goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

一日一章(マタイ5;5)

2011-03-05 22:21:34 | マタイ
昼間、浜を歩いて寒かった。
夕方になってもっと冷え込んできたので、珈琲を淹れた。


まず、昨日の私の宿題から。


悲しむ人は、幸いである、
  その人たちは慰められる。(マタイ5;4)


自分の罪深さに気づき、神の御前で泣き悲しむ人は幸い。
神が慰めて下さるとイエスは教えている。
この箇所に通じる詩篇の箇所を三ヶ所見つけてきた。


なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう。
「御顔こそ、わたしの救い」と。
              (詩篇42;6)


もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。
               (詩篇51;18~19)


主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
            (詩篇34;19)


イエスの時代、極貧の群集達はローマ帝国の支配下で税を搾り取られ、
宗教的指導者達から律法でかんじがらめに縛られた上に
献金と献げ物を巻き上げられ、どん底の苦しい生活をしていた。
信仰は苦しむ人の救いや慰めにはなり得ずむしろ呪縛となって
主なる神の慈しみと憐れみの教えを形骸化させ歪められていた。
詩篇には神の憐れみ深さがはっきり書かれているのに
当時の宗教的指導者達は素通りしていたのだろうか。


イエスは自分の罪深さ、惨めさに気づいて悔いる人の心に
神が寄り添って下さる事を人々に説いている。


自分が罪深い人間であると知って神に祈り嘆く時、
神が自分のすぐ傍にいらして憐れみ、慰めて下さる。




本日の箇所に進む。


柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
              (マタイ5;5)


自分の罪深さ、惨めさを知り、
本当の自分の姿、現実の自分の人間的な弱さを自覚した人は
人の弱さに共感し思いやる事が出来る。
柔和になるという事は、
自分が罪深い弱い者であると悟り、人の弱さを受け入れる事。
地を受け継ぐとは、
お互いの弱さを思いやり助け合う生き方をこの地上で実現する事。


実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
                   (ルカ17;21)


主の祈りの中にもある。


御国が来ますように。
御心が行われますように。
  天におけるように地の上にも。
               (マタイ6;10)


私は今、じじと自分がいる教会でそれを痛感している。
詳しくはここには書かないけど。


そう感じている事を、じじとしばらく話した。
その事で主なる神に言い尽くせない感謝で一杯である事を。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。