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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

ありがとう、さようなら

2011-09-01 22:57:14 | メノナイト
じじの入退院と退院後の譫妄騒ぎでずっと棚上げしていた、
4月の聖餐式の時の役員の中途退席と、同一人物が5月にじじとヘルパーとに
進路妨害してテーブルに着かせなかった件について私が思っている事を、
牧師先生にメールで知らせた。


本来であれば、じじの精神状態が不穏である事について、
皆に打ち明けて祈って欲しいと申し出る筈のものが
返って教会から足が遠のくのは、実は問題が別物だからだと認めざるを得ない。
私はもう今所属するメノナイト教会に行きたくない。
それは私が仕事や介護で疲れているからではなく、
じじの健康状態が理由でもなく、ヘルパーの利用料金が高いからでもない。
あの4月と5月の出来事によって所属教会が自分にとってもじじにとっても
居場所ではなくなっている事に気づいたからである。


それまで通っていた所属教会に行くのを止めたら、
きっと寂しいとか喪失感があるに違いないと思っていた。
しかし実際どうよ。
今の自分自身を省みると、寂しいどころかほっとしているではないか。


日曜の休日にまでも教会行事や会議で消耗し
じじが救急搬送された処置室で月報の締め切り連絡が着信し
礼拝メッセージの奉仕で原稿起こしの期限に追われ
何か話そうにも牧師はいつも協議会の講座や会議で不在、いても多忙で時間が無い。
教会員同士で共感し合ったり聖書を読み合って共有する事も無く
ただ教会行事の業務連絡に終始する、
週日の勤務よりも休日の教会の方が倍も消耗し、
礼拝の翌日の月曜日はいつもくたびれ切って出勤する、
教会は既に喜び勇んで行く場所ではなくなっているではないか。
私は大した奉仕もしていなかったが、
じじとヘルパーとが教会に行くだけで神経を磨り減らす事も多かった。
私は自分に問う。


一体自分は教会に何をしに行っていたのか。
釧路に来て以来、まるでもう一つの仕事に行っているかのようであった。
喜びや慰めとは無縁の、ただ消耗するだけの聖書の学校。


牧師先生に月報作成の連絡メールと共にじじの近況報告を兼ねて
4月の聖餐式の件と5月のお茶の時の件について、私の思っている事を知らせた。
5月のお茶の時は牧師はたまたま席を外していたが、
4月の聖餐式の時は陪餐会員が揃った聖餐式の場、
牧師の目の前で起こった事だからである。


牧師先生から返信が来た。


  「25日に戴いたメールを読みました。
   いつか聖餐式の時に、席を立った人が居たことを記憶していますが、
   お父さんを避けるために席を立ったとは、全然思いませんでした。
   ・・・
   教会の人たちは皆、お父さんが教会に来てくれることを喜んでいるし、
   見えない時は、心配しているので、何かの行き違いであってくれたら、
   と思いますが・・・・・。
   月報の製作は大丈夫でしょうか。
   8月の聖句は、コロサイ3:15になります。
   8月のスケジュールで、司会者の一部変更がありました。
   7日は○○さんで、14日は△△さん、21日が□□さんになりました。
   8月は***の奉仕はありません。」


その後、牧師先生と電話でも話した。


牧師は役員が席を立ったのを見ていた。
でもそれはボイコットとは思わなかったし、
あの役員はボイコットのつもりで席を立ったのではないと思うと言った。


どうしてそれがわかる?
本人と話したのか?


聖餐式の件やじじの問題が無かったとしても、
私自身が協議会の「共同体」という偶像を掲げ土地建物に対して執着し、
意に沿わない邪魔な人間を吊るし上げ排除する有様を見てきて気持ち悪く
キリスト教とは別物と考えていると話した。
牧師先生は「その話は前にも聞いた」とだけ言った。


そうだ。
私は何度も思うところを言ってきた。
しかしそれについてどう思うかは牧師先生の口からは一切聞かされない。
ただ月報を今後作ってくれるのかくれないのか、
作ってくれないなら牧師が作らねばならないと言った。
牧師の関心はその一点だけである。


私はすみませんと言って辞退した。
エクセルを出来る人間は他にもいる。
私がいてもいなくても、メノナイト教会の大勢に影響は無い。


  「今まで散々お世話になり、
   多大な迷惑をかけておきながら申し訳ありません。
   距離を置かせて頂きます。
   安易に他の教派を渡り歩くつもりは今のところはありません。
   朝祷会で事務局などやって他教派の人々とは顔見知りであり、
   この地元にいる間はそう簡単にふらふらする事も出来ません。」


お世話になりました。
今までありがとうございました。
ごめんなさい。



(追記;

    後日、当の役員とも電話で話した。
    聖餐式でじじのパンを受けずに突然席を立って退室した事をその役員は
    「憶えていない」と言った。
    「私がそんな事をする筈が無い、むしろあなたのお父さんが
     落としたり間違えたり失敗しないか心配していた」
    と言った。
    憶えていないと言ってもあの場に集まった全員の見ている前で
    あなたは席を立った、代わりに次の人がじじからパンを受け取ってくれた、
    そう私が指摘するとその役員は「ごめんなさい」と言った。
    しかし理由は言わず記憶に無いの一点張りである。

    
    自覚無しに聖餐式の途中で席を立ったり車椅子の介助を妨害出来るものか?


    覚えが無いならごめんなさいなどと私に謝る必要は無い。
    あなたはごめんなさいを言う相手を取り違えている。
    ごめんなさいの前に、あなたはまず故意にした自分の行為を認めるべきだ。
    協議会の土地建物絡みで建物と土地に執着し
    総会の席で吊るし上げ紛いの事をしてきた一部の人々ついて
    私は月報の原稿の上で今の協議会のあり方を批判した。
    私の批判に対して
    教会役員であると同時にメノナイト協議会執行委員であるあなたは
    言葉で正面から私に反論せず、批判者を黙らせるために
    私ではなくじじとヘルパーに対して嫌がらせをした。私の見ている前で。
    心にも無いごめんなさいを言う前にあなたはそれを認めるべきだ。
    私がそう言って謝罪を突っぱねると、役員は初めて反論してきた。


    「吊るし上げられた人にだって落ち度があったんだからね。
     それを外部の者がとやかく言うべきじゃないでしょう。」


    私もそれは否定しない。
    長年一人で一つの教会を管理する状態が続けば
    当然その人の人間的な欠点が表出し、独善に陥るが、
    それを外部の者がとやかく言うべきではない。
    ならばどうしてわざわざ遠隔地から落ち度を指摘し干渉して
    一人を悪者に仕立て上げる必要があったのか。
    協議会執行部に、あの監事達にその権限があったのか?


    「それは、帯広が真ん中にあるから。
     協議会の総会のために、石狩方面からも道東方面からも集まり易くて
     総会や修養会に人を集める都合がいいから。」


    総会とか講習会とか勉強会とか修養会とかワークキャンプとか、
    協議会の集まりを開催するための立地条件か。
    確かに帯広は、札幌からも別海からも同じくらいの移動距離だ。
    それで帯広の老朽化した協議会ハウスに協議会の中心を据えたいのか。
    そんな理由で一つの教会と一人の教会員とを修復不能な関係にまで貶め
    何年間も総会を空転させ、消耗させたのか。
    そして今度はあの廃屋を活性化するため人を集めワークキャンプをしたいと。
    一体、人間のために建物が存在するのか
    建物を維持するために人間がいるのか、どっちだ?
    群れの中の信頼関係を損ない、教会から人を去らせてまで
    あの廃屋を維持する価値があったのか?
    では建物を存続させたい人達が建物の修復作業をすればいいのに
    どうして無関係で事情を知らない人達まで巻き込もうとするのか。


    「だって、協議会ハウスを直そうにも、
     札幌から来た人達は年取ってよぼよぼになってるじゃない。
     だからこれからは後の世代の私達が担ってあげないと。
     メノナイトは共に働く信仰共同体なんだから。
     共同で作業して交流して、いいじゃない。
     交わりとか大事でしょ。
     それに教会の人達にも気分転換になっていいんじゃないかと思って。」


    そうか。
    それで精神疾患で治療中の教会員達を協議会ハウスのワークキャンプに
    誘っていたのか。最悪だ。


    しかし私は怒ってはいないしむしろ感謝している。
    私は受洗前の時代も含めた30年間ずっと、
    メノナイトには言葉で形容し切れない気持ち悪い偶像があると感じていた。
    今その実像を間近で見た気がする。
    その嫌悪感が単なる自分の感情や思い込みではなかった事に
    気づかせてくれてありがとう。
    牧師にも伝えてある。
    メノナイト教会とは距離を置きます。


    「じゃあ、クリスマスはどうするの?」


    クリスマス?何もしない。何処にも行かない。


    「私達はあなたの事もお父さんの事も、家族だと思ってるよ。」


    あのね。
    家族と言うのは食卓で食べ物の受け渡しをボイコットしたり
    食卓に着こうとする車椅子の老人の進路を椅子で塞いだりは
    しないんだよ。


    後日、その役員からメールと本が届いた。
    それは一冊のキリスト教雑誌で
    「水野源三」や「森のイスキア」が特集記事として載っていた。


    「その本があなたのために伝えたい言葉って印象を強く受けたから
     読んでみて。」


    ありがとう。読ませて頂いた。
    でも人に送る前にまず自分が読むべきだね。
    私が役割分担で受け持っていた月報作成の奉仕は
    その役員が請け負う事になったとも知らせてきた。


    「教会は本当に信じる一人一人によって、
     皆によって建て上げられているんだよね!凄い事だわ~
     今まで長い間お疲れ様でした。元気でね。」


    そうですか。頑張って下さい。
    釧路に来て14年間、お世話になりました。
    いろんな意味で楽しかった。
    ありがとう。
    さようなら。

排斥

2011-05-01 23:30:00 | メノナイト
今日礼拝の後、行事が何も無いのでそのままゆっくり居残って
皆でお茶を飲もうとあの役員が声を上げた。
先月の聖餐式の時にじじがパンを受け渡す寸前に席を立って退室した人である。


誰かが和菓子を持って来て皆の前で開いた。


「和菓子あるよー食べよう。」


トイレに行っていたじじはヘルパーに車椅子を押されて戻って来た。
帰りのタクシーが来るまで少し待ち時間がある。
和菓子があると聞いてヘルパーがじじをテーブルに誘導しようとして
車椅子を押してきた時、
あの役員が「皆、お茶飲もう」と言いながら突然横から椅子を置いて
じじとヘルパーがテーブルに近付けないよう遮ったのを私は見た。
ヘルパーは咄嗟に車椅子を引き、後退して一瞬変な表情をしたが、
お茶と和菓子を別の教会員から受け取ってじじに渡した。
進路を椅子で遮った役員はすぐにその場を離れて窓際のソファに座り、
腕組みをしてじっと皆の様子を見ている。


私は確信した。
悪気も何も無い風を装って、実は鈍感な私が見ていない所では
日常的にこういう排斥をじじとヘルパーは受けていたのかも知れない。


あの聖餐式の中途退席も何かの事情などではなく、
故意にじじからのパンの受け渡しをボイコットする意図があったのだ。
どんな意図があるにせよ、
その場でやっている行為は悪気の無さを装った排斥である。


なるほど。
そういう事だったのか。
やっと納得したよ。
私に対して言葉で反論出来ないから、
代わりにじじやヘルパーに物陰で陰湿に嫌がらせをしていたのか。


ありがとう。
私はこの件について感謝する。
何時どんな形で「出て行け」と背中を押されるか、待っていたからである。
教会に何も問題が無いのに自ら敷居を蹴飛ばし後足で砂をかけて出る事は出来ない。
でも誰かが何らかの形で排斥してくれるなら、もうあれこれ考える必要は無い。
私自身の信仰生活の場は既にもうここには無く、
他に行くべき場所が用意されているのかも知れない。


ただ、
私がここを出たとしてもじじはどうすればいいのだろう。
陰湿に排斥されたとしても、じじにとってはここが母教会なのだ。
かといって聖餐式でボイコットされたり
お茶の時間に車椅子の進路を椅子で妨害してテーブルに着かせて貰えなかったり、
ヘルパーが子供から「ふん、ヘルパーなんか誰にでも出来る」などと愚弄されたり、
婦人会のおばはんに食後の食器の扱いの事で叱責されたりするのを知っていて
私だけではここを出るに出られない。


どうすればいいのだろう。


留まるべきか去るべきか、これから道が示されるかも知れない。
それまで待とう。


自分の居場所と思い込んでいた場所や家族と思っていた所属教会が、
実はキリスト教を装ったアメリカ由来の紛い物である現実を認め、
受け入れなければならない。

どうして席を立つ?

2011-04-17 23:58:33 | メノナイト
今日の聖餐式で気になる出来事があって、
心が重い。


昼間、教会で礼拝を終えて皆で昼食の後、聖餐式の最中にそれは起こった。


いつものように、主の交わりの食卓を私達は皆で囲んでいた。


今日私はじじの隣に座らず、両隣は教会員、私の右に2人置いてじじが座った。
じじの斜め後ろには同行のヘルパーが必要時介助するために座っていた。
じじは教会仲間からパンと杯を受け、
自分の右に座っている教会役員にパンと杯を渡す事になっていた。
耳の遠い、認知症の入り口にいる高齢者にとってメノナイトの聖餐式の手順は
難しく、ハードルが高い。
まず分餐の言葉を憶えなければならない。


  「○○さん、
   これは、
   あなたのために裂かれたキリストの体です。」


  「○○さん、
   この杯は、
   キリストの血による新しい契約です。」


じじは私やヘルパーの心配を他所に、二つの分餐の言葉を難なく暗記した。
今はカンニングペーパーなど無しで言う事が出来る。
問題はパンと杯を渡す相手の名前を確認し、憶えなければならない事くらいである。
じじはいつも聖餐式の始まる前に、自分が手渡す相手に挨拶し名前を確認していた。
もし間違ったり忘れたとしても誰も笑ったり責めたりしないが、
僅かの失敗が高齢者の自尊心を粉々にして修復不能にする。
そのような事の無いように、受洗者でないヘルパーがじじの背後で
不測の事態に備えて見守っている。


今日もじじは自分がパンと杯を渡す相手に名前を聞いて挨拶していた。
じじが聖餐を渡す相手となる教会役員は孫である赤ん坊を抱いて席に着いた。
赤ん坊は静かに良く眠っていた。


聖餐式が始まった。
毎度の事ながら、聖餐式は緊張する。
牧師から回ってきた盆に乗せられたパンを、
私達は順に自分の名前を呼ばれてパンを受け、
自分の右隣の人の名前を呼び分餐の言葉を告げてパンを手渡した。


じじがパンを受けた。
次にじじが隣にいる教会役員にパンを手渡そうと盆を持ち、
ヘルパーが介助して盆を支えた。
じじが相手にパンを渡そうと向き直り、
やっと憶えた相手の名前を呼ぼうとした瞬間、
赤ん坊を抱いた教会役員は席を立って礼拝堂から出て行った。


私は一瞬目の前で起こった事の意味が理解出来なかった。
赤ん坊は終始熟睡して静かだった。


じじはせっかく事前に名前を憶えてこれから渡そうとした相手に立ち去られ
途方に暮れた表情をし、ヘルパーも戸惑っていたが、
退席した役員の更に隣の教会員が咄嗟に自分の名前を名乗り、
聖餐式は立ち去った人抜きで滞り無く終わった。


賛美歌を歌い、祈りが終わって会議の準備が始まった時、
立ち去った役員は赤ん坊を抱いたまま戻り、何事も無かったかのような表情で
席に着き、間もなく赤ん坊の親が来て引き取って行った。


聖餐式の途中で、それも何も一言も理由を言わずに
受け渡し寸前で席を立って退室した事について、役員は一切何も言わず、
何事も無かったように会議が始まった。
どうして途中で席を立ったのか、席を立った役員は説明しなかった。
牧師も誰も、そして私もその人に
聖餐式の途中、あのタイミングで席を立った理由を尋ねなかった。


赤ん坊がむずかった訳でもないのに、
それもじじがパンを受け渡す寸前に席を立ったのは、
私自身目を疑ったが、ボイコットに見えた。
もし席を立たねばならない理由があったならはじめから断って席に着かないか、
席を立ったとしても戻って来てすぐに何か一言言う筈である。


その役員の表情があまりにも平然としていたので、
私はその人が不測の事態や何かの事情ではなく、わざと席を立ったのだと直感した。


そして、
会議の席では修養会の企画、震災被災地への義捐金を送るルート、
帯広の協議会ハウスでワークキャンプをするからと教会員達に参加を呼びかけた。
これら三つの話題で、私とその役員とは悉く意見が合わなかった。


特に帯広の協議会ハウス絡みのワークキャンプについては
協議会の事情を殆ど知らない人に参加を呼びかけ説得しようとしたので
私は言葉きつくそれを遮った。
協議会で土地建物に固執して信頼関係を破綻させた一部の人々が
ワークキャンプと称して人集めする事に対して批判的な意見を述べた。
余程時間と金に余裕が無いと参加は容易でないのに、
僅かな休日に疲れた体を休めたり家庭で子供と遊ぶ時間を犠牲にしてまで
何でそんなカルト染みた行事に付き合わねばならないのか、と。
その役員はワークキャンプを呼びかけた人々を弁護したが
参加するとその場で即答する人は無かった。



協議会の総会で浅ましい罵詈雑言が飛び交う醜態を晒しても
自分達の教会の中では主にある交わりが実現していた筈だった。


その人は常日頃から私の考えを聞いて知っている。
協議会執行部から持ち帰った企画に教会員達を巻き込もうとしても
私が反論し横槍を入れる事も知っている。


聖餐式でのじじに対するボイコットに見えた中途退席は
じじ個人に対してでなく、私に対する反論封じのような気がしてならない。
これまで長年教会の家族として苦楽を共に仲良くやってきた相手だけに、
私自身自分の眼で見た現実が受け入れ難い。
考え過ぎだろうか。


だらだら考え込むよりも、時間を作って直接話してみるか。
聞いてみよう。
どうしてあの時、あのタイミングで席を立ったのか。

古い樹の下で

2010-11-03 02:04:04 | メノナイト
日付が変った。


今日、あの木の下で
あちこちから皆集まって会議をする。


本当は私も行くべき立場だった。


いつも出席する度、無駄に体力を消耗してくたびれる。
今回は出席しないと意思表示したが、
時間調整して出席しようか…などと思い直しかけていた。
しかし本当に無理になった。


昨夜の転倒騒ぎで、
CT上では所見が見られないとはいえ、じじに万一何か症状が出ても
私が遠出していては対応が後手に回る。
考えていても仕方ない事だが
転倒して頭をぶつけた事を甘く見ると後悔する事になる。
何かあった時すぐ駆けつける事の出来る体勢でいなければならない。


皆、あの古い樹の下に集まるんだろうな。

一本の樹を見て考えた。

2010-10-31 02:41:48 | メノナイト
教会について。


自分が帰属する群れとしての教会について。
自分に与えられた信仰生活の場としての教会について。


毎年同じ日に同じ樹を撮ってこのブログにアップしている。
今さっき、
この樹の写真を見て考えた、いや気づかされた事がある。


私は、教派を、教会を、自分の意志で選んだかのような
思い込みをしていた時期があった。
しかしそれは思い上がった妄想であり、間違っている。


何故なら私達を教会に植えたのは主なる神だからである。
信仰は神からの一方的な恵みだと教わった。
ならば自分がキリストにつながった一本の枝として
生かされ伸びようとする時、
所属する群れであり生かされて生きる居場所、信仰生活の場である教会を
選んで備えて下さったのは神であり、この自分自身ではない。
長い間教会生活をしていると目先の苦楽にばかり翻弄されて、
自分が本当はこの世では無一物であり、
実は何から何まで神に恵まれ与えられているという現実を見失いがちだ。


自分が教会を選んだと思えば、
思い描いた理想の教会と現実の教会が余りにもかけ離れていて失望したり、
気の合わない誰彼に我慢したりさせたりして苛立ったり、
自分好みの理想の鋳型に教会を作り変えようとして群れそのものを
掻き回しながら自覚も無く気づかずにいたりする。
すると、教会という人間の群れの中では利害関係や意見の対立が生じ、
意思疎通が悪くなって傷付いたり傷付けられたりして
空気は澱み、居心地が悪くなる。
結果、思い通りにならない教会を捨て、
自分自身で選び直しをして新しく自分に合う教会を見つけるために
教会を立ち去るという選択肢を取る。
転勤とか生活上の事情など
どうしてもその場所から離れなければならない境遇ではないのに
群れに不満を抱き、自らの意志で教会を立ち去った人々を
これまでに何人も見た。
私が求道する以前も、求道者として家庭集会にいた時も、受洗してからも、
教会と距離を置くようになった人、はっきりと失望を口にして去った人、
無言で立ち去った人達がその時々にいつもいた。


一本の樹を見て考えた。
自分はただ神に赦され養われているだけのひ弱な一本の枝に過ぎず、
教会という群れは自分と同様の
ひ弱な人間同士の集まりであるという現実。
その現実を見失って
或いは忘れて教会を立ち去った人々は今、何処でどうしているだろう。


教会を立ち去った人々。
反目し、敷居を蹴飛ばし出て行った人々、
無言で距離を置いた人々、
他所に自分の理想を叶えてくれる教会を探して
あちこちの教派、あちこちの教会と渡り歩く人々、
あの人もこの人も皆、
新しい居場所、新しい所属教会を見つける事が出来たのだろうか。


一本の樹を見て気づかされた。


教会の中で誰かから「来て欲しくない」と排斥されたり
「出て行け」とはっきり言われた訳でもないのに
自分から教会を立ち去る時、自分は誰を相手にしているかという事。
与えられた居場所を捨て自分から立ち去る事は
それを与えてくれた相手に対する拒絶である。
自分が教派や教会を選んだと思い込むと、
誰を相手にしているか自覚も無く選択肢を取るかも知れない。


昔、母教会の青年会にいた学生の一人が言った言葉を
今また思い出した。
20年近くも前、若い人がぽつりと言った言葉をそのまま覚えている。
本人はもう忘れてしまったかも知れない。
しかし本当に彼の言う通りだ。


「教会って、
 僕達に与えられた信仰生活の場、帰るべき家として
 神様が僕達一人一人に与えて下さったものだと思う。
 誰でも皆、出会いを通してそれぞれ自分の居場所を与えられてる。
 だから僕達は感謝して神様から与えられた居場所で
 忠実に働くべきなんだ。
 いつか別の場所に行って新しい仕事をしなさいと
 神様から新しい道を与えられるまで留まるべきだ。
 自分から好き嫌いで教会を選んで離れたり移り歩くのは、
 僕はキリストの弟子の道とは違うと思う。」


神が御手でこの自分を教会という樹に植えられた以上、
自分がここにいるのは何か神の目的がある筈。
その教会で果たすべき役割があるから植えられた。
出て行けとも言われないのに役割を果たさず放棄し出て行って、
次の居場所が与えられるものだろうか。


神がその人を他の場所で何かに用いようとされるとか
既に別の場所でその人が生かされる道が備えられているなら、
それもありだ。


そんな事を言う人は滅多にいないと思うが
教会の中の誰かが同じ教会にいる人に
「来て欲しくない」とか「出て行け」と言う時、
出て行けという言葉は言われた人にとって一つの印である。
言われた人はその場で感情的に傷付くが、
行くべき別の場所がその人のために既に備えられている。
この事は私の実体験からそう思う。


求道以前の若かった頃に、
私自身が当時行っていた教会のある人から言われた。
「代表である私達と合わないあなたに教会に来られると
 私達の平和が脅かされて困る。」
要するに自分達と考えの合わない者は出て行けという事だ。
当時私はこの事で随分憤慨しふてくされたが、
何十年も経った今にしてその意味を思い、感謝している。
あの時の「出て行け」は私にとって重要な印、
母教会と出会う道に歩み出るための道程に欠かせない指標だった。
あの体験が無ければ、あの時のまま漫然と私は群れにつながってそのまま、
人間関係に縛られて見るものを誤り、
信仰告白も受洗も実現しなかったに違いない。
何故ならあの時の教会はキリストとは無関係な方角に脱線し、
既にこの世に存在していないからだ。


滅多にあり得ない事だが、教会で誰かに「出て行け」と言われたら
素直に大手を振って出て行くべきだ。
その言葉は意味のある指標であり、次に行くべき場所は既に備えられている。


逆に言えば、
誰からも出て行けと言われないのに
自分から教会を出ようとする時、何処に行く宛てがあるだろうか。
神が備え、与えて下さった場所を自分から捨て、立ち去って
思い通りの理想の居場所が見つかるだろうか。


留まる事が理不尽で辛く苦しく感じられても、
誰かから「出て行け」と言われるまでは
自分自身のために教会に留まるべきと思う。


一本の樹を見ただけで
どうしてここまで考えさせられるのだろう。


そのような状況がもし生じたら。
群れの存続が左右されている。
とりなしの祈りを捧げ、
和解のためにあらゆる事をしなければならないが
果たして何をするべきだろう。
何が出来るだろう。
そんな事態が起こらない事を祈るしかない。

今、一本の樹を見ていた 2.

2010-10-31 02:03:12 | メノナイト
昨年の4月29日に撮ったあの白樺の樹。
一昨年はぼんやりした薄曇りだった。
昨年のこの時は冴え冴えした快晴で、
枝の先に含んだ露が光りながら私の頭に落ちて来た。


教会は長い年月の間には
おそらく人が大勢集まって賑わった時もあり、
人の足が途絶えかけて閑散とした時もあり、
和気藹々していた時もあり、深刻な問題を抱えた時もあり、
皆が元気で躍動感に溢れていた時もあり、
病苦やあらゆる悩みに苦悩した時もあり、
誰かが生まれた時もあり、誰かが帰天した時もあり、
新しく誰かが入って来た時があり、
誰かが去って行った時があり、
様々に移り変わるその時々の教会の姿を
この古い樹が沈黙のうちにじっと見つめてきた事を思う。

2010総会

2010-05-02 03:37:00 | メノナイト
今回の総会で長年の土地建物の問題がやっと解決に向けて動いた。
一件落着といえば一件落着。
・・・のまだ入り口。
これで少しは前進したと言えるんだろうか。


しかし
一度損なわれた人間関係はそう簡単には回復されない。
一度根付いてしまった不信感を払拭するために
私達はこれからどんな、どれだけの代償を払い続けなければならないのだろう。


今回、誰の口も重かった。


最後に、ここ数年渦中に立ち続けてきた人が、
問題解決の糸口が見えてきた事で、
出来るだけ早くここから立ち去りたいと述べた。
まだいつ、どんな形でという具体化はされないが、立ち去りたいと。
群れの中で問題が起こって、辛い思いを味わって、
ああ、そうだろうなと思う。
気持ちは推測出来る。
私も、もし自分が同じ立場に立たされたら、そうするかも知れない。
いや私だったらもっと早くに敷居を蹴飛ばして飛び出してるかな。


しかし私個人の考え方に過ぎないが、
信仰に視点を据えると、それではダメなのだと思う。
その人が信仰者であるなら、その結論は間違っている事になる。
そうならないように祈ろう。


単なる組織内の人間関係としてだけ考えるなら出て行くのもありだ。
しかし、教会は人と人だけの繋がりではない。
その人を教会に植えたのは主なる神だ。
主がその人を慈しんで信仰を与えて下さり、
その人を生かす場として、信仰生活の場として一つの教会に導き、
長年の間に色々な奉仕をさせて用いて下さり、その人を育てて下さった。
私達一人一人皆がそうだ。
教会は個人にとって主から一方的に与えられた恵みであると思う。
自分の置かれた信仰生活の場である。
神からも、その教会の誰からも出て行けと言われないのに
自分から群れを出て行く事は、
神がせっかく用意して与えて下さったものを捨てると同じ。
そこを出ても自分の居場所は簡単には見つからない。
自分から教会を出て行ったまま未だに何処にも定着出来ずに
様々な教会を転々とする人は大勢いる。


留まる事が辛く、理不尽に感じられたとしても
教会の中の誰かが「出て行け」と言うまではそこにいなければ。
自分が望むと望むまいと、出て行かなければならない時はそうと分かる。
人間として他の場所に行ってどうしてもしなければならない事が出来たとか
食いつなぐために職を求めて余所の地に移転するとか
転地療養しなければならない病気になったとか
家族の事情とか、帰天する時が来たとか。


留まって欲しいと思う。
留まって、和解して欲しいと思う。
教会と。

帰って来た。

2010-04-29 18:30:00 | メノナイト
無事帰ってというか、命からがら帰って来た。


主よ、感謝します。


道路はかなり危険だった。
帰り道は後半濃霧が立ち込めていたし。


帰りの車中で携帯を見ると、
ミクシイの私の日記にお仲間の皆様からコメントが。
そう、私、行きの車中で
「ひぇぇ帯広は雪や!」という写真入り記事を携帯から投稿したのだった。


「うわぁ・・・ (;^ω^)
 無事に帰って来られますように~ 」


「ご武運を~」


「ううむ(`´; 」


読み上げたら牧師先生と教会仲間にウケてたよ。
甚だご心配をおかけしてしまいましたが
事故も無く帰って来る事が出来ました。
お祈り感謝します。<(_ _)>

着信?

2010-04-29 16:50:00 | メノナイト
帰り道の途中、私の携帯に着信が。
じじはデイケアに行ってる筈。
まさか何か事故でも?・・一瞬どきりとしたら、
役員会のために一足遅れて岐路に着いた教会仲間からの着信だった。
帰るつもりが何故か、
正反対の広尾方向に向かって走ってしまったらしい。


「ええっ何で広尾!?」


「私もよくわかんないのさ。
 気がついたら、こっちに向かって来てしまってて、
 あれっ広尾方面の標識!?私、何でここにいるの?と思って
 それで電話したさぁ。」


だいぶお疲れだよ。
大丈夫かい。
頼むよ事故んないでよ。
役員の重圧と仕事と家族の事もあって
心身共に消耗し切ってるんだな。


そうやって協議会の何とか会議なんかでまた仕事で、
しょっちゅう招集されて北海道内をぐるぐる車で奔走して
教会でも子供達のためのプログラムとかやって
へとへとなんじゃないの。


でも、車で命を落とすのだけは勘弁して。
A君みたいな事だけは。

母教会

2010-04-29 16:10:00 | メノナイト
総会終了。
予定よりもやく1.5時間早く終わった。


札幌の、私の母教会の教会員の方々と挨拶を交わした。


「今でも日曜日にはあの大鍋でカレーを作ってますか。」


「作ってるよ。(笑)」


母教会を離れてもう10年経った。
じじの脳梗塞発症以来だ。
札幌を離れる時はじじの受洗と今の教会生活が
その先にあるとは考えもしなかった。
時々、ホームシックのように発作的に母教会に行きたくなる。
私はあの教会でキリスト者として教会家族の一員として人間として
本当に大切にされ、育てられた事を痛感する。
大勢でわいわい賑やかに食べたあの甘口カレーが
時々無性に食べたくなる。


教会のカレーは、
私がどう頑張っても決して自分では作れない。


言葉では言い尽くせない感謝で一杯です。
どうかお元気で。
母教会の皆さんによろしく。
祈ります。

休憩中。

2010-04-29 12:39:00 | メノナイト
妖怪大会、昼休み中。


まだ降っている。
この帯広教会の誕生当時に宣教師達が植えた白樺の樹。
何十年もここに立って帯広教会の営みを見守ってきた。
今は梢の細かい枝の先々まで雪でコーティングされている。
見上げると、どんな色の空の下で見ても、凛と美しい。
昨年は青空の下で眩しく逆光撮影だった。


帰り道が心配や。

帯広教会に来た。

2010-04-29 09:45:00 | メノナイト
やっと帯広教会に辿り着いたであるよ。


写真は帯広教会の桜。
この樹、昨年は蕾が赤く膨らんでいた。
一昨年は満開だった。
帯広での総会は年に一度、毎年4月29日と決まっているから
今年のこの真っ白な枝の着雪が如何に異常な事態か
私の写真ブログで一年前、二年前の今日を見れば
嫌でも実感する。


今、太陽に黒点が全く無いからね。
普段よりも何千℃も温度が低いの。
太陽系の太陽が元気ないから、
地球規模どころか全太陽系規模で冷え込んでいる。
ここ地球も寒いけど、火星や土星はもっと寒いと思うよ。
生き延びれるのかな我々人類は。
氷河期が来てナウマン象みたいに
私達は絶滅するんだろうか。


世の終わりが来るんだなきっと。

ひぇぇ

2010-04-29 09:28:00 | メノナイト
帯広は雪や!


帯広近郊に来たら、
雨が霙(みぞれ)から融けかけた水っぽい雪に変わってる!


今何月や!?


ぅわっ・・・(((;>"<)


対向車と擦れ違う度に
フロントガラス一面に大量の大根おろしを、
雨水じゃなくてじゃぶじゃぶの大根おろし状の氷水をだよ、
何の挨拶も無くいちいち全面にぶっ掛けられるし、
しかもそれがカーブの途中だったりして、
真面目な話、もうあの世行き?


主よ、ちょっとそれは困ります。