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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

一日一章(マタイ1;18~2;23)(再)

2011-02-25 23:20:39 | マタイ
今日はマタイ2章を再度読み、
旧約の引用を一つずつ開いて
本当に預言の中に書かれている事をじじに見せた。


マタイ1;23→イザヤ7;14
       見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
       その名をインマヌエルと呼ぶ。


マタイ2;6→ミカ5;1
       エフラタのベツレヘムよ…


マタイ2;15→ホセア11;1
        …エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。


マタイ2;18→エレミヤ31;15
       ラマで声が聞こえる。
       苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。…


マタイ2;23→イザヤ11;1
       エッサイの株からひとつの芽(へ;ネセル)が萌えいで…


じじは驚嘆していた。
「わぁ、本当に書いてあるなぁ。」


特にイザヤ書は、現代に生きる私達にとって
どう読んでもイエス・キリストの事を書いているとしか思えない、
『主の僕の歌』の箇所がある。
マタイ2章の参照箇所ではないが、イエスが生まれる何百年も前に
そんな預言が既に語られていたという事にじじは感心していた。


救い主としてベツレヘムで生まれた赤ん坊が
どのような生涯を送るのかも預言の中に語られていた。


主の僕の歌。
イザヤ42;1~4
イザヤ49;1~6
イザヤ50;4~9
イザヤ52;13~53;12


「いや~、預言者というのは、凄いもんだなぁ。」


じじ、はまったな完全に。
福音書の面白さにのめり込んだであるよ。


火曜日の聖書の会に参加するのをきっかけに
毎日一緒に聖書を開くようになってから、
じじはあまり変な不穏状態に陥らなくなった。


事前に旧約を調べるなどして準備が要る。
多少解説も必要になってくるので私もちと疲れるが、
じじが無闇に不穏になって理不尽な要求をしたり
ヘルパーに対して八つ当たりするよりはましである。


マタイは長い。
じじの気の向かない日は無理せず休んで、
ゆっくり開いていけば当分は持つであろう。


めでたし。

一日一章(マタイ1;18~2;23)

2011-02-24 23:56:11 | マタイ
今日はマタイ1章の最後から2章まで。
イエス・キリスト降誕の箇所を読んだ。
クリスマスというのはこういう意味があるのだとじじに話した。


いつも牧師先生がクリスマスの度に話す事をここで話した。
はるばる東から旅をして訪ねて来た占星術の学者達の求めていた星について。
そして星を追い求める心について。


信仰者ヨセフの研ぎ澄まされた霊のあり方に注目。
御使いを通して告げられた神の言葉を受け止めて従順に従い、
行けと言われたら夜のうちに行き、帰れと言われたら帰る。


行間に読み取れる、苦難の逃避行を思い浮かべる。
生まれたばかりの赤ん坊と若い妻をろばに乗せ、
その夜のうちにエジプトに逃れる。
着の身着のまま、言葉も通じない外国での難民生活。
職も無く極貧生活だった事だろう。


一人の赤ん坊の存在によって自分の地位が危うくなると見て
即座に殺しにかかる権力者の心理を考えた。




福音書は預言の成就に注目して書かれた箇所が幾つもある。
キリスト降誕の記事に引用された預言書の箇所を探すのに苦労した。
いつも自分が使っている聖書だとあちこち書き込みしてあり一目瞭然であるが、
じじの聖書は殆ど新品。
あんまりぺらぺら捲って探してばかりいると嫌気が差すので
明日の私の宿題にした。

一日一章(マタイ1;1~17)

2011-02-23 22:42:54 | マタイ
次回からの聖書箇所は未定であったが
私から牧師先生にリクエストした通り、
マタイを読む事になったらしい。(感謝)


それで今日からじじ宅でマタイを読み始めた。
じじの一日一章。


私は仕事の後じじ宅に行って聖書を開き、マタイ1章をじじと一緒に読んだ。
大抵の人がゲンナリするカタカナの人名に閉口しながら
それでもじじは特大虫眼鏡で旧約の登場人物の名前を読み上げた。
ただ音読しただけではやる気が失せると思ったので
私は一人一人の人名について、旧約のエピソードを話した。


旧約の登場人物を語る時、
やはりダビデからソロモンの箇所は盛り上がる。
じじが一番興味を示したのは預言者ナタンの警告だった。


忠実な部下の女房を寝取り妊娠させた事を隠蔽するために
ダビデ王は策略を用いてその部下を最前線に置き去りにさせ
戦死させる事に成功した。
寡婦となった女を晴れて側室の一人として迎えたダビデに
預言者ナタンが告げる。


 「二人の男がいて一人は豊かで一人は貧しかった。
  豊かな男は財産家で家畜をたくさん持っていた。
  貧しい男の財産は雌の子羊一匹だけ。
  しかし彼は子羊を我が子のように大事にして可愛がっていた。
  ある日裕福な男が客をもてなすために自分の家畜を屠るのを惜しみ、
  貧しい男から唯一の財産である子羊を取り上げて自分の客にふるまった。
  あなたはどう思いますか。」


 「そんな無慈悲な事をした男は死罪だ!
  子羊は四倍にして償うべきだ!」


 「その男はあなたである。
  主はあなたを見ておられる。
  あなたは自分の忠実な部下を剣にかけて殺し、その妻を奪った。
  彼を陥れて殺したのはあなただ。
  あなたがこの事をしたので剣は永遠にあなたの家から去らない。」


その後、ダビデの息子達はどいつもこいつもダメ男くん揃い、
腹違いの妹を強姦して弟から殺される奴、
父王に逆らってクーデターを起こして失敗して殺される奴、
家臣を抱きこんで王位継承権を狙う奴、いろいろいて、
ソロモンの代に国は繁栄するにはしたがどんどん堕落して
神に敵対する道を辿って国は散り散りに裂かれ、
周辺の大国に侵略され、隷属するしか生き延びる道が無くなった。
辛うじて存続していたダビデの子孫、南ユダ王国の王ゼデキヤは目を抉られ
手足に枷をかけられてバビロンの地に捕囚として牽かれて行った。
この期間、預言者達は神の言葉を預かって王に警告をしたために
片っ端から虐殺された。


・・・・・という話を、
マタイの冒頭の系図に登場する人名一人一人にまつわる
旧約のエピソードとして話し、
カタカナの人名で腹一杯のマタイ1章を読み終えた。


じじは身を乗り出して聞いていた。


現代に生きる私達にはカタカナの名前の羅列にしか見えなくても、
これらの人名は全て実在の人々であり、一人一人がこの世の生涯を生き抜いた。
壮大なスケールの大河ドラマである。

一波乱あり

2011-02-16 22:52:47 | マタイ
今日もじじは聖書を読むというので一緒にテーブルに着いた。
しかし座るか座らないかの時に私の携帯が鳴った。


妹からだった。
ばばが明日腰椎の手術をするというので
術後の説明を医師から聞くために来ている。


(ばばは昨年「私はあんたの世話にはならないから」と自ら言ったので
 今回の入院で私を呼ぶ訳にはいかず、妹をわざわざ千葉から呼んだ。)


妹はじじの現状も知らず正月に電話してばばの手術のために
こちらに来る事を話した。
それ以後じじは不穏になった。
無闇に怒ったりヘルパーに対する暴言や拒否行動、
私を怒鳴りつけ殴ろうとしたり不穏が続いて精神的に不安定だった。


教会で誕生日の祝福を受け、聖書朗読を始めてから少し落ち着いていたが
私の携帯の着信が妹からの電話であると知ると
じじはみるみる表情が険しくなり、
25年も昔の、ばばと離婚した当時の怒りが再燃した。
認知症の入り口にいる高齢者にとって、時間の感覚は暦を無視して過去に戻る。
私達にとっては大昔の過去でも、じじにとっては現在である。
とりなすような事も喋ってみたが、私では話にならない。
激怒して「呼べ!」というので半ば無理矢理妹をじじ宅に呼んだ。


妹は飛行機で来て病院に詰めていたため疲れていると文句を言った。
じじのこの不穏が収まらなければ明日以降来るヘルパーも私も困る。
風呂から上がったばかりで髪を乾かしてから来るという妹を待つ間、
とりあえず主の祈りを唱えて聖書を開いた。


ヘブライではなくマタイ6章の黄金律の箇所を読んだ。
いつまでも誰彼を恨んだり許さずに怒りを蒸し返すのが
キリスト教徒としてふさわしい態度かどうか。
考えろと私が言うと、じじはむっつり黙り込んだ。


妹が来た。
私の前では「絶対に、断じて許さん」と激怒していたが
7年も8年も会っていなかった妹と対面すると
じじは気が変ったのかころっと態度を変え、にこにこし始めた。
妹もじじにうまく話を合わせてなだめた。


じじは興奮して就寝せず。


妹は「疲れてるから」と早々に泊まり先に戻った。
私は後片付けをし、いつも通りに
ヘルパーやデイケアの連絡ノートを書き、植物に水をやり、
暖房の温度設定と戸締りをしてから帰宅した。


じじは妹と面会した事で納得出来ない怒りを納得した事にしたらしい。
年明けから続いていた不穏がこれで少し緩和されればいいと思うが、どうよ。


特効薬のように聖書を使えるかといえば
現実はそんな短絡的な甘いものではない。


しかしそれにしても疲れたな。

主日礼拝

2010-12-26 12:11:00 | マタイ
聖書箇所は24日の夜にじじと読んだと同じ箇所だった。
じじは居眠りもせず真顔で説教に聞き入っていた。


今日は会堂の屋根の写真を撮りそびれた。


礼拝の後は昼食と聖餐式と教会員会。
昼食のカレー、ウマかった。
お代わりをしたかったが自粛した。
毎年この時期は飽食で太るので要注意や。

聖書朗読

2010-12-24 20:49:00 | マタイ
じじが虫眼鏡に齧り付きながらマタイの2章を朗読する間に、
私は沸いた珈琲をよそい、ケーキを切る。


受胎告知、イエスの生まれた時代背景、ヘロデ大王、夢を見たヨセフの行動、
エジプトに逃げ延びたヨセフとマリアが味わったであろう難民生活の貧しさと
イエスが幼児期に体験した生活苦と両親の苦悩は
後の福音宣教の中でどん底の生活を強いられた貧しい人々に対する
イエスの深い憐れみと共感になって、随所で熱く語られている。


・・・ってこんな話をケーキ頬張りながら語るのってどうなの。
と言いながら、
じじの聖書の終わりの方に載っているイスラエルやエジプト付近の地図を開き、
ヨセフ、マリア、イエスの着の身着のままのエジプト逃避行について話すと、
じじは興味深そうに地図に見入っていた。

主日礼拝

2010-10-24 20:04:59 | マタイ
今日の礼拝は
長年にわたって各地の教会で
宣教の働きをしてこられた元牧師、K先生が
説教の奉仕をして下さった。


聖書は
マタイ5;43~44、Ⅱコリント5;18~20。
和解。


先生はじじと同年代、昭和一桁生まれ。
この世代の人々は
誰もが育ち盛りの時期が第二次世界大戦と重なって
極貧生活を体験している。
いつも食べる物に事欠き腹を空かせ、
物も職も無く、衛生環境は悪く、野草を食べ、
物々交換で愛着のある衣服や生活用品を失う。
着のみ着のままで近隣に捨てる野菜や
ジャガイモの皮を貰い歩く生活の惨めさに
心はいじけ、先勝国に対する憎悪が膨らんで、
地元にやって来たアメリカ人宣教師に
文句の一つも言ってやりたくて対峙した、
それがキリスト教との出会いにつながった、という体験。
それが、入り口だった。
イエス・キリストを救い主と告白して洗礼を受け、
この地元の各地に幾つも点在するメノナイト教会で
牧師として働き半生を神と人とに捧げる道への。


K先生はもう一つの出会いを体験する。


先勝国として憎んだアメリカにも、
自分と同様に戦争のために極貧の生活を強いられて
日本人を憎み、忌み嫌う人もいた。
アメリカを旅行した時、
そのような人から話があると家に招かれ、
戦時中の極貧生活の恨み辛みを聞く事になった。
その人もキリスト教徒だった。
自分がかつて憎んだ国の中に、
自分と同じ苦しみを体験した人がいる。
そして同じただ一人の神なるキリストに
救いの望みを置いて生きている。
K先生もご自身の戦時中の生活を語り、
この一人のアメリカ人の心に
癒せない苦痛と傷を負わせた事を謝罪した。
お互いに同じ苦しみを体験し、
同じ痛みを味わった事を語り合った。
雨が降っていた。
来た時は家の中には招かれず、
バルコニーで話していたが、
握手と抱擁を交わして家の中に招かれた。
自分自身を被害者の立場に置いて
憎んだ相手の内にも癒し難い傷がある事を知った。
そして今は同じ神の家族であった。


K先生は語る。
敵とは誰か。
律法主義の立場にとって敵は幾らでもいる。
「汝の隣人を愛せよ」という時、
自分の隣人とは誰か。
隣人とは本来全世界のあらゆる人々であるべき。
私達の主イエス・キリストはそう教えている。

主日礼拝

2010-10-17 10:40:00 | マタイ
マタイ6;9~13


日毎の糧。


明日のための一日分の食糧を
今日も与えて下さい。


如何に食べずに減食減量して体重を減らすかを
考える生活をしている私達にとって
この祈りはどういう意味を持つか。


・・・・・orz...コンナワタシデゴメンナサイ


私達は働いて日々の糧を得る。
努力と勤勉さを以て獲得したと思いがちだ。
しかし神が備えて与えて下さらなければ
私達は何一つ得る事はない。
私達はいつもそれを忘れる。


自分の際限無い欲に支配されて
欲しいものを求めるのではなく
本当に必要なものを願うべきである。


出エジプトで神から与えられたマナは
その日一日分だけしか得られなかった。
余分に確保しても翌朝には腐ってしまった。
今日一日の糧を感謝して頂き、
明日の分は神が備えて下さると確信して
神に信頼出来るかどうか。信仰生活とは
神に信頼し揺るぎない生き方の事だ。

主日礼拝

2010-08-15 12:05:00 | マタイ
今日の聖書はマタイ6;1~8


“祈りを学ぶ”


福音書の時代から2000年の時間を経て
私達は今もイエスに祈りを学んでいる。




イースターでもないのに何でと思ったら
飾られた百合は、
教会の庭で咲いているものを牧師夫人が活けたのだそうだ。

どんぐりと山猫

2010-04-11 22:10:00 | マタイ
読んだ。


そっかぁなるほどねー。


今日の礼拝のメッセージの中で私は
弟子達の人間的な弱さについてちょっと触れた。
礼拝の後で話しかけてきた人は、
その事で「どんぐりと山猫」を思い出したらしい。
その人の中では、
弟子達の人間像はどんぐりに重なっている。


マタイ16;18で
イエスはシモン・ペトロを「岩」と呼び、
この岩の上に教会の土台を据えると言われた。
ペトロが頑固一徹な芯の強い人間だから
ではないと思われる。
福音書のペトロは「岩」とはかけ離れた
優柔不断で周囲に左右され流される、
妥協して信念を曲げ易い、
弱いお調子者にしか読み取れない。


確固たる信念を貫く軸のブレない頑固さと
打たれ強さはパウロの人間像を思わせられるが
パウロではなくペトロを選び「岩」と呼んで
教会の土台にしたという事は、
イエスが弱い人間の、
その弱さの上に教会の土台を据えられた訳であり、
その意味を考えさせられた。
私がそれを話して、
例えばイエスがこれから十字架にかけられるというのに
自分達の中で誰が偉いかなどと議論していた、
そんな弟子達の人間的な弱さを例に挙げたりしたので、
そこから「どんぐりと山猫」のどんぐりを
その人は連想したらしいのであった。

主日礼拝

2010-03-07 21:42:00 | マタイ
早くも四旬節は第三主日を迎えた。


今日は教会員のメッセージ奉仕の日だった。
聖書の箇所はマタイ25;14~29のタラントの譬話であるが、
奉仕者自身のこれまでの信仰歴について簡単に触れた。
キリスト者の一家に生まれ育って14歳で受洗を願い出たが
亡き父がその時は反対し、「まだ待て」と止めたという。
私は話の主題よりもそのエピソードの方が印象に残った。


「お前はまだ未成年である。
 未成年で自分の事も世の中の事も何もわかっていない。
 今の気持ちだけで受洗しても人生観がこれから変わるかも知れない。
 受洗するならもっと自分自身を確立して
 決心を動かぬものにしてからにしなさい。」


うーん。。。
世の教会員達は中学高校に進んだ我が子達を如何に
信仰告白、受洗へと導くかで悩み、迷い、祈る。
しかしこの人の父は受洗を希望する自分の子に
世の教会員達とは全く逆の事を望んだ。


私の母教会の牧師先生であれば
早速受洗準備に取り掛かったであろうし、
母教会の教会員達も今の所属教会の教会員達も
むしろ学業や部活で教会離れしたり
教会に来ていてもなかなか信仰告白まで行かない我が子を
如何に教会に連れて来るか、如何に受洗まで導くかで
あの手この手、四苦八苦して、神も我が子も祈り倒さんばかりだった。
だからこの人の父の考えには異論反論があると思う。
また、私自身も、
受洗してから母教会の牧師先生に言われた言葉が
一つの大きな指標として今でも残っており、
この人の父とは違う考えをしている。
私自身が人生を悟り、信仰を確立させてから
信仰告白、受洗をしたのではないからである。
母教会の牧師先生は受洗直後の私に言った。


「何もかもわかってなくていい。
 私達は神をわかって
 自分をわかってキリスト者になったのではありません。
 私達は不完全な者であり、
 一生涯かけてキリスト者になっていくのです。」


この牧師先生の言葉は、
この人の父とは逆の事を言っており、そして真実である。
しかし、私は
今日礼拝でメッセージの奉仕をした人の父が我が子に言った、
「今はまだ待て」という言葉の奥底にある思いを感ずる。


「キリストに従って生きる事には覚悟が要る。
 キリスト者の家庭に育ったからと言って、
 14歳という多感な年頃の感情や一時の感傷ではなく、
 本物の信仰者になって欲しい、
 そして生涯本物の信仰者であってほしい。」


違うだろうか。


結局14歳だったその人はその時は受洗を見送り、
18歳で進学のため地元を離れる時に
決心が揺るがない事を父に告げ、詩篇119;9を開いて、
自分の信仰を認めてくれるよう父を説得したという。


詩篇119;9。
親が心配しなくても、子供は既に筋金入りだったではないか。
ただ信仰者の家庭に生まれ育ったとか、
物心ついた時から教会に出入りし
教会で育ってきたというだけの感情ではなかった事を
この人は18歳で父に示し、信仰を告白し、受洗した。
そしてこの不況の過疎地で教会が歩んだ苦しい道程の時を
この人は教会を支える土台となって歩いて来た。


礼拝の後、しばらくその事を考えた。


今日も
ヘルパーさんと父に昼と晩の二食分の食事を渡して見送り、
私は他の教会員達と共に居残ってお茶を飲んだ。
求道者の一人と『聖☆おにいさん』の話に興じた。


ぽかぽか暖かかったので徒歩で帰宅。
途中、橋の袂に群れていたオオハクチョウを見た。

マタイ1;1~25

2008-04-08 22:25:15 | マタイ
マタイ今日からまた
じじと一緒に福音書を読み始めた。


私がじじに話した説明を記録するべく、
7つめのブログを立ち上げた。
私、変な事たくさん喋ってるからなぁ。


今までの
ひまわりの壁紙のブログはじじの受洗まで。
マルコを読み終え洗礼式を無事終えて完結とした。


今日からは新しくマーガレットの壁紙。
こっちは当分長く使い続けるであるよ。
のんびり、ゆっくり、
じじと私が一緒に新約を読み終えるまで使う。


今はもう、
"洗礼式までに間に合うように"という期限がないので
ただ楽しく、
じじが惚れ込んだイエス・キリストに親しんで貰う、
そのために楽しんで読めるようにする。


ゆっくり行こうや。じじ。
一日一章も進まなくていいから、
福音書に親しみ、楽しんで味わおう。


そんな訳でまた珈琲を入れ、
主の祈りと使徒信条を唱え、
私が一言祈ってから聖書を開いた。


マタイ1章の系図。
カタカナの人名の羅列。
でもここは端折らないよ。


じじ、
ルーペで読みながら目を白黒させている。


「何だかさっぱりわかんないでしょう。」


「いやーこれは何が何だかさっぱり。。。。orz」


私も旧約聖書を最初から読み通すまでは
マタイのこの箇所は飛ばして2章から読んでいた。
作家の筒井康隆が
聖書をネタにして『バブリング創世記』を書いた、
まさにそのネタ。
私は筒井康隆に同属Bの匂いを嗅ぎ取って
『バブリング創世記』のカセットテープまでも買い、
今も後生大事に持っているであるよ。w
カセットテープを再生する器械がないので聞けないけど。


「♪ドンドンはドンドコを生み、
 ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、
 ドンドコドンはドンタタタを生めり・・・」(テキトーですが)


聖書に馴染んでない人が読んだら
訳の分からない箇所であるに違いない。


「昔、終戦後に伝道師の人達が
 焼け出された人や人生に行き詰った人達を
 訪ねて歩いて、
 新約聖書を配って歩いたんだけどさ、
 キリスト教に興味持ったり入信したいと思って
 この新約を冒頭から読み始めたら
 カタカナの名前ばかりズラズラ並んでて
 聖書読むのを断念したとか挫折したとか、
 そういう話を聞いたよ。」


「そりゃーそうだろう。
 何だかさっぱりわからん。(`´)=3」


「これ、系図なんだよ。
 日本人と同じでさ、
 イスラエルの人達は自分の家系を
 すごく大切にしていたのさ。
 周辺の大国に何度も侵略されたから、
 自分が誰の子孫で系図の何処にいるかは
 大事な事だったんじゃないかな。」


「ほぉ。」


実は、
じじは井上家の一族の系図を大事に持っている。
じじの亡くなった叔母が一族の戸籍を辿って調べ上げ、
約150年ほども遡って徳島のご先祖まで辿り着いた、
手書きの家系図。
100年前に徳島から北海道の手塩に駆け落ちした、
ひいじいさんとひいばあさんの親とその親の親と・・・・
そして子孫はじじも私も妹も載っている。


「キリスト教は
 イエス・キリストを信じれば救われるというのに
 何でこの福音書の冒頭に
 こんな系図が要るかというと、
 このマタイの福音書は
 ユダヤ人達を対象にして書かれたと言われてるのさ。
 十字架で死んで甦ったナザレのイエスが救い主だと
 宣べ伝えようとしても、
 きっとユダヤ人達は突っ込み入れたのかも知れないよ。
 "ナザレのイエスが救い主だぁ?
  救い主はダビデの子孫に決まってるだろう。
  ナザレのイエスとは何処の馬の骨だ?"
 なんて言う人がいたりしてさ、
 イエスを救い主とする根拠を系図という形にしないと
 ユダヤ人達は耳を貸さなかったんじゃないかな。」


「なるほどなぁ。」


「イスラエルの開祖アブラハムから
 イスラエル統一国家の王ダビデまで14代。
 ダビデの王国は繁栄したけど子のソロモンの代から
 大勢の女を囲い込んでハーレム作って、
 その女達が本来のイスラエルの紙への信仰とは別の
 偶像崇拝を持ち込んで、神の怒りに触れて、
 王国は南北に分裂して、
 バビロン、アッシリア、ペルシャ、ローマなど
 周辺の大国の侵略を受けたのさ。
 バビロンへは捕囚と言って
 生き残った人達がバビロンに連行されて
 長い間戻って来れなかったんだよ。
 そのダビデからバビロン捕囚までが14代、
 バビロン捕囚からイエス・キリストまでが14代だって。
 そうやって説明しないと
 その先の福音に耳を傾けなかったユダヤ人達がいて、
 そんな頑固な、
 イエスを十字架に磔にして殺したユダヤ人達に
 イエスの教えを広めようとして、
 マタイは福音書をまとめたんだよ。
 イエスの父ヨセフはダビデの系列の人だったのさ。」


「家系図を大事にするというのは、
 日本人と似てるなぁ。」


「うん。
 言えてるね。」


イエスの誕生の箇所。
信仰者ヨセフについて。


「お父さん、どう思う。
 自分の婚約者である女がさ、
 自分に心当たりもないのに結婚しないうちから
 腹が大きくなってしまったら。」


「それは・・・どうって言われても・・・」


「この時代のイスラエルでは、
 姦淫の罪を犯した女は
 公衆の面前に引き摺り出して
 石ぶつけて死刑にしたのさ。
 それが規則だった。
 でも、ヨセフは表沙汰にして
 マリアが死刑になるのを望まなかったとある。」


「そうだな。」


「規則を守ってマリアを晒し者にして
 死刑にする事をしないで
 表沙汰にしないで密かに離縁しようとした、
 そういうヨセフを
 マタイは"正しい人だったので"と言ってる。
 律法ではマリアを死刑にするのが正しいけど
 憐れみ深い神様の前ではヨセフが正しいよね。」


「うん。そうだな。」


「ヨセフは悩んだと思うよ。
 死刑にしなくたって、
 結婚前に腹が大きくなって離縁されただけでも
 一族から"お家の恥"とか言われて追い出されて
 野垂れ死にする事になったと思うよ。」


「そうだろうな。」


「ヨセフは聖書の中では地味なんだけど
 立派な信仰者だと思わない?」


「うん。そうだ。」


「自分がどうするべきか、
 どうすれば神様の御心に適うか、
 常に心を神に向けて祈っていたと思う。
 その時だけでなくて、
 常日頃からそういう信仰姿勢を持ってたと思う。
 だから天使が夢に現れて神様の御旨を告げたら
 言われた通りに実行出来たんだよ。」


「そうだな。」


「だって簡単な事じゃないと思わない?
 自分のでない子供が腹にいる女を
 妻として娶って、
 この後凄い苦労を背負うんだよ。
 住民登録の旅の途中で赤ん坊が生まれてしまって
 ヘロデ王の刺客に命を狙われて
 着の身着のまま外国に亡命して
 食うや食わずの難民生活だよ。
 身分保障もない、言葉も通じない。」


「うーん。」


「自分のでない子供のために
 そこまで出来るかい?」


「そう言われてもなあ。。。
 しかし神様からそうしろと言われたら
 仕方ないだろう。」


「仕方なくではなかったと思うよ。
 仕方なく引き取ったら
 継子扱いして虐待したくなるでしょう、誰でも。
 だって子のこのために自分が
 こんな苦労を背負い込んだと思えば。」


じじ、
"継子扱い"という言葉にピクリと反応した。
じじ自身が子供の頃に継母から虐められて
自分の分だけ食事を作って貰えなかった経験がある。


「キリスト教では子供は親の所有物ではないんだよ。
 子供は神様から預かったものとして考える。
 子供を育てる事は、神様に対する責任なのさ。
 ましてヨセフの立場だったら
 神様に対する信仰が確固としてなかったら
 マリアを嫁にする事もイエスを育てる事も
 到底出来なかったんじゃないかな。」


「うん。
 神様にそう言われて
 その通りにしたんだな。」


「生まれて来る子供はこの世で使命があるからね。
 神の御旨を果たすために
 子供を大事に育てなければならないのさね。
 ヨセフの場合、
 生まれて来る子供が自分の子供でなくても、
 天使が民を罪から救う救い主だと言ってるでしょ。
 神様の御用を果たすために、
 ヨセフは忠実に働いて、
 マリアとイエスを養ったんだよ。」


「うーーーむ。( ̄・・ ̄)=3」


じじ、
やたら関心してるけど。どうよ。
ヨセフから見れば、
今の世の中ダメ親父だらけでしょ。


 マリアの胎の子は
 聖霊によって宿ったのである。(1;20)


「お父さん、
 ここほら、さっき唱えた使徒信条に出てるよ。」


「そーだなぁ。」


 「見よ、
  おとめが身ごもって男の子を産む。
  その名はインマヌエルと呼ばれる。」(1;23)


「これは、イザヤ書に書かれてるんだよ。
 イエスが生まれる何百年も昔に
 預言者イザヤが既に言っていたのさ。
 イザヤは、
 さっき系図に出て来たマナセ王に
 首を刎ねられて殺された。
 マナセ王は預言者達を皆殺しにしたのさ。」


「・・・・・(-"-)」


旧約のイザヤ書を開く。
じじ、ルーペで見ながら朗読した。


 それゆえ、
 わたしの主が御自ら
 あなたたちにしるしを与えられる。
 見よ、
 おとめが身ごもって、男の子を産み、
 その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7;14)


「おおー
 出てるなぁ。」


「出てるっしょー。
 おとめが身ごもって・・・・のおとめって、
 結婚前の子供を産んだ事のない女だよ。
 それと、旧約聖書では、
 女が最初に産んだ第一子の男の子は神のもので
 その子は神に捧げられるとされてる。
 だから"おとめが"、というのは
 この女の最初の妊娠で
 初めて胎を開いた男の子だという事を指してる。
 二回目の妊娠で出来た子でもないし、
 女の子でもない、
 神に捧げられるのは、
 一回目の妊娠で生まれる男の子だからね。」


「へぇーそういうものか。」


「そーいうものなのさ。」


では、
この続きはまた次回。

じじは聖書を読み続ける

2008-03-23 21:53:36 | マタイ
寝不足で疲れていたので
仮眠を取ってから
じじ宅に行って
夕食の摂取状態と服薬のチェックをした。


ちょうど大河ドラマの始まった時刻だったのに
早々と就寝している。
忘れたのではなく、
今回は面白くないという。


牧師館の朝顔の写真や
今日の洗礼式の写真を見せたりして
しばらく話した。


じじが言った。


「あー。
 あの、聖書な。
 あれは読み出したら止まらないな。」


ん?


「洗礼式の前に
 マルコくらいは読んだ方がいいと思って
 読んできたけど
 お父さん、これからも聖書読みたいかい?」


「うん。
 そうだな。」


「わかった。」


えっと・・・・。
では、
この後はマタイ行くか。
マタイは山上の垂訓とか、
まとまった説教集だし、
意味を考えるようにして
少しずつゆっくり進もうか。