自分は教会の幽霊と化しているであるよ。
朝から風邪で寝込んでいたら、
本日教会に同行する予定だったじじのヘルパーから連絡が来た。
「***さんちに行く、教会の途中タクシーで寄れ」
と言い張るので、
ヘルパーがそれは出来ないと答えると
じじは逆上したらしい。
「お前は俺の言う事が聞けないのか!
帰れ!出て行け!
俺一人で***さんちに行く!」と。
先日見兼ねた珈琲店の店主に送って貰って
味をしめたのか、
じじはまた自分一人で外に行くと宣言したらしい。
ヘルパーには約束通りそのまま退室して貰った。
昼飯の用意もまだだったらしいが構わない。
珈琲店にも私から連絡した。
たとえ本人がまた這い出して来ても
決して手を貸さないでくれと頼んだ。
こうなったら誰もじじを止められない。
自分で這い出して転んでケガしても
誰も責任持てない。
多分今頃また部屋でふてくされてるであろう。
自分の思い通りにならないと
その度にヘルパーを罵倒していたが
聞けない事は聞けない。
暴言を吐けば嫌われて出て行かれる、
好き勝手しようとしても
誰も都合よく手を貸してはくれない事を
じじは80歳にして学ぶだろう。
今日の日曜日を狙っての実力行使。
十分自分で判断出来る。
事故があってもじじの自己責任である。
これまでじじの理不尽で身勝手な要求に折れてきた
私も悪かったのだ。
これからはもう無い。
本日教会に同行する予定だったじじのヘルパーから連絡が来た。
「***さんちに行く、教会の途中タクシーで寄れ」
と言い張るので、
ヘルパーがそれは出来ないと答えると
じじは逆上したらしい。
「お前は俺の言う事が聞けないのか!
帰れ!出て行け!
俺一人で***さんちに行く!」と。
先日見兼ねた珈琲店の店主に送って貰って
味をしめたのか、
じじはまた自分一人で外に行くと宣言したらしい。
ヘルパーには約束通りそのまま退室して貰った。
昼飯の用意もまだだったらしいが構わない。
珈琲店にも私から連絡した。
たとえ本人がまた這い出して来ても
決して手を貸さないでくれと頼んだ。
こうなったら誰もじじを止められない。
自分で這い出して転んでケガしても
誰も責任持てない。
多分今頃また部屋でふてくされてるであろう。
自分の思い通りにならないと
その度にヘルパーを罵倒していたが
聞けない事は聞けない。
暴言を吐けば嫌われて出て行かれる、
好き勝手しようとしても
誰も都合よく手を貸してはくれない事を
じじは80歳にして学ぶだろう。
今日の日曜日を狙っての実力行使。
十分自分で判断出来る。
事故があってもじじの自己責任である。
これまでじじの理不尽で身勝手な要求に折れてきた
私も悪かったのだ。
これからはもう無い。
人生呪われてる。
今朝は昨日の疲れが抜けず
食欲無くて薬だけ飲んで出勤し、昼飯食えばいいやと思って
ペット蕎麦茶を一本買って勤務してたら超多忙だった。
昼ぎりぎりまで飲む暇全く無し。
頭がガンガンしてきて慌てて500ml一気飲みし、
作業してたらドクターコール(緊急事態)の連絡あり走る。
飲んだ水分はあっという間に蒸発。(笑)
やっと昼休みになって
食堂に行こうとロッカーから財布と携帯を出して見ると、
行きつけの珈琲店の店主からメールと着信が。
歩行不能ではいはいしているじじがヘルパーの退室後
一人で壁伝いに外に出て、
壁に張り付いたままよたよたしているところを通行人に発見され、
珈琲店の店主に支えられて店に収容されていたという。
じじはここしばらく
職場の先輩に大事な懐中時計を上げると言って
デイケアの送迎バスや教会の行き帰りのタクシーを迂回させようとし、
ヘルパーから出来ないと断られて逆上する事を繰り返している。
懐中時計を上げたい相手は7年前既に亡くなっている。
それでもじじは諦めず遺族に唐突に電話したりする。
昨日の朝じじはデイケアの迎えのバスを待つ間に
先方の遺族に自分で電話して、
「これから時計を持って行きます。」と言ってしまった。
これからデイケアに行くという時に。
慌てたヘルパーがじじのトイレに行っている間に
先方にリダイヤルして事情を説明し、取り消したので
大きなトラブルにはならなかった。
今朝のヘルパーは昨日と同じ人で非常に気配りと機転の利く人である。
しかし、朝のケアに入って珈琲とおやつを出して、
一度退室して別の利用者宅に行っている間に、
まさか普段ろくに歩けないじじが一人で壁伝いに屋外に出て
珈琲店に行き「時計を届ける!」などとゴネて
店主に車椅子で護送されたとはさすがに知らず。
何も知らずに昼のケアのため戻って来たヘルパーに、
じじは「珈琲店に借金があるから払って来い」と言いつけた。
珈琲はさっき飲んだ筈、歩けないのに珈琲店に行く筈ないしと
合点がいかずうろたえるヘルパーにじじは逆上し、
「誰が金を払ってると思っているんだばか者!お前達全員クビだ!」
と罵倒したという。
何が何だか分からないまま珈琲代を払いに行ってヘルパーは
店主の話を聞いて初めて事情を知った。
そこまでの経過を
私は昼休みに珈琲店の店主夫妻から電話で聞いて平謝り、
ケアマネに連絡して事情を説明、
ヘルパーも私もじじに振り回されるのはもう限界であり、
今後の対応を相談した。
昼休みはそれで時間切れ。
これで朝も昼も飯抜きや。
こんなのばっかりや。
薬飲んでいながら二食抜きの上、水分不足では
自分としてはまず過ぎると思い、片っ端からペットの蕎麦茶を買って
飲みながら午後の仕事をした。
何でこんなに忙しいのか分からん。
口が渇き、ペット500mlを4本飲んで尿もろくに出ない。
午後一杯頭痛と後頚部の張りで目までチカチカしてた。
仕事の帰りにヘルパーステーションの責任者と電話で相談。
ケアマネとヘルパーサイドと私とでの申し合わせ。
今後、じじがヘルパーに対して
暴言、介助拒否、怒鳴るなどの行為があった場合、
ケアを(たとえ途中であっても)その場で中断してヘルパーは退室し、
私の携帯に連絡する事になった。
その場合、たとえ日曜日であっても教会行きは中止。
たかが懐中時計の一個や二個、
私が電池入れ替えに走り、先方の遺族に届ける事は簡単である。
しかしそれはしない方が良いとケアマネから助言された。
これまでも同様のじじゴネに私達は折れてきた。
今回もそれをするとじじの気紛れな要求は周りの者の都合を無視して
今後際限無くエスカレートするのは間違いない。
さっき珈琲店に出向いて改めて謝罪してきた。
頭痛いけど胃も痛いぞくそじじめ。
おそらくじじはこの次の日曜日、教会への行き返りにまた
あらぬ要求をしてヘルパーを困らせるであろう。
他の日はデイケアで塞がっているからだ。
闘いだな。
しかしもう疲れてきた。
今朝は昨日の疲れが抜けず
食欲無くて薬だけ飲んで出勤し、昼飯食えばいいやと思って
ペット蕎麦茶を一本買って勤務してたら超多忙だった。
昼ぎりぎりまで飲む暇全く無し。
頭がガンガンしてきて慌てて500ml一気飲みし、
作業してたらドクターコール(緊急事態)の連絡あり走る。
飲んだ水分はあっという間に蒸発。(笑)
やっと昼休みになって
食堂に行こうとロッカーから財布と携帯を出して見ると、
行きつけの珈琲店の店主からメールと着信が。
歩行不能ではいはいしているじじがヘルパーの退室後
一人で壁伝いに外に出て、
壁に張り付いたままよたよたしているところを通行人に発見され、
珈琲店の店主に支えられて店に収容されていたという。
じじはここしばらく
職場の先輩に大事な懐中時計を上げると言って
デイケアの送迎バスや教会の行き帰りのタクシーを迂回させようとし、
ヘルパーから出来ないと断られて逆上する事を繰り返している。
懐中時計を上げたい相手は7年前既に亡くなっている。
それでもじじは諦めず遺族に唐突に電話したりする。
昨日の朝じじはデイケアの迎えのバスを待つ間に
先方の遺族に自分で電話して、
「これから時計を持って行きます。」と言ってしまった。
これからデイケアに行くという時に。
慌てたヘルパーがじじのトイレに行っている間に
先方にリダイヤルして事情を説明し、取り消したので
大きなトラブルにはならなかった。
今朝のヘルパーは昨日と同じ人で非常に気配りと機転の利く人である。
しかし、朝のケアに入って珈琲とおやつを出して、
一度退室して別の利用者宅に行っている間に、
まさか普段ろくに歩けないじじが一人で壁伝いに屋外に出て
珈琲店に行き「時計を届ける!」などとゴネて
店主に車椅子で護送されたとはさすがに知らず。
何も知らずに昼のケアのため戻って来たヘルパーに、
じじは「珈琲店に借金があるから払って来い」と言いつけた。
珈琲はさっき飲んだ筈、歩けないのに珈琲店に行く筈ないしと
合点がいかずうろたえるヘルパーにじじは逆上し、
「誰が金を払ってると思っているんだばか者!お前達全員クビだ!」
と罵倒したという。
何が何だか分からないまま珈琲代を払いに行ってヘルパーは
店主の話を聞いて初めて事情を知った。
そこまでの経過を
私は昼休みに珈琲店の店主夫妻から電話で聞いて平謝り、
ケアマネに連絡して事情を説明、
ヘルパーも私もじじに振り回されるのはもう限界であり、
今後の対応を相談した。
昼休みはそれで時間切れ。
これで朝も昼も飯抜きや。
こんなのばっかりや。
薬飲んでいながら二食抜きの上、水分不足では
自分としてはまず過ぎると思い、片っ端からペットの蕎麦茶を買って
飲みながら午後の仕事をした。
何でこんなに忙しいのか分からん。
口が渇き、ペット500mlを4本飲んで尿もろくに出ない。
午後一杯頭痛と後頚部の張りで目までチカチカしてた。
仕事の帰りにヘルパーステーションの責任者と電話で相談。
ケアマネとヘルパーサイドと私とでの申し合わせ。
今後、じじがヘルパーに対して
暴言、介助拒否、怒鳴るなどの行為があった場合、
ケアを(たとえ途中であっても)その場で中断してヘルパーは退室し、
私の携帯に連絡する事になった。
その場合、たとえ日曜日であっても教会行きは中止。
たかが懐中時計の一個や二個、
私が電池入れ替えに走り、先方の遺族に届ける事は簡単である。
しかしそれはしない方が良いとケアマネから助言された。
これまでも同様のじじゴネに私達は折れてきた。
今回もそれをするとじじの気紛れな要求は周りの者の都合を無視して
今後際限無くエスカレートするのは間違いない。
さっき珈琲店に出向いて改めて謝罪してきた。
頭痛いけど胃も痛いぞくそじじめ。
おそらくじじはこの次の日曜日、教会への行き返りにまた
あらぬ要求をしてヘルパーを困らせるであろう。
他の日はデイケアで塞がっているからだ。
闘いだな。
しかしもう疲れてきた。
青き空よ
造り主の御業を讃えよ
(224番 賛美歌21)
聖書はⅠヨハネ4;7。
今日私が話した礼拝メッセージの内容は
昨年一年間の聖書通読から得た事を分かち合いとした。
何のために生きるか。
エゼキエル16;4~6、18;23、18;32
「生きよ」と神から人間へ、呼びかけが何度も繰り返される。
生きよ生きよって、生きる事に何の意味があるのかと
考え込む事も私にはある。
エゼキエルを読んだのをきっかけに、
ヨハネの福音書、三つの書簡、黙示録を読んで自分の信仰を考えさせられた。
何故エゼキエルからヨハネに話が飛ぶかというと、
「生きろ、生きなさい」という意図が
ヨハネの文章に込められていると感じたからだ。
私の中でエゼキエルとヨハネは「生きろ」というメッセージによってつながっている。
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
神を知っているからです。(Ⅰヨハネ4;7)
ヨハネの書いた文章は洗練された美しい言葉であるが、
福音書も、手紙も、黙示録も、読めば読むほど生々しい
血みどろの苦痛に満ちている気がして、息苦しくなる。
ヨハネは90歳の長寿を全うしたと言われるが本当だろうか。
拷問で肉体を痛めつけられて殺されるだけが殉教ではないかも知れない。
心が血を流す事も人間にはあるからだ。
迫害の時代、風前の灯のような小さな苗だった教会を
嵐と濁流から守り育てようとした、ヨハネの凄まじい苦闘を念頭に置いて
ヨハネの手紙や黙示録を読むと胸が詰まる。
一字一句に込められた、信仰者達への「生きろ、生き延びろ」という
ヨハネの思いが迫って来る。
…あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ、悪魔はあなたがたを試すために、
あなたがたうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしはあなたに命の冠を与えよう。
(ヨハネ黙示録2;10 新改訳)
受洗以来愛読している故・辻宣道牧師の説教集にこの箇所が引用されている。
「…絶望してはいけない。
どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
(引用;ヨハネ黙示録2;10口語訳)
ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
これは慰めの言葉です。
10日の間、苦難にあう、しかし11日目はないのです。
苦難は必ず区切られる。
無限に続くと思い込んではなりません。
まさに信仰者とは11日目をめざして歩む者です。」
(辻宣道著『教会生活の四季』日本基督教団出版局)
ホーリネス教会の牧師の子として生まれ育った15歳の辻宣道少年は
第二次大戦中に学校で教師達や同級生達から散々殴ら苛められ続けた。
父親は逮捕され、教会籍を剥奪され、教会は解散させられた。
教会員達は散り散りになり、投獄され犯罪者の烙印を押された牧師の家族は
妻と中学生から乳飲み子まで、路頭に迷い、
軍の払い下げの残飯を貰って食いつないだ。
教会員だった人々からまでも手のひらを返され見捨てられた。
終戦の年明け、牧師であった父は囚人として獄死した。
その過酷な体験によって
「もうキリスト教は嫌だ、御免だ、
キリスト教徒でさえなければこんな目に遭わなかった。」
そう言って父を焼く火葬場に向かう道で神を呪った。
しかし終戦後に信仰の恵みを授かり、父と同じ宣教の道を歩んで牧師となった。
父の獄死から何十年も経って講壇から説いた、ヨハネの黙示録、11日目の希望。
15歳の過酷な少年時代に、辻宣道牧師は
黙示録を書いた迫害の時代のヨハネと苦しみを共有し、分かち合っていた。
信仰者はどんな状況にあっても絶望せずに生きなければならないのだと。
生きる。しかし、何のために?
もう何年も前の話であるが、近所のカトリック教会の司祭が言っていた。
「私達は誰かを赦すために、誰かを愛するために、この世に生まれて来ました。
私達は人を赦すために、愛するために、生命を与えられ、生かされています。」
(L司祭)
この言葉は私にとって
“何のために生きるか”という問いへの明確な答えである。
エゼキエルの言う「生きる」と、ヨハネの言う「愛」はこの事だと思った。
人間が何故この世に生み出され、何故生かされているのか、
何故生きなければならないか。
エゼキエルの預言に語られた「生きよ」という神の人間に対する呼びかけに対して、
私は苦しい事や辛い事に遭う度に
“何故、何のために生きなければならないか”という疑問を持つ。
しかし過酷な迫害の時代に生きたヨハネという人が一貫して愛を説いた、
その血の滲んだ「愛」の意味を、私達は聖書を通して、
自分の心で受け留める事が出来る。
ヨハネの言う「愛」を受け留めたら、
日々の生活の中で神と向き合って自分自身に問わなければならない。
現実の日常の中で、主なる神が自分に誰を赦せと望んでおられるのか、
誰を愛せと望んでおられるのかを。
今、果たして生きていると言えるだろうか、自分は。
私が礼拝のメッセージをしたために、
通常よりも30分ほど礼拝が早く終わった。
天気が良いので光合成しながら散歩した。
立派な事を喋れる者でもないのに
こうして二日続けて福音を語った。
面の皮がまた一層分厚くなった。
造り主の御業を讃えよ
(224番 賛美歌21)
聖書はⅠヨハネ4;7。
今日私が話した礼拝メッセージの内容は
昨年一年間の聖書通読から得た事を分かち合いとした。
何のために生きるか。
エゼキエル16;4~6、18;23、18;32
「生きよ」と神から人間へ、呼びかけが何度も繰り返される。
生きよ生きよって、生きる事に何の意味があるのかと
考え込む事も私にはある。
エゼキエルを読んだのをきっかけに、
ヨハネの福音書、三つの書簡、黙示録を読んで自分の信仰を考えさせられた。
何故エゼキエルからヨハネに話が飛ぶかというと、
「生きろ、生きなさい」という意図が
ヨハネの文章に込められていると感じたからだ。
私の中でエゼキエルとヨハネは「生きろ」というメッセージによってつながっている。
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
神を知っているからです。(Ⅰヨハネ4;7)
ヨハネの書いた文章は洗練された美しい言葉であるが、
福音書も、手紙も、黙示録も、読めば読むほど生々しい
血みどろの苦痛に満ちている気がして、息苦しくなる。
ヨハネは90歳の長寿を全うしたと言われるが本当だろうか。
拷問で肉体を痛めつけられて殺されるだけが殉教ではないかも知れない。
心が血を流す事も人間にはあるからだ。
迫害の時代、風前の灯のような小さな苗だった教会を
嵐と濁流から守り育てようとした、ヨハネの凄まじい苦闘を念頭に置いて
ヨハネの手紙や黙示録を読むと胸が詰まる。
一字一句に込められた、信仰者達への「生きろ、生き延びろ」という
ヨハネの思いが迫って来る。
…あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ、悪魔はあなたがたを試すために、
あなたがたうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしはあなたに命の冠を与えよう。
(ヨハネ黙示録2;10 新改訳)
受洗以来愛読している故・辻宣道牧師の説教集にこの箇所が引用されている。
「…絶望してはいけない。
どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
(引用;ヨハネ黙示録2;10口語訳)
ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
これは慰めの言葉です。
10日の間、苦難にあう、しかし11日目はないのです。
苦難は必ず区切られる。
無限に続くと思い込んではなりません。
まさに信仰者とは11日目をめざして歩む者です。」
(辻宣道著『教会生活の四季』日本基督教団出版局)
ホーリネス教会の牧師の子として生まれ育った15歳の辻宣道少年は
第二次大戦中に学校で教師達や同級生達から散々殴ら苛められ続けた。
父親は逮捕され、教会籍を剥奪され、教会は解散させられた。
教会員達は散り散りになり、投獄され犯罪者の烙印を押された牧師の家族は
妻と中学生から乳飲み子まで、路頭に迷い、
軍の払い下げの残飯を貰って食いつないだ。
教会員だった人々からまでも手のひらを返され見捨てられた。
終戦の年明け、牧師であった父は囚人として獄死した。
その過酷な体験によって
「もうキリスト教は嫌だ、御免だ、
キリスト教徒でさえなければこんな目に遭わなかった。」
そう言って父を焼く火葬場に向かう道で神を呪った。
しかし終戦後に信仰の恵みを授かり、父と同じ宣教の道を歩んで牧師となった。
父の獄死から何十年も経って講壇から説いた、ヨハネの黙示録、11日目の希望。
15歳の過酷な少年時代に、辻宣道牧師は
黙示録を書いた迫害の時代のヨハネと苦しみを共有し、分かち合っていた。
信仰者はどんな状況にあっても絶望せずに生きなければならないのだと。
生きる。しかし、何のために?
もう何年も前の話であるが、近所のカトリック教会の司祭が言っていた。
「私達は誰かを赦すために、誰かを愛するために、この世に生まれて来ました。
私達は人を赦すために、愛するために、生命を与えられ、生かされています。」
(L司祭)
この言葉は私にとって
“何のために生きるか”という問いへの明確な答えである。
エゼキエルの言う「生きる」と、ヨハネの言う「愛」はこの事だと思った。
人間が何故この世に生み出され、何故生かされているのか、
何故生きなければならないか。
エゼキエルの預言に語られた「生きよ」という神の人間に対する呼びかけに対して、
私は苦しい事や辛い事に遭う度に
“何故、何のために生きなければならないか”という疑問を持つ。
しかし過酷な迫害の時代に生きたヨハネという人が一貫して愛を説いた、
その血の滲んだ「愛」の意味を、私達は聖書を通して、
自分の心で受け留める事が出来る。
ヨハネの言う「愛」を受け留めたら、
日々の生活の中で神と向き合って自分自身に問わなければならない。
現実の日常の中で、主なる神が自分に誰を赦せと望んでおられるのか、
誰を愛せと望んでおられるのかを。
今、果たして生きていると言えるだろうか、自分は。
私が礼拝のメッセージをしたために、
通常よりも30分ほど礼拝が早く終わった。
天気が良いので光合成しながら散歩した。
立派な事を喋れる者でもないのに
こうして二日続けて福音を語った。
面の皮がまた一層分厚くなった。
明日の礼拝のメッセージと内容が重複してはならないので、
昨年一年間の聖書通読から得た事の分かち合いとして、
マリアの事を話した。
ラザロ、マルタ、マリアのマリア。
聖書はヨハネ11;1~44
参照した聖書箇所ヶ所(詩篇16;10、ヨハネ14;6、ヨハネ20;13~16、詩篇41;10、ヨハネ13;18~19)
(詩篇16;10)
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
右の手から永遠の喜びをいただきます。
(ヨハネ14;6)
私は道であり、真理であり、命である。
(ヨハネ20;13~16)
「婦人よ、なぜ泣いているのか」
「わたしの主が取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
「婦人よ、なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
「マリア」
「先生」
イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。
イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。
マリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。
成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。
ラザロが死んだ時、
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。
自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみた。
マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、
イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。
この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐く苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまった。
“ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”
ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。
イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。
死人ラザロが復活した奇跡よりも、死んだ人間を生き返らせてまでも、
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
ラザロの復活の奇跡よりも、イエスがマリアに伝えようとした事の方に
私は注目する。
マリアは、イエスがパンを食べさせてくれたからとか
病気を癒してくれたからという理由でイエスに付いて行く人々とは違っていた。
(詩篇41;10)
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
(ヨハネ13;18~19)
わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
しかし、
『わたしのパンを食べている者が、
わたしに逆らった』
という聖書の言葉は実現しなければならない。
事の起こる前に、今、言っておく。
事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
あなたがたが信じるようになるためである。
弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。
(De imitatione Christiより)
パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
多くの人はその奇跡に感嘆する、
しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエスが姿を隠し、
暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
ひどく落胆する。
しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
イエスをイエスとして愛している人は、
患難や苦しみの時にも
慰めの時と同様に、
彼を賛美する。
マリアも、
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。
イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、
私達はこの時のマリアの気持ちが理解できる。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を持っている。
そんなマリアに、イエスは「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと。
彼女の姉妹マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れる者であった。
マリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと望んで
マリアにそう言われたのではないだろうか。
弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなくイエスをイエスとして
心底愛した人達がマリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。
2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。
昨年、マルタについて聖書通読の感想を話したら
婦人会の人からやたら好評だった。
別にマルタを贔屓目に見ているつもりは無かったのだけど。
姉妹は対比して描かれているので、今回マリアの事も語ったのであるが、
婦人会からの出席者は無かった。
残念。
昨年一年間の聖書通読から得た事の分かち合いとして、
マリアの事を話した。
ラザロ、マルタ、マリアのマリア。
聖書はヨハネ11;1~44
参照した聖書箇所ヶ所(詩篇16;10、ヨハネ14;6、ヨハネ20;13~16、詩篇41;10、ヨハネ13;18~19)
(詩篇16;10)
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
右の手から永遠の喜びをいただきます。
(ヨハネ14;6)
私は道であり、真理であり、命である。
(ヨハネ20;13~16)
「婦人よ、なぜ泣いているのか」
「わたしの主が取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
「婦人よ、なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
「マリア」
「先生」
イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。
イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。
マリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。
成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。
ラザロが死んだ時、
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。
自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみた。
マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、
イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。
この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐く苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまった。
“ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”
ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。
イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。
死人ラザロが復活した奇跡よりも、死んだ人間を生き返らせてまでも、
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
ラザロの復活の奇跡よりも、イエスがマリアに伝えようとした事の方に
私は注目する。
マリアは、イエスがパンを食べさせてくれたからとか
病気を癒してくれたからという理由でイエスに付いて行く人々とは違っていた。
(詩篇41;10)
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
(ヨハネ13;18~19)
わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
しかし、
『わたしのパンを食べている者が、
わたしに逆らった』
という聖書の言葉は実現しなければならない。
事の起こる前に、今、言っておく。
事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
あなたがたが信じるようになるためである。
弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。
(De imitatione Christiより)
パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
多くの人はその奇跡に感嘆する、
しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエスが姿を隠し、
暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
ひどく落胆する。
しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
イエスをイエスとして愛している人は、
患難や苦しみの時にも
慰めの時と同様に、
彼を賛美する。
マリアも、
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。
イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、
私達はこの時のマリアの気持ちが理解できる。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を持っている。
そんなマリアに、イエスは「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと。
彼女の姉妹マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れる者であった。
マリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと望んで
マリアにそう言われたのではないだろうか。
弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなくイエスをイエスとして
心底愛した人達がマリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。
2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。
昨年、マルタについて聖書通読の感想を話したら
婦人会の人からやたら好評だった。
別にマルタを贔屓目に見ているつもりは無かったのだけど。
姉妹は対比して描かれているので、今回マリアの事も語ったのであるが、
婦人会からの出席者は無かった。
残念。
明日の朝祷会で話す話の準備もしなければならんの。
早く帰りたいんですけど。
明日デイケアでしょ。
ストーブで背中炙ってないで早く寝てくれじじ!
早く帰りたいんですけど。
明日デイケアでしょ。
ストーブで背中炙ってないで早く寝てくれじじ!
年末に、不機嫌だったじじが教会で帰りにトイレ誘導していたヘルパーを
意味も無く怒鳴りつけた。
私はその場でじじをきつく叱りつけ、
ヘルパーは女中ではない思いあがるなと厳しく指摘した。
「汚い仕事や面倒な事を全部やらせておいて女中扱いするなど、
それでキリスト教徒のつもりか恥知らず。」
「うるさい、お前は余計な事を言うな!」
その時じじの迎えのタクシーが到着した。
ヘルパーと私とでふてくされるじじを介助して車に移乗させていると、
就学前の子供がちょろちょろ出て来てヘルパーを見下す暴言を吐いた。
私の目の前で。
「ふん、別にいいんじゃない?
ヘルパーの仕事なんて誰だって出来るんだから。」
女中扱いされて不満ならクビにすればいい、
ヘルパーなんか誰でも出来る、代わりは幾らでもいる、という意味である。
牧師や私達教会員の前では可愛い良い子を演じ、
物陰ではヘルパーに対してこういう態度を取っていたのか。
正直、愕然とした。
「待ちなさい。
今何て言った?
ヘルパーがどんな仕事してるか知ってるの?」
私が注意すると、ふふんと言って子供は逃げた。
小さい子供の無知な言動であっても聞き捨てならない。
子供は身近な大人の価値観を反映し、また相手によって態度を使い分ける。
牧師や主だった教会員の前では本性を出さず良い子を演じ、
ヘルパーに対しては人を蔑み見下した態度と言動を、
常日頃から表していた事を前々から漠然と雰囲気で感じてはいた。
今回はまさにその現場を目撃した。
あまりにも幼い、小さい子の言葉なので
本人の認識によって出た言葉ではなく家族の価値観が
子供に反映して言わせたと解釈し、私は教会仲間に連絡して事情を話し、
どう考えているか聞いた。
電話の向こうで教会仲間がショックを受けていた。
子供の言動には常日頃から家庭でも悩んでいたと。
教会仲間も、私と同様に家庭の中に、家族に悩みを抱えている。
その子の家族の問題だけではない。
日頃ヘルパーを虐げるじじの態度が
あんな小さい子供にまで影響しているかも知れない。
職業や立場で人に優劣や序列をつけさせ、
相手によって態度を変えてへつらったり見下したりする事を
子供に刷り込んでしまったかも知れない。
現にじじは子供には優しいおじいちゃんを演じ、
ヘルパーに対しては女中のように虐げて、態度を別人のように使い分けている。
どうするべきか、どう考えて子供達と関わるべきか、難しいと思った。
世の中では見逃される事であっても、
子供達が教会で育っていく上では見逃してはならない事もあると思う。
相手は子供と老人で年の違いはあるが、教会仲間も私も同じ問題に直面している。
あまりに言葉がひどく、人を傷つける言動をした時、
カッとなって手を上げたくなる時もあるという。
それはじじと関わっている私も同じだ。
しかし、手を上げたら負けである。
感情的に動揺し、暴力に頼るしか術の無い者として
相手はこちらの足元を見るだろう。
決して手だけは上げないで、一緒に考えようと話し合った。
キリスト者は負けてはならないのだ。
断じて。
日々、闘いである。
自分のしたい事とか、何かあったような気もするが、
そんなものは知らない間に何処かに消し飛んだな。
だから自分の将来について何がしたいかとかどうなりたいかなどと、
展望を聞かれるとイラつく。
あるかよそんなもん!という心理である。
しばらく近況を語り合った。
教会仲間は精神的に辛い重荷を負っている。
私達はお互い一杯一杯である。
精神的にも体力的にも。
話の途中で聞かれた。
「あなたは今、幸せ?」
幸せでなければならないのかな。
自分は幸せだと自分に言い聞かせていないと不幸になる気がするらしい。
その人は私に言う。
「幸せにならきゃ。」
“幸せにならなきゃならない”それ自体が一つの脅迫観念であり
呪いだと私は思うよ。
相手が心理的に低迷しているのであえて突っ込まずに言葉を飲み込んだ。
幸せになりたいとか幸せになろうとか、
自分を追い詰め追い込んで幸せになれた人は一人でもいるだろうか。
作者不詳の格言。
「自分が幸せかどうか問わなくともよい。
しかしあなたと共にいる人が幸せかどうかは問うがよい。」
(『しあわせ』女子パウロ会)
この言葉は真理だと思う。
自分が幸せかどうか考え込んでいる人、
幸せになろうなろうと自分を追い立てる人は、
言うまでも無く不幸せだ。
この言葉は作者不詳の格言であるが、出本はイエスの言葉、
福音書の黄金律(マタイ7;12、ルカ6;31)である。
・・・だから、
人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。(マタイ7;12)
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカ6;31)
私達はいつも、このために悩み、苦しむ。
意味も無く怒鳴りつけた。
私はその場でじじをきつく叱りつけ、
ヘルパーは女中ではない思いあがるなと厳しく指摘した。
「汚い仕事や面倒な事を全部やらせておいて女中扱いするなど、
それでキリスト教徒のつもりか恥知らず。」
「うるさい、お前は余計な事を言うな!」
その時じじの迎えのタクシーが到着した。
ヘルパーと私とでふてくされるじじを介助して車に移乗させていると、
就学前の子供がちょろちょろ出て来てヘルパーを見下す暴言を吐いた。
私の目の前で。
「ふん、別にいいんじゃない?
ヘルパーの仕事なんて誰だって出来るんだから。」
女中扱いされて不満ならクビにすればいい、
ヘルパーなんか誰でも出来る、代わりは幾らでもいる、という意味である。
牧師や私達教会員の前では可愛い良い子を演じ、
物陰ではヘルパーに対してこういう態度を取っていたのか。
正直、愕然とした。
「待ちなさい。
今何て言った?
ヘルパーがどんな仕事してるか知ってるの?」
私が注意すると、ふふんと言って子供は逃げた。
小さい子供の無知な言動であっても聞き捨てならない。
子供は身近な大人の価値観を反映し、また相手によって態度を使い分ける。
牧師や主だった教会員の前では本性を出さず良い子を演じ、
ヘルパーに対しては人を蔑み見下した態度と言動を、
常日頃から表していた事を前々から漠然と雰囲気で感じてはいた。
今回はまさにその現場を目撃した。
あまりにも幼い、小さい子の言葉なので
本人の認識によって出た言葉ではなく家族の価値観が
子供に反映して言わせたと解釈し、私は教会仲間に連絡して事情を話し、
どう考えているか聞いた。
電話の向こうで教会仲間がショックを受けていた。
子供の言動には常日頃から家庭でも悩んでいたと。
教会仲間も、私と同様に家庭の中に、家族に悩みを抱えている。
その子の家族の問題だけではない。
日頃ヘルパーを虐げるじじの態度が
あんな小さい子供にまで影響しているかも知れない。
職業や立場で人に優劣や序列をつけさせ、
相手によって態度を変えてへつらったり見下したりする事を
子供に刷り込んでしまったかも知れない。
現にじじは子供には優しいおじいちゃんを演じ、
ヘルパーに対しては女中のように虐げて、態度を別人のように使い分けている。
どうするべきか、どう考えて子供達と関わるべきか、難しいと思った。
世の中では見逃される事であっても、
子供達が教会で育っていく上では見逃してはならない事もあると思う。
相手は子供と老人で年の違いはあるが、教会仲間も私も同じ問題に直面している。
あまりに言葉がひどく、人を傷つける言動をした時、
カッとなって手を上げたくなる時もあるという。
それはじじと関わっている私も同じだ。
しかし、手を上げたら負けである。
感情的に動揺し、暴力に頼るしか術の無い者として
相手はこちらの足元を見るだろう。
決して手だけは上げないで、一緒に考えようと話し合った。
キリスト者は負けてはならないのだ。
断じて。
日々、闘いである。
自分のしたい事とか、何かあったような気もするが、
そんなものは知らない間に何処かに消し飛んだな。
だから自分の将来について何がしたいかとかどうなりたいかなどと、
展望を聞かれるとイラつく。
あるかよそんなもん!という心理である。
しばらく近況を語り合った。
教会仲間は精神的に辛い重荷を負っている。
私達はお互い一杯一杯である。
精神的にも体力的にも。
話の途中で聞かれた。
「あなたは今、幸せ?」
幸せでなければならないのかな。
自分は幸せだと自分に言い聞かせていないと不幸になる気がするらしい。
その人は私に言う。
「幸せにならきゃ。」
“幸せにならなきゃならない”それ自体が一つの脅迫観念であり
呪いだと私は思うよ。
相手が心理的に低迷しているのであえて突っ込まずに言葉を飲み込んだ。
幸せになりたいとか幸せになろうとか、
自分を追い詰め追い込んで幸せになれた人は一人でもいるだろうか。
作者不詳の格言。
「自分が幸せかどうか問わなくともよい。
しかしあなたと共にいる人が幸せかどうかは問うがよい。」
(『しあわせ』女子パウロ会)
この言葉は真理だと思う。
自分が幸せかどうか考え込んでいる人、
幸せになろうなろうと自分を追い立てる人は、
言うまでも無く不幸せだ。
この言葉は作者不詳の格言であるが、出本はイエスの言葉、
福音書の黄金律(マタイ7;12、ルカ6;31)である。
・・・だから、
人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。(マタイ7;12)
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカ6;31)
私達はいつも、このために悩み、苦しむ。
聖書はイザヤ9;1~7。
闇の中に光を見る。
私は心身が不調だ。
訳も無く消耗し尽くした、
自分が出涸らしのお茶っ葉のような気がして
人と話をしたくない。
年末年始はひたすらじじ宅で台所仕事をして
自室の掃除がまだである。
休みは暦どおりで残すところ明日一日のみ。
明日の年明け外来は混雑するんだうな。。。。orz
週末の土日は二日間メッセージ奉仕をするので
準備もしないと。
まず自分の精神を安定させなければ。
午後の新年昼食会は辞退して、挨拶のみで自宅に帰った。
どうしてこういつも、追い立てられているのだろう私は。
じじはヘルパーさんと共に教会に残った。
今日は礼拝の後新年の持ち寄り昼食会。
各自新年の抱負を一言喋らねばならんの。
じじは何を語るかな。
私には何もない。
会食とか交流会とか親睦会とか、今一番やりたくない、そういうの。
やたら消耗しており、年が明けたからって抱負など、
どこ叩いても出て来ない。
「闇の中に光を見る」
やみ。
闇。
病み。
私は今、やみの中にいる。
闇の中に光を見る。
私は心身が不調だ。
訳も無く消耗し尽くした、
自分が出涸らしのお茶っ葉のような気がして
人と話をしたくない。
年末年始はひたすらじじ宅で台所仕事をして
自室の掃除がまだである。
休みは暦どおりで残すところ明日一日のみ。
明日の年明け外来は混雑するんだうな。。。。orz
週末の土日は二日間メッセージ奉仕をするので
準備もしないと。
まず自分の精神を安定させなければ。
午後の新年昼食会は辞退して、挨拶のみで自宅に帰った。
どうしてこういつも、追い立てられているのだろう私は。
じじはヘルパーさんと共に教会に残った。
今日は礼拝の後新年の持ち寄り昼食会。
各自新年の抱負を一言喋らねばならんの。
じじは何を語るかな。
私には何もない。
会食とか交流会とか親睦会とか、今一番やりたくない、そういうの。
やたら消耗しており、年が明けたからって抱負など、
どこ叩いても出て来ない。
「闇の中に光を見る」
やみ。
闇。
病み。
私は今、やみの中にいる。
カレー粉の粉っぽい、辛くないカレー。
年越しの料理作りながら、自分のために作っておいた。
無性に食べたいカレー粉っぽいカレー。
こういう黄色いカレーを無闇に食べたい時、不調だ。
体調の良くない証拠。
確かに心身が不調で、自分自身が荒んでいる。
こういう時は本当は人に会わない方がいいのだ。
年越しの料理作りながら、自分のために作っておいた。
無性に食べたいカレー粉っぽいカレー。
こういう黄色いカレーを無闇に食べたい時、不調だ。
体調の良くない証拠。
確かに心身が不調で、自分自身が荒んでいる。
こういう時は本当は人に会わない方がいいのだ。