郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「佐用」(佐用町)

2020-01-17 09:40:50 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「佐用」(佐用町)  佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




佐用の小字(町史より)




 佐用郡の地名は、播磨国風土記に「讃容郡(さよのこおり)」に見え、その地名の由来を最初に書いている。
 「大神夫婦の二人がこの地に来て国占めの争いをされたとき、玉津日女命が生きた鹿を捕らえて腹をさき、鹿の血に稲をまかれたところ、一夜の間に苗がはえたので取って植えられた。これを見て夫神は「あなたは五月夜(さよ)に植えたのか」といって自分の負けを認められてこの地を立ち去られた。それ以来この地を五月夜郡(さよのこおり)というようになり、妻神を讃用都比売命といった話が出ている。」(佐用町史)  
※玉津日女命は伊和大神の妹の説もある。



佐用町のこと
 佐用郡の中央に位置し、東は南光町と千種町、南は上月町、西から北は岡山県英田郡作東町・大原町・東粟倉村に接する。町の北部は近世までは美作国、近代に入って岡山県に属していたが、明治29年(1896)県境変更により兵庫県所属となる。町域は北高南低の地形で、南部は標高100m台、北部は800m台である。北東境に日名倉山(1047m)があり、同山を源流とする佐用川が中央部を南流し、左岸に庵川、右岸に江川川が合流する。佐用川流域に佐用盆地が開けるが、8割以上が林野である。

 昭和20年(1945)頃までの主産業は、米・麦・繭・木炭・木材など農林業で、一時ピーマン・加工用苺なども生産された。しかし、昭和30年代後半から各種企業が進出、現在はこれら地元企業と、姫路・竜野方面への通勤兼業が主体である。南部を東西にJR姫新線が通り、佐用駅がある。これと平行して国道179号線が通る。中国自動車道が東西に通じ、佐用インターチェンジがある。中央部をほぼ南北に智頭急行が通じ、石井・平福・佐用の三駅があり、佐用で姫新線と連絡している。国道179号から佐用で分岐する国道373号がほぼ佐用川に沿って南北に通る。北部の日名倉山周辺は、氷ノ山後山那岐山(ひょうのせんうしろやまなぎさん)国定公園および音水(おんずい)森林県立自然公園に指定されている。




■佐用(さよ)
 佐用川中流域の佐用盆地の南部平地と後背丘稜に立地する。福原・吉福・大坪・山平・大願寺(だいがんじ)・秀谷(ひでたに)の6集落がある。古代以来の美作道が通る交通の要衝の当地は、江戸初期には佐用宿が置かれ町場が形成された。町場には、上町・中町・新町などがあったとみられる。

 浄土真宗常徳寺がある。境内は満願寺という古代寺院跡と伝え、塔の心礎が残る。町中に樹齢1千年と伝える佐用の大イチョウ(県指定天然記念物)がある。佐用盆地の中ほど、標高110mの段丘上に中世城郭の佐用構があった。現在佐用小学校となり、遺構はなく、字構の段の呼称のみが残る。佐用兵庫介範家が福原城を築く以前に居城としたというが不祥。

 昭和30年頃から養蚕・畜産業が盛んになる。大正12年電灯架設。昭和10年姫津西線佐用駅開設、同11年岡山県の美作江見駅まで開通して前線開通。昭和30年佐用町成立後「さよう」と称することが多くなった。昭和42年山王、同48年柴谷に町営住宅を建設。



◇今回の発見
・明治29年県境の変更により、佐用の北部は美作(みまさか)の国(岡山県)であったが、兵庫県に属した。
・佐用村は江戸初期より佐用宿としての賑わいを地名に残している。樹齢1千年と伝える大イチョウは町なかにあって世の移り変わり見てきた物言わぬ生き証人となっている。



追伸
 佐用町史には、「地名の語源を求めて」として100頁に亘り可能な限りの地名(小字)の語源を探っている。字限図を載せたわかりやすい説明は、郷土の歴史研究にとっては格好の研究資料になり、地名の見方の参考になります。以後掲載の佐用町の地名の由来の参考にさせていただきます。




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