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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

主日礼拝

2011-04-10 23:30:00 | マタイ
招詞。


私は心を尽くして主に感謝をささげ
驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
御名をほめうたおう。
               (詩篇9;2~3)


交読詩篇46:1~11


神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
                     (詩篇46;2)




今日は御神に共に祈る日、
心を高く御前に上げよう。
           (205番『賛美歌21』)


さあ、共に生きよう。
主はこの時代の苦しみと悩みを担って下さる。
           (419番『賛美歌21』)




主の祈り。


天におられる私達の父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
私達に必要な糧を今日与えて下さい。
私達の負い目を赦して下さい。
私達も自分に負い目のある人を赦しましたように。
私達を誘惑に遭わせず、
悪い者から救って下さい。
アーメン。


今日の聖書箇所マタイ5;1~3。


3/11の東日本大震災から明日で一ヶ月。


一晩全く眠れずに、しかし緊張と興奮の状態で3/12の朝を迎えた。
窓から東の地平線を見ると快晴の空に太陽が昇って来たのが見えた。
大勢の人々が生命を奪われ、家族の安否に心を引き裂かれ、
生活の場をこれ以上は無いほどに破壊し尽くされ、
今なお海上で漂流しながら、或いは瓦礫の下で身動き出来ないまま、
ひたすら助けを待っているのに、これほど酷い朝を迎えたのに
太陽が東の地平線から、雲一つ無い空を昇って来た。
何事も無かったかのように。


しかしあの3/11を境にこの地上は別世界に変わって、
二度と元に戻らなくなった。
その後に福島の原発で放射線漏れ事故が起こり、
私達の生きている地上が別物に変ってしまった。


祈りの時に湧き上がってくる思いがある。
これから一体どうなるのか。
どうしてこんな事になったのか。
祈るしかないという状況を体験し、
そしてそれは一ヶ月経った今も続いている。


あの震災の前後、
父と読む聖書の箇所はたまたま山上の垂訓の「幸いな人」だった。
洗礼を受けて20年、主の祈りも、山上の垂訓も、
今これほどまでに心に沁みた事は無い。
あの3月11日金曜日を境に、テレビで連日報道される被災地の人々、
激震と大津波と大火災に遭って肉親とはぐれ、
着の身着のまま氷点下の避難所で身を寄せ合い、
救援の毛布とおにぎりを待つ人々を目にしてから、
主の祈りと山上の垂訓を冷静には読めなくなった。
大津波からまだ二日三日、避難所では炊き出しのおにぎりを配っても
人数分に足りず、一個を数人で分け合って食べる避難所もあると
テレビで見て聞いてから、主の祈りが苦しくなった。
「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」という文言に
苦しくなって泣けてきた。


以前なら山上の垂訓を読んでも、主の祈りを唱えても、
「貧しい人」とか「日ごとの糧を今日も」という文言には
何処か遠い2000年前の、縁の無い外国のお話のようにしか受け留める事が出来ず、
今の日本では一般的には殆ど日常ではお目にかかれない、
報道の中のホームレスの人々くらいしか思い浮かべられなかった。
それがあの3/11以来毎日、目の前の本物の現実となった。
津波で家が流されて家族の行方が分からない、
道路が寸断されて避難所に救援物資が行き届かない、
救援のおにぎりが全員に行き渡らない、暖房が無い、
赤ん坊がいるのに粉ミルクの残りが底を突いてしまった。
神様、被災者の一人一人に必要な糧を今日与えて下さい、今日。
今日!
どうかお願いします。お願いします。
今日今すぐ、一刻も早く、
主なる神、憐れんで下さい。


何十万人もの被災者。
神に祈る他にどうする事も出来ない、無力な私達の現実がある。
着の身着のまま食べる物も無く生活に糧を断たれ、
為すすべなく地面に座り込む人々と、
福音書でイエスの前に座って聴き入る人々とが重なる。


長年住み慣れた街で、自分の住まいで、暖かい部屋で、
いつものように食事を摂り、珈琲を飲む、
そんないつもと同じ日常の営みに罪悪感と後ろめたさを感じて
祈りの言葉にも詰まる。


今日の聖書の箇所は、フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸い」と訳されている。


イエスは今幸せに暮らしている人を相手に説教をしたのではなかった。
ローマ帝国の占領下で税を搾り取られ、
その上ユダヤ人の宗教的指導者達から献金や生贄の動物を買わせられ
手数料を毟り取られ、どん底の生活で
今夜食べる物が無いほどの貧困に苦しむ人々。


そんな人々をイエスは癒して歩き、彼らに語り、この山上の説教を話した。
イエスに聞いて、
すがる以外にはどうする事も出来ない程に貧しい、何も持っていない人々。
イエスはそんな彼らを「幸いだ」と言った。
神以外に何にも頼る事が出来ないから。
神以外に何にも頼る事が出来ない貧しい人々を、
神は慈しんで、助けて下さる。
現実に完全に行き詰って、自分の力ではどうする事も出来ない状態、
無力な自分を認めて神にすがる、救いはそこからしか始まらない。
私達こそ今まさにそんな状況に立たされているではないか。


山上の垂訓は、読めば読むほど、
イエスがどれほどこれらの貧しい人々を慈しんでおられたか、
痛いほどに伝わって来る。
この世に生きていても何の望みも無い苦しい生活をする人に、
彼らが絶望しないように、
神を信頼し信仰をもって強く生き延びる事を彼らに望まれた
イエスの熱い思いが伝わってくる。


実際、私達人間は今回のような自然災害の前では無力で、
神に祈る以外に出来る事が無い。
私達はそんな自分の弱さと無知を認めなければならない。


何処かの知事が今回の大災害を「天罰だ」と言って批判に晒された。
不見識で無知、無教養で被災者に対する思いやりの欠片も無い、
愚かな人の言葉だ。
神を知らず神を畏れない人ほど、さも知ったかのようにそういう言葉を口にする。
しかし同じ「天罰だ」という言葉を、
私はこの教会の食事中の会話の中でも耳にした。


「天罰だわ。
 原発なんか建てるから、神様が怒って天罰を下したんだわ。」


軽い冗談で出た言葉ではない筈だ。
原発を建てた人間に神が怒って大地震と大津波で罰を下したという意味か?
では被災した人々は神の罰を受けたのか?
被災者にどんな罪があって、あの大地震と大津波が起こったのか?
このように、
神を信じている筈の人間でさえも「あれは天罰だ」という言葉を平気で口にする。
「天罰」という言葉を口にした人に私は聞きたい。
神の何を知っていてこの災害を「天罰」と言うのか。


あの3/11から今現在に至るまで、
何十万もの犠牲者、被災者の中には同じ神を信じるキリスト者達が数知れずいる。
教派を問わず、数知れないキリスト教会が津波で押し潰されて瓦礫となり、
火災で焼け落ち、指導者や信徒達が命を失い、未だ行方不明で捜索も進まず、
避難勧告によって教会ごと他の地域に身を寄せなければならない、
過酷な状態にあって苦しんでいる。
「天罰」という言葉を口にした人に私は聞きたい。
被災地で苦しんでいる人々が何の罪で神の天罰を受けたと言うのか。


去年までこの同じ市内にいて転勤で東北に引っ越して行かれた
ハリストス正教会のブログ仲間の方から、
同じ管轄地域の教会が焼け落ちて教会員も未だ行方不明、
この惨状を見て言葉も無い、教会の焼け跡に行って、
何か教会の燃え残りが無いか瓦礫の中を探したと聞いて、
本当に胸が痛んで泣けてきた。
今私達がいるこの教会に、同じ事が起こった時の事を想像してみるといい。
焼け跡で瓦礫の中に自分達の教会の燃え残りを探す人の気持ちを。
瓦礫の中で親族や教会の兄弟姉妹を探す人々の気持ちを。


しかしこの惨い現実にあっても
私は断じてこの災害を天罰とは思わない。
神が慈しんで下さる事を私達は常日頃から感じ、知っている筈だ。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰者は
今このような時こそ不滅の希望を言い表すべきではないか。


私達はこれまでに何度も辛い時苦しい時に神に助けられてきた。
それを誰よりもよく知っているのは私達自身である。



福音書の中でイエスは何度も希望を失わずに祈れと教えている。
例えばルカ21;25~38。


  ・・地上では海がどよめき荒れ狂うので、
  諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る。
  人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。
  天体が揺り動かされるからである。・・・


  ・・・このようなが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。
                          

  しかし、あなたがたは、
  起ころうとしているすべてのことから逃れて、
  人の子の前に立つことができるように、
  いつも目を覚まして祈りなさい。



以前、ヨハネの黙示録でも読んだ。


  あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
  見よ、悪魔が試みるために、
  あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
  あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
  死に至るまで忠実であれ。
  そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
                    (ヨハネ黙示録2;10)


キリスト者はどんな現実にあっても絶望してはならない。
神が10日と言ったら10日、それ以上でもそれ以下でもない。
苦しみの11日目は、無い。
苦難は必ず区切られると辻牧師も講壇と著書の中で語った。
苦しみが無限に続くと思い込んではならないと。
望みを失ってはならない。
どんな事があっても。
主が共にいて下さるからだ。


私自身8年前の震度6を体験して以来、
空の地震雲を気にし、ネットで始終地震情報に注目しているが、
地面は終始分刻みで揺れている。
揺れるものなのだ。
地殻変動は常に繰り返し、今回のような大地震も大津波も
ほんの100年以内に既に起こっていた。
(私達の住むこの街も、
 まだ蝦夷地と呼ばれる頃に寛永の大津波を被って一度壊滅している。
 そしてこの20年の間にここの地域を襲った地震はいずれもM8.0とM8.2で、
 津波も全然珍しくない。
 今回の被災地と地理条件もさほど変わりない。)
そんな揺れる地上に私達は生息している。
しょっちゅうぐらぐら揺れる不安定な地面の上に原発を作ったのは
神ではなく私達人間であり、その恩恵を享受してきたのも私達だ。


前回の大津波を17歳で経験した93歳の方が今被災地にいて、テレビに出ていた。
ほんの一世紀も経っていないのにその同じ海沿いをなおも選んで住み、
都市や町を作り、家を建てたのも神ではなく人間である。
天罰でも天災でもないではないか。
長い年月に繰り返される自然現象から学ばない私達人間の、
無知による人災ではないか。
「観測史上初の大津波」とか
「原発がやられたのは想定外」というのも人間の無知であり、
「天罰だ」「神が怒って裁かれた」と根拠無く決め付けるのも
人間が神を信じない無知ではないか。


私は断じて天罰ではないと思う。
この大地震も大津波も、神が人間に罰として災害を下されたのでは
断じてないと私は思う。


私達はイエスを通して自分達が神に愛されている事を知っている。
現実の全ての出来事には神の意図される意味がある事を思い、
試練の中にあって能力や知恵を出し合い、助け合って、労わり合って、
イエスが教えられたように互いに愛し合い、
神が私達に望まれるように生きる事で
この大変な苦難の時代をきっと乗り越えると私は信じる。


以下、最も津波被害の酷かった岩手県陸前高田に、
被災から5日目の3/16から3/23まで、災害対策支援医療チームの一員として
東京の病院から現地入りした看護師のブログをご紹介する。
(印刷してきたので礼拝の後お家に帰ってからゆっくり読んで下さい。)


http://blog.goo.ne.jp/flower-wing


その中に記録された無数の赤い旗は辛い光景だ。
この看護師のブログを読むと、
あの3/11を境に「赤い旗」の持つイメージが
違うものに塗り替えられた気がする。
「赤い旗」といえば某政治団体の機関紙の名前を連想したが、
今は「赤い旗」と聞くと瓦礫の中の「遺体が見つかった場所」を連想する。


このブログの中の一文が気になったので御紹介する。


  『…炊き出しの時間も現地の人優先だったので
   見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいると
   いつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。
   「○○チャンに倒れられたらそれこそ大変だから」
   と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。
   自分の明日の食事も見通しがつかない状況なのに
   申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいで
   いつも母のことを思い出していた。
   そんなときラジオから
   都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて
   震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなと
   ぼんやり考えていた…』
           (ブログ『JKTS』2011-3-23 16:48:23 11.スマイルより)


読んでなるほどと思った。


大地震と大津波の後、
被災地の人々は電気も水も燃料も無い避難所で身を寄せ合い、
人数分に足りないおにぎりの一個を数人で分け合って救援を待っていた。
その同じ時、
被災しなかった地域のスーパーマーケットでは
米、飲料水、トイレットペーパー、乾電池などの買い占め買い溜めに走る人々が
殺到し、商品棚から商品が消え、商品の補充が間に合わず、
一つの商品を二人の主婦が争って掴み合いする光景が繰り広げられて
日常的な目撃情報として話題になった。
(実際、私の住む田舎でも大型店の食品売り場から一時的に米が消えた。)


こんな奪い合いの状況にもし災害が襲って来たら
生存競争が起こって生き残る人は無く、復興は全く望めない。
米や水なんか奪い合ってどうするか。
地震や津波の時に持って逃げるか?
重いですよ米も水も。
賞味期限とか品質保持期限というものだってあるし。


分け合う事が出来るかどうかに、
私達人間の存亡がかかっているのではないだろうか。
何だか、マンガの一コマに出ていた極楽と地獄の対比みたいである。
仏教の詳しい話は皆目分からないが、
次のような話のような話を聞いた事がある。


あの世ではスプーンの柄が物凄く長いので自分では食べ難い。
極楽では柄の長いスプーンを使ってまず他の人に食べさせてやる。
すると他の人々も同じように口に食べ物を入れて食べさせてくれる。
互いに食べさせ合うので、極楽では誰もが常に満腹している。
地獄では誰もが我先にと他の人を押し退けてスプーンで食べ物をすくうが
柄が長過ぎて自分の口に入れる事は出来ず、誰もが常に空腹である。


私達の主イエスも、持っている者は持っていない者に分け与えよと言われた。
救援の行き届かない被災地で一個のおにぎりを数人で分け合う人々と
被災もしていない地域の店で一個の商品を数人で奪い合う人々。
図式的に当てはまり過ぎではないか。
何とも分かり易い極楽と地獄の対比である。


紹介したブログの中には被災者の方々の過酷な現実が克明に描かれてある。
何の罪もない人々が犠牲になった現実に、「神も仏も無い」と誰もが嘆く。
しかし、ブログを書いた看護師はこの記録の中で次のように言う。


「神も仏もいない今、
 優しい気持ちの生きてる人間がたくさんいるよ!!
 とちょっと胸を張れたような気がします」


そうかも知れない。
しかし私は思う。
この過酷な被災者の日常の中に、おまけに冷たい雪まで降ってきた。
しかしイエスが福音書で教えられた事が、被災者の中に悉く実現し、
目撃した看護師の文章にそれが記録されている。
突然こんな災害に襲われて家族と生活の全てを奪われ
神も仏も無いと嘆く人々の中にイエスの教えられた愛が、何故か実現している。
極限の苦しみにある被災者達の避難所生活の日常に
イエスの説かれた福音がその通り実現しているのは何故か。
教会の食事の席でこの災害が原発を建てた人間への天罰だなどと
安穏と昼飯を喰らいながら勝手に断定する前に、
この事が何を意味するか、私達信仰者は考えなければならない。


家族を失って泣く人と共に泣き、再開して喜ぶ人と共に喜び、
乏しい救援の食料を分け合って食べ、
ライフラインの止まった避難所で互いに身を寄せ合って温め合い、
お互いの苦しみに共感し合い、
電気が再開した事を皆で泣いて喜び、
水が復旧し湯が沸かせるようになって足湯で互いに足を洗い合い、
困っている人のために知恵を出し合い、
不眠不休で能力を持ち寄り、労力を出し合って、
ライフラインの復旧や避難所の環境整備をし、
行方不明者の安否情報を知らせ合い、
眠れない夜に一緒に月の明かりをささやかに喜び合っている、
極限の苦しみの中にあって何もかも失った人間が、
こうして苦楽を分け合って生きている、
神が私達人間にそのように生きるように招いておられる事が、
福音書のイエスの教えそのままに実現している。


この看護師が陸前高田に入った同じ3/16に、
FEBC放送でラジオ説教をされたイエズス会の司祭から
インターネットでノベナという9日間の祈りの呼び掛けがあった。
ミクシイやツイッターなどのSNSで各自が持ち帰り、
そして私自身もブログで読者に祈りの呼びかけをした後、
父と聖書を開く毎に祈った。
9日間はあっという間に過ぎた。
しかし祈りはこれからも続ける。


避難所にいる人々や福島の人々の今置かれた現状を知る限り、
祈らずにはいられない。
海外から見ると考えられないくらいの物凄い速さで
日本は復興の道を進んでいるかも知れない。
しかし被災された方々にとっては毎日が
地獄のように長い苦しみの日々に違いない。


(祈り)


 主が被災の苦しみを担って下さる事を確信し、
 兄弟姉妹の心に合わせて祈ります。
 今もまだ誰からも発見されず瓦礫の下で助けを求め待っている人々、
 救援の届かない避難所で辛い生活をする人々、
 家族の消息を求めて瓦礫の中を、遺体安置所を、徒歩で探し歩く人々、
 不眠不休で救援活動に従事し続ける人々、
 原発事故の被害を食い止めるために体を張って闘う人々、
 風評被害で生活の糧を絶たれた人々、
 被災地の家族の安否情報の届かない離れた所で心を引き裂かれる人々、
 被災に遭われたお一人お一人の苦しみを癒して下さい。
 
 この大災害で生命を奪われた、
 数知れないほど大勢の犠牲者お一人お一人の魂を
 御手に抱き取って、天国にお迎え下さい。
 永遠の安息に犠牲者のお一人お一人をお迎え下さい。
 
 原発事故の被害がこれ以上拡大しませんように。
 周辺地域の人々の健康が守られ、
 地域が生活の場として甦りますように。

 主なる神、憐れんで下さい。


 被災したあらゆる教会のためにも祈ります。
 この試練が決して失望に終わりませんように。
 主が共にいらして被災された教会の牧師、司祭、教会員一人一人の信仰を強め、
 導いて下さいますように。
 地震と津波と火災のために傷付いた教会が希望を失わず、
 被災地で再び宣教の働きに用いられますように。
 放射能のために住み慣れた土地を出て行き場の無い教会が
 この試練を乗り越える事が出来、
 数え切れないほど多くの収穫を主なる神から受けますように。
 私達の不滅の希望、イエス・キリストの御名によって、
 確信をもって祈ります。
 アーメン。

一日一章(マタイ5;17~20)

2011-03-21 23:26:46 | マタイ
律法について。


この箇所を読む前に、
旧約をまだ読んだ事の無いじじに十戒を説明する。
信仰が厳格な律法主義に脱線して貧しい人々をがんじからめに縛り、
神の憐れみと慈しみが見失われていた時代背景を知るには
当時の宗教的指導者や有識者達が頑なにこだわった律法の
その根本である十戒に触れる必要あり。


十戒。


あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。


あなたはいかなる像も造ってはならない。


あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。


安息日を心に留め、これを聖別せよ。


あなたの父母を敬え。


殺してはならない。


姦淫してはならない。


盗んではならない。


隣人に対して偽証してはならない。


隣人の家を欲してはならない。
                         (出エジプト20;1~17)



出エジプトを読めば理解出来る。
エジプトで奴隷として虐待されていたイスラエルの民を
主なる神が助け出しカナンの地に導く道の過程では
荒野で生き延るために共同体の秩序、規律、公衆衛生が
どうしても必要だった。


公衆衛生や医療の発達した現代に生きる私達には理解し易い。
もし十戒が無かったら、
イスラエル人は荒野の果てであえなく全滅したに違いない。
感染症によって、或いは内紛で無秩序に血を流し合って。


十戒は荒野で一つの民族が生き延びるための
神からの慈愛に満ちた贈り物と思われる。
しかし長い歴史のうちに宗教的指導者達は律法を
神の愛から厳しい戒律という鎖に変質させてしまっていた。
弱い貧しい人々が本来神の愛によって与えられた筈の律法で縛られ
救いも希望も見出せずにいた時代にイエスは来られ、神の愛を説いた。


しかし、
イエスの教えを聞いた人々が短絡的に都合良く
「そーか、んじゃあもう
 煙たい戒律なんか無視して自由に生きていいんだぁー」
と、反律法主義的に拡大解釈するかも知れない。
しかしイエスはそれを戒め、
ご自分が律法と預言を成就するために来たと宣言する。
律法学者達が律法を大事に大事にする以上に大事にせよと。
律法と預言は神の愛によって賜ったものであり
ないがしろにして良いものではないと。


人間が物事を自分に都合良く捻じ曲げて解釈する危険を指摘し、
イエスは人々を諭された。


じじは十戒にも感心していた。

主日礼拝

2011-03-20 22:45:14 | マタイ
招詞。
詩篇66;1~4。


全地よ、神に向かって喜びの声をあげよ。
                  (詩篇66;1)


四旬節第2主日である。
未曾有の大災害の日から9日。


私達を罪と死より救うために主は死なれた。
十字架の主こそ永久の命。
            (301番『賛美歌21』)


聖書はマタイ27;45~46。


  わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか


十字架上のイエスの七つの言葉の中の四つ目の、謎の言葉。
神に見捨てられた罪人の、絶望の叫び。


私達にとって
イエス・キリストが関わって下さらなかった悲しみ、苦しみは
この世に無い。
人間がこの地上で受けるありとあらゆる全ての艱難を
イエスは共に担って十字架に架かられた。
罪人である私達と連帯し苦しみを共に担う祈り。(詩篇22;2)



主が被災の苦しみを担って下さる事を確信する。
まだ救援の届かない避難所で辛い生活をする人々、
家族の消息を求めて瓦礫の中を、遺体安置所を、徒歩で探し歩く人々、
不眠不休で救援活動に従事し続ける人々、
原発事故の被害を食い止めるために体を張って闘う人々、
風評被害で生活の糧を絶たれた人々、
被災地の家族の安否情報の届かない離れた所で心を引き裂かれる人々。


兄弟姉妹の心に合わせて祈ります。
被災者の方々お一人お一人の苦しみを癒して下さい。
主なる神。
どうか、一刻も早く。

一日一章(マタイ5;13~16)

2011-03-18 23:00:23 | マタイ
金曜日。
もう一週間経ったのか。
今回の災害から地球の自転速度が加速したというのは本当だろうか。
一日24時間、一週間7日があっという間に飛んで行く。


山上の垂訓の“幸いな人”が終わって
今日は地の塩、世の光に進んだ。



地の塩、世の光。
8つの幸いという救いの過程を行ったり来たり繰り返しながら
私達はだんだんと地の塩になり、世の光となっていく。
混沌とした世の中にあって
人間の価値観に左右されず
神が私達に望んでおられる事に照準を合わせる生き方。
土の中の塩となり、人々の道を照らす光となる生き方。


じじはこの箇所を読んでほほぅと感心していた。


私は帰宅して、
以前ネットで聴いた説教の「地の塩、世の光」をもう一度探した。


あった。
http://hanafusa-fukuin.net/article/112597973.html

一日一章(マタイ5;1~12おさらい)

2011-03-17 22:58:23 | マタイ
今日は勤務の後で会議だった。
すっかり遅くなってしまったが、じじ宅に行くと
じじは起きていて、聖書は読むと言う。


まず主の祈り。


そして、
被災者と救援のために働いている人々、
原発事故の被害を拡大しないために働いている人々のために。


祈。


今、祈りを捧げておられる皆様と共に心を合わせて。


被災者への支援が十分に行き渡りますように。
亡くなられた方々が永遠の安息に迎え入れられますように。
原発の事故の被害が最小限に抑えられ、無事に収束しますように。
そして、
まだ見つかっていない場所で助けを求めている方々が
一刻も早く救出されますように。
被災者が望みを失う事無くこれからの生活に希望を持って
日々生きていかれますように。


私達の主イエス・キリストの御名によって
アーメン。



心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
悲しむ人は、幸いである、
  その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである、
  その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は幸いである、
  その人達は憐れみを受ける。
心の清い人々は幸いである、
  その人達は神を見る。
平和を実現する人は、幸いである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。
大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、
同じように迫害されたのである。
               (マタイ5;1~12)


幸いな、とは
自分が幸せな気分でいる事ではないし、
人の目に幸せそうな事でもない、
主なる神が「よし」と励まして下さる生き方。
人間の価値基準ではなく
神がよしとして下さるかどうかが全てであるという事。

一日一章(マタイ5;10~12)

2011-03-16 23:56:34 | マタイ
教会の関係者で消息不明の人達はまだ安否が分からない。


金曜日の大災害からずっと、祈る度に思い出され反芻している、
故・辻宣道牧師の古い説教集の中の言葉。
引用箇所ヨハネ黙示録2;10。


私達は無力であっても、どんな状況のただ中にあっても
決して絶望してはならないと。


5日目で、生きて救出された人もいる。
きっと何処かで生きている。
だから絶望してはならないと思う。


じじ宅に来てテレビ見たら被災地に雪が降っている。酷。


暖房の効いたじじの部屋でぬくぬくと過ごす後ろめたさを感じながら
今夜も聖書を開く。




義のために迫害される人々は幸いである、
  天の国はその人たちのものである。


わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。
大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、
同じように迫害されたのである。
               (マタイ5;10~12)


神の愛を実践し、
この地上で神の御旨を実現しようとする人は迫害される。
良い事をしたからと言って人に褒められる事よりも
神がどうご覧になっておられるかが大切であり、
人の目ではなく神の目に心を留めるべきであるという事。


私達の主イエスがそうだった。
イエスの弟子達も、旧約の預言者達も、
近年の私達の信仰の先輩達も、皆周りからは理解されず迫害された。
私達もイエス・キリストに倣って
神の愛をこの地上に実現しようとする時、迫害される。
でもそれを喜べと。
主は私達の苦しみを共に担って下さり、
私達は主イエスと苦難を共にする恵みに与っている。


主イエス・キリスト。
私達の希望。

一日一章(マタイ5;9)

2011-03-15 23:55:06 | マタイ
テレビの電源を切った。
主の祈りを唱え、今夜も聖書を開いた。


(じじが今日参加する筈だった教会の婦人会の聖書勉強会は休み。
参加者が入院する人と検査する人といて、中止になった。)


平和を実現する人は、幸いである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。
                (マタイ5;9)


お互いの長所も短所も認め合い、
他者の弱さに寛大になって労わり合い支え合って共存する人々、
つまり神の御旨をこの地上で実現する人達を、
神は我が子と読んで下さる。
全知全能の創造主であられる私達の神は
私達人間をそのように生きる者としてこの地上に生み出して下さり
助け合って生きる生き方を私達に望んでおられる。


ああ
私達は今まさに目で見ているではないか。
大災害に全てのものを剥ぎ取られ無一物になって
真冬のように冷え込んだ避難所でお互いに身を寄せ合い
全員には行き渡らない乏しい食料のおにぎりやバナナの一つを
数人で分け合って励まし合って救援を待っている人々を。


海外にいる人達がネットで言っている。
これがもし他の国だったら
避難所で強奪や暴動が起こるのに、日本は不思議だと。


不思議ではないよ。


激震に家屋も街も破壊し尽くされ、
大津波に親兄弟子供親戚友人知人を飲み込まれ、
着の身着のまま水も暖房も食料も何も無い中で、
生活の全てをこれほど何もかも奪い尽くされて、
避難所の僅かな食料を強奪して自分一人生き延びたとしても
もう我が家も持ち物も家族も職場も住み慣れた街も、何もかも無い、
誰かを押し退けて自分一人が生き延びても
その先にあるのは孤独と絶望だけだという現実を
あの被災地で救援を待つ人は今味わっているのだと思う。
皆で一緒に生き延びるのでなくては、自分だけ助かっても意味が無い。
だから強奪も暴動も起こらない。
一つのおにぎりを皆で分け合うのは
単に行儀が良いとか規律正しいのではなくて
絶望と紙一重の闘いを被災者の方々が今心の中でしているからだと思う。


主なる神、助けて下さい。
一刻も早く救援が行き届きますように。
被災者一人一人の苦しみを顧みて下さい。
彼らを失望させないで下さい。


今祈りを捧げている兄弟姉妹一人一人の祈りに心を合わせます。
アーメン。

一日一章(マタイ5;8)

2011-03-13 23:50:30 | マタイ
久しぶりにじじと聖書を開く。
まず先に主の祈りを唱えてから始めるが、途中で言葉が詰まる。


元々は認知症の入り口にあって不穏で落ち着かないじじの
精神的な安定を目論んで始めた聖書朗読だった。


聖書の箇所はたまたま山上の垂訓の「幸いな人」である。
主の祈りも、山上の垂訓も、今これほどまでに心に沁みた事は無い。


あの3月11日金曜日、
激震と大津波と大火災に遭って肉親とはぐれ、
着の身着のまま氷点下の避難所で身を寄せ合い、
救援の毛布とおにぎりを待つ人々を目にしてから、
主の祈りと山上の垂訓を冷静に読めなくなった。


炊き出しのおにぎりを配るが人数分に足りず、
一個を数人で分け合って食べる避難所もあるとテレビで見て聞いてから、
主の祈りが苦しい。


「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」という文言に
苦しくなって涙が出る。


山上の垂訓の場面でイエスに付いて来て話に聞き入る群衆は
その日食べる物すら無い、無力な貧しい人々だった。
神を頼りに、神にすがるしか生き延びる術の無い、
心身も社会的にも弱い人々。
今夜食べる物が無い、どうしよう…
僅かに残っていた食料が尽きてしまった。
子供達に食べさせる物が何も無い。
神様、わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。


避難所に救援物資が行き届かない。
おにぎりが全員に行き渡らない、暖房が無い、
赤ん坊がいるのに粉ミルクの残りが底を突いてしまった。
神様、被災者の一人一人に必要な糧を今日与えて下さい。
今日。
どうかお願いします。
お願いします。


長年住み慣れた街で、自分の住まいで、暖かい部屋で
いつものように食事を摂り、珈琲を飲む、
そんないつもと同じ日常の営みに罪悪感と後ろめたさを感じ、
祈りの言葉に詰まる。




本日の聖書箇所。


心の清い人々は幸いである、
  その人達は神を見る。
            (マタイ5;8)

罪深い人間の
穢れた心を清める事が出来るのは神の愛だけである。
神の愛だけが私達の心を清めて下さる。


自分の貧しさ、無力さに気づき、
自分の罪の深さに心を砕かれて神の前で泣き、
惨めな自分自身のありのままを受け入れる事が出来るようになり、
他者の弱さや痛みをも受け入れる事が出来るようになって、
自分が神に愛されている事に気づく。
神に愛されている事に気づいたら他者と分かち合う事を望んで
他者の弱さや痛みを思いやる事が出来るようになる。
人の心は神の愛を受けて血が通い、清められていく。


神の愛を受けて心を清められた者は神を見るとイエスは言われた。
神を見るとは、神の御前に立って神と会う事だ。


どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心を持つ人。
                 (詩篇24;3~4)


イエスに付いて来て話に聞き入る貧しい人々は
それとは知らずに山に上り、イエス・キリストの御前に立っている。




主なる神、憐れんで下さい。

一日一章(マタイ5;7)

2011-03-07 20:44:50 | マタイ
今日じじは13:00頃に一瞬眩暈がしたとヘルパーさんに言ったらしい。
症状は一瞬で、血圧もそんなに高くない。
様子見る事にした。


山上の垂訓も半分まで進んだ。


憐れみ深い人々は幸いである、
  その人達は憐れみを受ける。
              (マタイ5;7)


現実の日常に神の御旨を求め、
この地上に神の御旨が実現する事を願うようになると、
人は他者の苦しみに共感して憐れみ、思いやるようになる。


憐れみこそ、神が望まれる献げものであるという事。


医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とは
どういう意味か、行って学びなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
                            (マタイ9;12~13)


イエスに難癖をつけたのは律法学者やファリサイ人達、
いわゆる旧約聖書に精通している自負のある専門家だった。
律法主義に凝り固まった学識者達は
病人を癒し社会的に差別される人々と食卓を共にするイエスに対して
学識者達は何かと神学的なケチをつけ、
極貧の病人や罪人の苦しみを顧みる事はしない。
その学識者である彼らにイエスは「勉強して来い」と面と向かって言った。
自尊心を傷つけられた彼らの反感は相当なものだったと思う。


じじは、ほほう・・と感心している。
私も思う。
旧約聖書には至る所に主なる神の慈しみと憐れみが語られているのに
専門家である彼らはどうしてその部分を素通りしていたのだろう。


わたしが喜ぶのは
  愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
  焼き尽くす献げ物ではない。
                     (ホセア5;6)


神が喜ばれる献げもの。
イエスが教えられた神の慈愛、憐れみ。


はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。
                (マタイ25;40)

一日一章(マタイ5;6)

2011-03-06 22:13:30 | マタイ
私は今日も腰痛で教会に行かず、一日臥床していた。
夕方からやっと起き上がってじじ宅に行った。


本日の箇所。


義に飢え渇く人々は幸いである、
  その人たちは満たされる。
             (マタイ5;6)


義。
神の御旨。
イエスはまずそれを求めよと言われた。


何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
                    (マタイ6;33)


自分が神にすがるしか生きる事の出来ない弱い者であり、
罪深い者である事を悟り、他者の弱さを思いやる事が出来るようになると
現実の日常に神の御旨を求めたくなる。
この地上に神の御旨が実現する事を願うようになる。


御国が来ますように。
御心が行われますように。
  天におけるように地の上にも。
               (マタイ6;10)


では、神の御旨の実現のために
自分に何をせよと神が望んでおられるのか、
どのように生きる道を神が自分に期待しておられるのか、
神が自分に期待しておられる生き方を模索したくなる。
今自分が置かれているこの現実の中で、自分はどう生きればいいのか。
何が本当の神の御旨なのか。
神の御旨を渇望する、生きるために。
その渇望に神は応え、満たして下さる。
だから義を求めよと。


私達はいつも道に迷って、神の御旨に適う生き方を探している。


イエス・キリストを救い主であると信仰告白し洗礼を受けた時から、
私達は御旨に適う生き方を模索している。
私に洗礼を授けて下さった牧師先生は私に言った。


「私達はキリスト者として完成されて受洗したのではありません。
 私達は一生涯かけて、キリスト者になっていくのです。」


一生涯かけて、キリスト者になる。
一生涯かけて、神の御旨に適う道を模索する生き方をしていく。
じじも、私も、この地上での残りの生涯をかけて、キリスト者になる。

一日一章(マタイ5;5)

2011-03-05 22:21:34 | マタイ
昼間、浜を歩いて寒かった。
夕方になってもっと冷え込んできたので、珈琲を淹れた。


まず、昨日の私の宿題から。


悲しむ人は、幸いである、
  その人たちは慰められる。(マタイ5;4)


自分の罪深さに気づき、神の御前で泣き悲しむ人は幸い。
神が慰めて下さるとイエスは教えている。
この箇所に通じる詩篇の箇所を三ヶ所見つけてきた。


なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう。
「御顔こそ、わたしの救い」と。
              (詩篇42;6)


もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。
               (詩篇51;18~19)


主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
            (詩篇34;19)


イエスの時代、極貧の群集達はローマ帝国の支配下で税を搾り取られ、
宗教的指導者達から律法でかんじがらめに縛られた上に
献金と献げ物を巻き上げられ、どん底の苦しい生活をしていた。
信仰は苦しむ人の救いや慰めにはなり得ずむしろ呪縛となって
主なる神の慈しみと憐れみの教えを形骸化させ歪められていた。
詩篇には神の憐れみ深さがはっきり書かれているのに
当時の宗教的指導者達は素通りしていたのだろうか。


イエスは自分の罪深さ、惨めさに気づいて悔いる人の心に
神が寄り添って下さる事を人々に説いている。


自分が罪深い人間であると知って神に祈り嘆く時、
神が自分のすぐ傍にいらして憐れみ、慰めて下さる。




本日の箇所に進む。


柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
              (マタイ5;5)


自分の罪深さ、惨めさを知り、
本当の自分の姿、現実の自分の人間的な弱さを自覚した人は
人の弱さに共感し思いやる事が出来る。
柔和になるという事は、
自分が罪深い弱い者であると悟り、人の弱さを受け入れる事。
地を受け継ぐとは、
お互いの弱さを思いやり助け合う生き方をこの地上で実現する事。


実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
                   (ルカ17;21)


主の祈りの中にもある。


御国が来ますように。
御心が行われますように。
  天におけるように地の上にも。
               (マタイ6;10)


私は今、じじと自分がいる教会でそれを痛感している。
詳しくはここには書かないけど。


そう感じている事を、じじとしばらく話した。
その事で主なる神に言い尽くせない感謝で一杯である事を。

一日一章(マタイ5;4)

2011-03-04 22:57:38 | マタイ
3日休んで今日マタイを再開した。
前回のおさらいから始める。


心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。(マタイ5;3)


FEBCで英司祭が放送の中で引用し解説していた“貧しい人”の定義は、
今夜食べる物が無くて心配をしなければならない人。


給料が安いとか、家計のやりくりが大変だとか、
貯蓄が少ないとか、消費税が上ると苦しいなどという、
現代の一般的な日本人の価値観とは次元の違う貧しさ。
おそらく今に置き換えるなら路上生活者の困窮である。
金が無くて食べる物を買えない、食べ物をくれる人脈も持っていない、
神にすがるしか生き延びる術が全く無い貧しさ。


新共同訳では“心の貧しい人は…”と訳しているが
フランシスコ会訳では“自分の貧しさを知る人は…”と訳されている。
この方が理解し易いかも知れない。


自分の貧しさを知り、
神にすがるしか生きる事が出来ない無力さを実感する人は
幸いだという事。
神だけにしか頼れないから。
神だけを頼りにする人を、神は御国に迎え入れて下さる。


主の祈りにもある。


わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
                    (マタイ6;11)




本日の箇所に進む。



悲しむ人は、幸いである、
  その人たちは慰められる。(マタイ5;4)


自分の罪深さに気づき、神の御前で泣き悲しむ人は幸いだという事。
神が慰めて下さるから。


詩篇の何処かにこの事が書かれているが、
じじの聖書は新品同様で捲っても探し当てられなかった。
私の明日の宿題。

一日一章(マタイ5;1~3)

2011-02-28 22:53:43 | マタイ
19:00過ぎにじじ宅に行くと、
じじはベッドで就寝しようとしていた。
デイケアから戻って疲れたらしい。
どうする?今日は聖書を読むか?休むか?と聞くと
しばし迷ってから結局「読むか。」と言って這い出して来た。


デイケアの疲れというよりも
送迎バスにまる一時間も揺られた疲れだそうだ。
凍結と融解を繰り返す道路事情の悪さと高齢者一人一人を玄関まで
ゆっくり歩行介助しなければならないので
一人バスから降りて家に送り届けるのに10分かかる、
そして自分は7番目だとじじは嘆息する。
「仕方ないさなぁ。」
うん。
仕方ないわそりゃ。


それでも結局聖書は読むのである。
今日読んだのは山上の垂訓の冒頭の一節。
だけ。
あえてこの一節だけ。
一日1.5章から一日一節にした。


心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。(マタイ5;3)


ここでいう「貧しい」の基準は私達の日常とはかけ離れている。
FEBC放送で英司祭も言っていた、
今夜食べるものの心配をしなければならない貧しさ。


金は無く、仕事も無く、頼れる人脈も無く、本当に何も無い貧しさ。
病気をしても薬も医者も望めない。
子供に今夜食べさせる物が無い。
今夜眠る場所も無い。
病気が治らずあちこちの医者や薬に財産を投じ、
全て使い果たしても治らず病苦と極貧の苦悩。
頼れる親族や身寄りも無い。
心の拠り所に出来る地位や経歴、自尊心のネタも無い。
イエスについて行って話を聞く以外に為す術の無い人々。


イエスは今幸せに暮らしている人を相手に説教をしたのではなかった。
ローマ帝国の占領下で税を搾り取られ、
その上ユダヤ人の宗教的指導者達から献金や生贄の動物を毟り取られ
どん底の生活で今夜食べる物が無いほどの貧困に苦しむ人々。
そんな人々をイエスは癒して歩き、彼らを前にしてこの山上の説教をした。


イエスにすがる以外には
どうする事も出来ない程に貧しい、何も持っていない人々。


イエスはそんな彼らを「幸いだ」と言った。
神以外に何にも頼る事が出来ないから。
神は彼らを慈しみ、助けて下さる。


完全に行き詰って、自分の力ではどうする事も出来ない状態。
無力な自分を認めて神にすがる。
救いはそこからしか始まらない。



たった一節であるが、
昨日と同じく約1時間かかって読み、話した。


じじにとって激インパクトだったらしい。
聖書の文字に見入ったまましばらく考え込んでいた。

一日一章(マタイ4;12~25)

2011-02-27 23:18:36 | マタイ
今日私は腰痛で教会に行かなかった。
じじに「今日、教会どうだった?」と聞くと、
「いつもと同じだ」と答え、「子供が一人しか来ていなかった。」と呟く。
わいわい騒ぐ子供達の喧騒をじじは喜ぶ。


夕方から歩けるようになったのでじじ宅に来た。
今日も聖書を開き、昨日の続きを読んだ。


バプテスマのヨハネが投獄された。
当時の権力者達にとって彼はさぞ煙たい存在だったと思われる。


「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
イエスはバプテスマのヨハネの逮捕の後、宣教し始める。→イザヤ8;23


弟子達の招命。


弟子と言っても、
弟子達の方からイエスに弟子入りを願って申し出たのではない。
イエスの方から弟子を一人一人選び、名前を呼んで招いた。
私達が神を選んだのではない。
神が私達をお選びになり、招いて下さった。
決して逆ではない。
それを忘れてはならない。


イエスに選ばれ、招かれた弟子達は
自分の仕事や物、家族、生活の全てをその場に置いて
イエスに従って行った。
自分の生活をその場に置いて、まず主に従う。
それが弟子の道。


イエスは宣教の働きをして、
大勢の病人を癒し、評判になった。


イエスに群がって行った大勢の群衆は、誰も貧しく、
ローマの圧政に苦しみ、税を搾り取られ、
同胞のユダヤ教指導者達や律法学者からは
律法を厳守させられ戒律によってがんじがらめに縛られ、
常に献げ物や献金という名目で毟り取られ、
虐げられる苦しい生活を強いられていた。
病気や怪我をしても金が無くて医者も薬も望めない。
その日食べられるかどうかの生活。
そんな人々をイエスは癒して歩いた。


じじに余談を少し話した。
この福音書を書いたマタイもイエスの弟子12人の一人であり、
イエスの教えを整然とまとめている。
マタイ自身が取税人という同胞から忌み嫌われ蔑まれる職の人であった。
そんなマタイはイエスに選ばれ呼ばれた事で人生が劇的に変えられた。
蔑まれる者が一人の人間として認められ、
生き返ったような歓喜を原動力に
福音書を書き、イエスから頂いた教えを広めた。
弟子マタイのイエスへの思いを思い浮かべてみる。


次回から山上の垂訓。
「幸いな人」からは一日一章ではなく、
一日一節のペースで一つ一つ噛み締めて進もう。
小説のようにさらっと読み飛ばして良い箇所ではない。


じじは今日の箇所を捲り返して感慨に浸っている。


私も勉強しないと。

一日一章(マタイ3;1~4;11)

2011-02-26 21:54:50 | マタイ
今日もマタイを開き、預言書を参照した。


バプテスマのヨハネ→イザヤ40;3~5
バプテスマのヨハネは先駆者であり、キリストが来られる前に道を整える。
彼は時の権力者、宗教的指導者達に対しても臆する事無く辛辣に批判し
悔い改めを呼びかける。
人々は彼を預言者として認め、続々と彼の元に集まっていた。


イエスの受洗→イザヤ42;1
主の霊がイエスに降る。
これも預言者によって既に語られていた。
救い主であり罪を犯さないイエスが
バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのは、
罪人である私達の苦しみ悩みと共感し連帯して下さるため。
神が人の姿をとって私達人間の間に来られ、同じ弱い肉体を持った人間として、
私達と同じ目線まで降りて来て下さった。
罪の無いお方が悔い改めの洗礼を受けられたのは、
罪人である私達のために連帯し、重荷を担って下さるためと考えられる。


荒野40日の三つの試練。


「あなたが神の子なら石をパンに変えてみよ。」
「人はパンだけで生きるものではない。」→申命記8;3


「あなたが神の子なら飛び降りてみよ。
 “神が天使達に命じてあなたを支えさせる”と書いてある。」→詩篇91;11~12
「“あなたの神である主を試してはならない”とも書いてある。」→申命記6;16


「ひれ伏して私を拝むなら繁栄する全ての国々を与えよう。」
「“あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ”と書いてある。」→申命記6;13


イエスが悪魔と問答して論破するのが余程愉快らしく、
じじは一つ一つにニヤリとしたり感嘆したり、ほほぅと感心し反応するので面白い。
 

預言書の引用箇所を一つ一つ開きながら
ゆっくり・・のつもりが
切りの良い所まで読み進んで一日1.5章のペースである。
も少しゆっくりじっくり読みたいが、
じじは小説を読むようにずんずん先に読み進んで行く。