じじの入退院と退院後の譫妄騒ぎでずっと棚上げしていた、
4月の聖餐式の時の役員の中途退席と、同一人物が5月にじじとヘルパーとに
進路妨害してテーブルに着かせなかった件について私が思っている事を、
牧師先生にメールで知らせた。
本来であれば、じじの精神状態が不穏である事について、
皆に打ち明けて祈って欲しいと申し出る筈のものが
返って教会から足が遠のくのは、実は問題が別物だからだと認めざるを得ない。
私はもう今所属するメノナイト教会に行きたくない。
それは私が仕事や介護で疲れているからではなく、
じじの健康状態が理由でもなく、ヘルパーの利用料金が高いからでもない。
あの4月と5月の出来事によって所属教会が自分にとってもじじにとっても
居場所ではなくなっている事に気づいたからである。
それまで通っていた所属教会に行くのを止めたら、
きっと寂しいとか喪失感があるに違いないと思っていた。
しかし実際どうよ。
今の自分自身を省みると、寂しいどころかほっとしているではないか。
日曜の休日にまでも教会行事や会議で消耗し
じじが救急搬送された処置室で月報の締め切り連絡が着信し
礼拝メッセージの奉仕で原稿起こしの期限に追われ
何か話そうにも牧師はいつも協議会の講座や会議で不在、いても多忙で時間が無い。
教会員同士で共感し合ったり聖書を読み合って共有する事も無く
ただ教会行事の業務連絡に終始する、
週日の勤務よりも休日の教会の方が倍も消耗し、
礼拝の翌日の月曜日はいつもくたびれ切って出勤する、
教会は既に喜び勇んで行く場所ではなくなっているではないか。
私は大した奉仕もしていなかったが、
じじとヘルパーとが教会に行くだけで神経を磨り減らす事も多かった。
私は自分に問う。
一体自分は教会に何をしに行っていたのか。
釧路に来て以来、まるでもう一つの仕事に行っているかのようであった。
喜びや慰めとは無縁の、ただ消耗するだけの聖書の学校。
牧師先生に月報作成の連絡メールと共にじじの近況報告を兼ねて
4月の聖餐式の件と5月のお茶の時の件について、私の思っている事を知らせた。
5月のお茶の時は牧師はたまたま席を外していたが、
4月の聖餐式の時は陪餐会員が揃った聖餐式の場、
牧師の目の前で起こった事だからである。
牧師先生から返信が来た。
「25日に戴いたメールを読みました。
いつか聖餐式の時に、席を立った人が居たことを記憶していますが、
お父さんを避けるために席を立ったとは、全然思いませんでした。
・・・
教会の人たちは皆、お父さんが教会に来てくれることを喜んでいるし、
見えない時は、心配しているので、何かの行き違いであってくれたら、
と思いますが・・・・・。
月報の製作は大丈夫でしょうか。
8月の聖句は、コロサイ3:15になります。
8月のスケジュールで、司会者の一部変更がありました。
7日は○○さんで、14日は△△さん、21日が□□さんになりました。
8月は***の奉仕はありません。」
その後、牧師先生と電話でも話した。
牧師は役員が席を立ったのを見ていた。
でもそれはボイコットとは思わなかったし、
あの役員はボイコットのつもりで席を立ったのではないと思うと言った。
どうしてそれがわかる?
本人と話したのか?
聖餐式の件やじじの問題が無かったとしても、
私自身が協議会の「共同体」という偶像を掲げ土地建物に対して執着し、
意に沿わない邪魔な人間を吊るし上げ排除する有様を見てきて気持ち悪く
キリスト教とは別物と考えていると話した。
牧師先生は「その話は前にも聞いた」とだけ言った。
そうだ。
私は何度も思うところを言ってきた。
しかしそれについてどう思うかは牧師先生の口からは一切聞かされない。
ただ月報を今後作ってくれるのかくれないのか、
作ってくれないなら牧師が作らねばならないと言った。
牧師の関心はその一点だけである。
私はすみませんと言って辞退した。
エクセルを出来る人間は他にもいる。
私がいてもいなくても、メノナイト教会の大勢に影響は無い。
「今まで散々お世話になり、
多大な迷惑をかけておきながら申し訳ありません。
距離を置かせて頂きます。
安易に他の教派を渡り歩くつもりは今のところはありません。
朝祷会で事務局などやって他教派の人々とは顔見知りであり、
この地元にいる間はそう簡単にふらふらする事も出来ません。」
お世話になりました。
今までありがとうございました。
ごめんなさい。
(追記;
後日、当の役員とも電話で話した。
聖餐式でじじのパンを受けずに突然席を立って退室した事をその役員は
「憶えていない」と言った。
「私がそんな事をする筈が無い、むしろあなたのお父さんが
落としたり間違えたり失敗しないか心配していた」
と言った。
憶えていないと言ってもあの場に集まった全員の見ている前で
あなたは席を立った、代わりに次の人がじじからパンを受け取ってくれた、
そう私が指摘するとその役員は「ごめんなさい」と言った。
しかし理由は言わず記憶に無いの一点張りである。
自覚無しに聖餐式の途中で席を立ったり車椅子の介助を妨害出来るものか?
覚えが無いならごめんなさいなどと私に謝る必要は無い。
あなたはごめんなさいを言う相手を取り違えている。
ごめんなさいの前に、あなたはまず故意にした自分の行為を認めるべきだ。
協議会の土地建物絡みで建物と土地に執着し
総会の席で吊るし上げ紛いの事をしてきた一部の人々ついて
私は月報の原稿の上で今の協議会のあり方を批判した。
私の批判に対して
教会役員であると同時にメノナイト協議会執行委員であるあなたは
言葉で正面から私に反論せず、批判者を黙らせるために
私ではなくじじとヘルパーに対して嫌がらせをした。私の見ている前で。
心にも無いごめんなさいを言う前にあなたはそれを認めるべきだ。
私がそう言って謝罪を突っぱねると、役員は初めて反論してきた。
「吊るし上げられた人にだって落ち度があったんだからね。
それを外部の者がとやかく言うべきじゃないでしょう。」
私もそれは否定しない。
長年一人で一つの教会を管理する状態が続けば
当然その人の人間的な欠点が表出し、独善に陥るが、
それを外部の者がとやかく言うべきではない。
ならばどうしてわざわざ遠隔地から落ち度を指摘し干渉して
一人を悪者に仕立て上げる必要があったのか。
協議会執行部に、あの監事達にその権限があったのか?
「それは、帯広が真ん中にあるから。
協議会の総会のために、石狩方面からも道東方面からも集まり易くて
総会や修養会に人を集める都合がいいから。」
総会とか講習会とか勉強会とか修養会とかワークキャンプとか、
協議会の集まりを開催するための立地条件か。
確かに帯広は、札幌からも別海からも同じくらいの移動距離だ。
それで帯広の老朽化した協議会ハウスに協議会の中心を据えたいのか。
そんな理由で一つの教会と一人の教会員とを修復不能な関係にまで貶め
何年間も総会を空転させ、消耗させたのか。
そして今度はあの廃屋を活性化するため人を集めワークキャンプをしたいと。
一体、人間のために建物が存在するのか
建物を維持するために人間がいるのか、どっちだ?
群れの中の信頼関係を損ない、教会から人を去らせてまで
あの廃屋を維持する価値があったのか?
では建物を存続させたい人達が建物の修復作業をすればいいのに
どうして無関係で事情を知らない人達まで巻き込もうとするのか。
「だって、協議会ハウスを直そうにも、
札幌から来た人達は年取ってよぼよぼになってるじゃない。
だからこれからは後の世代の私達が担ってあげないと。
メノナイトは共に働く信仰共同体なんだから。
共同で作業して交流して、いいじゃない。
交わりとか大事でしょ。
それに教会の人達にも気分転換になっていいんじゃないかと思って。」
そうか。
それで精神疾患で治療中の教会員達を協議会ハウスのワークキャンプに
誘っていたのか。最悪だ。
しかし私は怒ってはいないしむしろ感謝している。
私は受洗前の時代も含めた30年間ずっと、
メノナイトには言葉で形容し切れない気持ち悪い偶像があると感じていた。
今その実像を間近で見た気がする。
その嫌悪感が単なる自分の感情や思い込みではなかった事に
気づかせてくれてありがとう。
牧師にも伝えてある。
メノナイト教会とは距離を置きます。
「じゃあ、クリスマスはどうするの?」
クリスマス?何もしない。何処にも行かない。
「私達はあなたの事もお父さんの事も、家族だと思ってるよ。」
あのね。
家族と言うのは食卓で食べ物の受け渡しをボイコットしたり
食卓に着こうとする車椅子の老人の進路を椅子で塞いだりは
しないんだよ。
後日、その役員からメールと本が届いた。
それは一冊のキリスト教雑誌で
「水野源三」や「森のイスキア」が特集記事として載っていた。
「その本があなたのために伝えたい言葉って印象を強く受けたから
読んでみて。」
ありがとう。読ませて頂いた。
でも人に送る前にまず自分が読むべきだね。
私が役割分担で受け持っていた月報作成の奉仕は
その役員が請け負う事になったとも知らせてきた。
「教会は本当に信じる一人一人によって、
皆によって建て上げられているんだよね!凄い事だわ~
今まで長い間お疲れ様でした。元気でね。」
そうですか。頑張って下さい。
釧路に来て14年間、お世話になりました。
いろんな意味で楽しかった。
ありがとう。
さようなら。
4月の聖餐式の時の役員の中途退席と、同一人物が5月にじじとヘルパーとに
進路妨害してテーブルに着かせなかった件について私が思っている事を、
牧師先生にメールで知らせた。
本来であれば、じじの精神状態が不穏である事について、
皆に打ち明けて祈って欲しいと申し出る筈のものが
返って教会から足が遠のくのは、実は問題が別物だからだと認めざるを得ない。
私はもう今所属するメノナイト教会に行きたくない。
それは私が仕事や介護で疲れているからではなく、
じじの健康状態が理由でもなく、ヘルパーの利用料金が高いからでもない。
あの4月と5月の出来事によって所属教会が自分にとってもじじにとっても
居場所ではなくなっている事に気づいたからである。
それまで通っていた所属教会に行くのを止めたら、
きっと寂しいとか喪失感があるに違いないと思っていた。
しかし実際どうよ。
今の自分自身を省みると、寂しいどころかほっとしているではないか。
日曜の休日にまでも教会行事や会議で消耗し
じじが救急搬送された処置室で月報の締め切り連絡が着信し
礼拝メッセージの奉仕で原稿起こしの期限に追われ
何か話そうにも牧師はいつも協議会の講座や会議で不在、いても多忙で時間が無い。
教会員同士で共感し合ったり聖書を読み合って共有する事も無く
ただ教会行事の業務連絡に終始する、
週日の勤務よりも休日の教会の方が倍も消耗し、
礼拝の翌日の月曜日はいつもくたびれ切って出勤する、
教会は既に喜び勇んで行く場所ではなくなっているではないか。
私は大した奉仕もしていなかったが、
じじとヘルパーとが教会に行くだけで神経を磨り減らす事も多かった。
私は自分に問う。
一体自分は教会に何をしに行っていたのか。
釧路に来て以来、まるでもう一つの仕事に行っているかのようであった。
喜びや慰めとは無縁の、ただ消耗するだけの聖書の学校。
牧師先生に月報作成の連絡メールと共にじじの近況報告を兼ねて
4月の聖餐式の件と5月のお茶の時の件について、私の思っている事を知らせた。
5月のお茶の時は牧師はたまたま席を外していたが、
4月の聖餐式の時は陪餐会員が揃った聖餐式の場、
牧師の目の前で起こった事だからである。
牧師先生から返信が来た。
「25日に戴いたメールを読みました。
いつか聖餐式の時に、席を立った人が居たことを記憶していますが、
お父さんを避けるために席を立ったとは、全然思いませんでした。
・・・
教会の人たちは皆、お父さんが教会に来てくれることを喜んでいるし、
見えない時は、心配しているので、何かの行き違いであってくれたら、
と思いますが・・・・・。
月報の製作は大丈夫でしょうか。
8月の聖句は、コロサイ3:15になります。
8月のスケジュールで、司会者の一部変更がありました。
7日は○○さんで、14日は△△さん、21日が□□さんになりました。
8月は***の奉仕はありません。」
その後、牧師先生と電話でも話した。
牧師は役員が席を立ったのを見ていた。
でもそれはボイコットとは思わなかったし、
あの役員はボイコットのつもりで席を立ったのではないと思うと言った。
どうしてそれがわかる?
本人と話したのか?
聖餐式の件やじじの問題が無かったとしても、
私自身が協議会の「共同体」という偶像を掲げ土地建物に対して執着し、
意に沿わない邪魔な人間を吊るし上げ排除する有様を見てきて気持ち悪く
キリスト教とは別物と考えていると話した。
牧師先生は「その話は前にも聞いた」とだけ言った。
そうだ。
私は何度も思うところを言ってきた。
しかしそれについてどう思うかは牧師先生の口からは一切聞かされない。
ただ月報を今後作ってくれるのかくれないのか、
作ってくれないなら牧師が作らねばならないと言った。
牧師の関心はその一点だけである。
私はすみませんと言って辞退した。
エクセルを出来る人間は他にもいる。
私がいてもいなくても、メノナイト教会の大勢に影響は無い。
「今まで散々お世話になり、
多大な迷惑をかけておきながら申し訳ありません。
距離を置かせて頂きます。
安易に他の教派を渡り歩くつもりは今のところはありません。
朝祷会で事務局などやって他教派の人々とは顔見知りであり、
この地元にいる間はそう簡単にふらふらする事も出来ません。」
お世話になりました。
今までありがとうございました。
ごめんなさい。
(追記;
後日、当の役員とも電話で話した。
聖餐式でじじのパンを受けずに突然席を立って退室した事をその役員は
「憶えていない」と言った。
「私がそんな事をする筈が無い、むしろあなたのお父さんが
落としたり間違えたり失敗しないか心配していた」
と言った。
憶えていないと言ってもあの場に集まった全員の見ている前で
あなたは席を立った、代わりに次の人がじじからパンを受け取ってくれた、
そう私が指摘するとその役員は「ごめんなさい」と言った。
しかし理由は言わず記憶に無いの一点張りである。
自覚無しに聖餐式の途中で席を立ったり車椅子の介助を妨害出来るものか?
覚えが無いならごめんなさいなどと私に謝る必要は無い。
あなたはごめんなさいを言う相手を取り違えている。
ごめんなさいの前に、あなたはまず故意にした自分の行為を認めるべきだ。
協議会の土地建物絡みで建物と土地に執着し
総会の席で吊るし上げ紛いの事をしてきた一部の人々ついて
私は月報の原稿の上で今の協議会のあり方を批判した。
私の批判に対して
教会役員であると同時にメノナイト協議会執行委員であるあなたは
言葉で正面から私に反論せず、批判者を黙らせるために
私ではなくじじとヘルパーに対して嫌がらせをした。私の見ている前で。
心にも無いごめんなさいを言う前にあなたはそれを認めるべきだ。
私がそう言って謝罪を突っぱねると、役員は初めて反論してきた。
「吊るし上げられた人にだって落ち度があったんだからね。
それを外部の者がとやかく言うべきじゃないでしょう。」
私もそれは否定しない。
長年一人で一つの教会を管理する状態が続けば
当然その人の人間的な欠点が表出し、独善に陥るが、
それを外部の者がとやかく言うべきではない。
ならばどうしてわざわざ遠隔地から落ち度を指摘し干渉して
一人を悪者に仕立て上げる必要があったのか。
協議会執行部に、あの監事達にその権限があったのか?
「それは、帯広が真ん中にあるから。
協議会の総会のために、石狩方面からも道東方面からも集まり易くて
総会や修養会に人を集める都合がいいから。」
総会とか講習会とか勉強会とか修養会とかワークキャンプとか、
協議会の集まりを開催するための立地条件か。
確かに帯広は、札幌からも別海からも同じくらいの移動距離だ。
それで帯広の老朽化した協議会ハウスに協議会の中心を据えたいのか。
そんな理由で一つの教会と一人の教会員とを修復不能な関係にまで貶め
何年間も総会を空転させ、消耗させたのか。
そして今度はあの廃屋を活性化するため人を集めワークキャンプをしたいと。
一体、人間のために建物が存在するのか
建物を維持するために人間がいるのか、どっちだ?
群れの中の信頼関係を損ない、教会から人を去らせてまで
あの廃屋を維持する価値があったのか?
では建物を存続させたい人達が建物の修復作業をすればいいのに
どうして無関係で事情を知らない人達まで巻き込もうとするのか。
「だって、協議会ハウスを直そうにも、
札幌から来た人達は年取ってよぼよぼになってるじゃない。
だからこれからは後の世代の私達が担ってあげないと。
メノナイトは共に働く信仰共同体なんだから。
共同で作業して交流して、いいじゃない。
交わりとか大事でしょ。
それに教会の人達にも気分転換になっていいんじゃないかと思って。」
そうか。
それで精神疾患で治療中の教会員達を協議会ハウスのワークキャンプに
誘っていたのか。最悪だ。
しかし私は怒ってはいないしむしろ感謝している。
私は受洗前の時代も含めた30年間ずっと、
メノナイトには言葉で形容し切れない気持ち悪い偶像があると感じていた。
今その実像を間近で見た気がする。
その嫌悪感が単なる自分の感情や思い込みではなかった事に
気づかせてくれてありがとう。
牧師にも伝えてある。
メノナイト教会とは距離を置きます。
「じゃあ、クリスマスはどうするの?」
クリスマス?何もしない。何処にも行かない。
「私達はあなたの事もお父さんの事も、家族だと思ってるよ。」
あのね。
家族と言うのは食卓で食べ物の受け渡しをボイコットしたり
食卓に着こうとする車椅子の老人の進路を椅子で塞いだりは
しないんだよ。
後日、その役員からメールと本が届いた。
それは一冊のキリスト教雑誌で
「水野源三」や「森のイスキア」が特集記事として載っていた。
「その本があなたのために伝えたい言葉って印象を強く受けたから
読んでみて。」
ありがとう。読ませて頂いた。
でも人に送る前にまず自分が読むべきだね。
私が役割分担で受け持っていた月報作成の奉仕は
その役員が請け負う事になったとも知らせてきた。
「教会は本当に信じる一人一人によって、
皆によって建て上げられているんだよね!凄い事だわ~
今まで長い間お疲れ様でした。元気でね。」
そうですか。頑張って下さい。
釧路に来て14年間、お世話になりました。
いろんな意味で楽しかった。
ありがとう。
さようなら。