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甲子園きっぷ  yama’s stadium☆彡

~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 23

2018-05-22 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 23


45回大会は市立西宮が姫路南との接戦を制し、春夏とも初出場の連続甲子園へ!

夏の甲子園開会式でプラカード先導をする同校の女子生徒と共に甲子園で念願の行進することが実現した。

この翌年の選抜へ2年連続出場後、甲子園へ帰っていないが

昨年、中日から指名を受けプロ野球へ進んだ山本拓実投手を擁し8強と甲子園まであと一歩。

山本投手は高校1年生から投手へ転向した選手だそうで、

活躍光り、あの大阪桐蔭から指名を受け行った練習試合で自信をつけ、

プロ進出の意欲を更に沸かせ夢を実現させたそう。

今夏、55年ぶりの夏の甲子園を目指す後輩たちの大きな力となっていることでしょうね。

100回目の夏甲子園で、再び市立西宮の女子生徒が掲げるプラカードを先導に

市立西宮ナインの行進が観られたら素敵だな。


46回大会は、再び育英を破り滝川が優勝。

その立役者となったエース芝池投手は、兵庫大会では48回3/2を失点ゼロ@@!

兵庫大会から甲子園2回戦で敗れるまでの59イニングで失点ゼロ@@!

そんな凄すぎる兵庫球児を未だ観たことが無い・・・。

痺れるストレート観てみたかったなぁ~。

71歳になられた今も、未来の高校球児にご指導をされておられるそうです。


第45回大会(1963年)

~市西宮、有言実行の初V~


第45回全国選手権の開会式で行進する市西宮ナイン


1963(昭和38)年の第45回大会は、決勝で市西宮が6-5で姫路南を下して初優勝。

同年春の選抜に続く甲子園の開会式では、例年プラカード先導を努める女子生徒との行進が実現した。

下級生主体で、6人は学分中(西宮市)時代に近畿大会優勝。

「みんなで甲子園に」とそろって進学した地元公立校で有言実行した。


下手投げエースだった友光克彦(71)は

「サインは中学のものを使っていたし、チームの完成度は高かった」と語る。


夏前に大阪の強豪、浪商(現大体大浪商)との練習試合で

高田繁(元巨人)に投げ勝った経験も自信になったという。

友光らは3季連続の甲子園出場となった64年春の選抜ベスト8に進出。

以降は聖地から遠ざかるが、昨夏の第99回大会では、

エース山本拓実(現中日)を擁して8強入し、存在感を示した。


第46回大会(1964年)

~滝川・芝池、48回2/3無失点~


下手投げ右腕として滝川を引っ張った芝池博明投手
(瀧川野球部史より)


兵庫大会6試合、48回3/2を投げて失点ゼロ。

1964(昭和39)年の第46回大会は滝川のエース、芝池博明の独壇場だった。


勝負の準々決勝以降は3試合連続完封。

2回戦で敗れた甲子園大会まで、59回連続無失点の記録を残した。

下手投げからの直球が伸び、制球も抜群だった。

3回戦の東洋大姫路戦は無安打、準々決勝の鳴尾戦は延長十二回を2安打。

「打たれたヒットは6試合で13本。1点を取ってくれれば勝てると思っていた」

芝池はそう回想する。


真骨頂は1学年下の育英・鈴木啓示(元近鉄)と投げ合った決勝。

自らヒットで出塁して決勝のホームを踏み、1-0の完封で甲子園切符をつかんだ。


専修大では完全試合を達成し、プロ野球近鉄などで10年間プレー。

引退後は明石駅付近で居酒屋を営み、71歳の今も野球教室で子どもたちを指導する。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 22

2018-05-22 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 22


43回大会は、今では兵庫の強豪校として追われるチームの報徳学園が初優勝。

創部は1932年(昭和7)、18回大会 明石中が初優勝を飾った年。

今では報徳学園と言えば「逆転の報徳」という代名詞は有名になっているが、

創部から29年の時を経て掴んだ甲子園、この夏が逆転の報徳の原点となった。

この43回大会が報徳学園の甲子園初出場だということに今の強さを知る自分には少し驚きだった。

こうして一つひとつチームの歴史を築いて今があることが感慨深い。


44回は、4度目となる滝川が優勝。

ここまでは優勝したチームを中心に書かれていたが、この大会に関しては

準優勝校の柏原が取り上げられている。

勝利した裏には同じだけ頑張った敗者が居る。

それを残す・・・

自分がこのブログを書いている中で一番心に置いている部分であるので何だかこの記事は嬉しかった。

この当時の選手たちは今もこの時の野球話を肴に華を咲かせ語り合っておられるそう。

素敵な笑顔が浮かぶなぁ~。


第43回大会(1961年)

~誕生「逆転の報徳」~


第43回全国選手権で逆転勝ちを決める報徳。
初の甲子園で一躍名をはせた

延長十一回裏に6点差を追い付き、十二回裏にサヨナラ勝ち。

1961(昭和36)年 夏の甲子園1回戦、岡山・倉敷工相手に奇跡的な試合を演じ、

今に受け継がれる「逆転の報徳」は誕生した。


創部は昭和初期の32年。

大逆転を遂げた61年の第43回が甲子園初出場だった。

当時の捕手、高橋尤二(74)は回想する。

「育英、滝川が強くて甲子園なんて頭にもなかった」


兵庫大会から神懸かっていた。

準決勝の兵庫工戦は五回表を終えて0-6。

大敗ムードが漂う中、五回裏に猛追。

一挙6点を奪って追い付き、七回に勝ち越す逆転劇を起こした。

決勝は県尼崎に2-0で完勝し、学校創立50年で頂点にたどり着いた。


2014年まで野球部OB会長を務めた高橋は目を細める。

「報徳の原点と言ってもらえる。ありがたいことです」


第44回大会(1962年)

~柏原旋風 輝く準優勝~


第44回大会で準優勝に輝いた柏原ナイン
(横尾進氏提供)

ダークホースの快進撃は「柏原旋風」と呼ばれた。

1962(昭和37)年の第44回大会で初の決勝に勝ち進んだ柏原。

滝川に完敗を喫し、準優勝に終わったが、丹波勢で唯一、県北部の決勝進出校として名を刻む。


好投手の井尻英毅を擁し、61年春の選抜大会に初出場したが、

主力が抜けた62年は今井雅之、赤井昭一ら3年生はわずか6人。

秋春の県大会は1回戦負けで、夏はノーマークの存在だった。

ところが3回戦で春の準優勝校、尼崎北に競り勝つと、

準々決勝、準決勝もエース船越昭紀が完封。

低い前評判を覆した。


選抜出場時からレギュラーだった横尾進(74)は

「甲子園に出た次の年。『よくつないでくれた』とわが事のように喜んでくれた先輩たちの姿が忘れられない」。

半世紀が過ぎた今も当時のメンバーは学年を超えて集まり、昔話に花を咲かせるという。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)