郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「抜位・小赤松・大酒」

2020-01-16 11:10:33 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「抜位・小赤松・大酒」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,804 件(2010.11.9~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■抜 位(ぬくい)
 江戸期から明治9年の村名。播磨国赤穂郡のうち。佐用郡上秋里村の南東に位置する。大半は300m~500mの山上に立地し、生業に乏しく交通の便も悪いため近年廃村となった。
 元和元年(1615年)から赤穂藩領、元禄14年(1701)から幕府領、享保元年(1716)安志藩領となり幕末に至る。
 明治9年赤穂郡小皆坂(こかいざか)村・市原村・黒石村(現上郡町)と合併して同郡旭村となる。(現上月町大釜)




■小赤松(こあかまつ)
 江戸期~明治22年に播磨国赤穂郡に属す。佐用郡家内の南西、赤穂郡抜位村の北東に位置する。山に囲まれえた平地。地名の由来は、赤穂郡赤松に類似した地形から、小さい赤松と呼ばれるようになったと思われる。
 明治22年赤松村の大字となり、昭和30年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。農業を主体として生計を維持してきた。
 氏神は素盞鳴(すさのお)神社がある。もと産霊(さんれい)神社と称していたが、明治41年抜位(ぬくい)の素盞鳴神社を合祀し改称。山中の緩傾斜地にお経塚3ヶ所が残る。




■大酒(おおざけ)
 江戸期~明治22年に播磨国赤穂郡に属す。小赤松村の南に位置する。千種川が南流し、左岸の沖積地に大酒と相ノ原の2集落がある。集落の後背地は最高点408mの急峻な山地で、また千種川右岸も急峻な山地である。地名の由来は、秦酒公を祀る大避神社にちなむと思われる。
 千種川中流域で水流が穏やかであったから用水の取水に難渋した。天保3年(1832)上流の家内(けない)村に堰を築いたが、この際下櫛田村、赤穂郡赤松村(現上郡町)などの庄屋の仲介で家内村との間に当村が堰溝手の管理を行い、家内村に不都合をかけないようにする、堰地料銀350匁と米2斗を家内村に支払うなどの約定を取り交わした。高瀬船に従事した人たちの信仰があって、佐用町南部と上月町には、秦河勝(はたのかわかつ)を祭神とした大避神社がほかに5社あった。また、集落後方の山上に中世の中ごろに王崎山(おうざきさん)城があったという。「播磨鏡」は跡地不明とし、城主は赤松信濃守範資と記す。郭跡とみられる平坦地がある。
 明治22年赤松村の大字となり、昭和30年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。





◇今回の発見
・小赤松は地形が、赤松氏の根拠地赤穂郡(上郡町)赤松に似ていることから小赤松といわれたという。一度確認してみたい。
・赤穂にある大避神社には、秦河勝の祭神が祀られている。かつて聖徳太子のブレーンといわれ、太子亡き後、蘇我入鹿からの迫害をさけ、赤穂の坂越に移り、千種川流域の開拓を進めた人物であると。それが大避神社の名の由来にもなっている。

地名由来「西新宿・大日山」 

2020-01-15 09:48:32 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西新宿・大日山」    上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,683件 (2010.11.8~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■西新宿(にししんじゅく)
 上秋里村の南西、秋里川上流域に位置する。同川沿いを播磨から備前へ至る道が通る。西は備前国和気郡東畑村(現岡山県吉永町)、南は赤穂郡黒石村(現上郡町)。ほぼ標高300mの山地に中才(なかざい)、松尾・奥ケ市・惣ノ田(そうのた)・岡坂(おがさこ)の小集落が散在する。地名の由来は、同郡内東の東新宿に対して西新宿と呼んだが、宿場であったという記録はない。播美国境の村で、山間部に点在するわずかな平地に8集落あった。
慶長国絵図に新宿村と見える。のち三日月町域の新宿村と区別するために西新宿村と改称したが、地元では以降も新宿村ともいった。

 紙漉きが行われており、嘉永元年(1848)には紙屋が45人おり、前年12月から4月までに1,226束の紙を漉出している。天保7年(1836)・同8年の飢饉で当村と大日山村で死者が185人もあった。慶応2年(1866)にも不作で餓死寸前となった住民が大日山村の農民とともに久崎村の酒屋・米屋などを打壊した。
氏神は八幡神社で、合祀前には愛宕社5・荒神社・山の神社4・大避社ほか4社を祀っていた。中才の集落に湧出山宝泉庵がある。寺院はなく、備前国八塔寺(現岡山県吉永町)の檀徒である。明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年上月町の大字となる。
 交通不便の山間部で米麦作では生計をたてることが困難となり、明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、晩秋から初夏にわたり、製炭業関係の山林労務に従事。大正10年の木炭生産者46名。同12年電灯架設。昭和21年頃県境の台地大平に入植者2戸あり、開拓が始まり、同24年~28年までに入居者16軒・80人、乳牛を飼育した。昭和36年地内岡坂が全焼し、小学校は廃校、転出者が続出した。かつては100戸あったが、現在は昭和20年代の開拓地である大平の5戸を加えても30余戸である。





■大日山(おおびやま)
 佐用川支流の大日山川流域の山間地。西新宿の北西、小日山村の南西に位置する。標高300m以上の山間地で大日山川の水源地帯。西は備前国和気郡滝谷村(現岡山県吉永町)、北は美作国英田郡白水村(現岡山県作東町)。大日山と向坂(むこうざか)の2集落よりなる。地名は、大日山川上流の日当たりのよい集落で、下流の小日山より戸数が多いところから名付けられたと思われる。城跡がある。

 氏神は八幡神社で、寺院はない。慶応2年(1866)西新宿村の農民とともに百姓一揆を起こし、近郷の参加者とともに久崎村の商家に押しかけた。明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年上月町の大字となる。

 嘉永元年(1848)には紙屋12軒が紙322束を漉出している。天正9年(1581)鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したと伝える八幡神社がある。寺院はなく、江戸時代以来現在まで備前国八塔寺(現岡山県吉永町)の檀徒である。

 明治30年前後から副業として畜産・養蚕に従事、また男子は初冬から初夏にかけて、製炭関係の山林業務に従事し、婦女子はわら芯きりに励み、副業が農業所得に匹敵するようになり、昭和25年頃まで続いた。大正12年電灯架設。





◇今回の発見
・天保の飢饉で、両村に多くの死者が出た記録が残る。
・両集落とも山間地で、江戸時代以降盛んに紙漉きが行われていた。古くから岡山の八塔寺との結びつきがあり、人的交流もあったのだろう。

地名由来「秋里(下秋里・上秋里)」

2020-01-15 09:38:30 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「秋里(下秋里・上秋里)」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,633件(2010.11.5~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■秋里(あきさと) 
佐用川支流秋里川流域の谷間。江戸期の村名で、正保3年(1646)に上秋里村・下秋里村に分村した。地名は地内にあったという願入庵(寺)の晩鐘の響きが秋暮の静寂を誘うことに由来するという。備前国和気郡に通じる旭街道筋にあたる。



□下秋里(しもあきさと)
円光寺村・久崎村の西、佐用川支流秋里川の狭い谷間に位置する。両側の山地は急峻で標高300mを超え、多くの小谷がある。播磨から備前に至る道が谷底を通る。もとは秋里村1村であったが正保3年(1646)に上・下に分村。
佐用川支流の秋里川下流域に位置する。戦(たたかい)・北条・板垣・仁安(にやす)に集落があり、氏神は円光寺八幡神社。地内に荒神社3・山の神社1があった。寺院はないが、願入寺があったと伝える。

 明和元年(1764)・同5年・同8年・同9年・寛政8年・弘化4年に大洪水があった。文政8年(1825)天命の飢饉、慶応2年(1866)の凶作で百姓一揆を起こし、久崎村に出て富豪を襲った。文政8年(1825)当村と上秋里村・西新宿村・大日山村の紙屋惣代が連署して、三日月藩の指定問屋制により紙価が下落し紙漉きが困窮していると訴え、是正を願出ている。嘉永元年(1848)には当村紙屋7人で147束を生産している。

 明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。明治30年前後から、畜産・養蚕業務に従事するものもあり、婦女子のわら芯切りも盛んで、昭和25年頃まで続いた。明治39年から旭街道の改修に着手、同41年完工。大正12年電灯架設。



□上秋里(かみあきさと)
佐用川支流の秋里川中流域両岸の狭小な平地と後背の急峻な山間地に立地する。播磨から備前に至る道が通る。もとは秋里村1村であったが正保3年(1646)に分村。

 正徳5年(1715)北部の標高350mの高地の梨ケ原池を改修、大日山川下流域の小日山(こびやま)村・大畠村・須安(すやす)村・力万(りきまん)村・上月村の田畑7町5反余に用水を供給した。上記5か村は当村に年間銀400匁を支払っている。冬から春にかけて紙漉きを行い、嘉永元年(1848)には紙屋8人、漉高169束・紙代銀1貫638匁5分で、口銭49匁1分余を納めた。

 氏神は円光寺村八幡神社。古くは秋里の808荒神というほど、荒神社を祀っていたという。地内に寺はなく、村人は赤松村真言宗松雲寺の檀家である。下山・秋里の2集落のほか、秋里の南方約2kmの山上小平地の大釜にも集落がある。ただし、同集落の大釜姓の6戸は西新宿村、福本姓の6戸が当村に属し、明治9年には両姓とも、秋里に属した。久崎へ出るには山中の山道を焼く4km歩いた。明治22年に久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。

 明治23年の洪水で、秋里川の水かさは1丈2尺(約10m)増し、同年の災害復旧費が2,210円。同30年前後から農業のかたわら、畜産・養蚕を営み、冬季の副業として、製炭関係業に従事する人が増え、婦女子は内職のわら芯切りに精励、米麦に匹敵する所得を得て、昭和25年前後まで続いた。南の山中で生活を営む夏切在所は一時13戸があったが、不便が多く他への移住により次第に減少し、大正7年に無住地になった。大正12年電灯架設。大正7年地内の字大字が大字となる。




◇ 今回の発見
・秋里の地名の由来は、寺の晩鐘の響きからきた。『久崎村誌』とはなんとも奥ゆかしい。
・上秋里の夏切在所は13戸あったが、大正7年に無住地となった。移動手段が徒歩の時代は急峻な谷あいを何キロも移動するのは大変だったに違いない。
・下秋里の小字に「戦」が残るが、地名に残された上月城の戦いは、どのようなものだったのだろう。

地名由来「櫛田(上櫛田・下櫛田)」 

2020-01-14 13:51:22 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「櫛田(上櫛田・下櫛田)」  上月町(現佐用町)

(2010.11.4~2019.10.31)


地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■櫛田(くしだ)
千種川の支流滝谷川流域。地名は、川沿いの砂丘・小丘が長く連なった地形から名付けられたと思われる。滝谷川には郡で一番高い飛竜の滝(写真下)がある。北西の高倉山は往時高倉寺があり、羽柴秀吉が上月城攻略の本陣を置いた高倉城、宮山に櫛田城跡もある。原には福円寺があり、塔の石は大正末期に、長谷川災害復旧工事の際、壊して石垣にした。

 文明13年(1481)9月日の上月満吉知行目録写に「一、櫛田庄乃事」と見え、当庄は上月氏の知行地となっている。享保元年(1716)当村が幕府と安志藩との相給になるのに伴い、幕府領を下櫛田村、安志藩領を上櫛田村として分村したとう。ただし、すでに「元禄郷帳」では上櫛田村・下櫛田村とに分かれて記されている。

 明治9年下櫛田村と上櫛田村が合併して成立。明治22年久崎村の大字となり、同30年上月町の大字となる。

 明治30年前後から養蚕・畜産を副業としていたが、わら芯きりを始めた。稲わらの穂先はほうき、次の節間を6寸芯、次の芯を5寸芯といい、麻裏(あさうら)草履、下駄の表材料として売却、郡内で最初に始めたのが当地で、郡内では平福村・石井村以外の村々で、冬季の婦女子の副業として広まった。1日平均1貫目を生産、一戸平均60円程度を稼いだ。郡内に仲買人が数名、奈良県・岡山県・静岡県に出荷した。当地は養蚕農家が少なく、ほかからわらを買い、夏季も従事したという。





□上櫛田(かみくしだ) 
江戸期から明治9年までの村名で、須山・奥村・平谷の3集落がある。ただし、下櫛田村と当村の住家は混在していた。平谷に延宝5年(1677)までには舟着場ができ、蔵元・問屋が置かれ、年貢米等が高瀬船で赤穂へ運ばれた。延享4年(1747)の願書(井上文書)によれば、舟4艘を所持していたが、川水が干水がちで舟の傷みが多いため舟稼の廃業を願い出ている。

 寛保2年(1717)の凶作では、高のうち3割2分を免除された。その他不作時には、1、2割の減免はしばしばであった。
 千種川の支流滝谷川の源流の標高220mの地点から落下する高さ20mの飛龍の滝は江戸時代から播磨の名爆として知られていた。





□下櫛田(しもくしだ) 
原・滝谷・井の谷・石井の4集落。上櫛田村の北に石井・井の谷、南に原・滝谷の2か所に分かれて、井の谷の住民の半数は浄土真宗で上櫛田村に属した。また上櫛田村村に転住するものもあるなど、両村民の住家は混在する。
 石井集落の後方、千種川西岸の高倉山城跡がある。天正6年(1578)4月中旬、毛利方に攻められていた山中鹿介らの篭る上月城救援のために羽柴秀吉・荒木村重らが入城するが、6月26日に引払っている。






◇今回の発見
・櫛田村はわら芯きりを始めた郡内で最初の村。副職として箒や草履に使われる材料として生産していた。
・高瀬船の運営の難しさの一端がわかる。川の水量が少ないと船の傷みが激しいという。
・高倉山城は秀吉が入城した所(上月城の東方の山頂)。今に名を残す山中鹿介は織田側の都合により秀吉軍の援軍を得られないまま、上月城に籠城のすえ毛利軍により落城した。


▼飛龍の滝



地名由来「久崎・家内」

2020-01-14 13:45:04 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「久崎・家内」   (上月町(現佐用町)

(2010.11.2~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■久崎(くざき)
千種川と支流佐用川の合流点。地名は「風土記」に見える久都野の転訛とする説がある。地内には浅瀬山城があるほか、飯の山城跡もある。
 元禄年間(1688~1704)に家内村を分村したと思われる。氏神は大避(おおさけ)神社。この神社は飯の山の南面中腹にあり、9世紀に赤穂坂越(さこし)村の同名社より家内(けない)村の背山の麓に勧請し、のちに現在地に移したという。コヤスノキ社叢林は県指定天然記念物。明治20年千種川畔に金刀比羅宮を建立。高瀬船の舟着場が金刀比羅宮横にあり、年貢米は近郷の村々や作州英田郡方面から牛で運搬、ここから赤穂へ舟積みして送り、さらに海上を大阪・江戸の幕府倉庫へ廻送。上・下2か所に御蔵がある。藩から出張する役人詰所はお役所といわれた。また、浜街道筋でもあることから物資の集散地となっており、門屋・商人・旅籠屋などでにぎわった。

 天明元年(1781)から4年まで、夏季の日照が少なく低温で雨多く、米価が暴騰し、米1石130匁・麦1石105匁に達し、葛(くず)・蕨(わらび)の根を掘り、わら芯を刻んで団子にして食した。慶応2年(1866)大日山村・西新宿村などの餓死寸前の住民が当地の米屋・酒屋などに押し掛けた。一部は打毀(うちこわし)にあい、大黒屋(高見家)には斧の伐り込み跡が残る。
 
 明治6年秀潤小学校設置。同22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。
 明治23年出水で全戸浸水、全員宮山に非難。同25・32年、大正7年にも大水害。明治31年台風で25戸全壊、明治30年水稲にウンカ大発生、収穫半作という。明治30年頃から、わら芯切りが米麦作に次ぐ農家収入となり、畜産・養蚕がこれに次ぐ。物品販売の商店・飲食店・理髪店・旅館も出現、町としての条件が整いはじめる。大正8年播美自動車の乗合自動車が、上郡~平福間を運行、停車場が設けられた。同9年双観橋架橋、県費3万7,000円、鉄筋コンクリート、路面はアスファルトを塗る。同12年電灯架設。





■家内(けない)
久崎村の南東、千種川の東岸に位置する。千種川中流域に広がる平地。地名の由来は、川端の湿原で、毛無(無収穫地)が転じて家内と成ったと思われる。村名は、正保郷帳には見えず、元禄郷帳に「古ハ久崎村」の注記付きで村名が見えることより元禄年間(1688~1704)に久崎村から分村したと思われる。

明和元年(1764)・同5年・同8年・同9年・寛政8年(1796)・弘化4年(1847)は大洪水により、田畑浸水。昔は護岸がなく、出水のため田畑が流失・荒地・開墾・河成と、検見ごとに項目が入り交じり、免租になったものが多くあった。
 千種川の下流の大酒村との間で天保3年(1832)当村の要水落しを妨げない、舟道を妨げないなどの覚書を交わした。この慣行が現在も守られている。氏神は久崎村の大避(おおざけ)神社集落背後の山腹に行基開創と伝える清林(せいりん)寺があり、寺内に室町時代の宝篋印塔1基がある。

 明治20年千種川沿岸の道路を県道に編入。同22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。明治30年頃から副業として、畜産・養蚕を導入、冬季はわら芯きりを営み、昭和25年前後まで続いた。明治41年播美馬車が久崎に創立、上郡~大原間の輸送を開始、便利になった。大正12年各戸に電灯架設。






◇ 今回の発見
・久崎は、水陸交通の要衝に位置し、元和元年(1615)に高瀬船が通じ、以後佐用郡内の諸村の年貢米や物資が運びこまれた。物資の集散地としておおいに賑わった村であった。同時に、千種川と佐用川の合流する場所であり、川の氾濫に悩まされた集落でもあった。
・明治41年播美馬車が久崎に創立、上郡~大原間の輸送を開始、大正8年播美自動車の乗合自動車が運行。今では、旧国鉄時代の智頭線の路線凍結(昭和55年)を乗り越え、平成6年より第三セクターの智頭急行(上郡~智頭)が地域発展の夢を乗せている。