ベンチにこしかけた少女が、じっと手にした写真を見ている。
まばたきしないで、食い入るように見ている。
その横をひとりの画家がとおりがかった。
それに気づかず、少女は写真から目をはなさない。
「なにを、見ているの?」画家は少女に声をかけた。
「お母さんの顔」少女はつぶやくような小声でいった。
あまりにさびしそうなので、画家は少女の横にこしかけた。
しばらくふたりは、だまってすわっていた。少女のからだから、消毒薬のにおいがした。
ふたりは病院の庭のベンチにいた。この病院は奄美という島にあった。
ハンセン病のひとが入院する病院だ。
かってこの病気は、伝染すると思われていた。
この病気になると家族や友だとから引きはなされた。
遠い島の病院にむりやり入院させられた。
この少女もみんなからおそれられ、ここに泣く泣く送られてきた。
「さびしいときには、この写真を見なさい。遠くはなれていても、
おかあさんはいつもおまえのことを思っているよ」入院した日、
おかあさんはそういって少女に一枚の写真をわたした。
笑っているおかあさんの顔がうつっている。
少女はむりして笑顔をつくり、心配そうに帰っていくおかあさんに手をふった。
夕焼けが、病院の裏山の空を赤くそめていた。
少女はポケットにその写真をいれ、いつも身からはなさなかった。
一年がすぎ、二年がすぎ、三年がすぎた。
さびしくなるたびに、少女は写真をとりだして話しかけた。
笑っているおかあさんの顔に、そっと手をふれて話しかけた。
「ほら。もうおかあさんの顔が、よくわからなくなっちゃった」少女は画家に写真を見せた。
たしかに古くなって黄ばみ、顔のあたりは手あかでよごれている。
「ぼくにこの写真を、かしてくれない?」画家はいいことを思いついたように笑った。
「どうして?」ふしぎそうに少女がたずねた。
「この写真を見ながら、おかあさん顔をかいてあげるよ」やさしい目をして画家は少女を見た。
少女の顔がぱっとかがやいた。「でも・・・」すぐに少女はうつむいた。
「なにか、こまるの?」画家が少女の顔をのぞきこんだ。
「わたし、お金がないの。お礼ができない・・・」はずかしそうに少女はいった。
この画家はときどき病院にきて、病人やその家族の顔をかいていた。
みんなわずかだが、お礼にお金をはらっていた。それを少女は知っていた。
「お礼は、ほしいな」画家は明るい声でいった。少女は悲しそうにちらっと画家を見た。
わずかなお金さえ、もっていなかったからだ。
「君が早く元気になること。それがいちばんのお礼だよ」
画家はうなだれている少女の髪の毛を、やさしくなでた。
少女は飛びのくように、立ちあがった。
「わたしにさわると、病気がうつるわ」少女がさけんだ。
「だいじょうぶ。もしそうなら、とっくのむかしに、ぼくも病気になってるよ」画家も立ちあがった。
そして、ひざをおってかがみこんだ。
目の高さが少女とおなじになった。「きっと、なおるよ」 少女の手をにぎって画家はいった。
画家の手は大きくてあたたかかった。
少女は病気になってはじめて、もしかしたらなおるかもしれないと思った。
それから毎日、少女は病院の玄関に立って、画家がくるのを待ちつづけた。
一週間がすぎた。いちども画家はあらわれなかった。
少女はうらぎられたような気がした。たいせつな写真をかしてしまった自分をせめた。
高い熱がでて、少女は眠りつづけた。
「ほら、約束どおりできたよ」耳もとでささやく声がした。少女はぼんやり目をあけた。
画家が画用紙にかいた絵を、少女の目の前にかざした。
「こんなきれいなおかあさん、見たことない」少女は息をのんで、
ベットの横に立っている画家にいった。「ありがとう」少女はお礼をいいながら、絵をじっと見つめた。
きれいな和服をきたおかあさんが笑っている。
少女はその絵を受け取ると、ベッドから抜けだした。
「見て、見て。これ、わたしのおかあさん」その部屋にいるみんなに、少女は絵を見せてまわった。
「まだ、寝てなきゃダメでしょ」看護婦さんが笑いながら、少女のうでをつかんだ。
「そうだよ。早く元気になる約束だろ」ベッドに横になった少女に、画家がほほえんだ。
彼は帰りかけたが、すぐ少女のところにもどってきた。
「これ、たいせつな写真」画家は少女におかあさんの写真を返した。
少女の目にうれし涙があふれた。
南極ペンギン・高倉健著・集英社発行より