皆さんおはようございます。
今日は『放蕩息子の譬え』を皆さんと一緒に味わいたいと思います。
昨年仕事を辞めて次の仕事が決まるまでの間に、
友達が随分心配して祈って下さって、
その頃にヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」という本を使って黙想をした、
とてもよかったからと言ってわざわざ送って貸してくれました。
この本『放蕩息子の帰郷』を使って黙想というのは、
単純に表現すると福音書の譬え話を通して自分を見つめ直す事でした。
福音書でイエスが語られた譬え話の登場人物一人一人に自分の身を置き換えて、
自分の心の在り方を見つめ直す、
そしてイエスがこの自分に譬え話を以て自分に何を語り、
教えようとされているかを探る試みです。
聖書を読む事は、
鶏がエサをついばむようにノートを睨んで受験生のように
カリカリと知識を溜め込んで分析する事とは別の次元の事だと私は思います。
昔読んだ祈りの本の中にサクソニーのルドルフという人の遺した言葉がありました。
「福音書の中で起こったことを、
今ここで起こっているつもりで読みなさい。
主イエス・キリストを通じて語られ、なされたことに、
全身全霊をこめてあずかりなさい。
・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
自分の目で見ているかのように味わいなさい。」
実に、そのような読み方で聖書を読むと、聖書に登場する人々が急に生き生きと親しく感じられて、
身近な隣人に変わります。
ナウエン『放蕩息子の帰郷』を読み始めた時に序章の中の三つの語句に私は注目しました。
著者ナウエンが最も重視する聖書と向き合う姿勢は三つの語句で言い表されています。
“頭よりも心で聴く”
“自分の内にある神の住まい”
“内なる聖所”
この三つに注目し、
意識しながら放蕩息子の譬え話を読み直してみました。
詳しくは、
私が喋るよりもナウエンの本を読んで下さる方が理解し易いと思いますので
是非お勧めします。
メモを取るほどの大層な聖書の勉強の話ではないので、
皆さんにもノートを書くのをやめて
ご一緒に考えて頂きたいと思いますので宜しくお願いします。
今、司会者に福音書の『放蕩息子』の章を朗読して頂きました。
この譬え話は受洗以来数えきれないほど何度も読んできて、
馴染み深い、親しみ易い箇所です。
1.放蕩息子の譬え話を今の時代の身近な出来事に当て嵌めてみます。
普通に読むとこの譬え話は今の時代の親子関係によくある図式ではないでしょうか。
反抗的な弟、真面目な兄、息子に甘い父親。
3人の人間像は実際身近な人々に当てはまる事が幾つもあって、
いずれも身近に見る家族関係としては悲劇的です。
放蕩息子、この弟息子は父親に対して物凄く残酷な仕打ちをしました。
放蕩と言っても単なる自堕落な遊び人ではありません。
中東諸国の伝統的な価値観では、現代でも、
息子が生きている父親に対して「遺産をくれ」と要求する行為は、
父親に面と向かって「早く死んで財産を寄こせ」と言ったと
同じ事になるそうです。
養ってくれた父親に対する最低最悪の侮辱です。
つまりイエスがこの譬え話で語られた弟息子は
父親に対してこう言った事になります。
「お父さんあなたが死ぬまで待てません、
私が相続する分の遺産を今下さい。
遺産を自由に処分する権利も今下さい。」
父親はどんな気持ちがしたでしょうか。
しかし何故か父親はこの弟息子を叩きのめす事をせず
財産を兄弟2人に分けてやりました。
弟息子は家を出て有り金を全て使い果たして路頭に迷い、
後悔して故郷に帰って来ました。
私は友達が貸してくれたナウエンの本を読むまでは、
福音書のこの箇所を読む度に
いつも身近で目撃した二つの光景を思い出します。
一つは、
父親の厳しい怒りを受ける事を思い浮かべながら
弟息子が父親の元に帰って来ました。
何と叱られるだろうか何と言って謝ろうかと言葉を探しながら
身を持ち崩した弟息子が故郷に戻ってみると、
故郷に父親の家はありませんでした。
彼が父親の存在を忘れて放蕩の旅に明け暮れている間に、
父親は死んで世を去り故郷の実家の土地も建物も既に無くなっていました。
父の家は兄が処分して更地になっており、
畑も知らない他人に売却した後でした。
もう一つは、
落ちぶれて訪ねて来た弟息子を年老いた父親は門前払いしました。
父親は後悔していました。
自分が甘やかしたために弟息子が堕落した、
育て方を間違えたと父親は悔やんで、弟
息子が戻って来た時にここでまたも言いなりになっては
本人と自分自身のためにならないと思って意を決し心を鬼にし
初めて息子を叱り付け、追い返しました。
放蕩息子は行く宛てなく立ち去りました。
父親は自分自身に言い聞かせていたかも知れません。
弟息子はまだ若いのだから
一度身を持ち崩しても何とか立ち直ってくれるだろう。
いつか本当に自分のした事を反省して帰って来るだろう。
金や食い物をせびりに来るのではなく、
いつかきっと本当に悔い改めて帰って来るだろう。
半月も経った頃、街外れで行き倒れた人が見つかって、
人々が顔を背けながら父親を呼びに来ました。
運ばれて来たのは変わり果てた息子でした。
年老いた父親は杖に寄りかかり、うなだれていつまでも見ていました。
変わり果てた弟息子の顔を。
埋葬をしてやりたくても父親の財産は息子に全部やってしまったので
何も残っていませんでした。
と、この譬え話から身近に起こった出来事を思い浮かべる事があります。
2000年以上前にイエスが語られた譬え話を、
今の時代にの人間に起こる出来事として当て嵌めると、
結末の大半はこのような悲劇になってしまいます。
もし譬え話でなく、
父も弟息子も実際の生身の人間で現実に起こった事であったら、
この話の結末は救い難い悲劇になる筈です。
現実の父親達はどの父親も父なる神ではなくただの平凡な人間の父親ですから、
悔やんだ放蕩息子が帰って来るまで年老いた父親が生きているとは限りません。
父親が年老いて健在であっても息子が無事に生きて帰って来るとは限りません。
これは私自身の脱線と言えば脱線ですが、
この譬え話の「父」は生身の人間の父親ではなく、
人の親に譬えられた父なる神です。
ナウエンはこの本で『放蕩息子の譬え話』に登場する3人の人間像を
一人一人思い浮かべ、弟、兄、父親に自分自身を当て嵌めて
その心の在り方を考えています。
2.まず、放蕩の弟息子に自分自身を当て嵌めて思い浮かべてみます。
放蕩息子、父の家を出る弟息子の心の思いはどんなものでしょうか。
裕福な家に生まれ育ちながら弟はどうして家を出たかったのでしょうか。
弟息子が父の家を出るに至った経緯を考えると、弟が本当に自堕落な遊び人だったら、
何も父親と絶縁する必要はなかったのではないでしょうか。
むしろ出て行かずいつまでも家にいて父親の脛を齧るニート息子でいてよかった筈。
彼が父の家を出たいと思ったのは、父や兄から頭を押さえ付けられる息苦しさとか、
真面目なお兄ちゃんと仲が悪かったとかいろいろ考えられる部分もあります。
今信仰者としてこの箇所を読むと、
この弟息子の問題は放蕩ではなく、親の金を使い果たした事でもなく、
差し伸べられる父親の手を無視して「失われた子供」となった事だと気づかされます。
失われた子供となった弟は、神の見えない御手で首根っこをつかまれて、
否応なしに故郷に帰る道を辿らされました。
「お父さん、私は天に対しても
またお父さんに対しても罪を犯しました。」(ルカ15;21)
というこの台詞は腹が減っていたから出た言葉でしょうか、
それとも本心でしょうか。
もし父親が金持ちでなく貧乏だったら、
この放蕩息子は父親の元に帰って来るのでしょうか。
弟息子は自分が身を持ち崩し腹が減って父親の元に帰ったとは書いてありますが、
どうでしょう?
この放蕩息子は「何て言って謝ろうか」とは頭でぐるぐる考えても、
自分がどれほど父親を侮辱し傷つけたか、
その自覚があったかどうかまでは書かれていませんし、
イエスはそこまでは私達に語られていません。
弟が父親を傷つけた自分の罪とどこまで向き合ったか、
そこから先は私達一人一人が自分の心の在り方を深く掘り下げて神と向き合い、
この譬え話から悟る事をイエスが期待しておられる気がします。
そしてそんな放蕩息子を、
まだ遠くにいるのに父の方から迎えに行きます。
3.次に、家出しなかった兄息子に自分を当て嵌めて思い浮かべてみます。
家に居残って父に仕えていた兄です。
ナウエン自身は幼い時から両親に期待される優秀な息子であり、
真面目で敬虔なクリスチャンであり優秀な司祭であり、
学識豊かな神学者として成功をおさめ、
息子としてもキリスト教信者としても宗教的指導者としても学者としても
エリートで順風満帆の優等生だった自分自身の半生を振り返っています。
優等生としてのナウエンは、優等生だからこその欠点がありました。
優等生の良い子ちゃんは、
迷う人や道を踏み外した人、落ちこぼれる人の痛みや辛さに
共感する事が出来ないのです。
友達に寄り添って話を聞いたり見守ったり腹を割って付き合う事ができず、
心の弱っている人や友達に対して思いやりをもって接しなかったという意味です。
優等生的な綺麗事の信心深さ敬虔さによって
人から高く評価されている自分というプライドというものがあったために、
自分では自覚しないままに人を傷つけたり裁いたりして友達からは煙たがられ、
嫌われ、敬遠されて人間関係がうまくいかず孤独に陥り、絶望に陥ったそうです。
そんなナウエンにある友人が指摘しました。
「あなたは赦された放蕩息子ではなくむしろ兄息子の方ではないか」
と、そのように指摘されて
ナウエンは心理的な打撃を受けたとこの本の中で述べています。
私達はどうでしょう。
自分はこの譬え話の中の弟か、兄か、どちらだと思いますか?
兄は帰って来た弟のために豪華な宴会を開く父親に対して腹を立てています。
私は兄の怒りに共感できます。
むしろ兄の怒りの感情はわかり易くありませんか?
この兄が弟を可愛がるどころか嫌っていた事も伝わってきます。
失踪し、死んだと思われていた弟が生きて帰って来ても全然喜んでいない。
弟が生きて帰って来てもこのお兄ちゃんは嬉しくないのでしょうか。
もしほんの僅かでも兄弟愛があるなら
父親と同じかそれ以上に喜ぶ筈だと思いませんか?
この兄は、落ちぶれた惨めな姿で戻った放蕩息子を「弟」とは呼ばず
父親に向かって「あなたのあの息子」と呼び、
言葉に出してこう言っています。
「俺は父さんの傍で長年仕えてきたのに父さんのあの息子よりも不遇だ。
傍でこんなに働いてきたのに
父さんはあの息子には気前よく大盤振る舞いで大宴会、
俺には子山羊1匹すらくれない、不公平ではないか。
父さんはあの息子ばかりちやほやして
この俺をないがしろにしている。」
この兄はふらふら家出なんかせず父の元に留まって、
道を踏み外す事も無く真面目に父に仕える優等生、
よい子なお兄ちゃんの筈でした。
しかしこの兄の心の在り方を、イエスはここで私達に問われます。
放蕩ではなかった兄の心にあるのは
損得勘定と積もり積もった不満、根深い恨み辛みです。
ナウエンは「あなたは兄の方だ」と言われてショックを受けたと述べていますが、
私自身は自分をこの兄息子に置き換えて考えるのは簡単です。
実際、釧路に戻って来てからの父の在宅介護をしていた15年間、
私の中にはこの兄息子の怒りの感情そのものがありました。
親元にいる子供は親の世話に縛られて時間的にも体力的にも拘束されますから、
親のために自分の生活を奪い取られて報われない、
人生を台無しにされていると感じるのです。
ですから私自身はこの箇所を読むと、
放蕩の弟息子が赦された喜びよりもこの兄息子の怒りの方に共感しますし
兄の方に感情移入し易いのです。
おそらくこんな兄息子の「偽りの従順」を父親は見抜いていたのでしょう。
だからこそ外まで兄を迎えに来て一緒に宴会の席に着くように和解の説得をします。
二人の息子達の父親は、帰って来た放蕩息子だけでなく、
ふてくされて中に入って来ない兄息子をも迎えに来る、
何処までも寛容で慈愛に満ちた父親です。
この点について、
昔、私の母教会の青年会の聖書研究会である高校生の男の子が
「父親が一番悪い、子供に甘すぎる。」
と言った事がありました。
私にとっては懐かしい思い出ですが、
皆さんはどう思われますか?
ただ言える事は、
この放蕩息子の譬え話で注目されるのは「失われた息子」です。
失われた息子とは、家出した弟息子ではなく
父と共に家にいる兄息子の事でした。
私達はイエスの語られた譬え話から、
人の心の在り方を読み取る事を求められています。
父親の招きに応じる子供と応じない子供、
招きに応じないのは失われた子供です。
釧路に来てこの15年間の私自身はこの譬え話の兄息子と同じ、
失われた子供でした。
失われた子供にとって「宴会の食卓」に招かれる事は
嬉しいどころか怒りの火種でしかありません。
宴会の食卓に招かれて食卓の主のすぐ傍にいるにも拘らず
残念な、失われた子供、家出しなかった兄息子は本当に悲劇的です。
兄息子はふてくされたまま家に入らなかったのでしょうか。
それとも思い直して宴会の席に着いたのでしょうか。
最終的に兄息子が宴会の席に着いたか着かなかったか、
その結末が伏せてあるのは、
この譬え話から天の父なる神の意図を悟る事を、
イエスがその場で聞いていた人々と
後の世の私達に期待して語られたからではないでしょうか。
4.生きている時から死んだ者とされる親について考えてみます。
放蕩息子の譬え話の主人公は弟でも兄でもなく
父親であるとナウエンは述べています。
二人の息子の父親の苦しみを思い浮かべると、
この父親は物凄く不幸だと思いませんか?
放蕩の弟もふてくされた兄も、どの息子も父親の心を思いやりません。
気の毒な父親です。
息子が2人いながらどの息子も自分の損得しか考えていない、
慈しんで育てて財産を生前贈与までしたのに
どの子供からも思いやりを受けず労わって貰えない父親です。
弟息子は父親の生きているうちから「早く死んで財産をくれ」と要求し、
失踪した挙句、経済的な援助を求めて戻って来ました。
一緒に暮らしている兄息子は傍で一緒に生活しながら
「弟よりも優遇されない」と思い込み、不平不満と怒りを燻ぶらせなが
上っ面の従順さで父親に仕え、宴の食卓を用意したのに
「子山羊一匹すらくれない」と言って不満をぶつけて来ます。
子供から金づるとしか思われず、
疎まれ見捨てられる親の気持ちはどんなものでしょうか。
人の親でない私には想像すら出来ない事ですが、
高齢者の多い病院や高齢者施設で働くと、
その辛い心情を日常の中で聞かされる事がよくあります。
「一泊でいいから子供達の所に外泊して、一緒に年越ししたかったけど。
今年の年末年始も迎えに来てくれなかった。」
とか、
「子供がいないと寂しいとは聞くけどね、子供がいると返って寂しいものだよ。
子供が大勢いたって小遣いに困った時に孫がたかりに来る以外は誰も来やしない。」
仕事柄そういう話を日常的に聞かされます。
二人の息子の父親はどうして、
何を望んで不従順な息子達を宴会の食卓に招くのでしょうか。
弟も兄も、二人の息子達はどちらも不従順で、不誠実です。
二人の息子にとって父親は「財産の今の持ち主」、金づるでしかありません。
弟も兄も父の財産には注目しますが父親の心を顧みる事をしていない、
父親を既に死んだ者のようにしか見ていません。
そんな父親の心情を思い浮かべると預言者イザヤの言葉が思い出されます。
わたしに問わなかった者たちに、
わたしは尋ねられ、
わたしを探さなかった者たちに、見つけられた。
わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
わたしは反逆の民、
自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、
一日中、わたしの手を差し伸べた。(イザヤ65;1~2)
天の父なる神が手を差し伸べているのに、
神の民は見向きもしないのです。
イエスは天の御父を二人の息子を持つ父親に譬えて話しています。
神なる主、天の御父は宴会の用意をして待っておられると。
宴会の食卓を一緒に囲んで
美味しいものを美味しい美味しいと喜んで分かち合う、
歓びを共有する事を切実に望んで、
宴会の食卓に私達を招き手を差し伸べておられると。
預言者イザヤを通して
ここでは父なる神が御手をこちらに差し伸べている事が示されています。
しかし私自身は自分の心に抱える日常の不平不満しか心になくて、
すぐくたびれて希望を捨て、期待する事を諦め、辛い事にしか目が行きません。
ふてくされた兄息子のように宴の招きに背を向けるとは
実際このような事ではないでしょうか。
宴会の席を整えて招いて下さるお方はどんな気持ちがするでしょうか。
私達は放蕩息子の譬え話から、
せっかくお祝いの御馳走を用意したのに子供からそっぽを向かれて傷ついた父親の、
深い悲しみに注目しなければなりません。
5.大宴会を辞退する行為の重大さを思い浮かべてみます。
譬え話に登場する『宴会』とは何でしょうか。
招かれた宴会の食卓に着く事を拒む事にはどんな意味があるかを考えさせられます。
招かれた宴会の食卓に着かない事の意味を私達は考えなければなりません。
失われていた弟息子は生きて帰り父と共に食卓に着きました。
親に反抗せず暴言も吐かなかった兄息子はふてくされて家の中に入って来ません。
兄息子が思い直して父親の用意した食卓に着いたかどうかは私達読者にはわかりませんが、
放蕩息子の譬え話の前の章、『大宴会』(ルカ14;15~24)の譬えの箇所で
イエスが話をこのように結んでいる事をナウエンは指摘しています。
「あの招かれた人たちの中で、
わたしの食事を味わう者は一人もいない。」(ルカ14;24)
『放蕩息子』の譬え話で父が招く宴を拒絶する事の意味を考えると、
父の宴会の招きに背中を向けて拒絶する事は、
反抗し後足で砂を蹴散らして立ち去る事よりももっと重く絶望的でと気づかされます。
「失われた息子」は反発し金をせびって親と家を捨てた弟息子ではなく、
心の内に不満を隠し偽りの従順さを以て仕えてきた兄息子の方だとお話ししましたが、
ナウエンはイエスの受難の時のペトロとイスカリオテのユダとを対比して述べています。
ペトロもユダも土壇場でイエスを裏切ったのは同じでした。
ペトロは悔やみながらイエスと和解しました。
ユダは神も自分の命も全てを放棄して自殺しました。
この『放蕩息子の帰郷』の譬え話を自分自身に当て嵌めて読み直すと気づかされます。
私自身も、弟息子であると同時に、兄息子でもあるという現実です。
自分の心の在り方を見直さなければなりません。
つまりこの譬え話から私は「失われた自分」を見直す事を
考えさせられ、教わりました。
これまで何度となく福音書の『放蕩息子』の譬え話を読んでいながら、
今まで私は二人の息子の父には注目せずさらりと素通りしてきました。
この度友達が貸してくれたナウエンの本を読んだ事で、
差し伸べた祝福と慈愛の腕を払い除けられる父親の悲しみ、
子供から忘れられ死んだものとされる親の苦悩に気づき考えさせられました。
自分は天の父なる神様に対してそのような仕打ちをして来なかっただろうかと。
自覚がなかっただけでそのような事を神様に対してしてきたと思います。
これまで気づかなかったのは聖書の字面だけ読んでも実は読み取っていなかった、
イエスの語られる事柄を自分の事として受け止めようとする心が欠けていたからです。
6.宴会への招きを思い浮かべて見る角度を変えてみます。
「天の御父が招いて下さる大宴会」とは何でしょうか。
この譬え話で父が招く宴会とは、実に私達お互いの「喜びの共有」です。
ふてくされた兄息子は、不満を父親にぶつけました。
父親に対してこれまで口に出せなかった不満な思いを正直にぶつけたのは、
私はこのお兄ちゃんはこれで良かったと思うのです。
心に抱える不満を口に出して完結したのですからふてくされず食卓に着くべきでした。
実際、天の父なる神が用意して私達を招いておられる宴会の食卓とは何でしょうか。
どのようなものでしょうか。
私達は日常で出会った人々の生涯から苦しみの意義を見出す事がありますが、
苦しみの向こうに備えられた祝福の宴を見出す事も可能だと、
この度ナウエンを通して『放蕩息子』の箇所を読み直した事で気づかされました。
ずっと前にこの教会で当番が回って来た時に皆さんにお話ししたかも知れません。
以前話を聞いた方はすみません。
私はここの土地に引っ越して来て近所に住んでいた二人の信仰者と出会いました。
天の父なる神が備えられた宴会の食卓を、
ここで出会ったお二人の生涯から思い浮かべる事が出来ます。
お二人とも近所のカトリック教会の信徒の方でした。
一人は「ペトロさん」、もう一人は「アグネスさん」と、ここではお呼びしましょう。
ペトロさんは腰痛で受けた手術の失敗によって頸から下が動きませんでした。
昭和の時代の大昔ですから、医療過誤の裁判で被害者が勝訴するケースは稀でした。
腰が痛くて当時最新技術と言われた手術を受けて首から下が全く麻痺してしまったために、
仕事も生活も何もかも失っただけでなく、医療従事者達から暴言や侮辱を受け、
人間として扱われない体験をしました。
首から下が動かないと言う事は、体の自由が全く無い、自殺する自由すらありません。
ペトロさんは手術を担当した医師2名と病院を告発し相手取って訴訟を起こしました。
何年もの長い裁判をペトロさんは戦いました。
身体の機能と、仕事と生活の全てと、人生の望みの全てを奪われ、自殺の道さえ断たれて、
例え勝ち目がないと解っていても闘わずにはいられなかった裁判で、
最終的にこの人は勝ちました。
但し首から下を全部麻痺にされた7000万円の賠償請求に対したった300万円の勝利でした。
手術の前に承諾書を書いていたからです。
ペトロさんが自分自身の境遇を語った時の言葉を15年経った今も私は一字一句忘れません。
「井上さん、俺は負けたんだ。
俺は裁判には勝った。
医者の落ち度を暴いて裁判には勝った。
医者連中と病院側に非を認めさせて裁判には勝った。
でも俺は負けた。」
たった300万の賠償金を手にした瞬間、それまで力になったり励ましてくれたり
何かと世話して支えてくれた親戚や友達が皆ハイエナに変わりました。
300万の中から半分は裁判の費用や弁護士に支払って消えました。
残ったお金から医療費を支払うと、親戚や友達が貸した金を返せと言って来ました。
手元に残った金も、あの時あれをしてやったからこれをしてやったからと
親戚や友達がみんな毟り取って、手元には数万円のお金しか残らなかったそうです。
金銭が無くなったらペトロさんの回りには誰も残りませんでした。
身内も友達も、誰一人信用できる人間がいなくなりました。
そういう事情でも賠償金を貰ったからという理由で市から生活保護費を打ち切られました。
「俺が負けたと言うのはさ、裁判には勝ったけど何もかも失った、だから負けたんだ。
俺は負けたんだよ。」
どうして私がこの事情を知ったかというと、初対面で聞かれたのです。
「 ここに来る前は何処の病院で働いていたの?
…それは俺の体をこんなにした奴の病院だよ!」
私はこの人の体をダメにした医者の元で知らずに勤務した事がきっかけで、
今の生活の糧となる資格を働きながら取得する事が出来ました。
一人の医者との出会いで私は生活の糧を得ましたが
同じ医者との出会いによってこの人は人生をずたずたにされました。
首から下を動かなくされ、辛うじて得た賠償金の殆どを親戚や知人達に取り上げられ、
生活保護まで打ち切られたペトロさんに、
見かねて援助の手を差し伸べ力を貸したのはある政治団体の人々でした。
しかし無神論的な政治団体にのめり込むほど、
唯一の神に心の拠り所を求める気持ちが何故か強くなって、
人に頼んであるプロテスタントの教会に連れて行って貰いました。
聖書研究会に参加するようになりましたが、ちょうどその頃湾岸戦争が勃発して、
政治意識の強かったペトロさんは聖書研究会の席で問題提起しました。
キリストの平和を掲げながら逆の事をする者に対して、
教会は何故何の抗議行動もせず黙って見ているのかと。
メノナイト教会なら何の問題も無かったでしょう。
しかし当時小さな教会の聖書研究会に政治論議を持ち込んだために、
ペトロさんは教会の人々から煙たがられて、
やっとキリスト教の教会につながる事が出来たにも拘らず
その教会に居られなくなりました。
口論になって教会を去る時、信者の女性が自分の所属教会を捨ててついて来ました。
奥さんとなった人は私に言いました。
「私が一緒に行かないと自分では動けないこの人が
キリストとつながる道が永久に絶たれてしまうと思った。
人間は教派や教会をなんぼでも作るけど、神様はたった一人だけ。
この人を連れて行ける、キリスト教の他の教会を探そうと思った。」
そしてある日近所のカトリック教会にその人を連れて行きました。
自分達がそれまでいた教会とは趣きの全然違う教会でしたが、
キリスト教なら何でもいいと思ったそうです。
主任司祭の神父様は諸手を挙げて大歓迎、
早速公教要理の勉強の場を設けてくれて、ご復活の日に洗礼を授けました。
この人の辿った道のりから天の父なる神を感じ取る事が出来ます。
父なる神は動けないこの人のために道を用意し、
祝宴の食卓を整えて待っておられました。
神ご自身が御手でこの人を絶望から守り、必要な助け手となる信仰者を興して、
ペトロさんを大切に大切に運ばれた事を、
私は現実の出会いの体験を通して目に見せられた気がします。
医者も病院も生涯許せないでしょうねと私は聞いてみました。
静かに、穏やかな顔で答えたペトロさんの言葉と声を
私は今さっきの事のように思い出します。
「井上さん、俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。
だから辛い事も頂くんだよ。」
これは旧約聖書のヨブ記の引用ではありません。
ご自身の体験から私に語ってくれた、この人自身の言葉です。
字面だけの聖書知識でヨブ記を引用したのとは違います。
『放蕩息子』の箇所で主なる神様が準備し招いて下さった「宴会」とは、
実にこのような事ではないかと気づかされました。
私が出会ったもう一人の人「アグネスさん」も
同じ近所のカトリックの信徒の方で、長崎の浦上出身でした。
ご近所で顔見知りになって、その頃私がたまたま入院して手術を受けたと聞いて
わざわざ病室までお見舞いに来て下さいました。
カトリックの信者さんと知り合うと、私は興味を持って聞きます。
「貴方は成人洗礼を受けたのですか、それとも幼児洗礼でしたか?」
私の無遠慮な質問に対して、
アグネスさんはご自分が洗礼を受けたいきさつを話してくれました。
アグネスさんには母親しか家族がありませんでした。
どんな家庭の事情で母一人子一人になったのか自分でもわからないと言いました。
母親は結核だったためにずっと療養所暮らしで、キリスト教の信者である事は
親類縁者には隠していたそうです。
幼いアグネスさんは親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育ちました。
ある時、母親は療養所を出てアグネスさんを連れて函館から長崎に行こうとしました。
アグネスさんはその時まだ10歳になっていなかったそうです。
「今思うとね、母は死期を悟って
私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」
と私に言いました。
汽車の長旅で母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかりました。
ところがあと少しで長崎に着くと思っていたら突然汽車が動かなくなってしまいました。
どうして汽車が動かないのか何時になれば再び動き出すのか目途が全く立たず、
母親はアグネスさんを連れて汽車を降り、長崎を目指し線路伝いに歩き始めました。
道の途中で、母親は何度か血を吐きました。
力尽きて線路脇に倒れ込みながら、母親はアグネスさんに言ったそうです。
「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
お母さんは結核だから、死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
お母さんはもう一緒に行けないから、あなたは一人で長崎に行きなさい。
長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
いい?
必ず教会を訪ねなさい。
お母さんがここで死んでいる事とあなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
そこで言いなさい。
必ず。」
幼い娘の目の前で母親はやがて息をしなくなり、動かなくなりました。
アグネスさんは、言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出して、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結びました。
その時の心境をあっけらかんと話してくれました。
「お母さんは死んでしまったし、
私にはもう行く所がない、
ああ、これから私はどうしよう、って思ったわ。」
しばらく死んだ母親の遺体の傍でぼーっとしていましたが、
言われた通り歩き出すより他にありませんでした。
アグネスさんは一人で荷物を担いで線路伝いに歩き始めました。
母親に言われた通り、長崎に向かって一人で歩き出した時の
小さな女の子の気持ちは想像もつきません。
そして、その時既に長崎は原爆を落とされていました。
一面瓦礫と焼け焦げた死体の山になった街をアグネスさんは途方に暮れながら
母に言われた通りに、場所も知らない教会を探して歩き続けました。
幼い娘をたった一人この世に残して線路脇で力尽きて死んで行った母親の気持ちと、
母親の亡骸を後にして、一人ぼっちで線路伝いに長崎に向かって歩いた先で、
原爆を落とされて瓦礫と化した長崎を見た時の女の子の恐怖と絶望とを思うと
とても冷静ではいられません。
10歳にならない小さな子供がたった一人で、
焼けた線路を辿って原爆投下直後の焼野原を行き倒れもせずに
長崎市内に入る事が出来ただけでも奇跡としか言いようがありません。
瓦礫の中を彷徨ううちに浦上の教会を知る人と出会って、
辛うじて生き残った司祭の一人と会わせて貰う事が出来ました。
しかし洗礼台帳も何もかも焼けてしまっていて、
この人の幼児洗礼を証明する記録は残っておらず受洗を確認する事はできませんでした。
司祭はアグネスさんに
「あなたのお母さんの仰った事は、私は本当だと信じます。
ただ貴方はまだあまりにも幼いから、
もし万一という事があっても大丈夫であるように」
と言ってこの小さな女の子にその場で洗礼を授けました。
これが私の入院先に見舞いに来てくれたアグネスさんの受洗のいきさつでした。
洗礼名の「アグネス」は「子羊」という意味です。
私達の所属するメノナイト教会は歴史的に再洗礼派の末裔として位置付けられており
あくまで自分の意志で信仰告白をした者にしか洗礼は授けない、
自分の意志でない洗礼は無効であると、幼児洗礼を認めない考え方によって
メノナイトは迫害の歴史を歩んできました。
もっとも私達が実際に迫害を受けた訳でも何でもありませんが。
とにかく今でも私達の教会は幼児洗礼に対して批判的な考え方をする立場にあります。
しかしこの人にとって「幼児洗礼か成人洗礼か」などどうでもいい事です。
私は「幼児洗礼か成人洗礼か」とこの人に尋ねた自分の卑しさを痛感しています。
本当に恥ずかしい、愚劣なくだらない質問をしたと思います。
天の父なる神様がこの人と片時も離れずにいらした事を
私は目の前で示された気がします。
幼かったこの人が行き倒れもせず命を落とす事無く教会で保護されたのは、
神様がこの人を御手の中に大切に守って運ばれたからだと私は確信します。
瓦礫の中で行き倒れずに、生き延びて何十年も経った後に私と出会ったのです。
この出会いによって主は私に何を悟れと言われるのか、
その事を考えさせられます。
アグネスさんは私に言いました。
「毎朝、お祈りをするのよ。
今日一日、
私に出会わせて下さる人、
擦れ違う人、
全員が天国に迎えられますように。」
この人がどんな経歴でどんな道のりを歩いて来たかを知らなければ、
この祈りは如何にも取って付けたような敬虔で信心深い祈りの言葉、
模範的な優等生信者の台詞のように、
出来過ぎて鼻に付く白々しい文言に聞こえるかも知れません。
しかし私は知っています。
この祈りはこの人がまだ10歳にもならない子供だった時に目にした、
惨い光景の只中の祈りです。
線路脇に行き倒れて死んでいった母親や、道の途中の至る所で焼け焦げた人々の
無残な死体の前で「みんな天国に迎えられますように」と祈った幼い子供の祈りでした。
真っ黒に焼け焦げて死んで行った人々だけでなく、焼かれて死にきれず息絶え絶えの、
惨たらしい状態の人々をもこの人は見たでしょう。
小さい子供だったこの人の幼い魂を天の父なる神様は守って、
司祭と出会うまでの道程を御手の中で大事に大事に運ばれたと思います。
私達は一人一人苦難と喜びとを与えられています。
ペトロさん、アグネスさんと出会って、
彼らが潜り抜けて来たあまりにも過酷な体験を聞いた時、私は動揺しました。
そして、お二人がそれぞれ何故そんな酷い目に遭わなければならなかったのか、
苦難の意味を尋ねる事を、私は祈りの中で神様に対してしました。
主なる神が宴を用意し招いておられる事には目もくれず、
自分や他人の苦難の方にばかり注目する、そんな心の在り方を
ナウエンは厳しく見つめ、この『放蕩息子の帰郷』の本の中で
「相手の苦難の方にばかり注目する自分」
と言い表し、
より深刻でセンセーショナルな三面記事を好む心理について述べています。
私は自分が指摘された気がします。
今お話ししたお二人の苦難の方にばかり注目して、
肝腎の、その先に備えられた祝福、父なる神が如何に彼らを大切に守って
喜びの宴の席に運ばれたかについては私は殆ど目を向けて来ませんでした。
知っているのに注目して来なかったのです。
お二人が味わわれた過酷な体験の、過酷な部分にばかり私は気を取られて、
彼らが一生涯かけて体験した天の父なる神の祝福をせっかく私に語ってくれたのに、
その祝福に私は目を向けず彼らの苦難にばかり注目していた事にこの度気づかされました。
自分の心の在り方、ものの見方を変えられたというのはこの事です。
勿論他の人の苦しみに共感し涙する事は大切な事です。
相手の直面する問題を深刻に考えて話し合い、泣く人と共に泣く事から
更にその先へ踏み出す事についてもナウエンはこの本の中で述べています。
苦難を通じて見出される祝宴への招きとその喜びを共有するが出来るからです。
この度ナウエンのこの本『放蕩息子の帰還』の9章、主の宴の食卓の章を読んだ時、
私は真っ先にお二人の事を思い出しました。
そして今、この本を読んだのがきっかけで、
彼らが体験を通じて語った事は、
それ自体が天の御父の宴、御父の喜びの食卓だったと今になって気づかされました。
ここの土地で出会ったお二人が天に帰られてからもう10年以上になります。
10年経っても、天に凱旋して行った人達が苦難を通して
私に語って下さった言葉は私の中に鮮明に残っており、
今さっきの出来事のように、私は一字一句忘れていません。
忘れようとして忘れられるものではなく、むしろ記憶の中で燦然と輝いています。
天の御父の宴の食卓とはそのようなものかも知れません。
私自身は信仰者として優等生にはなれませんし、敬虔でもいられません。
ただ、放蕩息子の譬え話の兄のように、
天の父なる神が招いて待っておられる食卓に背を向ける事には気を付けようと思います。
差し伸べられた御手に背を向ける事無くこの生涯を最後まで、そして皆さんと共に
全うする事を切に望みます。
今日は『放蕩息子の譬え』を皆さんと一緒に味わいたいと思います。
昨年仕事を辞めて次の仕事が決まるまでの間に、
友達が随分心配して祈って下さって、
その頃にヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」という本を使って黙想をした、
とてもよかったからと言ってわざわざ送って貸してくれました。
この本『放蕩息子の帰郷』を使って黙想というのは、
単純に表現すると福音書の譬え話を通して自分を見つめ直す事でした。
福音書でイエスが語られた譬え話の登場人物一人一人に自分の身を置き換えて、
自分の心の在り方を見つめ直す、
そしてイエスがこの自分に譬え話を以て自分に何を語り、
教えようとされているかを探る試みです。
聖書を読む事は、
鶏がエサをついばむようにノートを睨んで受験生のように
カリカリと知識を溜め込んで分析する事とは別の次元の事だと私は思います。
昔読んだ祈りの本の中にサクソニーのルドルフという人の遺した言葉がありました。
「福音書の中で起こったことを、
今ここで起こっているつもりで読みなさい。
主イエス・キリストを通じて語られ、なされたことに、
全身全霊をこめてあずかりなさい。
・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
自分の目で見ているかのように味わいなさい。」
実に、そのような読み方で聖書を読むと、聖書に登場する人々が急に生き生きと親しく感じられて、
身近な隣人に変わります。
ナウエン『放蕩息子の帰郷』を読み始めた時に序章の中の三つの語句に私は注目しました。
著者ナウエンが最も重視する聖書と向き合う姿勢は三つの語句で言い表されています。
“頭よりも心で聴く”
“自分の内にある神の住まい”
“内なる聖所”
この三つに注目し、
意識しながら放蕩息子の譬え話を読み直してみました。
詳しくは、
私が喋るよりもナウエンの本を読んで下さる方が理解し易いと思いますので
是非お勧めします。
メモを取るほどの大層な聖書の勉強の話ではないので、
皆さんにもノートを書くのをやめて
ご一緒に考えて頂きたいと思いますので宜しくお願いします。
今、司会者に福音書の『放蕩息子』の章を朗読して頂きました。
この譬え話は受洗以来数えきれないほど何度も読んできて、
馴染み深い、親しみ易い箇所です。
1.放蕩息子の譬え話を今の時代の身近な出来事に当て嵌めてみます。
普通に読むとこの譬え話は今の時代の親子関係によくある図式ではないでしょうか。
反抗的な弟、真面目な兄、息子に甘い父親。
3人の人間像は実際身近な人々に当てはまる事が幾つもあって、
いずれも身近に見る家族関係としては悲劇的です。
放蕩息子、この弟息子は父親に対して物凄く残酷な仕打ちをしました。
放蕩と言っても単なる自堕落な遊び人ではありません。
中東諸国の伝統的な価値観では、現代でも、
息子が生きている父親に対して「遺産をくれ」と要求する行為は、
父親に面と向かって「早く死んで財産を寄こせ」と言ったと
同じ事になるそうです。
養ってくれた父親に対する最低最悪の侮辱です。
つまりイエスがこの譬え話で語られた弟息子は
父親に対してこう言った事になります。
「お父さんあなたが死ぬまで待てません、
私が相続する分の遺産を今下さい。
遺産を自由に処分する権利も今下さい。」
父親はどんな気持ちがしたでしょうか。
しかし何故か父親はこの弟息子を叩きのめす事をせず
財産を兄弟2人に分けてやりました。
弟息子は家を出て有り金を全て使い果たして路頭に迷い、
後悔して故郷に帰って来ました。
私は友達が貸してくれたナウエンの本を読むまでは、
福音書のこの箇所を読む度に
いつも身近で目撃した二つの光景を思い出します。
一つは、
父親の厳しい怒りを受ける事を思い浮かべながら
弟息子が父親の元に帰って来ました。
何と叱られるだろうか何と言って謝ろうかと言葉を探しながら
身を持ち崩した弟息子が故郷に戻ってみると、
故郷に父親の家はありませんでした。
彼が父親の存在を忘れて放蕩の旅に明け暮れている間に、
父親は死んで世を去り故郷の実家の土地も建物も既に無くなっていました。
父の家は兄が処分して更地になっており、
畑も知らない他人に売却した後でした。
もう一つは、
落ちぶれて訪ねて来た弟息子を年老いた父親は門前払いしました。
父親は後悔していました。
自分が甘やかしたために弟息子が堕落した、
育て方を間違えたと父親は悔やんで、弟
息子が戻って来た時にここでまたも言いなりになっては
本人と自分自身のためにならないと思って意を決し心を鬼にし
初めて息子を叱り付け、追い返しました。
放蕩息子は行く宛てなく立ち去りました。
父親は自分自身に言い聞かせていたかも知れません。
弟息子はまだ若いのだから
一度身を持ち崩しても何とか立ち直ってくれるだろう。
いつか本当に自分のした事を反省して帰って来るだろう。
金や食い物をせびりに来るのではなく、
いつかきっと本当に悔い改めて帰って来るだろう。
半月も経った頃、街外れで行き倒れた人が見つかって、
人々が顔を背けながら父親を呼びに来ました。
運ばれて来たのは変わり果てた息子でした。
年老いた父親は杖に寄りかかり、うなだれていつまでも見ていました。
変わり果てた弟息子の顔を。
埋葬をしてやりたくても父親の財産は息子に全部やってしまったので
何も残っていませんでした。
と、この譬え話から身近に起こった出来事を思い浮かべる事があります。
2000年以上前にイエスが語られた譬え話を、
今の時代にの人間に起こる出来事として当て嵌めると、
結末の大半はこのような悲劇になってしまいます。
もし譬え話でなく、
父も弟息子も実際の生身の人間で現実に起こった事であったら、
この話の結末は救い難い悲劇になる筈です。
現実の父親達はどの父親も父なる神ではなくただの平凡な人間の父親ですから、
悔やんだ放蕩息子が帰って来るまで年老いた父親が生きているとは限りません。
父親が年老いて健在であっても息子が無事に生きて帰って来るとは限りません。
これは私自身の脱線と言えば脱線ですが、
この譬え話の「父」は生身の人間の父親ではなく、
人の親に譬えられた父なる神です。
ナウエンはこの本で『放蕩息子の譬え話』に登場する3人の人間像を
一人一人思い浮かべ、弟、兄、父親に自分自身を当て嵌めて
その心の在り方を考えています。
2.まず、放蕩の弟息子に自分自身を当て嵌めて思い浮かべてみます。
放蕩息子、父の家を出る弟息子の心の思いはどんなものでしょうか。
裕福な家に生まれ育ちながら弟はどうして家を出たかったのでしょうか。
弟息子が父の家を出るに至った経緯を考えると、弟が本当に自堕落な遊び人だったら、
何も父親と絶縁する必要はなかったのではないでしょうか。
むしろ出て行かずいつまでも家にいて父親の脛を齧るニート息子でいてよかった筈。
彼が父の家を出たいと思ったのは、父や兄から頭を押さえ付けられる息苦しさとか、
真面目なお兄ちゃんと仲が悪かったとかいろいろ考えられる部分もあります。
今信仰者としてこの箇所を読むと、
この弟息子の問題は放蕩ではなく、親の金を使い果たした事でもなく、
差し伸べられる父親の手を無視して「失われた子供」となった事だと気づかされます。
失われた子供となった弟は、神の見えない御手で首根っこをつかまれて、
否応なしに故郷に帰る道を辿らされました。
「お父さん、私は天に対しても
またお父さんに対しても罪を犯しました。」(ルカ15;21)
というこの台詞は腹が減っていたから出た言葉でしょうか、
それとも本心でしょうか。
もし父親が金持ちでなく貧乏だったら、
この放蕩息子は父親の元に帰って来るのでしょうか。
弟息子は自分が身を持ち崩し腹が減って父親の元に帰ったとは書いてありますが、
どうでしょう?
この放蕩息子は「何て言って謝ろうか」とは頭でぐるぐる考えても、
自分がどれほど父親を侮辱し傷つけたか、
その自覚があったかどうかまでは書かれていませんし、
イエスはそこまでは私達に語られていません。
弟が父親を傷つけた自分の罪とどこまで向き合ったか、
そこから先は私達一人一人が自分の心の在り方を深く掘り下げて神と向き合い、
この譬え話から悟る事をイエスが期待しておられる気がします。
そしてそんな放蕩息子を、
まだ遠くにいるのに父の方から迎えに行きます。
3.次に、家出しなかった兄息子に自分を当て嵌めて思い浮かべてみます。
家に居残って父に仕えていた兄です。
ナウエン自身は幼い時から両親に期待される優秀な息子であり、
真面目で敬虔なクリスチャンであり優秀な司祭であり、
学識豊かな神学者として成功をおさめ、
息子としてもキリスト教信者としても宗教的指導者としても学者としても
エリートで順風満帆の優等生だった自分自身の半生を振り返っています。
優等生としてのナウエンは、優等生だからこその欠点がありました。
優等生の良い子ちゃんは、
迷う人や道を踏み外した人、落ちこぼれる人の痛みや辛さに
共感する事が出来ないのです。
友達に寄り添って話を聞いたり見守ったり腹を割って付き合う事ができず、
心の弱っている人や友達に対して思いやりをもって接しなかったという意味です。
優等生的な綺麗事の信心深さ敬虔さによって
人から高く評価されている自分というプライドというものがあったために、
自分では自覚しないままに人を傷つけたり裁いたりして友達からは煙たがられ、
嫌われ、敬遠されて人間関係がうまくいかず孤独に陥り、絶望に陥ったそうです。
そんなナウエンにある友人が指摘しました。
「あなたは赦された放蕩息子ではなくむしろ兄息子の方ではないか」
と、そのように指摘されて
ナウエンは心理的な打撃を受けたとこの本の中で述べています。
私達はどうでしょう。
自分はこの譬え話の中の弟か、兄か、どちらだと思いますか?
兄は帰って来た弟のために豪華な宴会を開く父親に対して腹を立てています。
私は兄の怒りに共感できます。
むしろ兄の怒りの感情はわかり易くありませんか?
この兄が弟を可愛がるどころか嫌っていた事も伝わってきます。
失踪し、死んだと思われていた弟が生きて帰って来ても全然喜んでいない。
弟が生きて帰って来てもこのお兄ちゃんは嬉しくないのでしょうか。
もしほんの僅かでも兄弟愛があるなら
父親と同じかそれ以上に喜ぶ筈だと思いませんか?
この兄は、落ちぶれた惨めな姿で戻った放蕩息子を「弟」とは呼ばず
父親に向かって「あなたのあの息子」と呼び、
言葉に出してこう言っています。
「俺は父さんの傍で長年仕えてきたのに父さんのあの息子よりも不遇だ。
傍でこんなに働いてきたのに
父さんはあの息子には気前よく大盤振る舞いで大宴会、
俺には子山羊1匹すらくれない、不公平ではないか。
父さんはあの息子ばかりちやほやして
この俺をないがしろにしている。」
この兄はふらふら家出なんかせず父の元に留まって、
道を踏み外す事も無く真面目に父に仕える優等生、
よい子なお兄ちゃんの筈でした。
しかしこの兄の心の在り方を、イエスはここで私達に問われます。
放蕩ではなかった兄の心にあるのは
損得勘定と積もり積もった不満、根深い恨み辛みです。
ナウエンは「あなたは兄の方だ」と言われてショックを受けたと述べていますが、
私自身は自分をこの兄息子に置き換えて考えるのは簡単です。
実際、釧路に戻って来てからの父の在宅介護をしていた15年間、
私の中にはこの兄息子の怒りの感情そのものがありました。
親元にいる子供は親の世話に縛られて時間的にも体力的にも拘束されますから、
親のために自分の生活を奪い取られて報われない、
人生を台無しにされていると感じるのです。
ですから私自身はこの箇所を読むと、
放蕩の弟息子が赦された喜びよりもこの兄息子の怒りの方に共感しますし
兄の方に感情移入し易いのです。
おそらくこんな兄息子の「偽りの従順」を父親は見抜いていたのでしょう。
だからこそ外まで兄を迎えに来て一緒に宴会の席に着くように和解の説得をします。
二人の息子達の父親は、帰って来た放蕩息子だけでなく、
ふてくされて中に入って来ない兄息子をも迎えに来る、
何処までも寛容で慈愛に満ちた父親です。
この点について、
昔、私の母教会の青年会の聖書研究会である高校生の男の子が
「父親が一番悪い、子供に甘すぎる。」
と言った事がありました。
私にとっては懐かしい思い出ですが、
皆さんはどう思われますか?
ただ言える事は、
この放蕩息子の譬え話で注目されるのは「失われた息子」です。
失われた息子とは、家出した弟息子ではなく
父と共に家にいる兄息子の事でした。
私達はイエスの語られた譬え話から、
人の心の在り方を読み取る事を求められています。
父親の招きに応じる子供と応じない子供、
招きに応じないのは失われた子供です。
釧路に来てこの15年間の私自身はこの譬え話の兄息子と同じ、
失われた子供でした。
失われた子供にとって「宴会の食卓」に招かれる事は
嬉しいどころか怒りの火種でしかありません。
宴会の食卓に招かれて食卓の主のすぐ傍にいるにも拘らず
残念な、失われた子供、家出しなかった兄息子は本当に悲劇的です。
兄息子はふてくされたまま家に入らなかったのでしょうか。
それとも思い直して宴会の席に着いたのでしょうか。
最終的に兄息子が宴会の席に着いたか着かなかったか、
その結末が伏せてあるのは、
この譬え話から天の父なる神の意図を悟る事を、
イエスがその場で聞いていた人々と
後の世の私達に期待して語られたからではないでしょうか。
4.生きている時から死んだ者とされる親について考えてみます。
放蕩息子の譬え話の主人公は弟でも兄でもなく
父親であるとナウエンは述べています。
二人の息子の父親の苦しみを思い浮かべると、
この父親は物凄く不幸だと思いませんか?
放蕩の弟もふてくされた兄も、どの息子も父親の心を思いやりません。
気の毒な父親です。
息子が2人いながらどの息子も自分の損得しか考えていない、
慈しんで育てて財産を生前贈与までしたのに
どの子供からも思いやりを受けず労わって貰えない父親です。
弟息子は父親の生きているうちから「早く死んで財産をくれ」と要求し、
失踪した挙句、経済的な援助を求めて戻って来ました。
一緒に暮らしている兄息子は傍で一緒に生活しながら
「弟よりも優遇されない」と思い込み、不平不満と怒りを燻ぶらせなが
上っ面の従順さで父親に仕え、宴の食卓を用意したのに
「子山羊一匹すらくれない」と言って不満をぶつけて来ます。
子供から金づるとしか思われず、
疎まれ見捨てられる親の気持ちはどんなものでしょうか。
人の親でない私には想像すら出来ない事ですが、
高齢者の多い病院や高齢者施設で働くと、
その辛い心情を日常の中で聞かされる事がよくあります。
「一泊でいいから子供達の所に外泊して、一緒に年越ししたかったけど。
今年の年末年始も迎えに来てくれなかった。」
とか、
「子供がいないと寂しいとは聞くけどね、子供がいると返って寂しいものだよ。
子供が大勢いたって小遣いに困った時に孫がたかりに来る以外は誰も来やしない。」
仕事柄そういう話を日常的に聞かされます。
二人の息子の父親はどうして、
何を望んで不従順な息子達を宴会の食卓に招くのでしょうか。
弟も兄も、二人の息子達はどちらも不従順で、不誠実です。
二人の息子にとって父親は「財産の今の持ち主」、金づるでしかありません。
弟も兄も父の財産には注目しますが父親の心を顧みる事をしていない、
父親を既に死んだ者のようにしか見ていません。
そんな父親の心情を思い浮かべると預言者イザヤの言葉が思い出されます。
わたしに問わなかった者たちに、
わたしは尋ねられ、
わたしを探さなかった者たちに、見つけられた。
わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
わたしは反逆の民、
自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、
一日中、わたしの手を差し伸べた。(イザヤ65;1~2)
天の父なる神が手を差し伸べているのに、
神の民は見向きもしないのです。
イエスは天の御父を二人の息子を持つ父親に譬えて話しています。
神なる主、天の御父は宴会の用意をして待っておられると。
宴会の食卓を一緒に囲んで
美味しいものを美味しい美味しいと喜んで分かち合う、
歓びを共有する事を切実に望んで、
宴会の食卓に私達を招き手を差し伸べておられると。
預言者イザヤを通して
ここでは父なる神が御手をこちらに差し伸べている事が示されています。
しかし私自身は自分の心に抱える日常の不平不満しか心になくて、
すぐくたびれて希望を捨て、期待する事を諦め、辛い事にしか目が行きません。
ふてくされた兄息子のように宴の招きに背を向けるとは
実際このような事ではないでしょうか。
宴会の席を整えて招いて下さるお方はどんな気持ちがするでしょうか。
私達は放蕩息子の譬え話から、
せっかくお祝いの御馳走を用意したのに子供からそっぽを向かれて傷ついた父親の、
深い悲しみに注目しなければなりません。
5.大宴会を辞退する行為の重大さを思い浮かべてみます。
譬え話に登場する『宴会』とは何でしょうか。
招かれた宴会の食卓に着く事を拒む事にはどんな意味があるかを考えさせられます。
招かれた宴会の食卓に着かない事の意味を私達は考えなければなりません。
失われていた弟息子は生きて帰り父と共に食卓に着きました。
親に反抗せず暴言も吐かなかった兄息子はふてくされて家の中に入って来ません。
兄息子が思い直して父親の用意した食卓に着いたかどうかは私達読者にはわかりませんが、
放蕩息子の譬え話の前の章、『大宴会』(ルカ14;15~24)の譬えの箇所で
イエスが話をこのように結んでいる事をナウエンは指摘しています。
「あの招かれた人たちの中で、
わたしの食事を味わう者は一人もいない。」(ルカ14;24)
『放蕩息子』の譬え話で父が招く宴を拒絶する事の意味を考えると、
父の宴会の招きに背中を向けて拒絶する事は、
反抗し後足で砂を蹴散らして立ち去る事よりももっと重く絶望的でと気づかされます。
「失われた息子」は反発し金をせびって親と家を捨てた弟息子ではなく、
心の内に不満を隠し偽りの従順さを以て仕えてきた兄息子の方だとお話ししましたが、
ナウエンはイエスの受難の時のペトロとイスカリオテのユダとを対比して述べています。
ペトロもユダも土壇場でイエスを裏切ったのは同じでした。
ペトロは悔やみながらイエスと和解しました。
ユダは神も自分の命も全てを放棄して自殺しました。
この『放蕩息子の帰郷』の譬え話を自分自身に当て嵌めて読み直すと気づかされます。
私自身も、弟息子であると同時に、兄息子でもあるという現実です。
自分の心の在り方を見直さなければなりません。
つまりこの譬え話から私は「失われた自分」を見直す事を
考えさせられ、教わりました。
これまで何度となく福音書の『放蕩息子』の譬え話を読んでいながら、
今まで私は二人の息子の父には注目せずさらりと素通りしてきました。
この度友達が貸してくれたナウエンの本を読んだ事で、
差し伸べた祝福と慈愛の腕を払い除けられる父親の悲しみ、
子供から忘れられ死んだものとされる親の苦悩に気づき考えさせられました。
自分は天の父なる神様に対してそのような仕打ちをして来なかっただろうかと。
自覚がなかっただけでそのような事を神様に対してしてきたと思います。
これまで気づかなかったのは聖書の字面だけ読んでも実は読み取っていなかった、
イエスの語られる事柄を自分の事として受け止めようとする心が欠けていたからです。
6.宴会への招きを思い浮かべて見る角度を変えてみます。
「天の御父が招いて下さる大宴会」とは何でしょうか。
この譬え話で父が招く宴会とは、実に私達お互いの「喜びの共有」です。
ふてくされた兄息子は、不満を父親にぶつけました。
父親に対してこれまで口に出せなかった不満な思いを正直にぶつけたのは、
私はこのお兄ちゃんはこれで良かったと思うのです。
心に抱える不満を口に出して完結したのですからふてくされず食卓に着くべきでした。
実際、天の父なる神が用意して私達を招いておられる宴会の食卓とは何でしょうか。
どのようなものでしょうか。
私達は日常で出会った人々の生涯から苦しみの意義を見出す事がありますが、
苦しみの向こうに備えられた祝福の宴を見出す事も可能だと、
この度ナウエンを通して『放蕩息子』の箇所を読み直した事で気づかされました。
ずっと前にこの教会で当番が回って来た時に皆さんにお話ししたかも知れません。
以前話を聞いた方はすみません。
私はここの土地に引っ越して来て近所に住んでいた二人の信仰者と出会いました。
天の父なる神が備えられた宴会の食卓を、
ここで出会ったお二人の生涯から思い浮かべる事が出来ます。
お二人とも近所のカトリック教会の信徒の方でした。
一人は「ペトロさん」、もう一人は「アグネスさん」と、ここではお呼びしましょう。
ペトロさんは腰痛で受けた手術の失敗によって頸から下が動きませんでした。
昭和の時代の大昔ですから、医療過誤の裁判で被害者が勝訴するケースは稀でした。
腰が痛くて当時最新技術と言われた手術を受けて首から下が全く麻痺してしまったために、
仕事も生活も何もかも失っただけでなく、医療従事者達から暴言や侮辱を受け、
人間として扱われない体験をしました。
首から下が動かないと言う事は、体の自由が全く無い、自殺する自由すらありません。
ペトロさんは手術を担当した医師2名と病院を告発し相手取って訴訟を起こしました。
何年もの長い裁判をペトロさんは戦いました。
身体の機能と、仕事と生活の全てと、人生の望みの全てを奪われ、自殺の道さえ断たれて、
例え勝ち目がないと解っていても闘わずにはいられなかった裁判で、
最終的にこの人は勝ちました。
但し首から下を全部麻痺にされた7000万円の賠償請求に対したった300万円の勝利でした。
手術の前に承諾書を書いていたからです。
ペトロさんが自分自身の境遇を語った時の言葉を15年経った今も私は一字一句忘れません。
「井上さん、俺は負けたんだ。
俺は裁判には勝った。
医者の落ち度を暴いて裁判には勝った。
医者連中と病院側に非を認めさせて裁判には勝った。
でも俺は負けた。」
たった300万の賠償金を手にした瞬間、それまで力になったり励ましてくれたり
何かと世話して支えてくれた親戚や友達が皆ハイエナに変わりました。
300万の中から半分は裁判の費用や弁護士に支払って消えました。
残ったお金から医療費を支払うと、親戚や友達が貸した金を返せと言って来ました。
手元に残った金も、あの時あれをしてやったからこれをしてやったからと
親戚や友達がみんな毟り取って、手元には数万円のお金しか残らなかったそうです。
金銭が無くなったらペトロさんの回りには誰も残りませんでした。
身内も友達も、誰一人信用できる人間がいなくなりました。
そういう事情でも賠償金を貰ったからという理由で市から生活保護費を打ち切られました。
「俺が負けたと言うのはさ、裁判には勝ったけど何もかも失った、だから負けたんだ。
俺は負けたんだよ。」
どうして私がこの事情を知ったかというと、初対面で聞かれたのです。
「 ここに来る前は何処の病院で働いていたの?
…それは俺の体をこんなにした奴の病院だよ!」
私はこの人の体をダメにした医者の元で知らずに勤務した事がきっかけで、
今の生活の糧となる資格を働きながら取得する事が出来ました。
一人の医者との出会いで私は生活の糧を得ましたが
同じ医者との出会いによってこの人は人生をずたずたにされました。
首から下を動かなくされ、辛うじて得た賠償金の殆どを親戚や知人達に取り上げられ、
生活保護まで打ち切られたペトロさんに、
見かねて援助の手を差し伸べ力を貸したのはある政治団体の人々でした。
しかし無神論的な政治団体にのめり込むほど、
唯一の神に心の拠り所を求める気持ちが何故か強くなって、
人に頼んであるプロテスタントの教会に連れて行って貰いました。
聖書研究会に参加するようになりましたが、ちょうどその頃湾岸戦争が勃発して、
政治意識の強かったペトロさんは聖書研究会の席で問題提起しました。
キリストの平和を掲げながら逆の事をする者に対して、
教会は何故何の抗議行動もせず黙って見ているのかと。
メノナイト教会なら何の問題も無かったでしょう。
しかし当時小さな教会の聖書研究会に政治論議を持ち込んだために、
ペトロさんは教会の人々から煙たがられて、
やっとキリスト教の教会につながる事が出来たにも拘らず
その教会に居られなくなりました。
口論になって教会を去る時、信者の女性が自分の所属教会を捨ててついて来ました。
奥さんとなった人は私に言いました。
「私が一緒に行かないと自分では動けないこの人が
キリストとつながる道が永久に絶たれてしまうと思った。
人間は教派や教会をなんぼでも作るけど、神様はたった一人だけ。
この人を連れて行ける、キリスト教の他の教会を探そうと思った。」
そしてある日近所のカトリック教会にその人を連れて行きました。
自分達がそれまでいた教会とは趣きの全然違う教会でしたが、
キリスト教なら何でもいいと思ったそうです。
主任司祭の神父様は諸手を挙げて大歓迎、
早速公教要理の勉強の場を設けてくれて、ご復活の日に洗礼を授けました。
この人の辿った道のりから天の父なる神を感じ取る事が出来ます。
父なる神は動けないこの人のために道を用意し、
祝宴の食卓を整えて待っておられました。
神ご自身が御手でこの人を絶望から守り、必要な助け手となる信仰者を興して、
ペトロさんを大切に大切に運ばれた事を、
私は現実の出会いの体験を通して目に見せられた気がします。
医者も病院も生涯許せないでしょうねと私は聞いてみました。
静かに、穏やかな顔で答えたペトロさんの言葉と声を
私は今さっきの事のように思い出します。
「井上さん、俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。
だから辛い事も頂くんだよ。」
これは旧約聖書のヨブ記の引用ではありません。
ご自身の体験から私に語ってくれた、この人自身の言葉です。
字面だけの聖書知識でヨブ記を引用したのとは違います。
『放蕩息子』の箇所で主なる神様が準備し招いて下さった「宴会」とは、
実にこのような事ではないかと気づかされました。
私が出会ったもう一人の人「アグネスさん」も
同じ近所のカトリックの信徒の方で、長崎の浦上出身でした。
ご近所で顔見知りになって、その頃私がたまたま入院して手術を受けたと聞いて
わざわざ病室までお見舞いに来て下さいました。
カトリックの信者さんと知り合うと、私は興味を持って聞きます。
「貴方は成人洗礼を受けたのですか、それとも幼児洗礼でしたか?」
私の無遠慮な質問に対して、
アグネスさんはご自分が洗礼を受けたいきさつを話してくれました。
アグネスさんには母親しか家族がありませんでした。
どんな家庭の事情で母一人子一人になったのか自分でもわからないと言いました。
母親は結核だったためにずっと療養所暮らしで、キリスト教の信者である事は
親類縁者には隠していたそうです。
幼いアグネスさんは親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育ちました。
ある時、母親は療養所を出てアグネスさんを連れて函館から長崎に行こうとしました。
アグネスさんはその時まだ10歳になっていなかったそうです。
「今思うとね、母は死期を悟って
私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」
と私に言いました。
汽車の長旅で母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかりました。
ところがあと少しで長崎に着くと思っていたら突然汽車が動かなくなってしまいました。
どうして汽車が動かないのか何時になれば再び動き出すのか目途が全く立たず、
母親はアグネスさんを連れて汽車を降り、長崎を目指し線路伝いに歩き始めました。
道の途中で、母親は何度か血を吐きました。
力尽きて線路脇に倒れ込みながら、母親はアグネスさんに言ったそうです。
「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
お母さんは結核だから、死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
お母さんはもう一緒に行けないから、あなたは一人で長崎に行きなさい。
長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
いい?
必ず教会を訪ねなさい。
お母さんがここで死んでいる事とあなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
そこで言いなさい。
必ず。」
幼い娘の目の前で母親はやがて息をしなくなり、動かなくなりました。
アグネスさんは、言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出して、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結びました。
その時の心境をあっけらかんと話してくれました。
「お母さんは死んでしまったし、
私にはもう行く所がない、
ああ、これから私はどうしよう、って思ったわ。」
しばらく死んだ母親の遺体の傍でぼーっとしていましたが、
言われた通り歩き出すより他にありませんでした。
アグネスさんは一人で荷物を担いで線路伝いに歩き始めました。
母親に言われた通り、長崎に向かって一人で歩き出した時の
小さな女の子の気持ちは想像もつきません。
そして、その時既に長崎は原爆を落とされていました。
一面瓦礫と焼け焦げた死体の山になった街をアグネスさんは途方に暮れながら
母に言われた通りに、場所も知らない教会を探して歩き続けました。
幼い娘をたった一人この世に残して線路脇で力尽きて死んで行った母親の気持ちと、
母親の亡骸を後にして、一人ぼっちで線路伝いに長崎に向かって歩いた先で、
原爆を落とされて瓦礫と化した長崎を見た時の女の子の恐怖と絶望とを思うと
とても冷静ではいられません。
10歳にならない小さな子供がたった一人で、
焼けた線路を辿って原爆投下直後の焼野原を行き倒れもせずに
長崎市内に入る事が出来ただけでも奇跡としか言いようがありません。
瓦礫の中を彷徨ううちに浦上の教会を知る人と出会って、
辛うじて生き残った司祭の一人と会わせて貰う事が出来ました。
しかし洗礼台帳も何もかも焼けてしまっていて、
この人の幼児洗礼を証明する記録は残っておらず受洗を確認する事はできませんでした。
司祭はアグネスさんに
「あなたのお母さんの仰った事は、私は本当だと信じます。
ただ貴方はまだあまりにも幼いから、
もし万一という事があっても大丈夫であるように」
と言ってこの小さな女の子にその場で洗礼を授けました。
これが私の入院先に見舞いに来てくれたアグネスさんの受洗のいきさつでした。
洗礼名の「アグネス」は「子羊」という意味です。
私達の所属するメノナイト教会は歴史的に再洗礼派の末裔として位置付けられており
あくまで自分の意志で信仰告白をした者にしか洗礼は授けない、
自分の意志でない洗礼は無効であると、幼児洗礼を認めない考え方によって
メノナイトは迫害の歴史を歩んできました。
もっとも私達が実際に迫害を受けた訳でも何でもありませんが。
とにかく今でも私達の教会は幼児洗礼に対して批判的な考え方をする立場にあります。
しかしこの人にとって「幼児洗礼か成人洗礼か」などどうでもいい事です。
私は「幼児洗礼か成人洗礼か」とこの人に尋ねた自分の卑しさを痛感しています。
本当に恥ずかしい、愚劣なくだらない質問をしたと思います。
天の父なる神様がこの人と片時も離れずにいらした事を
私は目の前で示された気がします。
幼かったこの人が行き倒れもせず命を落とす事無く教会で保護されたのは、
神様がこの人を御手の中に大切に守って運ばれたからだと私は確信します。
瓦礫の中で行き倒れずに、生き延びて何十年も経った後に私と出会ったのです。
この出会いによって主は私に何を悟れと言われるのか、
その事を考えさせられます。
アグネスさんは私に言いました。
「毎朝、お祈りをするのよ。
今日一日、
私に出会わせて下さる人、
擦れ違う人、
全員が天国に迎えられますように。」
この人がどんな経歴でどんな道のりを歩いて来たかを知らなければ、
この祈りは如何にも取って付けたような敬虔で信心深い祈りの言葉、
模範的な優等生信者の台詞のように、
出来過ぎて鼻に付く白々しい文言に聞こえるかも知れません。
しかし私は知っています。
この祈りはこの人がまだ10歳にもならない子供だった時に目にした、
惨い光景の只中の祈りです。
線路脇に行き倒れて死んでいった母親や、道の途中の至る所で焼け焦げた人々の
無残な死体の前で「みんな天国に迎えられますように」と祈った幼い子供の祈りでした。
真っ黒に焼け焦げて死んで行った人々だけでなく、焼かれて死にきれず息絶え絶えの、
惨たらしい状態の人々をもこの人は見たでしょう。
小さい子供だったこの人の幼い魂を天の父なる神様は守って、
司祭と出会うまでの道程を御手の中で大事に大事に運ばれたと思います。
私達は一人一人苦難と喜びとを与えられています。
ペトロさん、アグネスさんと出会って、
彼らが潜り抜けて来たあまりにも過酷な体験を聞いた時、私は動揺しました。
そして、お二人がそれぞれ何故そんな酷い目に遭わなければならなかったのか、
苦難の意味を尋ねる事を、私は祈りの中で神様に対してしました。
主なる神が宴を用意し招いておられる事には目もくれず、
自分や他人の苦難の方にばかり注目する、そんな心の在り方を
ナウエンは厳しく見つめ、この『放蕩息子の帰郷』の本の中で
「相手の苦難の方にばかり注目する自分」
と言い表し、
より深刻でセンセーショナルな三面記事を好む心理について述べています。
私は自分が指摘された気がします。
今お話ししたお二人の苦難の方にばかり注目して、
肝腎の、その先に備えられた祝福、父なる神が如何に彼らを大切に守って
喜びの宴の席に運ばれたかについては私は殆ど目を向けて来ませんでした。
知っているのに注目して来なかったのです。
お二人が味わわれた過酷な体験の、過酷な部分にばかり私は気を取られて、
彼らが一生涯かけて体験した天の父なる神の祝福をせっかく私に語ってくれたのに、
その祝福に私は目を向けず彼らの苦難にばかり注目していた事にこの度気づかされました。
自分の心の在り方、ものの見方を変えられたというのはこの事です。
勿論他の人の苦しみに共感し涙する事は大切な事です。
相手の直面する問題を深刻に考えて話し合い、泣く人と共に泣く事から
更にその先へ踏み出す事についてもナウエンはこの本の中で述べています。
苦難を通じて見出される祝宴への招きとその喜びを共有するが出来るからです。
この度ナウエンのこの本『放蕩息子の帰還』の9章、主の宴の食卓の章を読んだ時、
私は真っ先にお二人の事を思い出しました。
そして今、この本を読んだのがきっかけで、
彼らが体験を通じて語った事は、
それ自体が天の御父の宴、御父の喜びの食卓だったと今になって気づかされました。
ここの土地で出会ったお二人が天に帰られてからもう10年以上になります。
10年経っても、天に凱旋して行った人達が苦難を通して
私に語って下さった言葉は私の中に鮮明に残っており、
今さっきの出来事のように、私は一字一句忘れていません。
忘れようとして忘れられるものではなく、むしろ記憶の中で燦然と輝いています。
天の御父の宴の食卓とはそのようなものかも知れません。
私自身は信仰者として優等生にはなれませんし、敬虔でもいられません。
ただ、放蕩息子の譬え話の兄のように、
天の父なる神が招いて待っておられる食卓に背を向ける事には気を付けようと思います。
差し伸べられた御手に背を向ける事無くこの生涯を最後まで、そして皆さんと共に
全うする事を切に望みます。