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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

2016.6.19礼拝メッセージ

2016-06-19 23:59:23 | 礼拝メッセージ
皆さんおはようございます。
今日は『放蕩息子の譬え』を皆さんと一緒に味わいたいと思います。

昨年仕事を辞めて次の仕事が決まるまでの間に、
友達が随分心配して祈って下さって、
その頃にヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」という本を使って黙想をした、
とてもよかったからと言ってわざわざ送って貸してくれました。
この本『放蕩息子の帰郷』を使って黙想というのは、
単純に表現すると福音書の譬え話を通して自分を見つめ直す事でした。
福音書でイエスが語られた譬え話の登場人物一人一人に自分の身を置き換えて、
自分の心の在り方を見つめ直す、
そしてイエスがこの自分に譬え話を以て自分に何を語り、
教えようとされているかを探る試みです。

聖書を読む事は、
鶏がエサをついばむようにノートを睨んで受験生のように
カリカリと知識を溜め込んで分析する事とは別の次元の事だと私は思います。
昔読んだ祈りの本の中にサクソニーのルドルフという人の遺した言葉がありました。

「福音書の中で起こったことを、
 今ここで起こっているつもりで読みなさい。
 主イエス・キリストを通じて語られ、なされたことに、
 全身全霊をこめてあずかりなさい。
 ・・・・・・つづられている出来事を、自分の耳で聞き、
 自分の目で見ているかのように味わいなさい。」


実に、そのような読み方で聖書を読むと、聖書に登場する人々が急に生き生きと親しく感じられて、
身近な隣人に変わります。

ナウエン『放蕩息子の帰郷』を読み始めた時に序章の中の三つの語句に私は注目しました。
著者ナウエンが最も重視する聖書と向き合う姿勢は三つの語句で言い表されています。

“頭よりも心で聴く”
“自分の内にある神の住まい”
“内なる聖所”

この三つに注目し、
意識しながら放蕩息子の譬え話を読み直してみました。
詳しくは、
私が喋るよりもナウエンの本を読んで下さる方が理解し易いと思いますので
是非お勧めします。

メモを取るほどの大層な聖書の勉強の話ではないので、
皆さんにもノートを書くのをやめて
ご一緒に考えて頂きたいと思いますので宜しくお願いします。
今、司会者に福音書の『放蕩息子』の章を朗読して頂きました。
この譬え話は受洗以来数えきれないほど何度も読んできて、
馴染み深い、親しみ易い箇所です。


1.放蕩息子の譬え話を今の時代の身近な出来事に当て嵌めてみます。
普通に読むとこの譬え話は今の時代の親子関係によくある図式ではないでしょうか。
反抗的な弟、真面目な兄、息子に甘い父親。
3人の人間像は実際身近な人々に当てはまる事が幾つもあって、
いずれも身近に見る家族関係としては悲劇的です。

放蕩息子、この弟息子は父親に対して物凄く残酷な仕打ちをしました。
放蕩と言っても単なる自堕落な遊び人ではありません。
中東諸国の伝統的な価値観では、現代でも、
息子が生きている父親に対して「遺産をくれ」と要求する行為は、
父親に面と向かって「早く死んで財産を寄こせ」と言ったと
同じ事になるそうです。
養ってくれた父親に対する最低最悪の侮辱です。
つまりイエスがこの譬え話で語られた弟息子は
父親に対してこう言った事になります。

「お父さんあなたが死ぬまで待てません、
 私が相続する分の遺産を今下さい。
 遺産を自由に処分する権利も今下さい。」

父親はどんな気持ちがしたでしょうか。
しかし何故か父親はこの弟息子を叩きのめす事をせず
財産を兄弟2人に分けてやりました。
弟息子は家を出て有り金を全て使い果たして路頭に迷い、
後悔して故郷に帰って来ました。

私は友達が貸してくれたナウエンの本を読むまでは、
福音書のこの箇所を読む度に
いつも身近で目撃した二つの光景を思い出します。

一つは、
父親の厳しい怒りを受ける事を思い浮かべながら
弟息子が父親の元に帰って来ました。
何と叱られるだろうか何と言って謝ろうかと言葉を探しながら
身を持ち崩した弟息子が故郷に戻ってみると、
故郷に父親の家はありませんでした。
彼が父親の存在を忘れて放蕩の旅に明け暮れている間に、
父親は死んで世を去り故郷の実家の土地も建物も既に無くなっていました。
父の家は兄が処分して更地になっており、
畑も知らない他人に売却した後でした。

もう一つは、
落ちぶれて訪ねて来た弟息子を年老いた父親は門前払いしました。
父親は後悔していました。
自分が甘やかしたために弟息子が堕落した、
育て方を間違えたと父親は悔やんで、弟
息子が戻って来た時にここでまたも言いなりになっては
本人と自分自身のためにならないと思って意を決し心を鬼にし
初めて息子を叱り付け、追い返しました。
放蕩息子は行く宛てなく立ち去りました。
父親は自分自身に言い聞かせていたかも知れません。

弟息子はまだ若いのだから
一度身を持ち崩しても何とか立ち直ってくれるだろう。
いつか本当に自分のした事を反省して帰って来るだろう。
金や食い物をせびりに来るのではなく、
いつかきっと本当に悔い改めて帰って来るだろう。

半月も経った頃、街外れで行き倒れた人が見つかって、
人々が顔を背けながら父親を呼びに来ました。
運ばれて来たのは変わり果てた息子でした。
年老いた父親は杖に寄りかかり、うなだれていつまでも見ていました。
変わり果てた弟息子の顔を。
埋葬をしてやりたくても父親の財産は息子に全部やってしまったので
何も残っていませんでした。

と、この譬え話から身近に起こった出来事を思い浮かべる事があります。
2000年以上前にイエスが語られた譬え話を、
今の時代にの人間に起こる出来事として当て嵌めると、
結末の大半はこのような悲劇になってしまいます。
もし譬え話でなく、
父も弟息子も実際の生身の人間で現実に起こった事であったら、
この話の結末は救い難い悲劇になる筈です。
現実の父親達はどの父親も父なる神ではなくただの平凡な人間の父親ですから、
悔やんだ放蕩息子が帰って来るまで年老いた父親が生きているとは限りません。
父親が年老いて健在であっても息子が無事に生きて帰って来るとは限りません。
これは私自身の脱線と言えば脱線ですが、
この譬え話の「父」は生身の人間の父親ではなく、
人の親に譬えられた父なる神です。
ナウエンはこの本で『放蕩息子の譬え話』に登場する3人の人間像を
一人一人思い浮かべ、弟、兄、父親に自分自身を当て嵌めて
その心の在り方を考えています。


2.まず、放蕩の弟息子に自分自身を当て嵌めて思い浮かべてみます。
放蕩息子、父の家を出る弟息子の心の思いはどんなものでしょうか。
裕福な家に生まれ育ちながら弟はどうして家を出たかったのでしょうか。
弟息子が父の家を出るに至った経緯を考えると、弟が本当に自堕落な遊び人だったら、
何も父親と絶縁する必要はなかったのではないでしょうか。
むしろ出て行かずいつまでも家にいて父親の脛を齧るニート息子でいてよかった筈。
彼が父の家を出たいと思ったのは、父や兄から頭を押さえ付けられる息苦しさとか、
真面目なお兄ちゃんと仲が悪かったとかいろいろ考えられる部分もあります。
今信仰者としてこの箇所を読むと、
この弟息子の問題は放蕩ではなく、親の金を使い果たした事でもなく、
差し伸べられる父親の手を無視して「失われた子供」となった事だと気づかされます。
失われた子供となった弟は、神の見えない御手で首根っこをつかまれて、
否応なしに故郷に帰る道を辿らされました。

「お父さん、私は天に対しても
 またお父さんに対しても罪を犯しました。」(ルカ15;21)


というこの台詞は腹が減っていたから出た言葉でしょうか、
それとも本心でしょうか。
もし父親が金持ちでなく貧乏だったら、
この放蕩息子は父親の元に帰って来るのでしょうか。
弟息子は自分が身を持ち崩し腹が減って父親の元に帰ったとは書いてありますが、
どうでしょう?
この放蕩息子は「何て言って謝ろうか」とは頭でぐるぐる考えても、
自分がどれほど父親を侮辱し傷つけたか、
その自覚があったかどうかまでは書かれていませんし、
イエスはそこまでは私達に語られていません。
弟が父親を傷つけた自分の罪とどこまで向き合ったか、
そこから先は私達一人一人が自分の心の在り方を深く掘り下げて神と向き合い、
この譬え話から悟る事をイエスが期待しておられる気がします。
そしてそんな放蕩息子を、
まだ遠くにいるのに父の方から迎えに行きます。

3.次に、家出しなかった兄息子に自分を当て嵌めて思い浮かべてみます。
家に居残って父に仕えていた兄です。
ナウエン自身は幼い時から両親に期待される優秀な息子であり、
真面目で敬虔なクリスチャンであり優秀な司祭であり、
学識豊かな神学者として成功をおさめ、
息子としてもキリスト教信者としても宗教的指導者としても学者としても
エリートで順風満帆の優等生だった自分自身の半生を振り返っています。
優等生としてのナウエンは、優等生だからこその欠点がありました。
優等生の良い子ちゃんは、
迷う人や道を踏み外した人、落ちこぼれる人の痛みや辛さに
共感する事が出来ないのです。
友達に寄り添って話を聞いたり見守ったり腹を割って付き合う事ができず、
心の弱っている人や友達に対して思いやりをもって接しなかったという意味です。
優等生的な綺麗事の信心深さ敬虔さによって
人から高く評価されている自分というプライドというものがあったために、
自分では自覚しないままに人を傷つけたり裁いたりして友達からは煙たがられ、
嫌われ、敬遠されて人間関係がうまくいかず孤独に陥り、絶望に陥ったそうです。
そんなナウエンにある友人が指摘しました。

「あなたは赦された放蕩息子ではなくむしろ兄息子の方ではないか」

と、そのように指摘されて
ナウエンは心理的な打撃を受けたとこの本の中で述べています。

私達はどうでしょう。
自分はこの譬え話の中の弟か、兄か、どちらだと思いますか?
兄は帰って来た弟のために豪華な宴会を開く父親に対して腹を立てています。
私は兄の怒りに共感できます。
むしろ兄の怒りの感情はわかり易くありませんか?
この兄が弟を可愛がるどころか嫌っていた事も伝わってきます。
失踪し、死んだと思われていた弟が生きて帰って来ても全然喜んでいない。
弟が生きて帰って来てもこのお兄ちゃんは嬉しくないのでしょうか。
もしほんの僅かでも兄弟愛があるなら
父親と同じかそれ以上に喜ぶ筈だと思いませんか?
この兄は、落ちぶれた惨めな姿で戻った放蕩息子を「弟」とは呼ばず
父親に向かって「あなたのあの息子」と呼び、
言葉に出してこう言っています。

「俺は父さんの傍で長年仕えてきたのに父さんのあの息子よりも不遇だ。
 傍でこんなに働いてきたのに
 父さんはあの息子には気前よく大盤振る舞いで大宴会、
 俺には子山羊1匹すらくれない、不公平ではないか。
 父さんはあの息子ばかりちやほやして
 この俺をないがしろにしている。」

この兄はふらふら家出なんかせず父の元に留まって、
道を踏み外す事も無く真面目に父に仕える優等生、
よい子なお兄ちゃんの筈でした。
しかしこの兄の心の在り方を、イエスはここで私達に問われます。
放蕩ではなかった兄の心にあるのは
損得勘定と積もり積もった不満、根深い恨み辛みです。

ナウエンは「あなたは兄の方だ」と言われてショックを受けたと述べていますが、
私自身は自分をこの兄息子に置き換えて考えるのは簡単です。
実際、釧路に戻って来てからの父の在宅介護をしていた15年間、
私の中にはこの兄息子の怒りの感情そのものがありました。
親元にいる子供は親の世話に縛られて時間的にも体力的にも拘束されますから、
親のために自分の生活を奪い取られて報われない、
人生を台無しにされていると感じるのです。
ですから私自身はこの箇所を読むと、
放蕩の弟息子が赦された喜びよりもこの兄息子の怒りの方に共感しますし
兄の方に感情移入し易いのです。
おそらくこんな兄息子の「偽りの従順」を父親は見抜いていたのでしょう。
だからこそ外まで兄を迎えに来て一緒に宴会の席に着くように和解の説得をします。
二人の息子達の父親は、帰って来た放蕩息子だけでなく、
ふてくされて中に入って来ない兄息子をも迎えに来る、
何処までも寛容で慈愛に満ちた父親です。

この点について、
昔、私の母教会の青年会の聖書研究会である高校生の男の子が

「父親が一番悪い、子供に甘すぎる。」

と言った事がありました。
私にとっては懐かしい思い出ですが、
皆さんはどう思われますか?

ただ言える事は、
この放蕩息子の譬え話で注目されるのは「失われた息子」です。
失われた息子とは、家出した弟息子ではなく
父と共に家にいる兄息子の事でした。
私達はイエスの語られた譬え話から、
人の心の在り方を読み取る事を求められています。
父親の招きに応じる子供と応じない子供、
招きに応じないのは失われた子供です。
釧路に来てこの15年間の私自身はこの譬え話の兄息子と同じ、
失われた子供でした。
失われた子供にとって「宴会の食卓」に招かれる事は
嬉しいどころか怒りの火種でしかありません。
宴会の食卓に招かれて食卓の主のすぐ傍にいるにも拘らず
残念な、失われた子供、家出しなかった兄息子は本当に悲劇的です。
兄息子はふてくされたまま家に入らなかったのでしょうか。
それとも思い直して宴会の席に着いたのでしょうか。
最終的に兄息子が宴会の席に着いたか着かなかったか、
その結末が伏せてあるのは、
この譬え話から天の父なる神の意図を悟る事を、
イエスがその場で聞いていた人々と
後の世の私達に期待して語られたからではないでしょうか。


4.生きている時から死んだ者とされる親について考えてみます。
放蕩息子の譬え話の主人公は弟でも兄でもなく
父親であるとナウエンは述べています。
二人の息子の父親の苦しみを思い浮かべると、
この父親は物凄く不幸だと思いませんか?
放蕩の弟もふてくされた兄も、どの息子も父親の心を思いやりません。
気の毒な父親です。
息子が2人いながらどの息子も自分の損得しか考えていない、
慈しんで育てて財産を生前贈与までしたのに
どの子供からも思いやりを受けず労わって貰えない父親です。
弟息子は父親の生きているうちから「早く死んで財産をくれ」と要求し、
失踪した挙句、経済的な援助を求めて戻って来ました。
一緒に暮らしている兄息子は傍で一緒に生活しながら
「弟よりも優遇されない」と思い込み、不平不満と怒りを燻ぶらせなが
上っ面の従順さで父親に仕え、宴の食卓を用意したのに
「子山羊一匹すらくれない」と言って不満をぶつけて来ます。

子供から金づるとしか思われず、
疎まれ見捨てられる親の気持ちはどんなものでしょうか。
人の親でない私には想像すら出来ない事ですが、
高齢者の多い病院や高齢者施設で働くと、
その辛い心情を日常の中で聞かされる事がよくあります。

「一泊でいいから子供達の所に外泊して、一緒に年越ししたかったけど。
 今年の年末年始も迎えに来てくれなかった。」


とか、

「子供がいないと寂しいとは聞くけどね、子供がいると返って寂しいものだよ。
子供が大勢いたって小遣いに困った時に孫がたかりに来る以外は誰も来やしない。」


仕事柄そういう話を日常的に聞かされます。
二人の息子の父親はどうして、
何を望んで不従順な息子達を宴会の食卓に招くのでしょうか。
弟も兄も、二人の息子達はどちらも不従順で、不誠実です。
二人の息子にとって父親は「財産の今の持ち主」、金づるでしかありません。
弟も兄も父の財産には注目しますが父親の心を顧みる事をしていない、
父親を既に死んだ者のようにしか見ていません。
そんな父親の心情を思い浮かべると預言者イザヤの言葉が思い出されます。

 わたしに問わなかった者たちに、
 わたしは尋ねられ、
 わたしを探さなかった者たちに、見つけられた。
 わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
 「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
 わたしは反逆の民、
 自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、
 一日中、わたしの手を差し伸べた。(イザヤ65;1~2)


天の父なる神が手を差し伸べているのに、
神の民は見向きもしないのです。
イエスは天の御父を二人の息子を持つ父親に譬えて話しています。
神なる主、天の御父は宴会の用意をして待っておられると。
宴会の食卓を一緒に囲んで
美味しいものを美味しい美味しいと喜んで分かち合う、
歓びを共有する事を切実に望んで、
宴会の食卓に私達を招き手を差し伸べておられると。
預言者イザヤを通して
ここでは父なる神が御手をこちらに差し伸べている事が示されています。
しかし私自身は自分の心に抱える日常の不平不満しか心になくて、
すぐくたびれて希望を捨て、期待する事を諦め、辛い事にしか目が行きません。
ふてくされた兄息子のように宴の招きに背を向けるとは
実際このような事ではないでしょうか。
宴会の席を整えて招いて下さるお方はどんな気持ちがするでしょうか。
私達は放蕩息子の譬え話から、
せっかくお祝いの御馳走を用意したのに子供からそっぽを向かれて傷ついた父親の、
深い悲しみに注目しなければなりません。


5.大宴会を辞退する行為の重大さを思い浮かべてみます。
譬え話に登場する『宴会』とは何でしょうか。
招かれた宴会の食卓に着く事を拒む事にはどんな意味があるかを考えさせられます。
招かれた宴会の食卓に着かない事の意味を私達は考えなければなりません。
失われていた弟息子は生きて帰り父と共に食卓に着きました。
親に反抗せず暴言も吐かなかった兄息子はふてくされて家の中に入って来ません。
兄息子が思い直して父親の用意した食卓に着いたかどうかは私達読者にはわかりませんが、
放蕩息子の譬え話の前の章、『大宴会』(ルカ14;15~24)の譬えの箇所で
イエスが話をこのように結んでいる事をナウエンは指摘しています。

 「あの招かれた人たちの中で、
  わたしの食事を味わう者は一人もいない。」(ルカ14;24)


『放蕩息子』の譬え話で父が招く宴を拒絶する事の意味を考えると、
父の宴会の招きに背中を向けて拒絶する事は、
反抗し後足で砂を蹴散らして立ち去る事よりももっと重く絶望的でと気づかされます。
「失われた息子」は反発し金をせびって親と家を捨てた弟息子ではなく、
心の内に不満を隠し偽りの従順さを以て仕えてきた兄息子の方だとお話ししましたが、
ナウエンはイエスの受難の時のペトロとイスカリオテのユダとを対比して述べています。
ペトロもユダも土壇場でイエスを裏切ったのは同じでした。
ペトロは悔やみながらイエスと和解しました。
ユダは神も自分の命も全てを放棄して自殺しました。
この『放蕩息子の帰郷』の譬え話を自分自身に当て嵌めて読み直すと気づかされます。
私自身も、弟息子であると同時に、兄息子でもあるという現実です。
自分の心の在り方を見直さなければなりません。
つまりこの譬え話から私は「失われた自分」を見直す事を
考えさせられ、教わりました。
これまで何度となく福音書の『放蕩息子』の譬え話を読んでいながら、
今まで私は二人の息子の父には注目せずさらりと素通りしてきました。
この度友達が貸してくれたナウエンの本を読んだ事で、
差し伸べた祝福と慈愛の腕を払い除けられる父親の悲しみ、
子供から忘れられ死んだものとされる親の苦悩に気づき考えさせられました。
自分は天の父なる神様に対してそのような仕打ちをして来なかっただろうかと。
自覚がなかっただけでそのような事を神様に対してしてきたと思います。
これまで気づかなかったのは聖書の字面だけ読んでも実は読み取っていなかった、
イエスの語られる事柄を自分の事として受け止めようとする心が欠けていたからです。


6.宴会への招きを思い浮かべて見る角度を変えてみます。
「天の御父が招いて下さる大宴会」とは何でしょうか。
この譬え話で父が招く宴会とは、実に私達お互いの「喜びの共有」です。
ふてくされた兄息子は、不満を父親にぶつけました。
父親に対してこれまで口に出せなかった不満な思いを正直にぶつけたのは、
私はこのお兄ちゃんはこれで良かったと思うのです。
心に抱える不満を口に出して完結したのですからふてくされず食卓に着くべきでした。
実際、天の父なる神が用意して私達を招いておられる宴会の食卓とは何でしょうか。
どのようなものでしょうか。
私達は日常で出会った人々の生涯から苦しみの意義を見出す事がありますが、
苦しみの向こうに備えられた祝福の宴を見出す事も可能だと、
この度ナウエンを通して『放蕩息子』の箇所を読み直した事で気づかされました。

ずっと前にこの教会で当番が回って来た時に皆さんにお話ししたかも知れません。
以前話を聞いた方はすみません。
私はここの土地に引っ越して来て近所に住んでいた二人の信仰者と出会いました。
天の父なる神が備えられた宴会の食卓を、
ここで出会ったお二人の生涯から思い浮かべる事が出来ます。
お二人とも近所のカトリック教会の信徒の方でした。
一人は「ペトロさん」、もう一人は「アグネスさん」と、ここではお呼びしましょう。

ペトロさんは腰痛で受けた手術の失敗によって頸から下が動きませんでした。
昭和の時代の大昔ですから、医療過誤の裁判で被害者が勝訴するケースは稀でした。
腰が痛くて当時最新技術と言われた手術を受けて首から下が全く麻痺してしまったために、
仕事も生活も何もかも失っただけでなく、医療従事者達から暴言や侮辱を受け、
人間として扱われない体験をしました。
首から下が動かないと言う事は、体の自由が全く無い、自殺する自由すらありません。
ペトロさんは手術を担当した医師2名と病院を告発し相手取って訴訟を起こしました。
何年もの長い裁判をペトロさんは戦いました。
身体の機能と、仕事と生活の全てと、人生の望みの全てを奪われ、自殺の道さえ断たれて、
例え勝ち目がないと解っていても闘わずにはいられなかった裁判で、
最終的にこの人は勝ちました。
但し首から下を全部麻痺にされた7000万円の賠償請求に対したった300万円の勝利でした。
手術の前に承諾書を書いていたからです。
ペトロさんが自分自身の境遇を語った時の言葉を15年経った今も私は一字一句忘れません。

 「井上さん、俺は負けたんだ。
  俺は裁判には勝った。
  医者の落ち度を暴いて裁判には勝った。
  医者連中と病院側に非を認めさせて裁判には勝った。
  でも俺は負けた。」

たった300万の賠償金を手にした瞬間、それまで力になったり励ましてくれたり
何かと世話して支えてくれた親戚や友達が皆ハイエナに変わりました。
300万の中から半分は裁判の費用や弁護士に支払って消えました。
残ったお金から医療費を支払うと、親戚や友達が貸した金を返せと言って来ました。
手元に残った金も、あの時あれをしてやったからこれをしてやったからと
親戚や友達がみんな毟り取って、手元には数万円のお金しか残らなかったそうです。
金銭が無くなったらペトロさんの回りには誰も残りませんでした。
身内も友達も、誰一人信用できる人間がいなくなりました。
そういう事情でも賠償金を貰ったからという理由で市から生活保護費を打ち切られました。

 「俺が負けたと言うのはさ、裁判には勝ったけど何もかも失った、だから負けたんだ。
  俺は負けたんだよ。」

どうして私がこの事情を知ったかというと、初対面で聞かれたのです。
「 ここに来る前は何処の病院で働いていたの?
  …それは俺の体をこんなにした奴の病院だよ!」

私はこの人の体をダメにした医者の元で知らずに勤務した事がきっかけで、
今の生活の糧となる資格を働きながら取得する事が出来ました。
一人の医者との出会いで私は生活の糧を得ましたが
同じ医者との出会いによってこの人は人生をずたずたにされました。
首から下を動かなくされ、辛うじて得た賠償金の殆どを親戚や知人達に取り上げられ、
生活保護まで打ち切られたペトロさんに、
見かねて援助の手を差し伸べ力を貸したのはある政治団体の人々でした。
しかし無神論的な政治団体にのめり込むほど、
唯一の神に心の拠り所を求める気持ちが何故か強くなって、
人に頼んであるプロテスタントの教会に連れて行って貰いました。
聖書研究会に参加するようになりましたが、ちょうどその頃湾岸戦争が勃発して、
政治意識の強かったペトロさんは聖書研究会の席で問題提起しました。
キリストの平和を掲げながら逆の事をする者に対して、
教会は何故何の抗議行動もせず黙って見ているのかと。
メノナイト教会なら何の問題も無かったでしょう。
しかし当時小さな教会の聖書研究会に政治論議を持ち込んだために、
ペトロさんは教会の人々から煙たがられて、
やっとキリスト教の教会につながる事が出来たにも拘らず
その教会に居られなくなりました。
口論になって教会を去る時、信者の女性が自分の所属教会を捨ててついて来ました。
奥さんとなった人は私に言いました。

 「私が一緒に行かないと自分では動けないこの人が
  キリストとつながる道が永久に絶たれてしまうと思った。
  人間は教派や教会をなんぼでも作るけど、神様はたった一人だけ。
  この人を連れて行ける、キリスト教の他の教会を探そうと思った。」

そしてある日近所のカトリック教会にその人を連れて行きました。
自分達がそれまでいた教会とは趣きの全然違う教会でしたが、
キリスト教なら何でもいいと思ったそうです。
主任司祭の神父様は諸手を挙げて大歓迎、
早速公教要理の勉強の場を設けてくれて、ご復活の日に洗礼を授けました。
この人の辿った道のりから天の父なる神を感じ取る事が出来ます。
父なる神は動けないこの人のために道を用意し、
祝宴の食卓を整えて待っておられました。
神ご自身が御手でこの人を絶望から守り、必要な助け手となる信仰者を興して、
ペトロさんを大切に大切に運ばれた事を、
私は現実の出会いの体験を通して目に見せられた気がします。

医者も病院も生涯許せないでしょうねと私は聞いてみました。
静かに、穏やかな顔で答えたペトロさんの言葉と声を
私は今さっきの事のように思い出します。

 「井上さん、俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。
  だから辛い事も頂くんだよ。」

これは旧約聖書のヨブ記の引用ではありません。
ご自身の体験から私に語ってくれた、この人自身の言葉です。
字面だけの聖書知識でヨブ記を引用したのとは違います。
『放蕩息子』の箇所で主なる神様が準備し招いて下さった「宴会」とは、
実にこのような事ではないかと気づかされました。

私が出会ったもう一人の人「アグネスさん」も
同じ近所のカトリックの信徒の方で、長崎の浦上出身でした。
ご近所で顔見知りになって、その頃私がたまたま入院して手術を受けたと聞いて
わざわざ病室までお見舞いに来て下さいました。
カトリックの信者さんと知り合うと、私は興味を持って聞きます。

 「貴方は成人洗礼を受けたのですか、それとも幼児洗礼でしたか?」

私の無遠慮な質問に対して、
アグネスさんはご自分が洗礼を受けたいきさつを話してくれました。

アグネスさんには母親しか家族がありませんでした。
どんな家庭の事情で母一人子一人になったのか自分でもわからないと言いました。
母親は結核だったためにずっと療養所暮らしで、キリスト教の信者である事は
親類縁者には隠していたそうです。
幼いアグネスさんは親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育ちました。
ある時、母親は療養所を出てアグネスさんを連れて函館から長崎に行こうとしました。
アグネスさんはその時まだ10歳になっていなかったそうです。

「今思うとね、母は死期を悟って
  私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」

と私に言いました。
汽車の長旅で母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかりました。
ところがあと少しで長崎に着くと思っていたら突然汽車が動かなくなってしまいました。
どうして汽車が動かないのか何時になれば再び動き出すのか目途が全く立たず、
母親はアグネスさんを連れて汽車を降り、長崎を目指し線路伝いに歩き始めました。
道の途中で、母親は何度か血を吐きました。
力尽きて線路脇に倒れ込みながら、母親はアグネスさんに言ったそうです。

「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
 死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
 お母さんは結核だから、死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
 だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
 お母さんはもう一緒に行けないから、あなたは一人で長崎に行きなさい。
 長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
 いい?
 必ず教会を訪ねなさい。
 お母さんがここで死んでいる事とあなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
  そこで言いなさい。
 必ず。」

幼い娘の目の前で母親はやがて息をしなくなり、動かなくなりました。
アグネスさんは、言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出して、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結びました。
その時の心境をあっけらかんと話してくれました。

「お母さんは死んでしまったし、
 私にはもう行く所がない、
 ああ、これから私はどうしよう、って思ったわ。」

しばらく死んだ母親の遺体の傍でぼーっとしていましたが、
言われた通り歩き出すより他にありませんでした。
アグネスさんは一人で荷物を担いで線路伝いに歩き始めました。
母親に言われた通り、長崎に向かって一人で歩き出した時の
小さな女の子の気持ちは想像もつきません。
そして、その時既に長崎は原爆を落とされていました。
一面瓦礫と焼け焦げた死体の山になった街をアグネスさんは途方に暮れながら
母に言われた通りに、場所も知らない教会を探して歩き続けました。
幼い娘をたった一人この世に残して線路脇で力尽きて死んで行った母親の気持ちと、
母親の亡骸を後にして、一人ぼっちで線路伝いに長崎に向かって歩いた先で、
原爆を落とされて瓦礫と化した長崎を見た時の女の子の恐怖と絶望とを思うと
とても冷静ではいられません。
10歳にならない小さな子供がたった一人で、
焼けた線路を辿って原爆投下直後の焼野原を行き倒れもせずに
長崎市内に入る事が出来ただけでも奇跡としか言いようがありません。
瓦礫の中を彷徨ううちに浦上の教会を知る人と出会って、
辛うじて生き残った司祭の一人と会わせて貰う事が出来ました。
しかし洗礼台帳も何もかも焼けてしまっていて、
この人の幼児洗礼を証明する記録は残っておらず受洗を確認する事はできませんでした。
司祭はアグネスさんに

「あなたのお母さんの仰った事は、私は本当だと信じます。
 ただ貴方はまだあまりにも幼いから、
 もし万一という事があっても大丈夫であるように」

と言ってこの小さな女の子にその場で洗礼を授けました。
これが私の入院先に見舞いに来てくれたアグネスさんの受洗のいきさつでした。
洗礼名の「アグネス」は「子羊」という意味です。

私達の所属するメノナイト教会は歴史的に再洗礼派の末裔として位置付けられており
あくまで自分の意志で信仰告白をした者にしか洗礼は授けない、
自分の意志でない洗礼は無効であると、幼児洗礼を認めない考え方によって
メノナイトは迫害の歴史を歩んできました。
もっとも私達が実際に迫害を受けた訳でも何でもありませんが。
とにかく今でも私達の教会は幼児洗礼に対して批判的な考え方をする立場にあります。

しかしこの人にとって「幼児洗礼か成人洗礼か」などどうでもいい事です。
私は「幼児洗礼か成人洗礼か」とこの人に尋ねた自分の卑しさを痛感しています。
本当に恥ずかしい、愚劣なくだらない質問をしたと思います。
天の父なる神様がこの人と片時も離れずにいらした事を
私は目の前で示された気がします。
幼かったこの人が行き倒れもせず命を落とす事無く教会で保護されたのは、
神様がこの人を御手の中に大切に守って運ばれたからだと私は確信します。
瓦礫の中で行き倒れずに、生き延びて何十年も経った後に私と出会ったのです。
この出会いによって主は私に何を悟れと言われるのか、
その事を考えさせられます。
アグネスさんは私に言いました。

「毎朝、お祈りをするのよ。
 今日一日、
 私に出会わせて下さる人、
 擦れ違う人、
 全員が天国に迎えられますように。」

この人がどんな経歴でどんな道のりを歩いて来たかを知らなければ、
この祈りは如何にも取って付けたような敬虔で信心深い祈りの言葉、
模範的な優等生信者の台詞のように、
出来過ぎて鼻に付く白々しい文言に聞こえるかも知れません。
しかし私は知っています。
この祈りはこの人がまだ10歳にもならない子供だった時に目にした、
惨い光景の只中の祈りです。
線路脇に行き倒れて死んでいった母親や、道の途中の至る所で焼け焦げた人々の
無残な死体の前で「みんな天国に迎えられますように」と祈った幼い子供の祈りでした。
真っ黒に焼け焦げて死んで行った人々だけでなく、焼かれて死にきれず息絶え絶えの、
惨たらしい状態の人々をもこの人は見たでしょう。
小さい子供だったこの人の幼い魂を天の父なる神様は守って、
司祭と出会うまでの道程を御手の中で大事に大事に運ばれたと思います。

私達は一人一人苦難と喜びとを与えられています。
ペトロさん、アグネスさんと出会って、
彼らが潜り抜けて来たあまりにも過酷な体験を聞いた時、私は動揺しました。
そして、お二人がそれぞれ何故そんな酷い目に遭わなければならなかったのか、
苦難の意味を尋ねる事を、私は祈りの中で神様に対してしました。

主なる神が宴を用意し招いておられる事には目もくれず、
自分や他人の苦難の方にばかり注目する、そんな心の在り方を
ナウエンは厳しく見つめ、この『放蕩息子の帰郷』の本の中で

「相手の苦難の方にばかり注目する自分」

と言い表し、
より深刻でセンセーショナルな三面記事を好む心理について述べています。
私は自分が指摘された気がします。

今お話ししたお二人の苦難の方にばかり注目して、
肝腎の、その先に備えられた祝福、父なる神が如何に彼らを大切に守って
喜びの宴の席に運ばれたかについては私は殆ど目を向けて来ませんでした。
知っているのに注目して来なかったのです。
お二人が味わわれた過酷な体験の、過酷な部分にばかり私は気を取られて、
彼らが一生涯かけて体験した天の父なる神の祝福をせっかく私に語ってくれたのに、
その祝福に私は目を向けず彼らの苦難にばかり注目していた事にこの度気づかされました。
自分の心の在り方、ものの見方を変えられたというのはこの事です。
勿論他の人の苦しみに共感し涙する事は大切な事です。
相手の直面する問題を深刻に考えて話し合い、泣く人と共に泣く事から
更にその先へ踏み出す事についてもナウエンはこの本の中で述べています。
苦難を通じて見出される祝宴への招きとその喜びを共有するが出来るからです。
この度ナウエンのこの本『放蕩息子の帰還』の9章、主の宴の食卓の章を読んだ時、
私は真っ先にお二人の事を思い出しました。

そして今、この本を読んだのがきっかけで、
彼らが体験を通じて語った事は、
それ自体が天の御父の宴、御父の喜びの食卓だったと今になって気づかされました。

ここの土地で出会ったお二人が天に帰られてからもう10年以上になります。
10年経っても、天に凱旋して行った人達が苦難を通して
私に語って下さった言葉は私の中に鮮明に残っており、
今さっきの出来事のように、私は一字一句忘れていません。
忘れようとして忘れられるものではなく、むしろ記憶の中で燦然と輝いています。
天の御父の宴の食卓とはそのようなものかも知れません。

私自身は信仰者として優等生にはなれませんし、敬虔でもいられません。
ただ、放蕩息子の譬え話の兄のように、
天の父なる神が招いて待っておられる食卓に背を向ける事には気を付けようと思います。
差し伸べられた御手に背を向ける事無くこの生涯を最後まで、そして皆さんと共に
全うする事を切に望みます。

2015.9.13礼拝メッセージ

2015-09-13 22:45:16 | 礼拝メッセージ
おはようございます。
今日は牧師先生がお留守のため急遽私が今日の礼拝で
メッセージの奉仕をさせて頂く事になりました。

今日は死生観についての、
ある友人から頂いた助言を皆さんと分かち合いたいと思います。
昨年7月6日に父が帰天し、
教会での葬儀と事務手続きと父宅の片づけ、遺品整理、
部屋の掃除と明け渡しを完了し、8月10日に教会墓地に納骨、
ほんの1ヶ月のごく短期間のうちに一気に全部を済ませました。
葬儀の10日後から職場復帰しましたが急変と急病が多くて忙しく、
めそめそする間もありませんでした。
父が地上での苦しみを終えて天の御父の元に行った気がして、
辛気臭くもならずただ時間に追われておりました。
しかし人間には感情と言うものがあって、
単純には割り切れません。

例えばヨーカドーでおかずの材料を買っている時に
父の好きだったポテトサラダとか鯖の刺身とかウドとか、
おはぎとか、そういうものを見るとああもっと
食べれるうちに食べさせてやればよかったと思いますし、
父のいたのマンションの6階の部屋が見えると
父が一人でストーブの前に座って当たっていた姿を思い出したり、
この教会に来る途中、父の入院していた病院の前を通ると、
父のいた3階の病室が国道に面して見えます。
ああ、あの窓の真ん中の辺りで手を縛られて寝ていたんだ、
と思い出して辛くなります。

あんなひどい収容所みたいな病院に入院させなければよかったとか、
考えても仕方のない事を考えてしまいます。
1年経った今でもそれは同じで病院の前を通り過ぎる時に思います。
酷い目に遭わせて死なせてしまった、
拘縮した手が少し動いたからとベッド柵に紐で縛りつけ、
水平仰臥位で口腔ケアをした挙句にブラシで上顎を傷つけて出血させ、
血液を誤嚥させて、まともに体位変換すらせず
仙骨にも踵にも褥瘡を作り、8ヶ月間もIVHカテーテルを交換せず
血液にばい菌が入って菌血症に陥らせ、下血しても私には事後報告、
両目が右に寄ってしまって急変しているのに
「年寄はこんなものだ」と見もしなかった、
あんな劣悪な強制収容所同然の老人病院に入院させたのは
この自分だ、私自身だ、そのために父を酷い目に遭わせて
死なせてしまったと思います。
急変する前にあの酷い病院から転院させればよかった。
もっと話しかけてやればよかった。
もっとあれもこれもしてやればよかった。
「父は苦しみを終えて天国に行った」とは言っても
その苦しみの原因は私が作ったものだ。
15年間間近で介護してきながら、
最後の時に一緒にいてやれなかった。
あの酷い老人病院に「生活圏が近い」というだけの理由で
入院させ 劣悪な環境で父の心身を無駄に傷めました。
父の筋力が落ちて介助の負担が重くなった時に、
父の目の前で私は溜め息をつき、
「もう嫌だ」と呟いた事が一度ありました。
その時の父のふっと自嘲するような寂しい笑い顔が
まだ私の眼に残っています。
父の認知症が進んで譫妄状態に陥り
小型ラジオで私の顔面を狙って来た時、
私は父を平手打ちしました。
介護する以前のもっと昔にも、父がまだ元気で現役だった時、
札幌で働く私に小遣いを渡そうと
駅のホームで父が待っているのを知りながら
私はわざとすっぽかした事もありました。
どうしようもない事ばかり思い出して考える時が、
父の死後1年経った今もあります。
人が死ぬと、必ず何か関わりがあった事を思い出して後悔します。
私はそういう日々の出来事を日記としてブログに書いていて、
それを読んだ友人から助言を受けました。

「井上さん、あなたも精一杯生きてきた。
 イエス様はもっと愛に満ちた視点で井上さんを
 見ているに違いないように思います。
 その声に耳を傾けられますように祈ります。」

慰めてくれるんだなと受け止めて、ありがとうと言って
その時は深く考えませんでした。
めそめそする間も無いほどしなければならない事が山積みで
忙しく疲れていた事もあり、もうこの事については考えるのをやめ、
父はこの地上での苦しみを終えて天の御父の元に行った、
とだけ自分に言い聞かせました。
だから辛気臭くなりもせずただ時間に追われて日々が過ぎました。

それが、去年の今頃たまたまPCを開くと、
ブログを通して父の死を知った人から挨拶のメールが来ていました。
その文面を見て固まりました。
その知人からのメールは私への慰めの言葉に始まり
「ご無沙汰しておりました」と近況報告の中で
前の年に一人息子を亡くしたと書かれていました。
母一人子一人で、
その人にとってたった唯一の肉親である息子さんでした。
たった一人の家族である息子さんを亡くした人の無念に比べたら、
私が父親を天に見送った事など
蚊に刺された程度にも及ばないと思いました。
若い人が亡くなって残された親御さんを思い浮かべると辛いものです。

その後久しぶりにこの教会に来て礼拝に出てみたら、
K君が海に落ちて亡くなったと週報に書かれていました。
私が教会でその事を知った時は
既に遺体も発見されて葬儀も終わっていました。
まだ20歳になっていなかった、
父が生前「野球のおにいちゃん」と言って
日曜日に教会で会えるのを楽しみにしていた子でした。
誰もが思う事ですが、私もその時思いました。

「どうしてだろう。
 どうしてこんな事が起こったのだろう。
 どうしてこんな酷い事が起こるのか、神様はどうしてこんな…」

今回のK君だけでなく、Nさんが亡くなったと後から聞いた時も、
そして2002年の四旬節にも同じ事を思いました。
この教会の会堂が新しく建てられる直前、
暴走して来た車に正面から激突されて車が大破し
A君が突然亡くなった時でした。
A君は2か月後に結婚式を私達の教会で挙げる筈の新郎でした。
あの時も、私は思いました。

「どうしてだろう、
 2か月後にこの教会で結婚式を挙げる筈だった新郎の葬式を、
 どうして今、私達の教会は出さなければならないのだろう」

と。
死生観が問われ、
信仰者の確信がぐらぐら揺れるのはこんな時だと思います。
正直、去年の今頃、私は自分の父親の死の時よりも
K君が突然事故で命を落としたと知った時の方が
感情を抑えられませんでした。
後で知った私でさえこのようでしたから、
K君が海に落ちたと聞いて連日車で現地の海岸や崖の近くを探し回った
牧師先生や祈り続けていた皆さんは
もっと思う事があったのではないでしょうか。
去年の11月の月報の牧師先生の書かれたK君への追悼文の最後、

「あの岩場にロープが垂れていなかったら…と私には思われて、
 残念でならない。また、悔しくて仕方がない。」

という一文は、K君が見つかるまで現地で探し続けた牧師先生や
教会の皆さんの無念の思いが伝わってきます。
私達はこの悲しみを互いに共有しています。

84歳だった父は長い生涯のうちに悩み苦しみながら最後まで完走した、
地上の苦しみを全部終えて達成したとか完了したと言い表せるような、
死とは言っても父の死は何か晴れやかなものの気がします。
しかし私の知人の息子さんも、K君も、
若い人達はある日いきなり奪われるようにいなくなりました。
人の死は死でも、長い生涯を全うした私の父の死と
これから将来がある筈だった若い人達の死が同じ筈はありません。
地上に残された者にとってはむしろ全然違うものの気がします。
まして事故や自死という形で突然子供を失った人達はどんな思いで、
どれほど自分を責め続けるでしょう。
あの時何としても引き止めていればこんな事にならなかったのに。
もっとゆっくり話を聞いていたらこんな事にならなかったのに。
どうしてもっと早く気付いてやらなかったんだろう。
そのように自分を問い詰め自分を責め続け、
これからも一生涯苦しみ続けのかと思うと何と言葉をかけていいか
慰めも何も、言葉が一つも思いつきません。
「神様はどうして、あの若い人達を突然召されたのだろうか」
納得のいかない現実を見て
「神様はどうして」という思いが湧き起った時、
信仰がぐらぐらと揺らぎます。

先程お話した助言をくれた友人に「どうしてだろう」と話しました。
あなたはどうしてだと思うか、あなただったら子供を失った人に
どんな言葉をかけるかと聞いてみました。友人は言いました。

「井上さんがお父さんの死を乗り越えた事が
 何か助けのヒントにならないだろうか」

と。
私が父の死を乗り越えたかどうかと尋ねられると、
私の場合は父が生きて介護していた時から
いずれ死が来ると思って身構えていたために
父の死が忌むべきものとも不幸な出来事とも思われず、
むしろ長い苦しみをやっと終えた父が天国に凱旋して行くような、
ほっとしたような、晴れやかなイメージしかありません。
天気が良かったからでしょうか。
父が息を引き取った朝も、前夜式の日も告別式の日も晴れていました。
告別式の朝、出棺の時の太陽は眩しく、
火葬場に向かう時に見上げた空が一つの雲もない深く青い青空、
快晴だったからでしょうか、人の死がこの世の苦しみを終えて
天国に凱旋して行った晴れやかなもののように思われたのですから、
乗り越えるも何も無いのです。
病院のベッドで迎えた死と不慮の事故死とでは
受け止め方が当然違う筈で、
単純に「親族の死」と一括りにはできません。
身近な教会の仲間の悲しみは、共有出来るようでいて、出来ません。
それが辛いところです。

1年経って今、
私は完了した過去の出来事として父の生涯を思い出しますが、
若くして子供を失った人達はそうではありません。
自分の子供を失った人にとって1年経ったからと言って
何かが変わる事はなく、時間は告別式の直後のまま止まっています。
子供を失った人は「朝が辛い」と言います。
寝坊するよと起こしてやる必要が無くなった、
早起きして弁当を作ってやる必要が無くなった、
毎朝していた事があれもこれも要らなくなった。
何もしなくてよくなった朝が、物凄く辛いと。
子供を失った人達は未来を失ったのです。
父が天国に凱旋して行った、と言う私でさえ
1年経ってもまだ後悔する事をたくさん引き摺っているのですから
子供を若くして失った人の痛みは計り知れません。
あの時こうしていれば、と自分を責め続ける人に
何と話しかけたらいいのか、かける言葉が見つかりません。
食事も摂らず寝ても起きても自分を責め続ける人が
その責めから解放されるにはどうすればいいのでしょうか。
「祈ります」というその祈りはどう祈るのか。
ここまで話して友人から助言を受けました。

「 話す機会があったら
 “神様はあなたを責めるだろうか?”
 と問いかけてみては?」

と。
身近な人の死に直面して
あの時こうしてやればよかった、あんな事しなきゃよかったと
自分を責めている人は「神様はあなたを責めるだろうか?」
と問われて気付く場合があるというのです。
これは大事な事です。
結論や正解をこちらから言い聞かせるのではなく問いかけるのです。
ご本人が自分から神様に向き合うために。
そして、友人はこうも言いました。

「井上さんの言った
 ”死が地上の苦しみを終えた天国への凱旋である”
 というのは間違いないです。
 たとえ不慮の死であっても、神が呼ばれたもの。
 だから死はどんな死であっても天国への凱旋である事、
 そこに目を向けられたら楽になるのに。」

これはあくまで信仰者同士の間の会話です。
私達信仰者は主なる神の赦しと憐れみの無限な事を知っています。
身近な人の死を防ぐ事が出来ず、助ける事が叶わなかったために
自分を責め続けて苦しむ人を、私達の神は決して責めたりしません。
私達の神は自分を責めて苦しむ人を、
更に裁いて責め苛むような御方ではないのです。
それを私達は知っている筈なのに、
現実で起こった事が受け入れられず納得できずに
私達は人や自分を責めます。
責める相手がいなければ自分を責めるしかないのです。
でもそんな自分を責めている人に
「神様はあなたを責めるだろうか、神様はそんなお方だろうか?」
と問いかけると、はっと気づくかも知れないと友人は言います。
問われても今すぐ気付く事は出来ないかも知れませんが、
いつか気付くかも知れません。
隣人が自分を責めて苦しんでいる事を知ったら、
私達はその人に問いかけなければなりません。

「あなたは一生懸命生きて来た。そんなあなたを神様は責めるだろうか」

そして、伝えなければなりません。

「神様は苦しんでいるあなたを責めるような御方ではない。
 もっと慈愛に満ちた目であなたを見ている。
 あなたがそんな神様の愛に気付く事が出来るように、祈ります。」

これは私達の主イエス・キリストへの信仰の根幹です。

死生観は神への絶対的な信頼に成り立つものです。
神が責めないものを責めてはならないのです。
それが他人であっても自分自身であっても。
何故なら生命は全て神のものだからです。

昔看護学生だった時に、
精神科医が絶望した患者さんに話すのを見ていた事があります。
その患者さんは、ご主人を癌で失った直後に、
自分自身も脳出血で半身麻痺になって、
一生懸命真面目に生きて来たのに夫は癌で亡くなり、
結局助ける事は出来なかった、
自分自身までも脳出血で子供に迷惑かける麻痺の体になって、
もう生きていたくない、生きろと言うなら何のために、
何をして生きればいいのかと、
その人は泣きながら精神科の医師に訴えました。
その時の精神科の先生の言葉を私は忘れません。

「そうなんだよ。思い通りにならないよね。
 それは僕達の生命が自分の物ではないからなんだ。
 病気になったのはあなたのせいじゃない。
 誰かのせいでもない。生命は預かり物なんです。
 誰から預かったのか、
 あなたにとって神様か、仏様か、ご先祖様か、
 僕は知らないけど。
 預かり物だから決して自分の思い通りにならないし、
 故障だってします。
 預かり物はいつか返さなければならないし、
 返す時まで慈しんで大切にしなければならないんだ。
 故障して辛くてもね。
 あなたは弱くないよ。
 本当に弱い人は自分で自分の事なんて考えられないもの。
 あなたは悩む事ができるし、考えて、話して、泣く事もできる。
 強いんだ。強いから悩んで、考えて、話して泣けるんだ。
 だから乗り越えられるよ。必ず。」

キリスト教徒の死生観とはこのようなものです。
病院で宗教の話をする事は許されません。
しかし精神科の医師によって
「主」や「キリスト」と言う言葉を一切使わずに言い表された、
信仰者の死生観を私は反芻しています。
この精神科医はキリスト教徒でした。
パウロが言ったとおりです。

  私たちの中でだれひとりとして、
  自分のために生きている者はなく、
  また死ぬものもありません。
  もし生きるなら、主のために生き、
  もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
  ですから、
  生きるにしても、死ぬにしても、
  私達は主のものです。
                  (ローマ14;7~8)

生きるにしても、死ぬにしても。
命は全て神様のものです。
だから誰も自分の自由にする事は出来ないし
思い通りにはなりません。
自分自身の生き死にの事であればまだ受け止めやすい
かも知れません。
しかし身近な人をどんな形であれ
天に見送った人にとってはそうではありません。
常に後悔と自責が自分の中にあります。
信仰の仲間が自分を責めたり後悔したり色々考えて苦しんでいる時に、
共に祈り、神様はあなたを責めるだろうか、
と問いかける事の出来る者でありたいと思います。

2015.6.28礼拝メッセージ

2015-06-28 23:59:21 | 礼拝メッセージ
おはようございます。
礼拝メッセージをさせて頂くのは
記憶に間違いなければ2011年4月第2週以来です。
昨年の父の葬儀における皆さんのお祈りとお力添えを
心から感謝申し上げます。
父はこの教会で2008年のご復活の日に78歳で洗礼を受け、
教会の家族の一員に加えられ、
昨年7月6日の朝、84歳で地上の苦しみを終えて天に帰りました。

今日の福音書の箇所はマタイでは7;12、ルカでは6;31、
新共同訳では山上の垂訓の小見出しの
「幸いと不幸」「敵を愛しなさい」の後に続いて語られた、
黄金律と呼ばれる箇所です。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、
 あなたがたも人にしなさい」

キリスト教でなくても、
逆の言い回しでも、人を叱る時に使われる言葉ですね。

「自分が人からされて嫌な事を人にしてはいけません」


私の父Yとその父親K、
父の腹違いの妹N、弟Mと彼らの父親であったK、
そして父と私と妹、
私達はどの親子を取り上げても
生き物としての血のつながりと法律上の血縁、親族ではあっても
実際は親子とか家族などと呼ぶに値しないお粗末なものでした。
何故なら私達は誰と誰との間柄を取っても「黄金律」がありませんでした。


私達の主イエスが何故この箇所を
「これこそ律法と預言者」と私達に示し勧められたのか、
何故「黄金律、黄金の律法」と呼ばれるのか、
私達にとってなぜこの律法が「黄金」なのか、
この黄金律なしに生きようとすると私達人間はどうなるのか、
今日お話したいと思います。
父の介護のためこの地に来てから父を天に見送るまで15年間に、
父Yの生涯を通して、そして父の父であるKの生き方死に方を通し、
その子孫である自分自身を振り返り、
主から教えられたというよりも思い知らされたという方が的確なほど
はっきり示された事柄、神様が私達を何のために生み出されて、
何のために生かされているかについてお話します。


父も、父の父親も、私も、
神様に喜ばれる生き方をしてきませんでした。
神の愛を語る時に
「神の親心」と神を親に例えて語られる事がありますが、
神を親に例えたら信じる事が全く出来ません。
私は人の親ではないので親の立場からものを見て言う事は出来ません。
あくまで子供の立場から言います。
子供にとってこの世に親ほど信用ならない者はありません。
親ほど身勝手な都合で子供を利用し、子供の人生を歪め振り回し、
踏み躙る者はありません。
私は5歳の頃から両親から八つ当たりで折檻される度に
自分の親に対してこのように思っていました。
30歳で洗礼を受けた時、
私はまだこの「親に対する恨みの感情」という問題を
まだ冷静に直視する事が出来ず棚上げしていました。
しかし後になって、私の父も自分の父親に対して
同じかそれ以上の怨みを持っていた事を知りました。
15年間の介護を通して、また当時の事情を知る父の親族の話を通して。
つまり、私が小さい時から父に対して抱いていた憎悪や怨みと同じ思いを、
父もその父親に対して抱きながら育ち、
84年間生きて死んで行ったという事です。
私も、私の父も、この「黄金律」の無い環境で育った、
親から愛されない子供でした。
つまり私達親子は
人と人との関わりの中に「黄金律」が欠けているとどうなるかの
一つの事例と言えるでしょう。


分かり難いので相関図を書きます。虚しい系図です。
私の父、Yは自分の生い立ちや親族の事を多く語りませんでした。
子供の頃私は不思議に思ったものです。
母には母の両親があり兄と姉妹がいるのに、
父にはどうして誰もいないのだろう。
父は誰から生まれ、誰に育てられたのだろう。
育った家はどこにあるのか、兄弟か姉妹はいないのか。
父に聞くと返してきた答えは
「そんなものはない。余計な事を聞くな。」でした。
私が物心ついた時から父とは親子の間の会話すら成立しませんでした。


父Yが2歳の時にその両親は離婚しています。
父には実の妹がいましたが1歳で亡くなりました。
大家族の中の嫁でしたから、
日頃の疲れのためか母親は乳を含ませたまま寝入ってしまって、
気がついた時には赤ん坊の顔は半分潰れて死んでいたそうです。
それが元で父の母親は裸同然で家から追い出されました。


父Yの父親、Kという人は
親族の誰もが言う非常に頭の切れる人で商才抜け目なく、
戦前は行商などしていたそうですが、
第二次大戦中は徴兵で満州に渡り、戻って来た時には
人格が変わっていて他人の嫌がるような事も平気でするほど
その人間性は荒んでいたと聞きました。
今で言う闇金のような商売をしてどれほど荒稼ぎしたのか
今では知る術もありませんがこの市内の橋の南の地区一帯を買占め、
巨額の財産を築いていたそうです。
誰もが貧しく食べて生き延びるだけで精一杯だった終戦後に、
Kの身に付ける衣類は全てオーダーメイド、下着に至るまで
全て一枚一枚名前の頭文字の刺繍入りで、
ロンジンというブランドの腕時計を身に着け、
高級な葉巻を吹かしていたと聞きます。
一時は積み上げた売上げ金、高利貸しの利息が食卓からこぼれ落ちたと
父の腹違いの妹Nも言っておりました。
再婚と離婚を判っているだけで5回以上も繰り返し、
愛人と呼ばれる女が何人いたのか見当もつきません。
そして戦争で行方不明になった他人の土地を手に入れる目的で、
自分の息子Yと目の見えない自分の実の姉(私には大伯母)の
戸籍を偽造しました。
デジタル化されていない昔は多少の悪知恵があれば
戦時中の混乱に乗じて戸籍を都合よく改竄したり
悪い事をする者はいたのです。
Kのように。


昨年7月に父Yが亡くなってこの教会で葬儀の済んだ後、
死後の事務的な手続きのため市役所から取り寄せた
父Yと祖父Kと曽祖父の改製原戸籍を見ると
おかしな事になっています。


Yの父親はKですが、Kの戸籍にはYという子供はありません。
長男と一度書き込まれてから、
後になって文字を削って消した痕跡があります。
Yは戸籍上曽祖父の孫ではありますが、
父親Kの息子ではない事になっています。
1歳で死んだ、Yの実の妹も同じく抹消されており、
祖父Kの改製原戸籍では、長男Yもその妹も
初めからこの世に生まれなかった事になっています。


親族から話を聞いた時、
そんな事があるのかどこまで本当の話かわからないと言って
私は半分冗談にしか聞きませんでしたが、事実でした。
祖父Kが戦時中の混乱に乗じて他人の土地を
非合法なやり方で手に入れようとして、
自分の全盲の姉と自分の息子の戸籍をいじった痕跡です。
何よりも、
祖父Kが死んだ後でこの戸籍を初めて目にした時、
当時33歳だった父Yはどんな気持ちがしたか、
どんな気持ちで自分の父親の死後の後始末をして
自分の父親の墓を建てたか、私には想像できません。


父Yは小学1、2年の頃には米をとぎ買い物や掃除洗濯をし、
眼の見えない大伯母の身の回りの世話をして、
二人で身を寄せ合って生活していました。
おそらく祖父Kにとって再婚に不都合だとか商売に有利だとか、
何らかの都合があったと思われます。
親が子に対してする事ではない、人としてやってはならない事を
祖父Kは自分の子供に対してしました。
自分の実の子供を、都合悪くなったからと初めからいなかった、
生まれなかった事にして戸籍を削除する、
親が子供を粗末に扱うとはこういう事です。
51年経った去年、父が亡くなって初めて、
親族関係者の言っていた話が年寄りの妄想や作り話ではなく
事実であった事、祖父の身勝手な行為の証拠を
私は自分の目で見ました。


父が10歳で眼の見えない大伯母と暮らしていた時、
この地で祖父と暮らしていた後妻の最初に産んだ男の子が
生後間もなく死にました。
この亡くなった男の子も一度「昇」と名前を付けられ入籍してから
後になって削除されて戸籍には名前が残っておらず、
過去帳に死亡年月日が残っていながら
生まれていない事になっています。


私達キリストを信じる者は誰でも、
生まれて来る命が神の愛を受け御手でこの世に送り出された、
かけがえのない人間の命である事を知っています。
信仰の無い人でも、いつの時代にあっても、
多くの人の親はそれを知っており
人間として自分の生み出した子供を大切に養います。
つまり、
私の祖父Kがその子供達にした事は人の道を外れていました。
親が自分の子供を戸籍から抹消し初めからいなかった事にした、
主なる神がこの世に送り出した人間を生まれなかった事にしたのです。
単なる書類上の記載や事務手続きの問題でしょうか?
例え血と肉を分けた親子であっても、
神が世に生み出された人間の存在を否定し、
「消す」という行為がどれほど罪深く神と人間に敵対する行為であるか、
神を畏れる私達は知っています。


継母の最初に産んだ男の子が亡くなったため、
Yは10歳の時に父親と継母の家に引き取られてこの地に来ました。
父親であるKが突然Yを引き取ると言い出して、
Yは目の見えない大伯母から引き離され、闇金稼業の跡取りとして、
父親Kと継母の家で新たに同居する事になりました。
後妻は継子であるYの分だけ食事を作らず、目の前に菓子を置き
見せながら決して手をつけさせない、そういう事をして
後妻は10歳だった私の父Yを陰湿にいじめ、日々排斥しました。


この後妻のした事は酷い継子苛めではありますが、
心情は理解できなくもありません。
自分の赤ん坊が死んだ代わりに、
10歳にもなる先妻の子供が引き取られて来たのです。
それも物心つかない頃から親族の間で盥回しで育った、
父親にすら懐かない10歳の子供が。
可愛がれますか?
自分が最初の息子を亡くしたばかりの時に。
Yはこの継母からは随分苛められたようで、
後々まで心理的に尾を引きました。


つい2、3年前まで、在宅介護でこの教会に通っていた頃、
父の認知症が進むにつれて、75年も昔の怨みが甦るのか、
ヘルパーさん達や私に矛先が向けられて、
私達は随分嫌な思いを味わいました。
例えば休みの日に私が
父Yの好きな稲荷寿司や餅入り巾着を作って出すと
突然目つきが変わって「そんなもの誰が食うか」と叫んで逆上し
器ごと頭からぶっかけられたり、ヘルパーさん達は理由も無く罵倒され、
業務上介護として認められない理不尽な雑用を要求されたり、
特定のヘルパーさんを標的にして介助を拒否して苛め、
関わる誰も彼もを困らせました。
一度、私を殺すと言って刃物を隠し持ったりちらつかせ、
マンションに鍵を掛けて籠城し、
牧師先生にも来て頂いた事がありました。
あの時先生には大変な御迷惑をおかけしました。
あの理不尽で凶暴な怒りは、
父が子供の時にその父親と継母からされた虐待の代償行為として
私に向けたものであり、私はその事を知っていました。
父Yは自分の父親Kにも、自分を苛めた待母にも
深い恨みを持っておりました。
認知症が進むにつれ暴言暴力が止められなくなり、
手に負えなくなって私は父の脳外科の主治医から紹介状を貰って
某総合病院の精神科に何とか受診させました。
健診と偽ってヘルパーを同行させ、
私は父本人と顔を合わせないように外来の看護師達に配慮して貰って
柱の陰や処置室に隠れ、精神科医や臨床心理士との面談をしました。
精神科の診断名は脳血管性の認知症と、もう一つ、
統合失調症という病名がつきました。
統合失調症は誰にでも起こり得る病気です。
苛めなど、辛い体験によって受けた心理的外傷、
心の傷によって発症すると言われます。
実に私の父Yは84年の生涯を精神的に病んで苦しみました。


私自身も2、3歳の頃から意味も理解できないままに
父と母とから八つ当たりを受けて育ったため、
両親に対する怒りと恨みを押し殺していましたが、
その父Y自身もまた自分の父親Kに対してそっくり同じ感情を
持ちながら、矛先は当のKではなく母や私に向けました。
父Yが現役の時は理性で抑制されていたのか
内面と外面を使い分ける事が出来ていました。
しかし認知症が進むとタガが外れて隠し切れなくなったのか
不穏な怒りとして表面に出て来たのでした。
先ほどもお話したように、
私は人の親ではないのであくまで子の立場からものを見て言いますが、
親は子供を粗末に扱ってはなりません。
子供を粗末にすると何十年も、
その子供が死ぬまで関わる全ての人を理不尽に傷つけます。
子供を持つ人、これから人の親になろうとする人は
自分が子孫を残すに値する人間かどうか、
自分が子供から「親」と呼ばれるに値する人間かどうか
よく考えるべきです。


莫大な財産持つ父親がありながら、
父Yは育ててくれる人のない孤児同然でした。
何よりも、人として生きる上で一番重要な「黄金律」を
親から学ぶ事が出来ずに育ちました。
「自分が痛い事は人も痛い、だから人を傷つけてはならない」
という事をです。


Yを虐待した後妻は最初の男の子を亡くした後、
女の子Nと男の子Mを、
Yにとって年の離れた腹違いの妹と弟を産んでいますが、
この腹違いの妹弟達はもっと惨めな思いを味わわされて育ちました。
後妻と祖父Kとは愛人の事や商売の事や色々な事から不仲で
当時離婚調停しており、2人の間で
どちらがどの子を引き取るかで争いました。
祖父Kも後妻も、実の父親と母親でありながら
どちらも15歳の女の子の方を引き取りたがり、
6歳の男の子は引き取りたくないと互いに押し付け合いました。
中学生の女の子を引き取る方が得で、
小学生の男の子を引き取れば損だという理由です。
2人以上のお子さんを持つ親である皆さん、理解できますか?
自分に2人子供がいて、どちらの子を引き取れば得か損か、
考えた事ありますか?
つまり中学生の女の子を引き取れば
家事や身の回りの世話をさせる事が出来るし
どこかで働かせれば収入が入って家計の役に立ちます。
しかし小学生の男の子の方は6歳ですから
まだ幼くて家事にも何も出来ない、むしろ自分が親として
世話をしてやらなければならない年齢ですから
足手纏いで役に立たないという事です。
親の愛が無償などとはよくぞ言ったものです。


父Yの腹違いの弟Mが7歳の時に自分の父親K宛てて書いた
鉛筆書きの手紙が、去年の7月までYの自宅に残っていました。
祖父の遺品として残された古い手紙の束の中に紛れていました。

「おとうさん、ぼくはきょうおしるこをたべました。
 あまくてとてもおいしかったです。
 おとうさんはこんばんなにたべましたか。
 おとうさんいまなにしていますか。
 ぼくはおとうさんにあいたいです。
 はやくびょうきがよくなってかえってきてください。」

この手紙を書いた男の子を実の父親も母親も、
どちらも足手纏いだ厄介だと言って協議離婚で押し付け合い、
揉めたのです。
それも二人の子供達の見ている前で。
当時15歳の女の子だった、父の腹違いの妹Nから
私は直接話を聞きました。何度も。

「ああ、父も母も
 この小さい弟が足手纏いで引き取りたくないのだ、
 この人達は親ではない、自分がしっかりしなきゃ、
 自分が働いて弟の面倒を見て育てなきゃと思った」と。

親の無償の愛などというものは少なくともここに存在しません。
そもそも人間の親の愛は無償ではありません。
実に私の祖父と後妻、この親達にとって子供とは
土地や建物と同じ固定資産であり、貨幣価値を生み出せる、
つまり資産価値のある子供は引き取りたいが
育てる手間のかかる役に立たない子供は要らない、
そういう考え方です。
結局その時点で後妻はどちらの子も引き取らず、
父の腹違いの妹と弟の親権は彼らの父親、Kのものとなりました。
しかしその頃Kは旅先で愛人の一人に毒殺され損なって
財産を持ち逃げされて無一文でしたから、
祖父Kと後妻との間の15歳の娘Nと7歳の息子Mは、
両親揃って生存していながら知り合いの家を転々と居候し、
辛く肩身の狭い生活をするしかありませんでした。
Nは一昨年電話で話した時、私に言いました。

「他人の家のご飯をあなたは食べた事ある?
 たくさん食べなさい、
 遠慮しないでお腹いっぱい食べなさいと言われても、
 ご飯粒の一粒一粒にトゲがあるの。
 飲み込もうとするとご飯粒が喉に刺さるのよ。」

この妹Nが生まれる前に、
私の父も物心ついた時から誰も引き取り手が無くて
親戚中を転々と盥回しにされて同じ思いを味わっていたのです。


この事を知ってから私は神に問い続けてきました。
これの何処が親なのか、一体親とは何か、子供とは何か
という事をです。
人の親ほど身勝手で信用ならないものはありません。
親の愛情なんかを無償と信じると
子供は足元をすくわれて破滅します。
所詮、親は神ではない、無償の愛を与える事の出来る御方は
唯一人の主なる神だけであり、生き物として血と肉でつながる親は
ただの愚かで身勝手な、一人の弱い人間に過ぎません。
神を親に例えて愛なんかを語られると、
そんなものは信じる事が出来ません。


Yは14歳で家を出て札幌の鉄道学校を卒業し
旧国鉄の機関区に就職しました。
19歳の時に仕事中に右脚を機関車に挟まれて
大怪我から骨髄炎にまでなり、数年間入院療養しました。
退院後、片脚不自由では機関士として働けず
無学歴では転職もできないので、Yは商業高校の定時制に夜間通い
経理を身につけて鉄道管理局の経理部に配置換えされ
定年まで働きました。
経理部に配置換えされた頃、Yは私の母と出逢って結婚しましたが、
新婚旅行の途中で突然呼び戻されました。
父親Kが愛人の一人に毒殺され損なった上、全財産を持ち逃げされて
病院に搬送されたのです。
辛うじて生命は助かったものの、
私の父と母の新婚家庭に、Kが無一文で転がり込んだ形になりました。


親からして貰う筈の事を何一つして貰えずに育ったYは、
無一物で病身になったからと新居に上がり込んだ父親Kを
人間としてどう評価していたでしょうか。
また、この父親Kは息子Yを何と考えていたでしょうか。
今の時代とは価値観が違います。
「子が親の面倒を見るのは当然」のつもりだったでしょうか。
子供を子供として養育してもいないのに、
親は親として権利だけを堂々と主張したのです。
親を選んで生まれてくる事のできない子供を
利用価値ずくで不幸に貶めた責任は棚上げで。


間もなくKは、後妻の子達NとMを知人宅に預けたまま
何処へともなく家を出て行き、しばらく行方不明でしたが、
札幌で賭博に明け暮れておりました。
Kが家を出たのは、
息子Yの嫁つまり私の母と折り合いが悪かったからだそうですが、
札幌での事業に失敗し、病苦と貧困で精神的な不安と孤独に陥ったか、
一時的に退院した時に
突然後妻の息子Mを引き取ると言って連れ出しました。
居所を突き止めたYが自分では出向かずに女房を、
つまり私の母に様子見に行かせた時、Kの傍にはMが
小学校にも行かせて貰えず菓子やおもちゃを買い与えられ、
父親とその仲間達の博打の様子を眺めていました。


この当時のKはいよいよ健康状態が悪化していたようです。
Kが書き残した手紙の差出人住所は札幌市内の大学病院2箇所と
菊水の国立札幌病院、斗南病院、市立札幌病院と、
大きな病院を転々としていた様子が伺えました。
文章の中に何度も登場する病名が
「大動脈弁閉鎖不全」「僧房弁狭窄」「鬱血性心不全」、
そして「肺癌」でした。
Kは入退院を繰り返すうち、
一度は連れ出して引き取った7歳の息子Mを
やはり養育出来なくなったと言って
高校生で居候生活していた娘Nの所に送り返しています。
娘Nは学年トップの成績を維持する条件で
学費を免除される特待生として高校を卒業し就職しましたが、
初出勤を目前にしたある日突然、Kから札幌に来いと呼び出されました。
娘なのだから
療養中の父である自分の身の回りの世話をしてくれという要求でした。
18歳だった娘は自分の父親からの要求を断りました。
今就職したばかり、それを蹴って都会に出ても
自分に仕事を見つける事は無理、
まして病人の世話をしながら働くなど、
そんな都合のいい職が見つかる筈もない、
父と娘二人して収入も無く
共倒れする訳には行かないと言って断りました。


一昨年の暮れ、Nと電話で話した時、
今でもその事を後悔していると私に言いました。
自分に助けを求めて来た父親を見捨てた事を。
どんな酷い冷酷な父親であったとしても、後悔していると。

「私達腹違いの3人兄弟の中で親から愛された子供は一人もいない。
 でも私達3人も子供がいるのに、
 自分達の父親が病気で苦しんでいる時に
 誰一人助けに行かなかった。」

行かなくて正解ではないでしょうか。
彼女はやっと就職したばかり、末の息子Mは10歳でした。
出来ない事は出来ない、彼女の選んだ事は正しいと思いませんか?
子供にも自分の職業を得て自分自身の生活を営む権利はある筈です。
まして子供として受ける筈の愛情を受けず養育すらされず、
子供として与えられる筈だった恩恵を
この父親から受けていなかった訳ですから恩知らずではありません。
勿論彼女もそれはわかっています。
それでも自分が見捨てた事によって、
血のつながった父親が肺癌と重い心臓病で苦しみ、心を病んで
誰にも看取られず孤独に苦しんで死んだという事実が
後味の悪い苦い思いを、Nにも
私の父Yにも、他の親族の誰にも残しました。


自分が戸籍を抹消されていた事を既に知っていた私の父Yは
この教会に来るようになる前から

「俺が死んでもあの墓には入れてくれるな」

と私に言いました。
この教会でYが洗礼を受ける前と受けた後に、
今お話した事を何度か話し合いました。
認知症がまだそれほど進んでいない早い段階の時に、
少しずつ時間を取り何度かに分けて、親子とは何か、
信仰者となって神と言う本当の親と自分自身とについてどう考えるか、
父Yの考えを聞きました。

「俺が死んでもあの墓には入れてくれるな」

それが父Yの答えでした。

Yの腹違いの妹Nは、Kの死後50年も経った今になっても墓の前で
「ごめんなさい、許して下さい」と悔やみ、謝罪し続けています。
Yが忌まわしいものとして呪った自分の実の父親K、
Yの腹違いの妹Nが半世紀も頭を下げ続けている父親K、
私にとって祖父であるKは、
焼いた骨になって50年経った今も墓石の下におります。
墓は、愛情を与えてくれなかった親の骨を埋めた墓石、
ただの石です。
死んでしまってから謝られたり怨まれたり、
花を飾って頭を下げられても、結局死んだ者にはどうする事も出来ず、
何にもなりません。
墓石は所詮ただの石です。
しかしこの石は世に生き残った者を恨みや後悔という鎖で縛り続けます。
何という不条理でしょうか。


Kの最後の消息は長い間不明で、
札幌市役所から取り寄せた改製原戸籍と、
本人直筆の親族に当てた手紙の束から推測するしかありませんが、
内容がどんどん卑屈に悲観的になって「天涯孤独」「一人ぼっち」
という単語が何度も登場し、文字は蛇のように力無く
くねった筆跡に変わり、肺癌の病状の悪化と共に苦痛と不安と
死の恐怖が大きくなって精神的に破綻していくのが読み取れました。
後になるほど内容が支離滅裂で、
悪意のあるヒステリックな文面の手紙を送り付けて親族の怒りを買い、
絶縁されています。
死を目前にして、
病苦と孤独の中で親族の誰からも見放されてしまった訳です。


ずっと後になってから、
当時札幌の南の外れに当時あったという「鉄格子の付いた精神病院」に
入れられていた事がわかりました。
肺癌の末期で重い心臓病を3つ抱えながら、
精神科病棟の鉄格子の中で死んでおりました。
昭和38年当時の精神科医療は今の時代の精神科とはかけ離れた、
患者の人権など微塵も無い時代でしたから、
どれほど痛ましい状態で祖父Kが死んで行ったか、
ある程度までは私にも想像できます。
肺癌の末期で呼吸がどんどん苦しくなる、
心臓病で全身に水が溜まり、息切れがして胸が苦しかった筈です。
症状が進んで呼吸できない苦しみに耐えられなくなって、
錯乱状態に陥る人は珍しくありません。
そんな状態で親族から見放され、
「看護婦さん、苦しがっているんです、見てやって下さい」と
とりなしてくれる人もいない、
孤独のどん底にで肺癌末期の苦しみを味わいながら
死を目の前にして正気でいられる人はいないと思います。
余程の信仰者でもない限りは。
いえ、信仰があっても辛い闘いです
しかし信仰があれば、主なる神が傍に寄り添って下さる事を信じるなら、
そんな状況に置かれた時こそ主イエスを間近に感じ、
孤独には陥らずむしろ励まされ、意識がはっきりして苦痛が大きくても
キリストと共に苦しみに与かると信じてどれほど励まされるでしょうか。
そしてまた、
同じ主の食卓の家族が祈ってくれている事を知っているなら
決して孤独ではありません。


その点で、祖父Kの最後の日々は
発展途上の癌医療で緩和ケアも無く
精神科の患者の人権も無かった時代ですから、
親族からも3人の実の子供達からも見放され絶縁された事は、
およそ人間の死に方としてこれ以上無いほどに痛ましくむごい、
惨めな死に方であったろうと思われます。
苦しくて心細くて騒いで暴れて、他の患者さん達に迷惑がかかるからと
鉄格子の付いた精神科の鍵のかかる一室に縛って閉じ込められた事は
容易に理解できます。


札幌から取り寄せたKの最後の除籍謄本を見ると、
当時まだ区の無かった札幌市の、現在の札幌市豊平区平岸、
平岸霊園のすぐ隣に市立札幌病院の精神科部門がありました。
独立した精神科医療施設として今も存続しているようです。
死因は「心筋梗塞だったらしい」と
ごく最近になって父Yが私に言っておりました。
闇金稼業でぼろ儲けして大金持ちになっても
結局金目当ての人間しか寄って来なかった、
博打で身を持ち崩し、金も健康も失い、
子供からも親族からも見捨てられ重い心臓の疾患を三つも抱え、
贅沢な葉巻の吸い過ぎで肺癌を発病し、
苦痛と孤独のうちに精神を病んで鉄格子の中で人知れず死んだ
という事実だけが残りました。
死亡確認と火葬は
当時住んでいた部屋の管理人という人の名前で手続きされており、
管理人は遺骨と遺品の処理に困って市役所に問い合わせ、
札幌市役所経由で親族を探し、私の父Yに知らされたのでした。
昭和38年、私は1歳半でした。


死後、天国に行くとか地獄に行くという話が出る事がありますが、
死後の事は誰にもわかりません。
主イエスは天国は私達の中にあると言われました。
では地獄は何処にあるでしょうか。
祖父Kの事を考えると、
地獄とは死んだ後に行く所ではなく生きたまま入れられる場所でした。
Kも100%の悪人ではなかった筈で、
本人なりに一生懸命働いたのだと思います。
戦時中に極貧の生活していた親兄弟を養うために。
ただ、その行動には黄金律が欠けていました。
高い利息を取られ、
借金のカタに家や店を取られて一家離散した人は数知れません。
Kを恨みながら娘に身売りさせたり自殺した人もいた筈です。
そして、
実の親子であっても子供は親の固定資産ではありません。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、
 あなたがたも人にしなさい」

この箇所をイエスがどうして
「これこそ律法と預言者」と私達に示して勧められたのか、
何故「黄金律、黄金の律法」と呼ばれるのか、
私達にとってなぜこの律法が「黄金」なのか、
この黄金律なしに生きようとすると私達人間はどうなるのかを、
私は自分の父Yと父の父親Kと周囲で翻弄されたあらゆる人々を通して
目に見せられた気がします。


父Yが脳梗塞で倒れた時、
私は札幌で働きながら夜学を卒業したばかりで、
脳外科の准看護師としてまだ臨床1年目でした。
これから経験を積み、正看進学を計画していましたから、
10年以上も行き来の途絶えていた父が
介護を必要とするようになったからと言って、
何も仕事も進学も捨て、
母教会との交わりを離れてまで遠いこの地に行かなくても
父は半身麻痺でもどうにか暮らせて、
何とかなったのかも知れません。
父Yやその腹違いの妹Nが自分達の父親を見捨てたように私にも
「できません、行けません」と突っぱねるという事は出来た訳で、
その方がむしろ自然でした。
ところが不思議な事にあの時はどうしても、
何が何でも仕事や教会や生活全部をその場に置いて
父Yのいるこの地に行かなければならない気がして、
それで私はここに来たのです。
15年経った今だから言える事ですが、
札幌での仕事も進学も、母教会での信仰の交わりも、
全部神様から一方的に恵みとして頂いたものであり、
それを取り上げられるのも同じ神様であり、
幾ら愛着があって自分のものだとしがみついても、
既に引き返す道が塞がれてしまっている気がしました。
今持っているものを全部横に置いて
「行け」と追い立てられるようにして来たのです。


神様はいつも、
強制的に無理矢理何かをさせる事をなさいません。
進むべき道が示されても、それを選ぶかどうかの選択は
私達自身に委ねられています。
ですから私達はいつも迷ったり悩んで主に祈りますが、
それは主が私達に強いられてではなく、
自ら進んで従う事を常に望んでおられるからだと私は思います。
なのにどうして何が何でも行かなくてはならない気がしたのかは
うまく説明できません。


あの時私がそれまでの生活に執着していたら、
この教会での皆さんとの出会いは無く、父が教会に来る事もなく
父の洗礼も無く、生れて以来家族に恵まれなかった父が
この教会家族の一員として主の食卓に与る事も無く、
父を在宅介護する事も看取る事も無く、
私が父の子供として最期を見届け、死後処置を行い
教会から皆さんのお祈りと共に天に見送る事もありませんでした。
もし私が自分の生活に執着したら、
全ての恵みと祝福が一つとして実現しなかったのは間違いない事です。
父Yや父の腹違いの妹Nには自分達の父親の手を最後の最後に離し、
見捨てたという苦い後悔の思いが残り、苦しみました。
いえ父の妹Nは今も苦しんでいます。


私は自分の父Yが倒れた時、Nとは反対の行動を取りましたが、
後悔はないのか、何をしたか、どれだけの事が出来たかと言うと、
ただ向き合ったというだけで口に言えるほどの事は出来ませんでした。
実際は、出来た事やした事よりも、
あれも出来なかったこれも出来なかったもっとこう出来たのにという
無念な思いが残っています。
父の妹Nも、私も、どちらにせよ無力感と後悔だけが残っています。


ここに来て15年間、その時その場で
自分に出来る限りの事をしたつもりでいました。
誰でもいずれは死にますが、
脳梗塞で後遺症がありながら一人暮らししていた父Yは、
私も含め周りの者が油断して見守りを怠ると死ぬ危険がありました。
高齢者の独り暮らしですから誰にも知られずに
部屋で一人倒れて死んで、時間が経ってから無残な姿で
発見される可能性が高かったので、
常に安否確認の気は抜けませんでした。
そんな晩年を迎えた父の、
残された生活時間という袋の中に出来得る限り最大限の
楽しみや喜びを詰め込んでやろうと、
生鮮売り場のタイムセールでビニール袋の中に
ジャガイモをぎゅうぎゅう詰め込むような事を私はずっとしてきました。
そしていつも思っていました。
これが最後の正月になるかも知れない、
これが最後の誕生日になるかも知れない、
これが最後の花火見学になるかも知れない、
これが最後の月見になるかも知れない、
これが最後のクリスマスになるかも知れない、
これが最後の大晦日になるかも知れない、
これが最後の礼拝になるかも知れない、
これが最後の聖餐式になるかも知れない、
これが最後の面会になるかも知れない、
何をするにも常に「これが最後になるかも知れない」という
一種の強迫観念に追い立てられて何でもしました。
というよりも主に追い立てられてやらされてきた気がします。
礼拝でも、礼拝の後皆でカレー食べている時も、
聖餐式でも、クリスマスでも、
父の誕生日にかこつけて教会にケーキを持ち込んで
皆さんと食べた時も、常に私の意識の奥底にありました。
「今これをしてやらないと、これが最後かも知れない」という思いが。
何をしたところで所詮そんなものは
私の自己満足に過ぎない事を自覚しながら、
"今やらないともうこれが最後になるかも知れないからやらなきゃ"と。
自分自身の生活とか自分自身のしたい事とか、
そういうものは全部脇に置いて、
仕事から帰って父のマンションに泊まり込み、
真夜中に汚物の始末をして常に寝不足でへとへとでも、
やはり
「今、これをしてやらないともうこれが最後になるかも知れない」
と思っていました。
強迫神経症の症状みたいなものでした。


去年の7月6日の朝、夜勤の看護師から
「Yさんの呼吸が止まりました。心臓も止まっています」
と連絡を受けた時、
「ああ、終わった」とだけ思いました。
「最後」は来た、これが本当の「最後」なのだ、
もう追い立てられる事も無い、
病院に向かうタクシーの中でそのように頭の中で反芻していました。
そしてこの教会で皆さんと共に父を天に見送った時も、
私は考えていました。
父Yはこの世に生まれて幸せだったろうか。
子供の時は親戚の間を盥回しで育ち、
年老いて最後の最後に受け入れてくれる病院も施設も無く、
病院、老健、病院、老人病院と
まさに盥回しで空きベッドを待ちながら、
酷い収容所のような老人病院で急変し、
転院した先で力尽きて死にました。
こんな風に盥回しで育って盥回しにされながら死んで、
父Yは幸せだったろうか。
いや、そもそも人の幸せとは何だろうか、と。


この地に来るかどうか迷った時、主が示された道を選ぶか選ばないか、
私自身に委ねられた選択は究極の二者択一でした。
選べば
「今これをしてやらないと、これが最後かも知れない」
という強迫神経症の毎日、
選ばなければ
父の妹Nのように後々まで何十年間も自分を責めて墓の前で
悔やむ毎日。
究極の選択です。
選ぶのは自分自身。
どちらを選んでも
「これでよかったんだろうか、父はこれで幸せだったんだろうか」
という思いが残るのは同じ、
どちらを選んでも、
主の憐れみと慈しみも変わらず同じなのでしょう。
何でしょうか人の幸せとは。
皆さんも一緒に考えて下されば幸いです。


「人は(私達は)幸せになるために生まれて来た」
という言葉を聞きます。
あれは間違いだと私は思います。
断言してもいい、間違いです。
幸せになるために自分が生まれて来たと思っている人は
常に自分が幸せかどうかを自分に問い続けます。
幸せになるために生まれて来たのだから、
何とかして今以上に幸せになろうとします。
そしてどれほど恵まれた境遇にあっても決して幸せになれない。
自分は幸せだろうかと自分に問い続ける限り、
私達は決して幸せになれません。
幸せになろうと思えば今が幸せだとは思えないので
自分が幸せかどうかを最優先します。
人の痛みを思い人の苦しみを思いやる黄金律はそこにはあり得ません。


女子パウロ会出版のミニ絵本で
『心の歌』とか『愛』とか『ほほえみ』とか
シスターさんの描いたお花のイラストが入った
ちっちゃい可愛い絵本があるんですが、
その中の一冊に『しあわせ』というタイトルのミニ絵本もありまして、
その最初のページにこう書いてありました。

「自分がしあわせかどうか問わなくてもよい
 しかし、あなたとともにいる人がしあわせかどうかは、問うがよい。」

作者不明の言葉と書いてありました。
誰の言った言葉かかわらないそうです。
しかしこの言葉こそ主イエスが山上の垂訓で語られた黄金律、

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」

ではないでしょうか。
主イエスのこの御言葉は
私達が何のために生まれ何のために生かされているかを
言い表しています。
前にもお話した事があったかも知れませんが、
私がここに移転して来て間もない頃、
今はもう閉鎖されてしまいましたがご近所のカトリック教会の
フランシスコ会のイタリア人司祭の方が、
何の時にお会いした時だったかそう話しておられました。

「私達は誰かを許すために、誰かを愛するために、
 この世に生まれて来ました。
 私達は人を許すために、愛するために、
 生命を与えられ、生かされています。」
                    (ドメニコ・ロンデロ神父)

この言葉を聞いた時、
いい言葉だなと頭では理解した気になってましたが、
それから10年以上の年月を経て父を天に見送った今、
私は思います。
生まれてから晩年まで家族に恵まれなかった父Yは、
親から黄金律を学ぶ機会を与えられなかった、
その事は本人の罪ではありませんでしたが周りの者を傷つけ、
一生涯通して孤独でした。
しかしYが晩年にこの教会で神の家族の一員として迎えられ、
短い期間でも幸せそうに笑っていた時も確かにありましたし、
実に父には生涯を通して家族と呼べるものはこの教会だけ、
この教会の兄弟姉妹だけが家族でした。
あの老人病院で寝たきりになって物のように扱われていた時でも、
教会の皆さんが祈ってくれているよと話すと
父Yは微かに笑顔を浮かべて頷いておりました。
牧師先生や婦人の方達や子供達が会いに来てくれた時は
嬉しそうにしていたと看護師からも聞きました。
たとえ遠くにいる娘が
死んでからでなければ会いに来てくれなかったとしても、
父Yは孤独ではなかったのです。
そして父Yは
この教会の兄弟姉妹に祈りと讃美歌で見送られ天に召されました。


これまでお話した事の一つ一つ全てが主の御手によって示された、
父の最後の日々の中の目立たない印でした。
私達は日常の生活で誰かを許すために、
誰かを愛するために命を与えられ、生かされています。
自分が誰を許すべきなのか愛するべきなのか、
身近な日常の中に与えられ示された小さな印を
見落とさないように生きたいと思います。

                   2015.6.28 礼拝メッセージ

主日礼拝

2011-01-09 13:05:00 | 礼拝メッセージ
青き空よ
造り主の御業を讃えよ
           (224番 賛美歌21)


聖書はⅠヨハネ4;7。


今日私が話した礼拝メッセージの内容は
昨年一年間の聖書通読から得た事を分かち合いとした。


何のために生きるか。


エゼキエル16;4~6、18;23、18;32


「生きよ」と神から人間へ、呼びかけが何度も繰り返される。
生きよ生きよって、生きる事に何の意味があるのかと
考え込む事も私にはある。
エゼキエルを読んだのをきっかけに、
ヨハネの福音書、三つの書簡、黙示録を読んで自分の信仰を考えさせられた。
何故エゼキエルからヨハネに話が飛ぶかというと、
「生きろ、生きなさい」という意図が
ヨハネの文章に込められていると感じたからだ。
私の中でエゼキエルとヨハネは「生きろ」というメッセージによってつながっている。


 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
 神を知っているからです。(Ⅰヨハネ4;7)


ヨハネの書いた文章は洗練された美しい言葉であるが、
福音書も、手紙も、黙示録も、読めば読むほど生々しい
血みどろの苦痛に満ちている気がして、息苦しくなる。
ヨハネは90歳の長寿を全うしたと言われるが本当だろうか。
拷問で肉体を痛めつけられて殺されるだけが殉教ではないかも知れない。
心が血を流す事も人間にはあるからだ。
迫害の時代、風前の灯のような小さな苗だった教会を
嵐と濁流から守り育てようとした、ヨハネの凄まじい苦闘を念頭に置いて
ヨハネの手紙や黙示録を読むと胸が詰まる。
一字一句に込められた、信仰者達への「生きろ、生き延びろ」という
ヨハネの思いが迫って来る。


 …あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
 見よ、悪魔はあなたがたを試すために、
 あなたがたうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。
 そうすれば、わたしはあなたに命の冠を与えよう。
                     (ヨハネ黙示録2;10 新改訳)


受洗以来愛読している故・辻宣道牧師の説教集にこの箇所が引用されている。


「…絶望してはいけない。
 どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
 (引用;ヨハネ黙示録2;10口語訳)
 ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
 これは慰めの言葉です。
 10日の間、苦難にあう、しかし11日目はないのです。
 苦難は必ず区切られる。
 無限に続くと思い込んではなりません。
 まさに信仰者とは11日目をめざして歩む者です。」
          (辻宣道著『教会生活の四季』日本基督教団出版局)


ホーリネス教会の牧師の子として生まれ育った15歳の辻宣道少年は
第二次大戦中に学校で教師達や同級生達から散々殴ら苛められ続けた。
父親は逮捕され、教会籍を剥奪され、教会は解散させられた。
教会員達は散り散りになり、投獄され犯罪者の烙印を押された牧師の家族は
妻と中学生から乳飲み子まで、路頭に迷い、
軍の払い下げの残飯を貰って食いつないだ。
教会員だった人々からまでも手のひらを返され見捨てられた。
終戦の年明け、牧師であった父は囚人として獄死した。
その過酷な体験によって
「もうキリスト教は嫌だ、御免だ、
 キリスト教徒でさえなければこんな目に遭わなかった。」
そう言って父を焼く火葬場に向かう道で神を呪った。
しかし終戦後に信仰の恵みを授かり、父と同じ宣教の道を歩んで牧師となった。
父の獄死から何十年も経って講壇から説いた、ヨハネの黙示録、11日目の希望。
15歳の過酷な少年時代に、辻宣道牧師は
黙示録を書いた迫害の時代のヨハネと苦しみを共有し、分かち合っていた。
信仰者はどんな状況にあっても絶望せずに生きなければならないのだと。
生きる。しかし、何のために?


もう何年も前の話であるが、近所のカトリック教会の司祭が言っていた。


「私達は誰かを赦すために、誰かを愛するために、この世に生まれて来ました。
 私達は人を赦すために、愛するために、生命を与えられ、生かされています。」
                                 (L司祭)


この言葉は私にとって
“何のために生きるか”という問いへの明確な答えである。
エゼキエルの言う「生きる」と、ヨハネの言う「愛」はこの事だと思った。
人間が何故この世に生み出され、何故生かされているのか、
何故生きなければならないか。
エゼキエルの預言に語られた「生きよ」という神の人間に対する呼びかけに対して、
私は苦しい事や辛い事に遭う度に
“何故、何のために生きなければならないか”という疑問を持つ。
しかし過酷な迫害の時代に生きたヨハネという人が一貫して愛を説いた、
その血の滲んだ「愛」の意味を、私達は聖書を通して、
自分の心で受け留める事が出来る。


ヨハネの言う「愛」を受け留めたら、
日々の生活の中で神と向き合って自分自身に問わなければならない。
現実の日常の中で、主なる神が自分に誰を赦せと望んでおられるのか、
誰を愛せと望んでおられるのかを。
今、果たして生きていると言えるだろうか、自分は。





私が礼拝のメッセージをしたために、
通常よりも30分ほど礼拝が早く終わった。
天気が良いので光合成しながら散歩した。


立派な事を喋れる者でもないのに
こうして二日続けて福音を語った。
面の皮がまた一層分厚くなった。

朝祷会

2011-01-08 10:21:00 | 礼拝メッセージ
明日の礼拝のメッセージと内容が重複してはならないので、
昨年一年間の聖書通読から得た事の分かち合いとして、
マリアの事を話した。
ラザロ、マルタ、マリアのマリア。


聖書はヨハネ11;1~44


参照した聖書箇所ヶ所(詩篇16;10、ヨハネ14;6、ヨハネ20;13~16、詩篇41;10、ヨハネ13;18~19)



(詩篇16;10)
 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
 あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
 命の道を教えてくださいます。
 わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
 右の手から永遠の喜びをいただきます。
                  

(ヨハネ14;6) 
 私は道であり、真理であり、命である。


(ヨハネ20;13~16)
 「婦人よ、なぜ泣いているのか」
  
 「わたしの主が取り去られました。
  どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 「婦人よ、なぜ泣いているのか。
  だれを捜しているのか。」

 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
  どこに置いたのか教えてください。
  わたしが、あの方を引き取ります。」

 「マリア」

 「先生」




イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。

イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。


マリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。


成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。


ラザロが死んだ時、
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。


自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみた。


マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、
イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。


この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐く苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまった。


“ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
 神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
 この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
 所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
 本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”
 

ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。


イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。


死人ラザロが復活した奇跡よりも、死んだ人間を生き返らせてまでも、
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
ラザロの復活の奇跡よりも、イエスがマリアに伝えようとした事の方に
私は注目する。


マリアは、イエスがパンを食べさせてくれたからとか
病気を癒してくれたからという理由でイエスに付いて行く人々とは違っていた。


(詩篇41;10)
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。                  


(ヨハネ13;18~19)
 わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
 しかし、
 『わたしのパンを食べている者が、
  わたしに逆らった』
 という聖書の言葉は実現しなければならない。
 事の起こる前に、今、言っておく。
 事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
 あなたがたが信じるようになるためである。


弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。



(De imitatione Christiより)
 パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
 受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に感嘆する、
 しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかしイエスが姿を隠し、
 暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
 ひどく落胆する。
 しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
 イエスをイエスとして愛している人は、
 患難や苦しみの時にも
 慰めの時と同様に、
 彼を賛美する。
           

マリアも、
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。


イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。


  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
   どこに置いたのか教えてください。
   わたしが、あの方を引き取ります。」


マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、
私達はこの時のマリアの気持ちが理解できる。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を持っている。


そんなマリアに、イエスは「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと。
彼女の姉妹マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れる者であった。
マリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと望んで
マリアにそう言われたのではないだろうか。


弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなくイエスをイエスとして
心底愛した人達がマリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。


2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。





昨年、マルタについて聖書通読の感想を話したら
婦人会の人からやたら好評だった。
別にマルタを贔屓目に見ているつもりは無かったのだけど。
姉妹は対比して描かれているので、今回マリアの事も語ったのであるが、
婦人会からの出席者は無かった。
残念。