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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

主日礼拝

2011-01-02 12:13:00 | 預言書
聖書はイザヤ9;1~7。


闇の中に光を見る。




私は心身が不調だ。
訳も無く消耗し尽くした、
自分が出涸らしのお茶っ葉のような気がして
人と話をしたくない。


年末年始はひたすらじじ宅で台所仕事をして
自室の掃除がまだである。
休みは暦どおりで残すところ明日一日のみ。
明日の年明け外来は混雑するんだうな。。。。orz


週末の土日は二日間メッセージ奉仕をするので
準備もしないと。


まず自分の精神を安定させなければ。
午後の新年昼食会は辞退して、挨拶のみで自宅に帰った。
どうしてこういつも、追い立てられているのだろう私は。




じじはヘルパーさんと共に教会に残った。
今日は礼拝の後新年の持ち寄り昼食会。
各自新年の抱負を一言喋らねばならんの。
じじは何を語るかな。
私には何もない。
会食とか交流会とか親睦会とか、今一番やりたくない、そういうの。
やたら消耗しており、年が明けたからって抱負など、
どこ叩いても出て来ない。




「闇の中に光を見る」


やみ。
闇。
病み。


私は今、やみの中にいる。

灰の水曜日

2008-02-06 21:16:17 | 預言書
今日は灰の水曜日。
四旬節が始まった。


日勤の後、
会議が終わってすぐバスに乗り、
近所のカトリック教会の聖堂を訪ねた。
灰の水曜日の夕ミサがある筈だと思ったので。
バスの窓から聖堂に灯りが点いているのが見えた。
間に合ってよかった。


私の所属するメノナイト教会では
特にこの日は行事をしないが
教会暦を意識して
個人的に黙想する人はいるかも知れない。


灰の式に出たのは9年ぶりだ。
ここに引っ越して来た翌年の年明けに
その聖堂に度々一人で黙想するうちに
留守番を勤める女性信徒の方と仲良くなった。
その方から灰の水曜日というのがあると誘われて、
初めて参加した。
それ以来9年。


前年の枝の主日に頂いた棕櫚の枝を
教会員達が持ち寄って来て、
集めた枝を燃やして灰を作る。
司祭がその灰を祝福し、
「回心して福音を信じなさい」という言葉を唱えながら
一人ひとりの頭に灰をかける。
回心と償いのわざを促すしるしとして。


その祝別された灰の塊を見る。
自分もいずれこの灰のようになる。
自分はこの灰のように消えて無くなる儚い存在である。
ただ神の慈しみと憐れみによって、
生かされて辛うじて生きている。


ああ
それは本当だ。現実のものだ。
私がこの地上で出会って話したり聞いたり
一緒に食べたり飲んだり歌ったり笑ったりしていた
あの人もこの人も
この世の時を全うした時、
こんな風に灰になって
火葬場の窯の中から出て来た。
私もいつか必ずこのような灰になるのだ。


回心。
自分の弱さと貧しさを認め、
神を仰ぎ見て生きる事。
自分に頼るのではなく
他者に頼るのでもなく
神に信頼して生き始める時、
私達は新しくされる。


「回心して福音を信じなさい」


頭に灰をかけられた後、
しばらく司祭の話した言葉を反芻した。


私達は塵から造られ、塵に帰る。
私達には死んでも帰るべき所がある。
私達を造られたお方の元へ帰る。
私達は罪によって死ぬのであって、
私達が罪を悔い改めて、立ち返って生きる事を
主が望んでおられる。


  悔い改めて福音を信じなさい。
               (マルコ1;15)


  塵にすぎないお前は塵に返る。
               (創世記3;19)


  生きとし生けるものは直ちに息絶え
  人間も塵に返るだろう。
               (ヨブ34;15)


  あなたは人を塵に返し「人の子よ帰れ」と
  仰せになります。
               (詩篇90;3)


  すべてはひとつのところに行く。
  すべては塵から成った。
  すべては塵に返る。
               (コヘレト3;20)


回心。立ち返る。


  主は言われる。
 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。
  断食し、泣き悲しんで。
  衣を裂くのではなく
  お前たちの心を引き裂け。」


  あなたたちの神、主に立ち帰れ。
  主は恵みに満ち、憐れみ深く
  忍耐強く、慈しみに富み
  くだした災いを悔いられるからだ。
  あるいは、主が思い直され
  その後に祝福を残し
  あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を
  残してくださるかも知れない。
                (ヨエル2;12~14)


思うところあって
今日の灰の水曜日に
塵に過ぎない自分と向き合おうと思った。
主なる神の前で。