タイトルに触発され、期待された方,申し訳ございません。
これは、真面目な歴史(日本史)の話です(爆)
さて...
先月のとある朝の通勤時。
暇潰しに・・・と、ケータイ国盗り合戦のクイズをやってみました。
時折骨のある問題も出て、史学心が燃える!こともある、この日の問題は...
「征夷大将軍に就いたのは次のうち誰?!」
...という三者択一。
選択肢は、「信長」と「秀吉」と「神君家康公」(笑)。
この答えは勿論・・・・・・「神君家康公」です!が、この一般常識的問題の正答率が84%程だったことに(まず)驚き、続いて、解答に付いている解説を読んで更に驚きました。
いや、厳密に言うと、驚きよりも、あまりに滑稽過ぎて(苦笑)が止まらなかった・・・という方が的確かと思います。
その、滑稽な解説の内容は?!と言うと...
○戦国時代には源氏しか将軍になれない慣例が広がっていた
○だから信長や秀吉はなれなかった
○だから家康公は家系を偽造した
...ですって(爆)
もう、なんというか...
「誰がそんなこと言ってるんだ?!」(爆)って、解説作成者に問いたいくらいです。
今まで、歴史がブームであることに逆らわず、斜に構えてニヤニヤ眺めていましたが、これだけはちょっと・・・いただけないです。
この解説のキーポイントは、「戦国時代に―慣例が広がっていた」というところ。
すなわち、征夷大将軍就任の条件が「源氏であること」とすると、足利家が将軍職(世襲)に就く前の歴代将軍、例えば九条藤原家や、宗尊親王から大塔宮護良,成良,信濃宮宗良の存在を「無かったこと」にしてしまう無理が生じます。
しかし、これを「戦国時代に―」とすると、足利家(源氏)が将軍職を世襲しており、尚且つ、豊臣秀吉が足利義昭の養子となって源氏となり、将軍職を狙っていたという点から説明できると考えたのでしょう。
けど...
甘い!甘過ぎる!!
征夷大将軍の就任条件は、戦国時代でも...
関東打果され珍重に候の間、将軍になさるべきよし。
[三位宰相勧修寺晴豊の日記(『晴豊公記』)より]
即ち、関東を何らかのカタチで制していることが、条件なんです。
(この時、武田討伐の余勢を駆って、滝川一益が西上野に侵出。関東管領に付されたとも。)
この条件提示が明確に示されているのは、実は、信長が武田討伐後に行った朝廷との折衝の中で出たモノで、世に「三職推任」と呼ばれています。
「三職」とは、「将軍」の他に「関白」と「太政大臣」を指し、信長側の意向は「将軍」就任だったと言われています。
そして、信長のこの時の氏は・・・ズバリ!「平氏」です。
そしたら、将軍職就任と共に源氏に成ったか?!というと・・・どうでしょう。
信長が急死したとは言え、死後の贈官贈位も平朝臣ですし、三七信孝なども平朝臣ですから、まず、考えにくいでしょう。
そして、これにより、秀吉が将軍職に就けなかった理由も・・・そう、小牧長久手で徳川勢に敗れ、その行く手を阻まれたからなのです。
結果、この時起こっていた近衛家と二条昭実との関白職を巡る紛争に目を付け、半ば強引に介入して、その職に就いてしまうのです。
そして最後に,家康公が家系を偽造した云々の下りですが、新田の子孫を称するのは、後北条家の後に関東を治めるのに都合が良かったからです。
解り易い例では後北条家で、かの家の本来の名字は「伊勢」ですが、他国の兇徒と侮られることを憂慮した家祖の早雲が、関東と所縁のある「北条」を名乗るようになったのと、同じ意味が有ります。
そして、後醍醐天皇に呼応して、北条家の拠る鎌倉を陥落させたのは他でもない、新田義貞です。
そう、だから家康公は「新田の子孫」と称したのです。
なお、それ以前に、今川家から独立して三河一国を統一した時も、藤原(加茂)氏から源氏に改氏を行っていますが、これも、三河と縁深い足利源氏や国人衆の上に在るには、「源氏」である方が都合が良いと判断したからでしょう。
ゆえに、家康公が征夷大将軍を狙って源氏に改氏したなどというのは、全くの的外れなことなのです。
史学出の1人として。
歴史がブームになっていることは結構かと思いますが、それを利用する側には、十分な知識と見識を持っておいて貰いたい・・・と、ちょい思いましたので。。。
また...
ウルトラクイズ世代の私には、クイズと言えども真剣勝負!ですから(笑)
『国史大辞典』をよーく読むことを、オススメします。
これは、真面目な歴史(日本史)の話です(爆)
さて...
先月のとある朝の通勤時。
暇潰しに・・・と、ケータイ国盗り合戦のクイズをやってみました。
時折骨のある問題も出て、史学心が燃える!こともある、この日の問題は...
「征夷大将軍に就いたのは次のうち誰?!」
...という三者択一。
選択肢は、「信長」と「秀吉」と「神君家康公」(笑)。
この答えは勿論・・・・・・「神君家康公」です!が、この一般常識的問題の正答率が84%程だったことに(まず)驚き、続いて、解答に付いている解説を読んで更に驚きました。
いや、厳密に言うと、驚きよりも、あまりに滑稽過ぎて(苦笑)が止まらなかった・・・という方が的確かと思います。
その、滑稽な解説の内容は?!と言うと...
○戦国時代には源氏しか将軍になれない慣例が広がっていた
○だから信長や秀吉はなれなかった
○だから家康公は家系を偽造した
...ですって(爆)
もう、なんというか...
「誰がそんなこと言ってるんだ?!」(爆)って、解説作成者に問いたいくらいです。
今まで、歴史がブームであることに逆らわず、斜に構えてニヤニヤ眺めていましたが、これだけはちょっと・・・いただけないです。
この解説のキーポイントは、「戦国時代に―慣例が広がっていた」というところ。
すなわち、征夷大将軍就任の条件が「源氏であること」とすると、足利家が将軍職(世襲)に就く前の歴代将軍、例えば九条藤原家や、宗尊親王から大塔宮護良,成良,信濃宮宗良の存在を「無かったこと」にしてしまう無理が生じます。
しかし、これを「戦国時代に―」とすると、足利家(源氏)が将軍職を世襲しており、尚且つ、豊臣秀吉が足利義昭の養子となって源氏となり、将軍職を狙っていたという点から説明できると考えたのでしょう。
けど...
甘い!甘過ぎる!!
征夷大将軍の就任条件は、戦国時代でも...
関東打果され珍重に候の間、将軍になさるべきよし。
[三位宰相勧修寺晴豊の日記(『晴豊公記』)より]
即ち、関東を何らかのカタチで制していることが、条件なんです。
(この時、武田討伐の余勢を駆って、滝川一益が西上野に侵出。関東管領に付されたとも。)
この条件提示が明確に示されているのは、実は、信長が武田討伐後に行った朝廷との折衝の中で出たモノで、世に「三職推任」と呼ばれています。
「三職」とは、「将軍」の他に「関白」と「太政大臣」を指し、信長側の意向は「将軍」就任だったと言われています。
そして、信長のこの時の氏は・・・ズバリ!「平氏」です。
そしたら、将軍職就任と共に源氏に成ったか?!というと・・・どうでしょう。
信長が急死したとは言え、死後の贈官贈位も平朝臣ですし、三七信孝なども平朝臣ですから、まず、考えにくいでしょう。
そして、これにより、秀吉が将軍職に就けなかった理由も・・・そう、小牧長久手で徳川勢に敗れ、その行く手を阻まれたからなのです。
結果、この時起こっていた近衛家と二条昭実との関白職を巡る紛争に目を付け、半ば強引に介入して、その職に就いてしまうのです。
そして最後に,家康公が家系を偽造した云々の下りですが、新田の子孫を称するのは、後北条家の後に関東を治めるのに都合が良かったからです。
解り易い例では後北条家で、かの家の本来の名字は「伊勢」ですが、他国の兇徒と侮られることを憂慮した家祖の早雲が、関東と所縁のある「北条」を名乗るようになったのと、同じ意味が有ります。
そして、後醍醐天皇に呼応して、北条家の拠る鎌倉を陥落させたのは他でもない、新田義貞です。
そう、だから家康公は「新田の子孫」と称したのです。
なお、それ以前に、今川家から独立して三河一国を統一した時も、藤原(加茂)氏から源氏に改氏を行っていますが、これも、三河と縁深い足利源氏や国人衆の上に在るには、「源氏」である方が都合が良いと判断したからでしょう。
ゆえに、家康公が征夷大将軍を狙って源氏に改氏したなどというのは、全くの的外れなことなのです。
史学出の1人として。
歴史がブームになっていることは結構かと思いますが、それを利用する側には、十分な知識と見識を持っておいて貰いたい・・・と、ちょい思いましたので。。。
また...
ウルトラクイズ世代の私には、クイズと言えども真剣勝負!ですから(笑)
『国史大辞典』をよーく読むことを、オススメします。
コメント及び名乗りをしていただき、ありがとうございます。
これで、スッキリしました(笑)
そして、「新たな幕府軍を作ってください!」とも言えます(爆)
コメント(坂上田村麻呂)するのに名前を書くの忘れました。
テストなら0点だねー(笑)
コメント、ありがとうございます。
ショーグンに就く方法、よーく解りました(笑)
もう、ザッとだけでも、私的には大爆笑です。
いやぁ、正に挙げられた通りですね(爆)
コメント、ありがとございます。
元々は、蝦夷討伐から派生した官職なので、東国支配が不可欠・・・といった具合でしょうか。
どうぞ、これからも何卒良しなに。
ようこそ、引っ掛かってくれました(笑)
お待ちしておりました。
源氏長者が将軍を兼ねるのは足利義満からですが、セットが確立したのは江戸時代,家康公からです。
意外と最近です。
ようこそ。
コメントお寄せくださり、ありがとうございます。
やっぱり、思われましたか(笑)
それに就くには、石野さんが詳しく挙げてくださったので、譲るとして(爆)
征夷大将軍のベースキャンプが鎌倉及び関東であったが為とされているようです。
しかし、うーむ...
時代祭的には確かに(--ゞ
み、認めませんよ、私は(笑)
1.自分の隊を旗揚げして、毎年石和に参加する。
2.隊は基本7割以上を女性とする。
3.女性隊員の面倒は嫌と言うまでしっかり見る
4.毎年違う女性隊員を入れる。
5.名称は幕府軍とする
ザッと考えてもこのくらいはあると思います。
何で大和朝廷の東国侵略の時代に「源氏」・・・?と思っていましたが、勉強になりました。
私も征夷大将軍を目指して頑張ります!?
自分は源氏長者就任だけが必須なのかと思ってました(^^;
題名を聞いて、相模国に在住のとある御仁のことかと思ってしまいました。
>戦国時代には源氏しか将軍になれない慣例が広がっていた
この説は割と専門的と思われる歴史の本にも取り上げられており、かなりの人たちがそうだとおもっているようです。
実のところ小生もちょっと前までそうだと思っていました(お恥ずかしい話でありますがね)
なるほど。
将軍職の条件は関東を制することでありましたか。
そうすると、かの御仁は時代祭り参加という形で関東を制しているのでとりあえずは将軍の条件を満たしているようですな(爆)