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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

一日一章(マタイ4;12~25)

2011-02-27 23:18:36 | マタイ
今日私は腰痛で教会に行かなかった。
じじに「今日、教会どうだった?」と聞くと、
「いつもと同じだ」と答え、「子供が一人しか来ていなかった。」と呟く。
わいわい騒ぐ子供達の喧騒をじじは喜ぶ。


夕方から歩けるようになったのでじじ宅に来た。
今日も聖書を開き、昨日の続きを読んだ。


バプテスマのヨハネが投獄された。
当時の権力者達にとって彼はさぞ煙たい存在だったと思われる。


「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
イエスはバプテスマのヨハネの逮捕の後、宣教し始める。→イザヤ8;23


弟子達の招命。


弟子と言っても、
弟子達の方からイエスに弟子入りを願って申し出たのではない。
イエスの方から弟子を一人一人選び、名前を呼んで招いた。
私達が神を選んだのではない。
神が私達をお選びになり、招いて下さった。
決して逆ではない。
それを忘れてはならない。


イエスに選ばれ、招かれた弟子達は
自分の仕事や物、家族、生活の全てをその場に置いて
イエスに従って行った。
自分の生活をその場に置いて、まず主に従う。
それが弟子の道。


イエスは宣教の働きをして、
大勢の病人を癒し、評判になった。


イエスに群がって行った大勢の群衆は、誰も貧しく、
ローマの圧政に苦しみ、税を搾り取られ、
同胞のユダヤ教指導者達や律法学者からは
律法を厳守させられ戒律によってがんじがらめに縛られ、
常に献げ物や献金という名目で毟り取られ、
虐げられる苦しい生活を強いられていた。
病気や怪我をしても金が無くて医者も薬も望めない。
その日食べられるかどうかの生活。
そんな人々をイエスは癒して歩いた。


じじに余談を少し話した。
この福音書を書いたマタイもイエスの弟子12人の一人であり、
イエスの教えを整然とまとめている。
マタイ自身が取税人という同胞から忌み嫌われ蔑まれる職の人であった。
そんなマタイはイエスに選ばれ呼ばれた事で人生が劇的に変えられた。
蔑まれる者が一人の人間として認められ、
生き返ったような歓喜を原動力に
福音書を書き、イエスから頂いた教えを広めた。
弟子マタイのイエスへの思いを思い浮かべてみる。


次回から山上の垂訓。
「幸いな人」からは一日一章ではなく、
一日一節のペースで一つ一つ噛み締めて進もう。
小説のようにさらっと読み飛ばして良い箇所ではない。


じじは今日の箇所を捲り返して感慨に浸っている。


私も勉強しないと。

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