました。

それを時折読んでいますが、様々な史料を読み下し付きで解説されていて、とても読みやすくて面白いです。
ただ、買い物はコレだけに止まらず。
何気なく店内を巡っていたら、私的には看過できない図録が!
それがこれ...

光格天皇と幻の将軍
...です。
これは平成13年に同館で開かれた企画展の図録なのですが、私の研究分野にドストライクな内容で、将軍家嫡子で唯一将軍になれなかった大納言家基公を取り扱った展示など、今まで一度も出会ったことがないので、この図録の前で、または手にとって買おうかどうか考えあぐねていたら、店員さんが一言。

「それが最後の一冊です。」

これがグサリと心に刺さり、財布の紐を見事に開けてしまいました。
財政的にはキツく、図録同等ずっしりと来ましたが、買わずして後悔もう、大満足であることに違いはありません。
ちなみに、私が名乗っている「くないきょう“家基”」は、この大納言家基公(孝恭院殿様)より取っておりますことを、ここに付言しておきます。

以外にも充実しすぎていた栃木県立博物館を後にして、併設の公園を一巡りしてから市内をブラり。
往時の一部を近代的に復元された宇都宮城に登り...
戊辰戦争で徳川軍と官軍が激闘を繰り広げて焼き落ちてしまい、復元された部分以外はすっかりと住宅街に埋もれてしまっています。
“宇都宮”の名と縁ある二荒山神社に詣で...
この地の名物である“餃子”に舌鼓を打ち...

評判のお店なので、30分ほど並びました。

↑焼きと揚に↓水餃子、この3点のほかにご飯とビールしかありません。
駅前でこれに感謝をして帰路に着きました。


とても充実した企画展を行った栃木県立博物館に、これかも要注目です!

最後に、この企画展の主人公たる大関家について。
大関家の歴史は、正に謀略に始まって謀略に終わる・・・と言っても過言ではないかと。
即ち...
出自はかの常陸平氏大掾流小栗家より分派した一族とされ、北下野の那須郡に蟠距した那須家の与党(那須七党)として在った。
しかし、戦国の世真っ只中の天文年間にライバル関係にあった大田原家当主の備前守資清によって時の大関家当主の宗増の嫡子(弥五郎増次)が謀殺され、程なく宗増も死去し、結果、養子に入った資清の子・熊満高増が大関家当主となって事実上大関家を乗っ取ってしまいます。

今回の企画展の主人公である土佐守増業公は、非業の死を遂げた弥五郎増次公を篤く祀り、最期の地である石井沢に在る墓域の修繕を行っています。
平氏大関家最後の人である弥五郎増次を、どういう思いで修繕したのか・・・ちょい、興味のあるところです。

さて、その後、平氏から丹治氏に代わった大関家初代当主となった美作守高増は実家の大田原家などと連携して激動する関東の動乱と2大天下人の間を巧みに渡り歩いて近世大名として徳川時代下も中世以来の領知である那須郡内他で一万八千石余を領し、黒羽城主として明治の版籍奉還を迎えます。
ちなみにこの最後の段に至って、大関家は謀略によって幕を閉じます。
大関家は嫡子に恵まれずに他家より立て続けに養子を迎えることになり、文久元年、家臣団と対立した能登守増徳(丹波篠山城主青山忠良が五男・鉚之助)が押込隠居となり、代わって遠江横須賀城主西尾忠善の孫・忠徳を迎えられ、名を増裕と改めて肥後守に叙されます。
西尾家より養子を迎えたことによって、大関家は一外様の小大名(柳之間詰)から譜代格となり、加えて肥後守増裕自身の優れた見識もあって、幕政に参与することとなり、講武所奉行、陸軍奉行に就いて幕府の軍制改革を推進して幕府陸軍の創設に尽力。
一旦は病と称して幕政から離れるが、後年再び登用されて若年寄に補されます。
しかし、慶応3年12月9日。
朝廷から天下に王政復古の大号令が発せられたその日。
帰国して領内の金丸八幡宮(いまの那須神社)付近で遊猟中に不慮の死を遂げてしまいます。
死因は増裕が持っていた十三発込め銃の暴発(左耳の脇から右耳の上に貫通)とされていますが、不自然な点が多く、暗殺された・・・とも言われています。
享年は、この日に満三十を迎えたばかりでした。
結果、急遽水戸徳川家連枝の松平泰次郎(常陸府中城主左京大夫頼縄の甥)を迎えて(最後の)当主となして、版籍奉還を迎えます。

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