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甲子園きっぷ  yama’s stadium☆彡

~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 26

2018-05-29 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 26

第52回は洲本を9-2で破り6年ぶりに滝川が甲子園へ帰ってきた。

第53回大会は、17-1と報徳学園が圧勝で優勝。

47回から49回大会の3連覇後、4年ぶりに頂点に。

惜しくも準優勝となった山崎が取り上げられている。

山崎にはご縁がある。

山崎の名を見て、あの夏を懐かしく思い出した。

選手の親御さんとの必然な出逢いがあり、2015年 三年生の夏を見届けさせていただいた。

私にとっても熱く素敵に記憶に残る夏だった。

2015 夏のmemory♪ 第97回全国高校野球選手権 山崎 宝塚東球児たちの夏の始まり☆彡

2015 夏のmemory♪第97回全国高校野球選手権兵庫大会3回戦 北摂三田vs山崎 全力の夏☆彡

卒業に贈ったブログ

まりあマネージャーさんからのコメントが私の励みになった。
山崎高校野球部3年生選手のみなさん 卒業おめでとう☆.。.:*・゜

とても明るく大好きなチームだった。

その前年には生野とのご縁もあり、どちらの高校も長閑な地域の学校で

土地柄か地元の選手ばかりで部員数も多くないのですが、

それだから何か選手同士の絆を深く感じる温かい雰囲気を持ったチームの野球に触れ、

この頃は、そういう土地柄の中にあるチームをもっと観てみたいなと関心が深かった。

この年の山崎には選手以上のムードメーカー、19番目の選手と言って過言ではない

チームには無くてはならなかったまりあちゃんというマネージャーさんが居た。

選手を鼓舞する姿とはかけ離れた可愛らししい素敵な彼女は笑顔もたくさん向けてくれた。

まりあちゃん、あの夏の選手たちは元気にしているかなぁ~。

山崎は99回の兵庫の夏の歴史の中で、この53回大会準優勝が最高成績となっている。

今夏は西兵庫に入る山崎、100回目の夏に播磨の奥から新風を吹かせてもらいたい。


第52回大会(1970年)

~滝川、宿敵破りV奪回~


第52回大会で6年ぶりの頂点にたった滝川ナイン
(兵庫県高校野球史より)

1970(昭和45)年の第52回大会は名門、滝川が6年ぶりに王座を奪回。

春夏連続の甲子園出場を遂げた。


この夏の最大のライバルは三田学園。

淡口憲治(元巨人など)、羽田耕一(元近鉄)ら強打者が並び、選抜大会では8強入りした実力校だった。

両校は兵庫大会準決勝で激突。

1点を争う接戦は七回に滝川が勝ち越し、4-3で振り切る。


三塁手兼投手の亘(わたり)栄一郎からエース松田正彦への継投で大きな山場を乗り越えた。

亘は日大を経て母校の指導者に転じた。

滝川第二戦では監督を努め、88年に滝川の伝統を受け継ぐ同校を初めて夏の甲子園に導いた。


自身の高校時代を振り返り「バントや盗塁など、できることを確実にできる選手がそろっていた」と話す。

65歳を迎え、昨年県高野連から指導者表彰を受け、長年の功績をたたえられた。


第53回大会(1971年)

~山崎、快進撃の準優勝~


第53回大会準決勝、山崎ー津名戦から
(兵庫県高校野球史より)

西播磨から強烈な風が吹いた。

1971(昭和46)年の第53回大会は山崎が初の決勝進出。

甲子園には届かなかったが、公立校の快進撃は山間部のまちに夢を抱かせた。


宍粟郡(現宍粟市など)の力ある中学生が集まり、

育英出身の石田広志監督の下、「3カ年計画」で強化。

打撃を重視したチームは4試合でコールドゲーム勝ちし、

準決勝までの6試合で計46得点をたたき出した。


決勝は報徳に1-17の大敗を喫したが、試合後、

山崎町役場(当時)に戻ったナインは大歓声で出迎えられた。

健闘をたたえる花吹雪が舞い、役場から同校までの道のりをパレードした。


同年のドラフトで巨人から4位指名を受けた主砲の尾形正己(65)は

「(パレードの)光景は忘れられない。あの夏が後々の野球人生の心の支えとなった」。

尾形はプロ入りせず、新日鉄広畑(当時)で選手、監督として活躍した。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 25

2018-05-29 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 25

節目の第50回大会は、10回大会から13回大会まで4連覇という驚異的な記録を持つ

第一神港商の後身、市神港が17回大会以来実に37年ぶりの返り咲きを果たす。


第51回大会は、絶対的エース杉本投手擁する東洋大姫路が初の栄冠に。

東洋大姫路の創部は1963年の45回大会、市立西宮が優勝した年で

兵庫の高校野球歴史の半数あまりが過ぎようとしていた頃の誕生と意外だ。

2014年に創部50周年を迎え、改修を終え生まれ変わったばかりのウインク姫路球場で

その春選抜出場を決めていた報徳学園と記念試合が行われ観戦に行った。

東洋大姫路野球部~創部50周年記念試合~

51回大会の初優勝から3年後、54回から56回大会を3連覇、

その後も8回の優勝を誇る兵庫の強豪校。

今夏、2011年93回大会以来の頂点を目指す。


第50回大会(1968年)


~伝説の剛腕 市神港・山口~


第50回大会で古豪・市神港を甲子園に導いた山口高志投手
(兵庫県高校野球五十年史より)


1915(大正4)年に産声を上げた兵庫大会は、68(昭和43)年で第50回を迎えた。

節目を飾ったのは、第一神港商時代に選抜大会連覇を誇る古豪・市神港。

37年ぶり6度目の立役者は伝説の剛腕・山口高志だ。

身長169センチと小柄ながら、力を振り絞るように右腕を振り下ろし、うなる速球で押した。

2年春の県大会で2戦連続に無安打無得点試合。


夏は山本功児(元ロッテ監督)がけん引した三田学園に敗れたが、

3年時に春夏連続の甲子園出場を果たした。

関大で日本一に輝き、松下電器から阪急入り。

故障で実働期間は短かったものの、新人王や日本シリーズMVPなど強烈な印象を残した。

プロ野球史上最速とも称された速球に「自分が速さを感じるのは不可能。(評判は)こそばゆい」と山口。

阪神のスカウト、コーチを経て、67歳の今は母校関大で学生を指導している。


神戸新聞 山本哲志氏


第51回大会(1969年)

~東洋大姫路時代の序章~


第51回大会で初の栄冠に輝き、場内を行進する東洋大姫路ナイン


1969(昭和44)年の第51回大会は、新たな強豪がのろしを上げた。

63年創部の東洋大姫路。

弱冠27歳の梅谷馨監督が率い、64年の兵庫大会初出場からわずか6年で頂きに登り詰めた。


同年春の選抜大会8強、尼崎西との決勝はエース杉本正時が無四球で3安打完封。

杉本は全7試合63回を1人で投げ抜いて4度目の完封劇を演じ

「杉本がいなかったら優勝は絶対に無理だった。彼が中心のチームだった」

と当時の部長、大久保強(80)はたたえる。


初優勝を飾った梅谷は、兵庫大会決勝の翌日、姫路商の元監督、田中治を訪れた。

「一から野球を学びたい」と社会人野球出身の田中に監督就任を依頼したという。

田中は甲子園大会後、正式に監督に就き、梅谷との二人三脚の体制を確立。

1970年代の隆盛へとつながる。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)