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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

主日礼拝

2011-07-10 10:55:00 | 歴史書
今日は最後の講壇交換で
近隣の同教派の教会の牧師先生が説教奉仕に来ている。




招詞
詩篇135;1~4


賛美歌


全地よ、主に向かい歓喜の声をあげよ。
歓びの歌を主に携え行け。

造られし者は知れ、主こそ神と。
我等は主のもの、主の羊の群れ。

感謝の歌を歌い進め、主の門に。
御名を誉め歌い、主の庭に入れ。

御恵みは深く憐れみは永久に
変わらぬ真実は代々に揺ぎ無い。

讃えよ、主の民、御使いと共に、
恵みに溢れる父、子、聖霊を。
               (148番『賛美歌21』)




聖書の箇所は創世記3;1~24。
主の御言葉に留まろうと題して。


人は自分が罪を犯した事を「魔がさした」と言う。
「魔がさす」とは何か。


 蛇は女に言った。
 「決して死ぬことはない。
  それを食べると、目が開け、
  神のように善悪を知る者となることを
  神はご存知なのだ。」
          (創世記3;4新共同訳)


女は蛇の言葉を聞き、
取るなと神に言われていたその実を取って食べた。
男にもその実を渡し、男も貰って食べた。


その行為がばれた時、各自が言い逃れする。
男は「女が自分にくれたから」と、
女は「蛇が自分をだましたから」と、
それぞれに責任転嫁する。


ここで、
「他人のせいにするんじゃありませんっ!」
と神は言われず二人を追い出してしまわれた。
親が小さい子を叱るのと同じ状況は展開せず、二人は楽園を追放された。
何故か。
二人共、自らの意志で神との約束を破った、
その事実を認めなかったからである。


牧師先生は言う。
「蛇の言った言葉をよく読んで下さい。
 取ってはならない実を取って食べろとか、神の命令に背きなさいとは
 蛇は一言も言っていない。
 魔がさしたとか、悪魔にそそのかされたとか
 私達は自分の罪をそう言い表さないでしょうか。
 女は蛇の言葉に誘惑されました。
 男は女の行為に誘惑されました。
 神の命令に背く事を選択したのは女も男も、
 それぞれ各自が自分自身選んでした事です。
 どんな誘惑があるにせよ、
 私達が罪を犯す時は自分の意志で選択し、決定し、実行します。
 してはならないとわかっていて犯す罪は全てそうです。
 他の誰かのせいではない、蛇でも悪魔のせいでもない。
 本人の意志で選んで行なった罪です。
 神の御旨を知る以上、私達は神に対して責任があります。
 自分が自らの意志でしたと自覚しなければ
 罪を悔い改める事は出来ません。」


罪の悔い改めは、
自分の意志でやったと認める所から始まる。

主日礼拝

2011-05-01 22:09:36 | 歴史書
招詞
詩篇105;1~7


青き空よ造り主の御業を讃えよ
輝く陽よ主なる神の御栄え顕せ
月も星も造り主の御名を誉めよ
            (224番『賛美歌21』)


詩篇交読(詩篇146;1~10)


ハレルヤ。
私の魂よ、主を賛美せよ。
命のある限り、わたしは主を信頼し
長らえる限り
  わたしの神にほめ歌を歌おう。
             (詩篇146;1~2)


聖書箇所は創世記1;26~31


牧師先生は
主なる神の創造の御業、地球環境を主題とした賛美歌を取り上げたとの事。
私達は造り主なる神のお造りになったこの地上に置かれ、
養われ、生かされている。
その私達は今何処に行こうとしているのだろう。
何処に向かって進んでいるのか。




朝から雨が降っており、明け方は冷え込んでいた。
寒くて教会に着くとすぐ中に入ってしまって
毎週このブログに載せる会堂の屋根の十字架と空を撮るのを忘れた。


雨は冷たいが
植物は先週と打って変わって生き生きと伸びてきた。
私達には冷たい雨でも彼らにとっては命をつなぐ恵みの雨。

主日礼拝

2011-02-13 22:26:51 | 歴史書
青き空よ、造り主の御業を讃えよ
輝く日よ、主なる神の御栄を顕わせ
月も星も造り主の御名を誉めよ
              224番(賛美歌21)



聖書は創世記1;1~2;3。


神は私達を愛して下さる。


創造主である神が如何に私達一人一人を
慈しみ養って下さっている事か。
私達が信じようと信じまいと神が私達を愛して下さる事は変わりない。
私達が神の愛に気づくかどうかである。
自分が神に愛され、生かされ、養われている事に気づいたら
素直に神に感謝し、賛美しよう。
私達は神に造られ、神に何もかもを与えられて生きている。


永遠の命とは、神と共に生きる事である。




じじにとって、私にとっても、
今日は神の愛を実感する一日になった。


講壇交換で出かけて行った私達の教会の牧師先生が
今月の月報の裏面に、
「誕生日を祝う」と題しヘンリ・ナウエンの文章を紹介している。


   誕生日は、祝うべきものです。
   誕生日を祝うことは、試験の合格や昇進、勝利を祝うことより、
   もっと大切なことだと思います。
   なぜなら誕生日を祝うことは、
   「あなたがいてくれてありがとう」
   とその人に言うことだからです。
   誕生日を祝うことは、
   いのちそのものを賞賛し、また喜ぶことです。
   誰かの誕生日に、
   「あなたがしたこと、語ったこと、成し遂げたことのゆえに感謝します」
   とは言いません。
   そうではなく、
   「あなたが生まれたことを感謝します。
    そして、私達と一緒にいてくれてありがとう」
   と言うのです。
   誕生日は、今の時を祝います。
   過去に起こったことに不平を言ったり、
   やがて起こるかも知れないことを予想したりしません。
   ある人を担ぎ出して、皆が「君を愛しているよ」と言うようにすることです。
   ・・・・・
   誕生日を祝うことによって、いのちの恵みの素晴らしさを
   改めて思うことが出来ます。
   この精神に則って人々の誕生日を毎日祝うことが本当に必要です。
   感謝と善意を、赦しと優しさを、そして愛情を表して祝うことです。
   そうすることによって、一人一人にこう言うことが出来ます。
   「あなたが生きていることは素晴らしい。
    さあ共に喜び、楽しもう。
    この日は私達が存在し、共に生きるために造られた日なのだから。」と。
   今を生きるためにもっと大切なことは、
   「いま」のこの時であり、「ここにある」ことを心から信じることです。…
                    ヘンリ・ナウエン「いま、ここに生きる」



今月の月報の裏面にナウエンのこの一文を
選んで載せて下さった、私達の教会の牧師先生を通して
私達は主なる神の深い慈しみを感じ取る事が出来る。
私達の教会は寂れた過疎の地方都市の片隅にある、
教会員の人数も多くない小さな教会であるが、私達はいつも
お互いが健在で一つの礼拝堂に集い、お互いがここにいる事を喜んでおり、
お互いの存在に励まされ、勇気付けられている。
同じ唯一人の御方を主と仰ぎ、
同じ聖餐のパンと杯に与り、
お互いにとりなしの祈りを捧げ合い、
同じ聖書箇所を読んで分かち合い、
楽しい事も難しい問題や辛い事も分かち合い、
一つの鍋で作ったカレーを皆で食べ、
苦楽を共にしている今を喜び合っている。


  実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
                      (ルカ17;21)

主日礼拝

2010-09-26 10:41:00 | 歴史書
今日の聖書は箴言31;10~31
今日は教会仲間の礼拝メッセージ。


良妻賢母を褒め称える箇所だ。
先日、同じ教派で近隣に位置する教会同士の婦人会が
合同で集会を開いたらしいひぇぇ。
その時の収穫が大きかったのでそこから話が展開した。




いや、それにしても
いつ読んでもこの箇所は思う。
働き者で慎ましく良妻賢母で家事育児こなして
使用人を使いこなす人事能力にも長けて、
商売も巧みで収入をもたらしてやりくりも上手、
家族を裕福にしてくれる。
こんな女房がいたら亭主働かなくても食うに困らないではないの。
これほど都合のいい女が仮にこの世にいたとして、
この女の亭主は何をするんだろう???

幸せになるために

2010-07-18 22:54:13 | 歴史書
私は今日も教会に行かなかった。
夜になってじじの血圧測定と服薬介助に行った時、
じじが珍しく教会の話を自分から始めた。


「あのな、今日教会でな。
 今日は大したいい話だった。」


「ああ礼拝ね。
 いい話?」


いつもなら、
私から「今日教会どうだった」と聞かなければ
じじは自分から教会の事を話さない。
しかも、礼拝の説教どんな話だったと聞いても、
「いつもとおんなじだ。」とか「キリストの話だった。」くらいで
キリストがどうしたって?などと突っ込んで聞いても
「いろいろだ。」で話が終わる。
しかし今日の説教はじじにいたく感銘を与えたらしい。


「今日の話はいい話だったぞ。
 人は皆誰でも幸せになるために生まれてきたって
 牧師先生がそう言っていた。」


「へぇ。」


「俺はいい話だと思った。」


「そうかい。」


私達は皆幸せになるために生まれてきたのか。
幸せになるために生まれて幸せになるために生きているのか。


じじ、あなたは今、幸せかい?


幸せになるために自分が生まれてきて
幸せになるために生きていると思えば
自分が今幸せかどうかを自分に問わなければならなくなる。
自分が今幸せかどうかなんて考えたら、
自分で自分をよく知っている人ほど絶望してしまうんじゃないかな。
私は自分が幸せかどうかを考えないようにしている。
自分にとって何が幸せかすらもわかっていない。


「しあわせ」という
小さい絵本の一頁めに書いてあった。


  自分がしあわせかどうか
  問わなくともよい
  しかし
  あなたとともにいる人が
  しあわせかどうかは
  問うがよい
              (作者不詳『しあわせ』女子パウロ会)


自分が幸せかどうかなんて、全然重要ではない。
自分が幸せかどうかは考えても
自分と一緒にいる人が幸せかどうかを問わない人は不幸になる。
幸せになりたくて相手にそれを望んでも
幸せではない相手は決して自分を幸せにしてくれない。
それが現実。
そういうものなんだと、私は子供の頃から
じじ、あなたとあなたの妻だった人とを見て
いつも思っていた。
夫婦二人揃って、
自分が幸せかどうかは考える事が出来ても
自分と一緒にいる者が幸せかどうかを考える事は出来なかったね。
不幸な人達だと、私はいつも思ってきた。
今でも思っている。


幸せになるために生まれてきたとか
今自分が幸せかどうかはどうでもいい事だ。


くだらない事だ。





(2010.10.11.10追記)
教会仲間と昨夜電話で長話したついでにこの日の説教の事を聞いた。
私と違ってその人は毎週の礼拝説教をノートに記録している。
2010.7.18の礼拝説教は、
聖書箇所が詩篇84;1~12、
生きる力と生きていく力とについての話だったという。
その説教の中で牧師先生が引用したつかこうへいの言葉で
「人は幸せになるために生まれてきた」というのが
確かにあったそうだ。
じじの言っていた事と教会仲間のノートの記録が一致している。
じじ、凄いわ。
ADLが落ちてきても記憶は全然大丈夫、まだまだイケるじゃん。
めでたし。

主日礼拝

2010-05-23 12:35:00 | 歴史書
ばばにも散らし寿司を差し入れて、雨の中教会に行く。


礼拝に遅刻した。


教会仲間が先月末に生まれたばかりの孫を連れて来ていた。
ヘルパーさんもじじも赤ん坊の顔を覗き込んでいた。


今日の牧師先生の礼拝説教、
聖書は申命記7;6~14、
先日のイスラエル旅行で見た荒れ野の話が出た。


モーセ、エリヤ、そしてイエスが神と対話しながら彷徨い歩いた荒れ野。
何も無い場所。
神の語りかけを最も近しく聞ける場所。


礼拝の後の昼食に出た炊き込みご飯を撮るのを忘れた。。。。orz


先々週、
礼拝の帰りに一緒に食事して午後半日一杯話し込んだ人が
受洗の決意を公表した。
ああやっぱり。
長い話を聞いた時、実は確信していたよ。
この人は近い将来信仰告白し洗礼を受けると。
よかった。
もし今日、本人が自分から言い出さなかったら、
私の方から時間を設けて受洗を勧めようと思っていた。
心身の健康と平安、躓く事無く洗礼式の日を迎えられるように
祈ります。


礼拝は12:00に終わり、
昼食と聖餐式と教会員会とが予定されていたが、
牧師先生夫妻は世の光コンサートだったか何かの実行委員会の
祈り会に14:00から参加しなければならないとかで時間的に無理、
聖餐式を来週に延期し、
午後は教会員会を短時間で切り上げる事になったらしい。


私は疲れていたので教会員会には出席せず帰宅した。


じじは先日の救急搬送された話を牧師先生に聞いて貰っていた。
ご心配おかけしてすみませんでした。


今日は若い方のヘルパーさんが同行して来ていたが
この人に対しては、じじはトイレ介助を拒否しないんだな。
・・・・・と思ってヘルパーさんにそう言ったら、
今朝教会に出かける前に自宅で拒否し、怒鳴ったらしい。
若いヘルパーさんが私との申し合わせの通りに、
「タクシーに乗る前にトイレに行かないなら教会行きは
 中止と言われています。今日は行くのやめましょうか。」
と言った。
それでじじは渋々トイレ誘導に従ったという。
全く手の掛かる事よ。

主日礼拝

2010-02-28 13:55:00 | 歴史書
四旬節なので聖書の交読はイザヤ42;1~9。
主の僕の箇所。


説教はヘブライ12;4~11
苦難を主の訓練として受けよ、の箇所。


じじは説教中に居眠りをしない。
その隣に座っている新顔のヘルパーさんは
昨年のクリスマスにピンチヒッター的に教会同行して
今はそのまま継続して来てくれている。
キリスト教の教会という場所に足を踏み入れたのは
その昨年クリスマスが初めての事だったらしいが
このヘルパーさんは真剣な顔をして牧師先生の話を聞いている。
聞きながら時々小さく頷いていたのが気になった。
勤務だから仕方なく同席している風でもない気がする。


礼拝に、私の札幌時代の母教会の教会員夫妻が
突然来ていて驚いた。
懐かしく、嬉しかった。


じじは朝一で私が電話でヒゲ剃れと言ったので
こざっぱりした顔をしていた。
昼食の納豆炒飯と夕食の鮭炒飯を渡し、
昼食は珈琲店ではなく自宅で食べる事を確認した。


ヘルパーさんが朝、じじ宅に行ってみると
既に朝食などは済ませていたらしいが
前日私が持参して冷蔵庫に入れてあった甘酒の壜を
手に持っており、温めもせずに飲んだという。


じじとヘルパーさんを玄関で見送り、
私は残ってしばらく皆とお茶を飲みながら雑談した。


春だ。
空気が湿っぽく、空は鉛色の雲で重たい。

あなたがたがしらがになっても

2009-06-23 01:42:00 | 歴史書
毎月買っている小冊子が届いた。
今月は巻末に、詩が紹介されている。


原文はポルトガル語で作者不詳だそうだ。



 手紙 〜親愛なる子供たちへ〜     原作詩 不詳

 年老いた私が ある日 
 今までの私と違っていたとしても
 どうかそのままの私のことを理解して欲しい

 私が服の上に食べ物をこぼしても 
 靴ひもを結び忘れても
 あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

 あなたと話す時 
 同じ話を何度も何度も繰り返しても
 その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

 あなたにせがまれて繰り返し読んだ
 絵本のあたたかな結末は
 いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
 悲しい事ではないんだ 
 消え去ってゆくように見える私の心へと
 励ましのまなざしを向けて欲しい

 楽しいひと時に 
 私が思わず下着を漏らしてしまったり
 お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい

 あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 
 様々な理由をつけて
 いやがるあなたとお風呂に入った 
 懐かしい日のことを

 悲しい事ではないんだ 
 旅立ちの前の準備をしている私に
 祝福の祈りを捧げて欲しい

 いずれ歯も弱り 
 飲み込む事さえ出来なくなるかもしれない
 足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったら
 あなたが 
 か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
 よろめく私に 
 どうかあなたの手を握らせて欲しい

 私の姿を見て悲しんだり 
 自分が無力だと思わないで欲しい
 あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事

 だけど
 私を理解して支えてくれる心だけを持っていて欲しい

 きっとそれだけでそれだけで
 私には勇気がわいてくるのです
 あなたの人生の始まりに
 私がしっかりと付き添ったように
 私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい

 あなたが生まれてくれた事で私が受けた多くの喜びと
 あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

 私の子供たちへ
 愛する子供たちへ


       (樋口了一著・角智織訳
        『手紙~親愛なる子供達へ~』角川書店2009.3.4.)




この詩は歌になっていて
ようつべでも聴く事が出来る。







この詩を書いた人はどんな人だったのだろう。
どんな生涯を送り、
どんな人々に見送られて天に凱旋したのだろう。


イザヤ書の一節を思い出した。
誰が書いた詩かわからない
無名の一人の人の書いた詩に応答する
天の恩父の心が表わされている気がする。


 胎内にいる時からになわれており、
 生まれる前から運ばれた者よ。
 あなたがたが年をとっても、
 わたしは同じようにする。
 あなたがたがしらがになっても、私は背負う。
 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 私は背負って、救い出そう。
            (イザヤ46:3~4 新改訳)


届いた小冊子を手にとってこの詩と出会ったのは
たまたまある人のブログで紹介されていたFEBCの
有名なカトリック司祭の
神の心を親心に喩えた独特な説教を聴いて
いろいろ考えた直後だったのも
何か意味のある事に思えてくる。