私のひそかな期待では、夏休み明けを期してどこかから非常勤の口がかかるのではないかと思っているのだが、もしかすると今年度いっぱいは何にもないのではないかと弱気になってしまう。
そこでまた懲りずに職安に行って、昨夜のうちにネットで見つけておいた求人の紹介状を作ってもらった。
しかし私の昔からの印象では、職安で紹介された口は大体ろくなものではない。この六月下旬だったか、某予備校の個人指導に応募して、採用されたはよかったが、全然仕事がない。職安に出ていた条件では、少なくとも週一時間以上、という話だったのに、七月に三回やり、八月になってからは二回キャンセルになって結局一度もお座敷がかからない。国語はとかく希望者がいないのですというが、やっぱり学習塾に毛の生えたような所は駄目である。こういうのをこの辺の言葉では「ずらもん」という。別にかつらをかぶった人のことではなく、一般に見掛け倒し、看板に偽りあり、という場合に使うと感じが出る。
そんなことはさておき、何年か前にも、職安で見つけた別の某予備校から、市内の私立高校に派遣されて非常勤をやったが、あの時はなんと一ヶ月で一方的に首にされた。まああの私立高校もすさみきった学校で、もと女子高だったのだが、生徒は全くやる気がなく、昼前にどんどん勝手に帰っていくような所だった。馬鹿馬鹿しいから文句も言わずに大人しく首になっておいたが、いまいましい経験ではあった。
かくの如く職安に出ている求人は質が悪い、と思いつつ、他に手もないというわけで、今回応募するのは大学の研究補助員である。パートではあるが、週五日十時から五時というので、一応人並みには働けそうである。
そして自分でも笑ってしまうのが、一応これが私の母校なのである。この間までいた文学部ではなく、最初に卒業した理科大学で、科は違うが万一採用された日には、卒業してから十数年ぶりに同じキャンパスに通うことになる。
理科大学では修士も加えて六年も足が抜けなかったが、ずっと薄暗い気分で暮らした中でも、後半の研究室生活は、助手と一人の学生に目の敵にされて本当に辛かった。
一方で当時の教授と助教授は、非常に親身に接してくれた。歳月がすぎて教授は退官し、助教授が教授になっているのだが、震災の時は心配してあちこち電話で聞き合わせて、わざわざ避難先の親戚の家まで訪ね当ててくださった。
万一採用になった日には、当時の助手(現准教授)には会いたくないが、教授には仁義を切りに行かねばなるまいと思う。
しかしそんなことは考える必要はまずあるまい、というのは、採用される人間はまず内部で決まっているだろうからである。大学という所は、こういう話は出身の学生など縁故で決めてしまう。今日び卒業して口が決まらない元学生などいくらも居る筈で、研究室のこともよく知っているだろうし、どこの馬の骨を採るなんてことは考えられない。
それでも職安に求人を出すのは、官立の大学だから、そういう人事は一応公募しましたという形をつけたいのであろう。最初から内定している人間に、職安から紹介状を取って応募させて、何事もなかったように其奴を採るのである。何も知らないよそ者は、もしかしてという儚い希望だけ抱かされて終わりである。
まあそれでも、宝くじと同じことで、ささやかな夢を買うと思えばよい。履歴書を書いて送る手間と費用など大したことはないし、その程度の夢さえなくては日々がいっそう暗くなる。
そこでまた懲りずに職安に行って、昨夜のうちにネットで見つけておいた求人の紹介状を作ってもらった。
しかし私の昔からの印象では、職安で紹介された口は大体ろくなものではない。この六月下旬だったか、某予備校の個人指導に応募して、採用されたはよかったが、全然仕事がない。職安に出ていた条件では、少なくとも週一時間以上、という話だったのに、七月に三回やり、八月になってからは二回キャンセルになって結局一度もお座敷がかからない。国語はとかく希望者がいないのですというが、やっぱり学習塾に毛の生えたような所は駄目である。こういうのをこの辺の言葉では「ずらもん」という。別にかつらをかぶった人のことではなく、一般に見掛け倒し、看板に偽りあり、という場合に使うと感じが出る。
そんなことはさておき、何年か前にも、職安で見つけた別の某予備校から、市内の私立高校に派遣されて非常勤をやったが、あの時はなんと一ヶ月で一方的に首にされた。まああの私立高校もすさみきった学校で、もと女子高だったのだが、生徒は全くやる気がなく、昼前にどんどん勝手に帰っていくような所だった。馬鹿馬鹿しいから文句も言わずに大人しく首になっておいたが、いまいましい経験ではあった。
かくの如く職安に出ている求人は質が悪い、と思いつつ、他に手もないというわけで、今回応募するのは大学の研究補助員である。パートではあるが、週五日十時から五時というので、一応人並みには働けそうである。
そして自分でも笑ってしまうのが、一応これが私の母校なのである。この間までいた文学部ではなく、最初に卒業した理科大学で、科は違うが万一採用された日には、卒業してから十数年ぶりに同じキャンパスに通うことになる。
理科大学では修士も加えて六年も足が抜けなかったが、ずっと薄暗い気分で暮らした中でも、後半の研究室生活は、助手と一人の学生に目の敵にされて本当に辛かった。
一方で当時の教授と助教授は、非常に親身に接してくれた。歳月がすぎて教授は退官し、助教授が教授になっているのだが、震災の時は心配してあちこち電話で聞き合わせて、わざわざ避難先の親戚の家まで訪ね当ててくださった。
万一採用になった日には、当時の助手(現准教授)には会いたくないが、教授には仁義を切りに行かねばなるまいと思う。
しかしそんなことは考える必要はまずあるまい、というのは、採用される人間はまず内部で決まっているだろうからである。大学という所は、こういう話は出身の学生など縁故で決めてしまう。今日び卒業して口が決まらない元学生などいくらも居る筈で、研究室のこともよく知っているだろうし、どこの馬の骨を採るなんてことは考えられない。
それでも職安に求人を出すのは、官立の大学だから、そういう人事は一応公募しましたという形をつけたいのであろう。最初から内定している人間に、職安から紹介状を取って応募させて、何事もなかったように其奴を採るのである。何も知らないよそ者は、もしかしてという儚い希望だけ抱かされて終わりである。
まあそれでも、宝くじと同じことで、ささやかな夢を買うと思えばよい。履歴書を書いて送る手間と費用など大したことはないし、その程度の夢さえなくては日々がいっそう暗くなる。