招詞。
私は心を尽くして主に感謝をささげ
驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
御名をほめうたおう。
(詩篇9;2~3)
交読詩篇46:1~11
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
(詩篇46;2)
今日は御神に共に祈る日、
心を高く御前に上げよう。
(205番『賛美歌21』)
さあ、共に生きよう。
主はこの時代の苦しみと悩みを担って下さる。
(419番『賛美歌21』)
主の祈り。
天におられる私達の父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
私達に必要な糧を今日与えて下さい。
私達の負い目を赦して下さい。
私達も自分に負い目のある人を赦しましたように。
私達を誘惑に遭わせず、
悪い者から救って下さい。
アーメン。
今日の聖書箇所マタイ5;1~3。
3/11の東日本大震災から明日で一ヶ月。
一晩全く眠れずに、しかし緊張と興奮の状態で3/12の朝を迎えた。
窓から東の地平線を見ると快晴の空に太陽が昇って来たのが見えた。
大勢の人々が生命を奪われ、家族の安否に心を引き裂かれ、
生活の場をこれ以上は無いほどに破壊し尽くされ、
今なお海上で漂流しながら、或いは瓦礫の下で身動き出来ないまま、
ひたすら助けを待っているのに、これほど酷い朝を迎えたのに
太陽が東の地平線から、雲一つ無い空を昇って来た。
何事も無かったかのように。
しかしあの3/11を境にこの地上は別世界に変わって、
二度と元に戻らなくなった。
その後に福島の原発で放射線漏れ事故が起こり、
私達の生きている地上が別物に変ってしまった。
祈りの時に湧き上がってくる思いがある。
これから一体どうなるのか。
どうしてこんな事になったのか。
祈るしかないという状況を体験し、
そしてそれは一ヶ月経った今も続いている。
あの震災の前後、
父と読む聖書の箇所はたまたま山上の垂訓の「幸いな人」だった。
洗礼を受けて20年、主の祈りも、山上の垂訓も、
今これほどまでに心に沁みた事は無い。
あの3月11日金曜日を境に、テレビで連日報道される被災地の人々、
激震と大津波と大火災に遭って肉親とはぐれ、
着の身着のまま氷点下の避難所で身を寄せ合い、
救援の毛布とおにぎりを待つ人々を目にしてから、
主の祈りと山上の垂訓を冷静には読めなくなった。
大津波からまだ二日三日、避難所では炊き出しのおにぎりを配っても
人数分に足りず、一個を数人で分け合って食べる避難所もあると
テレビで見て聞いてから、主の祈りが苦しくなった。
「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」という文言に
苦しくなって泣けてきた。
以前なら山上の垂訓を読んでも、主の祈りを唱えても、
「貧しい人」とか「日ごとの糧を今日も」という文言には
何処か遠い2000年前の、縁の無い外国のお話のようにしか受け留める事が出来ず、
今の日本では一般的には殆ど日常ではお目にかかれない、
報道の中のホームレスの人々くらいしか思い浮かべられなかった。
それがあの3/11以来毎日、目の前の本物の現実となった。
津波で家が流されて家族の行方が分からない、
道路が寸断されて避難所に救援物資が行き届かない、
救援のおにぎりが全員に行き渡らない、暖房が無い、
赤ん坊がいるのに粉ミルクの残りが底を突いてしまった。
神様、被災者の一人一人に必要な糧を今日与えて下さい、今日。
今日!
どうかお願いします。お願いします。
今日今すぐ、一刻も早く、
主なる神、憐れんで下さい。
何十万人もの被災者。
神に祈る他にどうする事も出来ない、無力な私達の現実がある。
着の身着のまま食べる物も無く生活に糧を断たれ、
為すすべなく地面に座り込む人々と、
福音書でイエスの前に座って聴き入る人々とが重なる。
長年住み慣れた街で、自分の住まいで、暖かい部屋で、
いつものように食事を摂り、珈琲を飲む、
そんないつもと同じ日常の営みに罪悪感と後ろめたさを感じて
祈りの言葉にも詰まる。
今日の聖書の箇所は、フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸い」と訳されている。
イエスは今幸せに暮らしている人を相手に説教をしたのではなかった。
ローマ帝国の占領下で税を搾り取られ、
その上ユダヤ人の宗教的指導者達から献金や生贄の動物を買わせられ
手数料を毟り取られ、どん底の生活で
今夜食べる物が無いほどの貧困に苦しむ人々。
そんな人々をイエスは癒して歩き、彼らに語り、この山上の説教を話した。
イエスに聞いて、
すがる以外にはどうする事も出来ない程に貧しい、何も持っていない人々。
イエスはそんな彼らを「幸いだ」と言った。
神以外に何にも頼る事が出来ないから。
神以外に何にも頼る事が出来ない貧しい人々を、
神は慈しんで、助けて下さる。
現実に完全に行き詰って、自分の力ではどうする事も出来ない状態、
無力な自分を認めて神にすがる、救いはそこからしか始まらない。
私達こそ今まさにそんな状況に立たされているではないか。
山上の垂訓は、読めば読むほど、
イエスがどれほどこれらの貧しい人々を慈しんでおられたか、
痛いほどに伝わって来る。
この世に生きていても何の望みも無い苦しい生活をする人に、
彼らが絶望しないように、
神を信頼し信仰をもって強く生き延びる事を彼らに望まれた
イエスの熱い思いが伝わってくる。
実際、私達人間は今回のような自然災害の前では無力で、
神に祈る以外に出来る事が無い。
私達はそんな自分の弱さと無知を認めなければならない。
何処かの知事が今回の大災害を「天罰だ」と言って批判に晒された。
不見識で無知、無教養で被災者に対する思いやりの欠片も無い、
愚かな人の言葉だ。
神を知らず神を畏れない人ほど、さも知ったかのようにそういう言葉を口にする。
しかし同じ「天罰だ」という言葉を、
私はこの教会の食事中の会話の中でも耳にした。
「天罰だわ。
原発なんか建てるから、神様が怒って天罰を下したんだわ。」
軽い冗談で出た言葉ではない筈だ。
原発を建てた人間に神が怒って大地震と大津波で罰を下したという意味か?
では被災した人々は神の罰を受けたのか?
被災者にどんな罪があって、あの大地震と大津波が起こったのか?
このように、
神を信じている筈の人間でさえも「あれは天罰だ」という言葉を平気で口にする。
「天罰」という言葉を口にした人に私は聞きたい。
神の何を知っていてこの災害を「天罰」と言うのか。
あの3/11から今現在に至るまで、
何十万もの犠牲者、被災者の中には同じ神を信じるキリスト者達が数知れずいる。
教派を問わず、数知れないキリスト教会が津波で押し潰されて瓦礫となり、
火災で焼け落ち、指導者や信徒達が命を失い、未だ行方不明で捜索も進まず、
避難勧告によって教会ごと他の地域に身を寄せなければならない、
過酷な状態にあって苦しんでいる。
「天罰」という言葉を口にした人に私は聞きたい。
被災地で苦しんでいる人々が何の罪で神の天罰を受けたと言うのか。
去年までこの同じ市内にいて転勤で東北に引っ越して行かれた
ハリストス正教会のブログ仲間の方から、
同じ管轄地域の教会が焼け落ちて教会員も未だ行方不明、
この惨状を見て言葉も無い、教会の焼け跡に行って、
何か教会の燃え残りが無いか瓦礫の中を探したと聞いて、
本当に胸が痛んで泣けてきた。
今私達がいるこの教会に、同じ事が起こった時の事を想像してみるといい。
焼け跡で瓦礫の中に自分達の教会の燃え残りを探す人の気持ちを。
瓦礫の中で親族や教会の兄弟姉妹を探す人々の気持ちを。
しかしこの惨い現実にあっても
私は断じてこの災害を天罰とは思わない。
神が慈しんで下さる事を私達は常日頃から感じ、知っている筈だ。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰者は
今このような時こそ不滅の希望を言い表すべきではないか。
私達はこれまでに何度も辛い時苦しい時に神に助けられてきた。
それを誰よりもよく知っているのは私達自身である。
福音書の中でイエスは何度も希望を失わずに祈れと教えている。
例えばルカ21;25~38。
・・地上では海がどよめき荒れ狂うので、
諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る。
人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。
天体が揺り動かされるからである。・・・
・・・このようなが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。
しかし、あなたがたは、
起ころうとしているすべてのことから逃れて、
人の子の前に立つことができるように、
いつも目を覚まして祈りなさい。
以前、ヨハネの黙示録でも読んだ。
あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
見よ、悪魔が試みるために、
あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
死に至るまで忠実であれ。
そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
(ヨハネ黙示録2;10)
キリスト者はどんな現実にあっても絶望してはならない。
神が10日と言ったら10日、それ以上でもそれ以下でもない。
苦しみの11日目は、無い。
苦難は必ず区切られると辻牧師も講壇と著書の中で語った。
苦しみが無限に続くと思い込んではならないと。
望みを失ってはならない。
どんな事があっても。
主が共にいて下さるからだ。
私自身8年前の震度6を体験して以来、
空の地震雲を気にし、ネットで始終地震情報に注目しているが、
地面は終始分刻みで揺れている。
揺れるものなのだ。
地殻変動は常に繰り返し、今回のような大地震も大津波も
ほんの100年以内に既に起こっていた。
(私達の住むこの街も、
まだ蝦夷地と呼ばれる頃に寛永の大津波を被って一度壊滅している。
そしてこの20年の間にここの地域を襲った地震はいずれもM8.0とM8.2で、
津波も全然珍しくない。
今回の被災地と地理条件もさほど変わりない。)
そんな揺れる地上に私達は生息している。
しょっちゅうぐらぐら揺れる不安定な地面の上に原発を作ったのは
神ではなく私達人間であり、その恩恵を享受してきたのも私達だ。
前回の大津波を17歳で経験した93歳の方が今被災地にいて、テレビに出ていた。
ほんの一世紀も経っていないのにその同じ海沿いをなおも選んで住み、
都市や町を作り、家を建てたのも神ではなく人間である。
天罰でも天災でもないではないか。
長い年月に繰り返される自然現象から学ばない私達人間の、
無知による人災ではないか。
「観測史上初の大津波」とか
「原発がやられたのは想定外」というのも人間の無知であり、
「天罰だ」「神が怒って裁かれた」と根拠無く決め付けるのも
人間が神を信じない無知ではないか。
私は断じて天罰ではないと思う。
この大地震も大津波も、神が人間に罰として災害を下されたのでは
断じてないと私は思う。
私達はイエスを通して自分達が神に愛されている事を知っている。
現実の全ての出来事には神の意図される意味がある事を思い、
試練の中にあって能力や知恵を出し合い、助け合って、労わり合って、
イエスが教えられたように互いに愛し合い、
神が私達に望まれるように生きる事で
この大変な苦難の時代をきっと乗り越えると私は信じる。
以下、最も津波被害の酷かった岩手県陸前高田に、
被災から5日目の3/16から3/23まで、災害対策支援医療チームの一員として
東京の病院から現地入りした看護師のブログをご紹介する。
(印刷してきたので礼拝の後お家に帰ってからゆっくり読んで下さい。)
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing
その中に記録された無数の赤い旗は辛い光景だ。
この看護師のブログを読むと、
あの3/11を境に「赤い旗」の持つイメージが
違うものに塗り替えられた気がする。
「赤い旗」といえば某政治団体の機関紙の名前を連想したが、
今は「赤い旗」と聞くと瓦礫の中の「遺体が見つかった場所」を連想する。
このブログの中の一文が気になったので御紹介する。
『…炊き出しの時間も現地の人優先だったので
見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいると
いつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。
「○○チャンに倒れられたらそれこそ大変だから」
と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。
自分の明日の食事も見通しがつかない状況なのに
申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいで
いつも母のことを思い出していた。
そんなときラジオから
都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて
震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなと
ぼんやり考えていた…』
(ブログ『JKTS』2011-3-23 16:48:23 11.スマイルより)
読んでなるほどと思った。
大地震と大津波の後、
被災地の人々は電気も水も燃料も無い避難所で身を寄せ合い、
人数分に足りないおにぎりの一個を数人で分け合って救援を待っていた。
その同じ時、
被災しなかった地域のスーパーマーケットでは
米、飲料水、トイレットペーパー、乾電池などの買い占め買い溜めに走る人々が
殺到し、商品棚から商品が消え、商品の補充が間に合わず、
一つの商品を二人の主婦が争って掴み合いする光景が繰り広げられて
日常的な目撃情報として話題になった。
(実際、私の住む田舎でも大型店の食品売り場から一時的に米が消えた。)
こんな奪い合いの状況にもし災害が襲って来たら
生存競争が起こって生き残る人は無く、復興は全く望めない。
米や水なんか奪い合ってどうするか。
地震や津波の時に持って逃げるか?
重いですよ米も水も。
賞味期限とか品質保持期限というものだってあるし。
分け合う事が出来るかどうかに、
私達人間の存亡がかかっているのではないだろうか。
何だか、マンガの一コマに出ていた極楽と地獄の対比みたいである。
仏教の詳しい話は皆目分からないが、
次のような話のような話を聞いた事がある。
あの世ではスプーンの柄が物凄く長いので自分では食べ難い。
極楽では柄の長いスプーンを使ってまず他の人に食べさせてやる。
すると他の人々も同じように口に食べ物を入れて食べさせてくれる。
互いに食べさせ合うので、極楽では誰もが常に満腹している。
地獄では誰もが我先にと他の人を押し退けてスプーンで食べ物をすくうが
柄が長過ぎて自分の口に入れる事は出来ず、誰もが常に空腹である。
私達の主イエスも、持っている者は持っていない者に分け与えよと言われた。
救援の行き届かない被災地で一個のおにぎりを数人で分け合う人々と
被災もしていない地域の店で一個の商品を数人で奪い合う人々。
図式的に当てはまり過ぎではないか。
何とも分かり易い極楽と地獄の対比である。
紹介したブログの中には被災者の方々の過酷な現実が克明に描かれてある。
何の罪もない人々が犠牲になった現実に、「神も仏も無い」と誰もが嘆く。
しかし、ブログを書いた看護師はこの記録の中で次のように言う。
「神も仏もいない今、
優しい気持ちの生きてる人間がたくさんいるよ!!
とちょっと胸を張れたような気がします」
そうかも知れない。
しかし私は思う。
この過酷な被災者の日常の中に、おまけに冷たい雪まで降ってきた。
しかしイエスが福音書で教えられた事が、被災者の中に悉く実現し、
目撃した看護師の文章にそれが記録されている。
突然こんな災害に襲われて家族と生活の全てを奪われ
神も仏も無いと嘆く人々の中にイエスの教えられた愛が、何故か実現している。
極限の苦しみにある被災者達の避難所生活の日常に
イエスの説かれた福音がその通り実現しているのは何故か。
教会の食事の席でこの災害が原発を建てた人間への天罰だなどと
安穏と昼飯を喰らいながら勝手に断定する前に、
この事が何を意味するか、私達信仰者は考えなければならない。
家族を失って泣く人と共に泣き、再開して喜ぶ人と共に喜び、
乏しい救援の食料を分け合って食べ、
ライフラインの止まった避難所で互いに身を寄せ合って温め合い、
お互いの苦しみに共感し合い、
電気が再開した事を皆で泣いて喜び、
水が復旧し湯が沸かせるようになって足湯で互いに足を洗い合い、
困っている人のために知恵を出し合い、
不眠不休で能力を持ち寄り、労力を出し合って、
ライフラインの復旧や避難所の環境整備をし、
行方不明者の安否情報を知らせ合い、
眠れない夜に一緒に月の明かりをささやかに喜び合っている、
極限の苦しみの中にあって何もかも失った人間が、
こうして苦楽を分け合って生きている、
神が私達人間にそのように生きるように招いておられる事が、
福音書のイエスの教えそのままに実現している。
この看護師が陸前高田に入った同じ3/16に、
FEBC放送でラジオ説教をされたイエズス会の司祭から
インターネットでノベナという9日間の祈りの呼び掛けがあった。
ミクシイやツイッターなどのSNSで各自が持ち帰り、
そして私自身もブログで読者に祈りの呼びかけをした後、
父と聖書を開く毎に祈った。
9日間はあっという間に過ぎた。
しかし祈りはこれからも続ける。
避難所にいる人々や福島の人々の今置かれた現状を知る限り、
祈らずにはいられない。
海外から見ると考えられないくらいの物凄い速さで
日本は復興の道を進んでいるかも知れない。
しかし被災された方々にとっては毎日が
地獄のように長い苦しみの日々に違いない。
(祈り)
主が被災の苦しみを担って下さる事を確信し、
兄弟姉妹の心に合わせて祈ります。
今もまだ誰からも発見されず瓦礫の下で助けを求め待っている人々、
救援の届かない避難所で辛い生活をする人々、
家族の消息を求めて瓦礫の中を、遺体安置所を、徒歩で探し歩く人々、
不眠不休で救援活動に従事し続ける人々、
原発事故の被害を食い止めるために体を張って闘う人々、
風評被害で生活の糧を絶たれた人々、
被災地の家族の安否情報の届かない離れた所で心を引き裂かれる人々、
被災に遭われたお一人お一人の苦しみを癒して下さい。
この大災害で生命を奪われた、
数知れないほど大勢の犠牲者お一人お一人の魂を
御手に抱き取って、天国にお迎え下さい。
永遠の安息に犠牲者のお一人お一人をお迎え下さい。
原発事故の被害がこれ以上拡大しませんように。
周辺地域の人々の健康が守られ、
地域が生活の場として甦りますように。
主なる神、憐れんで下さい。
被災したあらゆる教会のためにも祈ります。
この試練が決して失望に終わりませんように。
主が共にいらして被災された教会の牧師、司祭、教会員一人一人の信仰を強め、
導いて下さいますように。
地震と津波と火災のために傷付いた教会が希望を失わず、
被災地で再び宣教の働きに用いられますように。
放射能のために住み慣れた土地を出て行き場の無い教会が
この試練を乗り越える事が出来、
数え切れないほど多くの収穫を主なる神から受けますように。
私達の不滅の希望、イエス・キリストの御名によって、
確信をもって祈ります。
アーメン。
私は心を尽くして主に感謝をささげ
驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
御名をほめうたおう。
(詩篇9;2~3)
交読詩篇46:1~11
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
(詩篇46;2)
今日は御神に共に祈る日、
心を高く御前に上げよう。
(205番『賛美歌21』)
さあ、共に生きよう。
主はこの時代の苦しみと悩みを担って下さる。
(419番『賛美歌21』)
主の祈り。
天におられる私達の父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
私達に必要な糧を今日与えて下さい。
私達の負い目を赦して下さい。
私達も自分に負い目のある人を赦しましたように。
私達を誘惑に遭わせず、
悪い者から救って下さい。
アーメン。
今日の聖書箇所マタイ5;1~3。
3/11の東日本大震災から明日で一ヶ月。
一晩全く眠れずに、しかし緊張と興奮の状態で3/12の朝を迎えた。
窓から東の地平線を見ると快晴の空に太陽が昇って来たのが見えた。
大勢の人々が生命を奪われ、家族の安否に心を引き裂かれ、
生活の場をこれ以上は無いほどに破壊し尽くされ、
今なお海上で漂流しながら、或いは瓦礫の下で身動き出来ないまま、
ひたすら助けを待っているのに、これほど酷い朝を迎えたのに
太陽が東の地平線から、雲一つ無い空を昇って来た。
何事も無かったかのように。
しかしあの3/11を境にこの地上は別世界に変わって、
二度と元に戻らなくなった。
その後に福島の原発で放射線漏れ事故が起こり、
私達の生きている地上が別物に変ってしまった。
祈りの時に湧き上がってくる思いがある。
これから一体どうなるのか。
どうしてこんな事になったのか。
祈るしかないという状況を体験し、
そしてそれは一ヶ月経った今も続いている。
あの震災の前後、
父と読む聖書の箇所はたまたま山上の垂訓の「幸いな人」だった。
洗礼を受けて20年、主の祈りも、山上の垂訓も、
今これほどまでに心に沁みた事は無い。
あの3月11日金曜日を境に、テレビで連日報道される被災地の人々、
激震と大津波と大火災に遭って肉親とはぐれ、
着の身着のまま氷点下の避難所で身を寄せ合い、
救援の毛布とおにぎりを待つ人々を目にしてから、
主の祈りと山上の垂訓を冷静には読めなくなった。
大津波からまだ二日三日、避難所では炊き出しのおにぎりを配っても
人数分に足りず、一個を数人で分け合って食べる避難所もあると
テレビで見て聞いてから、主の祈りが苦しくなった。
「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」という文言に
苦しくなって泣けてきた。
以前なら山上の垂訓を読んでも、主の祈りを唱えても、
「貧しい人」とか「日ごとの糧を今日も」という文言には
何処か遠い2000年前の、縁の無い外国のお話のようにしか受け留める事が出来ず、
今の日本では一般的には殆ど日常ではお目にかかれない、
報道の中のホームレスの人々くらいしか思い浮かべられなかった。
それがあの3/11以来毎日、目の前の本物の現実となった。
津波で家が流されて家族の行方が分からない、
道路が寸断されて避難所に救援物資が行き届かない、
救援のおにぎりが全員に行き渡らない、暖房が無い、
赤ん坊がいるのに粉ミルクの残りが底を突いてしまった。
神様、被災者の一人一人に必要な糧を今日与えて下さい、今日。
今日!
どうかお願いします。お願いします。
今日今すぐ、一刻も早く、
主なる神、憐れんで下さい。
何十万人もの被災者。
神に祈る他にどうする事も出来ない、無力な私達の現実がある。
着の身着のまま食べる物も無く生活に糧を断たれ、
為すすべなく地面に座り込む人々と、
福音書でイエスの前に座って聴き入る人々とが重なる。
長年住み慣れた街で、自分の住まいで、暖かい部屋で、
いつものように食事を摂り、珈琲を飲む、
そんないつもと同じ日常の営みに罪悪感と後ろめたさを感じて
祈りの言葉にも詰まる。
今日の聖書の箇所は、フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸い」と訳されている。
イエスは今幸せに暮らしている人を相手に説教をしたのではなかった。
ローマ帝国の占領下で税を搾り取られ、
その上ユダヤ人の宗教的指導者達から献金や生贄の動物を買わせられ
手数料を毟り取られ、どん底の生活で
今夜食べる物が無いほどの貧困に苦しむ人々。
そんな人々をイエスは癒して歩き、彼らに語り、この山上の説教を話した。
イエスに聞いて、
すがる以外にはどうする事も出来ない程に貧しい、何も持っていない人々。
イエスはそんな彼らを「幸いだ」と言った。
神以外に何にも頼る事が出来ないから。
神以外に何にも頼る事が出来ない貧しい人々を、
神は慈しんで、助けて下さる。
現実に完全に行き詰って、自分の力ではどうする事も出来ない状態、
無力な自分を認めて神にすがる、救いはそこからしか始まらない。
私達こそ今まさにそんな状況に立たされているではないか。
山上の垂訓は、読めば読むほど、
イエスがどれほどこれらの貧しい人々を慈しんでおられたか、
痛いほどに伝わって来る。
この世に生きていても何の望みも無い苦しい生活をする人に、
彼らが絶望しないように、
神を信頼し信仰をもって強く生き延びる事を彼らに望まれた
イエスの熱い思いが伝わってくる。
実際、私達人間は今回のような自然災害の前では無力で、
神に祈る以外に出来る事が無い。
私達はそんな自分の弱さと無知を認めなければならない。
何処かの知事が今回の大災害を「天罰だ」と言って批判に晒された。
不見識で無知、無教養で被災者に対する思いやりの欠片も無い、
愚かな人の言葉だ。
神を知らず神を畏れない人ほど、さも知ったかのようにそういう言葉を口にする。
しかし同じ「天罰だ」という言葉を、
私はこの教会の食事中の会話の中でも耳にした。
「天罰だわ。
原発なんか建てるから、神様が怒って天罰を下したんだわ。」
軽い冗談で出た言葉ではない筈だ。
原発を建てた人間に神が怒って大地震と大津波で罰を下したという意味か?
では被災した人々は神の罰を受けたのか?
被災者にどんな罪があって、あの大地震と大津波が起こったのか?
このように、
神を信じている筈の人間でさえも「あれは天罰だ」という言葉を平気で口にする。
「天罰」という言葉を口にした人に私は聞きたい。
神の何を知っていてこの災害を「天罰」と言うのか。
あの3/11から今現在に至るまで、
何十万もの犠牲者、被災者の中には同じ神を信じるキリスト者達が数知れずいる。
教派を問わず、数知れないキリスト教会が津波で押し潰されて瓦礫となり、
火災で焼け落ち、指導者や信徒達が命を失い、未だ行方不明で捜索も進まず、
避難勧告によって教会ごと他の地域に身を寄せなければならない、
過酷な状態にあって苦しんでいる。
「天罰」という言葉を口にした人に私は聞きたい。
被災地で苦しんでいる人々が何の罪で神の天罰を受けたと言うのか。
去年までこの同じ市内にいて転勤で東北に引っ越して行かれた
ハリストス正教会のブログ仲間の方から、
同じ管轄地域の教会が焼け落ちて教会員も未だ行方不明、
この惨状を見て言葉も無い、教会の焼け跡に行って、
何か教会の燃え残りが無いか瓦礫の中を探したと聞いて、
本当に胸が痛んで泣けてきた。
今私達がいるこの教会に、同じ事が起こった時の事を想像してみるといい。
焼け跡で瓦礫の中に自分達の教会の燃え残りを探す人の気持ちを。
瓦礫の中で親族や教会の兄弟姉妹を探す人々の気持ちを。
しかしこの惨い現実にあっても
私は断じてこの災害を天罰とは思わない。
神が慈しんで下さる事を私達は常日頃から感じ、知っている筈だ。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰者は
今このような時こそ不滅の希望を言い表すべきではないか。
私達はこれまでに何度も辛い時苦しい時に神に助けられてきた。
それを誰よりもよく知っているのは私達自身である。
福音書の中でイエスは何度も希望を失わずに祈れと教えている。
例えばルカ21;25~38。
・・地上では海がどよめき荒れ狂うので、
諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る。
人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。
天体が揺り動かされるからである。・・・
・・・このようなが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。
しかし、あなたがたは、
起ころうとしているすべてのことから逃れて、
人の子の前に立つことができるように、
いつも目を覚まして祈りなさい。
以前、ヨハネの黙示録でも読んだ。
あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
見よ、悪魔が試みるために、
あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
死に至るまで忠実であれ。
そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
(ヨハネ黙示録2;10)
キリスト者はどんな現実にあっても絶望してはならない。
神が10日と言ったら10日、それ以上でもそれ以下でもない。
苦しみの11日目は、無い。
苦難は必ず区切られると辻牧師も講壇と著書の中で語った。
苦しみが無限に続くと思い込んではならないと。
望みを失ってはならない。
どんな事があっても。
主が共にいて下さるからだ。
私自身8年前の震度6を体験して以来、
空の地震雲を気にし、ネットで始終地震情報に注目しているが、
地面は終始分刻みで揺れている。
揺れるものなのだ。
地殻変動は常に繰り返し、今回のような大地震も大津波も
ほんの100年以内に既に起こっていた。
(私達の住むこの街も、
まだ蝦夷地と呼ばれる頃に寛永の大津波を被って一度壊滅している。
そしてこの20年の間にここの地域を襲った地震はいずれもM8.0とM8.2で、
津波も全然珍しくない。
今回の被災地と地理条件もさほど変わりない。)
そんな揺れる地上に私達は生息している。
しょっちゅうぐらぐら揺れる不安定な地面の上に原発を作ったのは
神ではなく私達人間であり、その恩恵を享受してきたのも私達だ。
前回の大津波を17歳で経験した93歳の方が今被災地にいて、テレビに出ていた。
ほんの一世紀も経っていないのにその同じ海沿いをなおも選んで住み、
都市や町を作り、家を建てたのも神ではなく人間である。
天罰でも天災でもないではないか。
長い年月に繰り返される自然現象から学ばない私達人間の、
無知による人災ではないか。
「観測史上初の大津波」とか
「原発がやられたのは想定外」というのも人間の無知であり、
「天罰だ」「神が怒って裁かれた」と根拠無く決め付けるのも
人間が神を信じない無知ではないか。
私は断じて天罰ではないと思う。
この大地震も大津波も、神が人間に罰として災害を下されたのでは
断じてないと私は思う。
私達はイエスを通して自分達が神に愛されている事を知っている。
現実の全ての出来事には神の意図される意味がある事を思い、
試練の中にあって能力や知恵を出し合い、助け合って、労わり合って、
イエスが教えられたように互いに愛し合い、
神が私達に望まれるように生きる事で
この大変な苦難の時代をきっと乗り越えると私は信じる。
以下、最も津波被害の酷かった岩手県陸前高田に、
被災から5日目の3/16から3/23まで、災害対策支援医療チームの一員として
東京の病院から現地入りした看護師のブログをご紹介する。
(印刷してきたので礼拝の後お家に帰ってからゆっくり読んで下さい。)
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing
その中に記録された無数の赤い旗は辛い光景だ。
この看護師のブログを読むと、
あの3/11を境に「赤い旗」の持つイメージが
違うものに塗り替えられた気がする。
「赤い旗」といえば某政治団体の機関紙の名前を連想したが、
今は「赤い旗」と聞くと瓦礫の中の「遺体が見つかった場所」を連想する。
このブログの中の一文が気になったので御紹介する。
『…炊き出しの時間も現地の人優先だったので
見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいると
いつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。
「○○チャンに倒れられたらそれこそ大変だから」
と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。
自分の明日の食事も見通しがつかない状況なのに
申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいで
いつも母のことを思い出していた。
そんなときラジオから
都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて
震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなと
ぼんやり考えていた…』
(ブログ『JKTS』2011-3-23 16:48:23 11.スマイルより)
読んでなるほどと思った。
大地震と大津波の後、
被災地の人々は電気も水も燃料も無い避難所で身を寄せ合い、
人数分に足りないおにぎりの一個を数人で分け合って救援を待っていた。
その同じ時、
被災しなかった地域のスーパーマーケットでは
米、飲料水、トイレットペーパー、乾電池などの買い占め買い溜めに走る人々が
殺到し、商品棚から商品が消え、商品の補充が間に合わず、
一つの商品を二人の主婦が争って掴み合いする光景が繰り広げられて
日常的な目撃情報として話題になった。
(実際、私の住む田舎でも大型店の食品売り場から一時的に米が消えた。)
こんな奪い合いの状況にもし災害が襲って来たら
生存競争が起こって生き残る人は無く、復興は全く望めない。
米や水なんか奪い合ってどうするか。
地震や津波の時に持って逃げるか?
重いですよ米も水も。
賞味期限とか品質保持期限というものだってあるし。
分け合う事が出来るかどうかに、
私達人間の存亡がかかっているのではないだろうか。
何だか、マンガの一コマに出ていた極楽と地獄の対比みたいである。
仏教の詳しい話は皆目分からないが、
次のような話のような話を聞いた事がある。
あの世ではスプーンの柄が物凄く長いので自分では食べ難い。
極楽では柄の長いスプーンを使ってまず他の人に食べさせてやる。
すると他の人々も同じように口に食べ物を入れて食べさせてくれる。
互いに食べさせ合うので、極楽では誰もが常に満腹している。
地獄では誰もが我先にと他の人を押し退けてスプーンで食べ物をすくうが
柄が長過ぎて自分の口に入れる事は出来ず、誰もが常に空腹である。
私達の主イエスも、持っている者は持っていない者に分け与えよと言われた。
救援の行き届かない被災地で一個のおにぎりを数人で分け合う人々と
被災もしていない地域の店で一個の商品を数人で奪い合う人々。
図式的に当てはまり過ぎではないか。
何とも分かり易い極楽と地獄の対比である。
紹介したブログの中には被災者の方々の過酷な現実が克明に描かれてある。
何の罪もない人々が犠牲になった現実に、「神も仏も無い」と誰もが嘆く。
しかし、ブログを書いた看護師はこの記録の中で次のように言う。
「神も仏もいない今、
優しい気持ちの生きてる人間がたくさんいるよ!!
とちょっと胸を張れたような気がします」
そうかも知れない。
しかし私は思う。
この過酷な被災者の日常の中に、おまけに冷たい雪まで降ってきた。
しかしイエスが福音書で教えられた事が、被災者の中に悉く実現し、
目撃した看護師の文章にそれが記録されている。
突然こんな災害に襲われて家族と生活の全てを奪われ
神も仏も無いと嘆く人々の中にイエスの教えられた愛が、何故か実現している。
極限の苦しみにある被災者達の避難所生活の日常に
イエスの説かれた福音がその通り実現しているのは何故か。
教会の食事の席でこの災害が原発を建てた人間への天罰だなどと
安穏と昼飯を喰らいながら勝手に断定する前に、
この事が何を意味するか、私達信仰者は考えなければならない。
家族を失って泣く人と共に泣き、再開して喜ぶ人と共に喜び、
乏しい救援の食料を分け合って食べ、
ライフラインの止まった避難所で互いに身を寄せ合って温め合い、
お互いの苦しみに共感し合い、
電気が再開した事を皆で泣いて喜び、
水が復旧し湯が沸かせるようになって足湯で互いに足を洗い合い、
困っている人のために知恵を出し合い、
不眠不休で能力を持ち寄り、労力を出し合って、
ライフラインの復旧や避難所の環境整備をし、
行方不明者の安否情報を知らせ合い、
眠れない夜に一緒に月の明かりをささやかに喜び合っている、
極限の苦しみの中にあって何もかも失った人間が、
こうして苦楽を分け合って生きている、
神が私達人間にそのように生きるように招いておられる事が、
福音書のイエスの教えそのままに実現している。
この看護師が陸前高田に入った同じ3/16に、
FEBC放送でラジオ説教をされたイエズス会の司祭から
インターネットでノベナという9日間の祈りの呼び掛けがあった。
ミクシイやツイッターなどのSNSで各自が持ち帰り、
そして私自身もブログで読者に祈りの呼びかけをした後、
父と聖書を開く毎に祈った。
9日間はあっという間に過ぎた。
しかし祈りはこれからも続ける。
避難所にいる人々や福島の人々の今置かれた現状を知る限り、
祈らずにはいられない。
海外から見ると考えられないくらいの物凄い速さで
日本は復興の道を進んでいるかも知れない。
しかし被災された方々にとっては毎日が
地獄のように長い苦しみの日々に違いない。
(祈り)
主が被災の苦しみを担って下さる事を確信し、
兄弟姉妹の心に合わせて祈ります。
今もまだ誰からも発見されず瓦礫の下で助けを求め待っている人々、
救援の届かない避難所で辛い生活をする人々、
家族の消息を求めて瓦礫の中を、遺体安置所を、徒歩で探し歩く人々、
不眠不休で救援活動に従事し続ける人々、
原発事故の被害を食い止めるために体を張って闘う人々、
風評被害で生活の糧を絶たれた人々、
被災地の家族の安否情報の届かない離れた所で心を引き裂かれる人々、
被災に遭われたお一人お一人の苦しみを癒して下さい。
この大災害で生命を奪われた、
数知れないほど大勢の犠牲者お一人お一人の魂を
御手に抱き取って、天国にお迎え下さい。
永遠の安息に犠牲者のお一人お一人をお迎え下さい。
原発事故の被害がこれ以上拡大しませんように。
周辺地域の人々の健康が守られ、
地域が生活の場として甦りますように。
主なる神、憐れんで下さい。
被災したあらゆる教会のためにも祈ります。
この試練が決して失望に終わりませんように。
主が共にいらして被災された教会の牧師、司祭、教会員一人一人の信仰を強め、
導いて下さいますように。
地震と津波と火災のために傷付いた教会が希望を失わず、
被災地で再び宣教の働きに用いられますように。
放射能のために住み慣れた土地を出て行き場の無い教会が
この試練を乗り越える事が出来、
数え切れないほど多くの収穫を主なる神から受けますように。
私達の不滅の希望、イエス・キリストの御名によって、
確信をもって祈ります。
アーメン。