カマドウマは出てきますか 2001年1月
何も悪いことはしてないのに、ただ嫌われるカマドウマ。どうしてコオロギとくらべてカマドウマはいやがられるのか。人の生活の場により近いからだろうか。たとえば、カタツムリとナメクジ。カタツムリは家のなかには入って来ないが、ナメクジはたまに風呂場にいたりしてギョッとすることがある。人は自分のからだの近くには生き物を寄せつけたくないものらしい。衛生感覚がそうさせるのか。ゴキブリだって台所まわりに近づかなければそう目の仇にもされなかっただろうに。
しかし俳人はエライ。ちゃんと見てくれている。カマドウマは季語では「いとど」いう。むかしは必ずしも一種として認識されていなくて、コオロギといっしょくたにされていたようだ。羽が無いから鳴かないはずなのに、その鳴く音を詠んだりしている。そのなかで芭蕉はさすがです。
海士の屋は小海老にまじるいとどかな
と、ちょっとエビに似たその姿を詠んでいる。「えびこおろぎ」と呼ぶ地方もあるようだ。でもこれは小海老を食べるときには思い出したくないですよ。いくつか見た歳時記にはたいていこの芭蕉の句が載っていた。
近代では中村草田男のがいい。これもさすがで、よくその居場所をとらえたつぎの句が多くの歳時記に載っていた。
一跳びにいとどは闇へ帰りけり
これは見事に言いきっている。闇へ帰るというのがいい。カマドウマの跳躍した先の、どこへ足が下りるのかわからない、その暗闇の不安を思うとぞくっとする。が、それはやはり、人間の感覚だろう。それにしても身の丈の何十倍も一気にはねて、しかも、必ずしも上手に着地していない。奈落に落ちていくような不安を感じてしまう。かと思うと、壁にぶつかって同じ所を何回も跳ねてみたり人の足にぶつかったり、「どうもおまえ、わかってないな」といった跳ね方をする。ときには、後ろ足が片方なかったりして、それこそどこへ跳んでいくかわからない。いやなのにそんなところをついつい見てしまう。それならほっと氏も1句、
横跳びの行方図れぬいとどかな 歩苞(ほつと)
嫌いではあるがよく見ると憎めないところもあるのです。でも足元で急に跳ねるとやっぱりびっくりする。足元でびっくり、というとヘビ。これならどうどうと嫌いですといえます。これを好きですなどと言えば白い目で見られる。そこで、つぎのテーマは
ヘビもきらいだ
嫌いなヘビのエピソード、または白い目で見られたい人、編集部までおたよりください。
何も悪いことはしてないのに、ただ嫌われるカマドウマ。どうしてコオロギとくらべてカマドウマはいやがられるのか。人の生活の場により近いからだろうか。たとえば、カタツムリとナメクジ。カタツムリは家のなかには入って来ないが、ナメクジはたまに風呂場にいたりしてギョッとすることがある。人は自分のからだの近くには生き物を寄せつけたくないものらしい。衛生感覚がそうさせるのか。ゴキブリだって台所まわりに近づかなければそう目の仇にもされなかっただろうに。
しかし俳人はエライ。ちゃんと見てくれている。カマドウマは季語では「いとど」いう。むかしは必ずしも一種として認識されていなくて、コオロギといっしょくたにされていたようだ。羽が無いから鳴かないはずなのに、その鳴く音を詠んだりしている。そのなかで芭蕉はさすがです。
海士の屋は小海老にまじるいとどかな
と、ちょっとエビに似たその姿を詠んでいる。「えびこおろぎ」と呼ぶ地方もあるようだ。でもこれは小海老を食べるときには思い出したくないですよ。いくつか見た歳時記にはたいていこの芭蕉の句が載っていた。
近代では中村草田男のがいい。これもさすがで、よくその居場所をとらえたつぎの句が多くの歳時記に載っていた。
一跳びにいとどは闇へ帰りけり
これは見事に言いきっている。闇へ帰るというのがいい。カマドウマの跳躍した先の、どこへ足が下りるのかわからない、その暗闇の不安を思うとぞくっとする。が、それはやはり、人間の感覚だろう。それにしても身の丈の何十倍も一気にはねて、しかも、必ずしも上手に着地していない。奈落に落ちていくような不安を感じてしまう。かと思うと、壁にぶつかって同じ所を何回も跳ねてみたり人の足にぶつかったり、「どうもおまえ、わかってないな」といった跳ね方をする。ときには、後ろ足が片方なかったりして、それこそどこへ跳んでいくかわからない。いやなのにそんなところをついつい見てしまう。それならほっと氏も1句、
横跳びの行方図れぬいとどかな 歩苞(ほつと)
嫌いではあるがよく見ると憎めないところもあるのです。でも足元で急に跳ねるとやっぱりびっくりする。足元でびっくり、というとヘビ。これならどうどうと嫌いですといえます。これを好きですなどと言えば白い目で見られる。そこで、つぎのテーマは
ヘビもきらいだ
嫌いなヘビのエピソード、または白い目で見られたい人、編集部までおたよりください。