地名由来「山脇・真盛」 佐用町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
◇山脇(やまわき)
佐用村の南、佐用川中流左岸に位置する。同川は村の南端で大きく屈曲して、西に向きを変える。南境の下櫛田村(上月町)との境に高倉山があり、その北西麓に葉草・カジヤ・下山脇の3集落がある。地名の由来は、高倉山の山際に位置することによる。行基開基の伝承が残る真言宗の慈山寺がある。高倉山には高倉寺があったといい、天正5年(1577)羽柴秀吉が上月城攻めのとき、本陣を置いたという。
山脇は南北朝期から見える地名で、播磨国佐用郡佐用荘のうち。貞和3年6月24日の刑部守延譲状に「佐用庄内山脇」と見え、広峯神社(姫路市)の御師刑部守延が当地の檀那などを息女童に譲っている。戦国期と推定される年不祥12月25日の後藤則季書状に「山脇当陣被迎合、可被相防之由候」と見え、合戦が行われている。
氏神は、高倉神社。明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産業が米麦作とともに主産業となる。
▲山脇小字
◇真盛(さねもり)
佐用村の南、山脇村の西、佐用川右岸に位置する。西方山地の山麓平地に本村と道谷集落がある。地名の由来は、民族行事の害虫送り(さねもりおくり)による。慶長4年(1599)2月6日宇喜多秀家は当地のうち10石などを戸川肥後守に宛行っている。
村の西方山腹に金比羅神社がある。文明2年(1470)当地に来住した半兵衛輝通(衣笠氏)が祀ったと伝える左近塚がある。上月左近将監関係の塚と見られる。
明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産業が米麦作とともに主産業となる。
▲真盛小字
◇今回の発見
真盛の地名は害虫送りに由来するという。この害虫送りは「さねもり送り」といい、農薬のない昔の農村では稲田につく害虫を追い払うための大事な儀礼であった。夜、里人がそろって松明(たいまつ)を焚(た)き鐘を鳴らしてはやし立てながらあぜ道を巡り、川または村境まで虫を送って捨てる。
ではなぜ「さねもり」といったかというと、調べてみると虫送りの由来は、寿永2年(1183年)篠原の合戦の際、斉藤別当実盛の乗馬が田の稲株につまずいて倒れたため、実盛は木曽義仲に首を打たれてしまった。その実盛の魂が稲を恨むあまり害虫になったという。そこから稲を虫の害から守ろうということから始まったといわれる。
大事な米を育てるための農村行事が800年前から人名を介して面々と行われ、それが地名として残されているのには興味がある。他の地方では、実盛・実森の地名がある。