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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

主日礼拝

2010-03-14 12:00:00 | ガラテヤ
四旬節も四週目。
早い。
今年は何だか物凄く早い。


教会に出かける前に、
菜の花の辛し和えと
私の作った桜のなんちゃって炊き込み飯を食べて
ウマい、いろいろ季節を感じて幸せだという
ばばからのメールを受け取った。


そうか。
食べ物がウマくて季節の変化を味わう事が出来て、
それがばばにとっての幸せなのだ。
確かにそれはその通りである。


ばばが自分の置かれた境遇に満足し
幸せだと表現したのは離婚以来、いや、もしかしたら
結婚以来初めてかも知れない。
離婚する前に既に、ばばが自分の境遇に嫌気が差していた事を
子供だった私は間近で見て知っている。
この人は結婚して家庭を持っても子供が生まれても
自分の趣味やしたい事をしたいだけしても、やっぱり不幸だった。
そして離婚した後さらに不幸になった。


ばばが幸せだと言葉に出して表現した事、
そのものが祝福だと感じて神に感謝した。


今日はあの新人の大人しいヘルパーさんが
じじに同行していた。


今日の説教、聖書はガラテヤ6;11~18。


  しかし、このわたしには、
  わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、
  誇るものが決してあってはなりません。
  この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対して
  はりつけにされているのです。
                          (ガラテヤ6;14)


賛美歌の時、ついじじとヘルパーさんの方を見る癖がついた。
ちゃんと賛美歌の頁を開く事が出来たか、
何処を開けばいいかわからず困っていないか、
つい気になって振り返る。
見るとじじは悠然と賛美歌を開き、歌詞に見入っていた。
私は少なからず驚いた。
ヘルパーさんが賛美歌を歌っていた。
あくまで介護業務なので礼拝の最中は仕事と割り切って
ただじじの隣にじっと座っててくれるだけで充分なのに
ヘルパーさんは賛美歌を歌っていた。


前にもこのヘルパーさんは
礼拝説教を真剣に、食い入るように聞いていた。
キリスト教の教会という場所には
昨年のクリスマスに
じじの同行で初めて足を踏み入れたと言っていたが
説教を聞く視線も、賛美歌を歌っている時も、
並々ならぬ関心を注いでいるのがわかる。
じじの介護業務だけでなく、
この人自身が神を礼拝し、賛美している。
それも真剣な表情で。