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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-21 22:53:32 | ヘブライ
明日は通常通り火曜日の婦人聖書の会がある。
仕事の後、じじ宅にて
ヘブライ13章とコリントⅠの主の晩餐の箇所を朗読し、解説した。


ヘブライ13はじじが明日婦人会の人達と一緒に読む箇所にて予習、
Ⅰコリントは昨日の聖餐式の復習。


イエスが私達の罪を贖うために自らを犠牲として捧げられた。
聖餐式の裂かれたパン。
「○○さん、これはあなたのために裂かれたキリストの体です。」


キリスト者である私達もイエスに倣って、イエスと共に苦しみを担う。


私達にはこの地上に永続する都は無く、やがて来るべき都を探し求める。


教会の指導者達に協力してキリストの体である教会を支えていくべき。


これらの事を書いている筆者自身が獄中にある。


永遠の契約の血による羊の大牧者、…(13;20)
この箇所は礼拝の終わりの祝祷で牧師先生が祈る時の言葉である。
“永遠の契約の血”は、聖餐式の時の杯の言葉。
「○○さん、この杯は、キリストの血による新しい契約です。」
私達の罪を贖うために流されたキリストの血。
聖餐に与る毎に確かめる神と人との新しい契約。


テモテが釈放された。
一緒に早く宛名の人々の教会に行きたい気持ちが伝わる。
獄中でも筆者は伝道していたのか、
イタリア出身の人々(おそらく囚人達)からもよろしくと。
国は違っても私達の国籍は天にあり、同じ唯一人の神の家族である。


明日、ヘルパーが来る時刻をメモに書いて見える場所に置いた。
教会へは特大虫眼鏡とじじの中型聖書(新共同訳)、主の祈りを書いた紙を持参する。
同行のヘルパーにも連絡ノートに書いて伝えた。


明日、楽しみだな、じじ。


明日でヘブライが終わったら、他の参加者さえよければ
次回からは出来ればマタイかルカか、福音書を読ませて欲しい事を
牧師夫妻に伝え、リクエストした。
何を読むか決まったら、また毎日じじ宅でその箇所を一緒に読む事にする。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-18 23:33:54 | ヘブライ
前日の疲れを引き摺っており、
しかも明日は職場で二次救命の実習がある。
予習もしておかねばならない。


ヘルパーの連絡ノートによると、
じじは「(ばばの)手術はうまくいったんだろうか」と気にしていたという。


妹は昼間じじに会いに来たらしいが、
夕食を一緒に食べるかと思って連絡すると、
泊まっていたばばの部屋からはもう出て、今夜は友人宅に泊まり、
じじにもばばにももう会わずに明日帰宅すると言う。


今日もまたヘブライの最終章を新共同訳で読んだ。
この訳が一番読み易い。
老眼の身にとって一番優しい。
妹の話もばばの話も、私からは一切出さなかった。


血圧その他雑用を片付けながら、
明日実習があるので明日は聖書を一緒に開けないが
日曜日にはまた読もう、と声をかけておいた。
じじは「そうだな」とあっさり承諾した。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-14 22:42:24 | ヘブライ
夕方1時間寝るつもりが、目が覚めたら20:00過ぎ。
慌てて薬局に行き、水虫薬買ってじじ宅へ。


じじは既に就寝しており私も疲れていたので、
今日は聖書読むのを休もうかと言ったら、
じじは「いや、休まないっ=3」と起き出したので、
今夜もまた聖書朗読に付き合って、今さっき帰宅した。


今日もヘブライ13章を読んだ。


明日、じじは初めて火曜日の会に行くが、
常連の婦人が所用で出席出来ないと聞いた。
しかし牧師夫妻はいるので、
じじには他の参加者がいなくても出席する事を勧めたら、
行くと言う。


初参加なのでそれまでの聖書箇所の話の流れを牧師先生から
ゆっくり聞く事が出来る利点もある。
牧師からじっくりと聖書の話を聞くのはじじにとって初めてである。


教会の礼拝堂の聖書は新改訳なので、文字が薄く小さく、行間も狭く、
老眼の高齢者にとっては優しくない。
それでじじには普段愛用している特大の虫眼鏡を持参するように話した。
聖書も、じじが自宅で開いている新共同訳の方が文字を見易いので
それを持って行くように、また主の祈りと使徒信条を書いた紙も
持参するようにじじに話し、ヘルパーの連絡ノートにも書いた。


それから私達の教会を建てたメノナイトの宣教師達が
母国で良心的非戦の立場を貫き、
そのために苦労した話などをじじに話して聞かせた。


聖書を毎日じじ宅で開くようになってから
じじの不穏は何故か起こっていない。
私は体力的にきついと感じるが、じじの不穏が無いのと
否応無しに毎晩聖書を開いて祈るので
私自身にとっても良いと思う。
体が疲れても心が平安な方が良い。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-13 23:45:37 | ヘブライ
今日はまたじじの新共同訳聖書を開いた。
もう何回も同じヘブライ13章ばかり、繰り返し読んでるから
もうすっかり分かってしまって飽きたんじゃないかと言うと、
じじは「いや~分からん」と頭を振っている。


それでも今日感涙に咽ぶほどの喜びを頂いたじじの幸せは
間違いなく主なる神がじじを愛し慈しんで与えて下さったものだ。


  …恵みによって心が強められるのはよいことです。
                     (ヘブライ13;9)


私がそれを言うと、
じじはあっさり「そうだな」と言っている。


じじにとって、神の愛を実感させられた、
教会に集う兄弟姉妹のうちに神の国がある事を体験した、
今日一日、81歳の誕生日。


また来年、皆にありがとうのケーキを食べて貰おう。
生クリームのケーキの上に書かれるチョコのメッセージの
数字が1ずつ更新されていくのを楽しみに、
来年の誕生日を目標に、在宅生活を続けて行けますように。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-12 22:44:38 | ヘブライ
吹雪だ。
今日の聖書は現代訳(尾山令仁訳)を開いた。


じじ滑舌悪い。
やっぱりフォントの問題なのかな。
この訳の印刷もじじの目には読み難い。
字が小さいんだな。
でも意訳の表現も結構あって理解し易い所もあるんだけど。
じじは目で文字を読み取り難いこの聖書を
「これ、難しいっ」と投げ出しそうになった。
指で一行ずつなぞっやりながら、何とか13章全部読み終えた。


明日はじじの誕生日。
教会の皆にありがとうケーキを食べて貰うのだ。
じじはそのセレモニーを心待ちにしている。
幸せだな、じじ。
生まれて2年目に両親が離婚して、
じじは祖父母や親族の間で盥回しの状態で育った。
小学5年の時には継母に苛められ、
目の前にこれ見よがしに置かれた菓子を食べさせて貰えなかった。
中学の時はいつも腹が減っていた。
ピンポン球みたいなジャガイモ一人3個しか与えられずに
軍事教練で校庭をぐるぐる走らされた。
一人で気張って生きていたが19歳で機関車に脚を挟まれて骨折、
骨髄炎にまで悪化した。
結婚したけど父親に新居を掻き回され、
配偶者とは離婚、子供らとは疎遠、絶縁、そして脳梗塞を発症した。
11月の早朝、まだ暖房を入れていない冷え切った部屋で
一人で13時間、床に転がっていた。
一命は取り留めたが後遺症は残りADLはみるみる落ち、
何もかも自分の思い通りに行かなくなり、八つ当たりする相手にも事欠き、
つい先日暴言を吐いたばかり。


「俺はもう死んだっていいと思ってる!
 お前も俺が死ねばいいと思ってるんだろう。
 俺が死んだら年金が入って来なくなるだけだ!」


そんな世迷言垂れ流していたけどね。
じじの体が思い通りにならないのは誰のせいでもない。
認知症になったのも歳だから仕方のない事。
それでもそんな体になっても週に何回もデイケアに通って
風呂入ってリハビリして御飯食べて、日曜日は教会に行く。


今のじじの教会生活も、介護も、衣食住も、金を出したからと言って
手に入るものではない。
金を幾ら積んだってその金や周りの人間を動かすのは主なる神。
唯一人。


明日の誕生日にそれを知る事が出来ればいいね。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-11 22:19:22 | ヘブライ
今日は海の帰りで
私はやたら気分が高揚している。


じじ宅での聖書、今日は口語訳を開いた。
古い訳なので言葉は全体に硬いが、じじは割とスムーズに読んでいた。


読む箇所は同じであるが
訳が変わると雰囲気も変ってくる。


この章の要点は既に掴んだので、
サブテキストとして私が購読している『毎日の黙想』誌に
ちょうど同じ箇所が取り上げられていたので参照し、
じじに朗読して貰った。


気に入らない相手、反りの合わない相手とも
兄弟として愛し合うにはどうしたらいいか。
相手によって態度を裏表使い分けるのはキリスト者として相応しくない。
関わると迷惑な相手だと言って人間関係を切り捨ててしまうのも
神の愛を行為として実践するのと反対である。
かと言って自分の努力で無理矢理に愛そうとすると
心理的に無理がかかって破綻する。


どうすればいいか。


自分には無理。出来ない。
出来ないという現実をまず認める。
イエスの教えに倣って愛を実践する事は容易い事ではなく、
自分にはそれが出来るだけの人間性が無い。
だから祈って神にお願いし、出来ない事は神に委ねればよい。
自分には出来ないと認め、神に委ねれば、
なお一層神を求める心が強くなる。


という事。
じじが読むと言うので『毎日の黙想』はじじ宅に置いて来た。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~25)

2011-02-09 22:40:31 | ヘブライ
今日はじじの新共同訳聖書ではなく、教会で使われている新改訳で
昨日までと同じヘブライの13章を読んでみた。


じじは今日あまりスムーズに読めないでいる。
毎日聖書朗読を続ける事によって
じじのその日その日の体調や意識レベル、発語がスムーズかどうかなど
いろいろチェック出来る。
こうして一定の活動を継続的にし続けていると、
じじに体調の異変や意識レベルの低下や言語野の失調が出て来ても
前日の状態と比較評価し易い利点がある。


今日は13章全体を切らずに通して読んだ。


新改訳は、批判する訳ではないが、高齢者には優しくない。
じじは勿論、既に老眼になっている私にも読み難い。
文字が印刷薄くて小さいの。
行間も狭い。


読んでてしんどいわ。


じじとはしばらく迫害の時代の事を話した。
この聖書の手紙の筆者は2000年前に迫害の最中で福音宣教した。
しかし迫害は2000年前の昔話ではない。


日本でも、秀吉時代以降の切支丹弾圧で大勢の殉教者を出し、
ごく最近の、じじの中学時代頃までの第二次大戦下でも
大勢のキリスト教徒がスパイ容疑で逮捕投獄され、拷問を受け、獄中で餓死した。
その只中の時代に牧師だった父を獄中で殺される過酷な体験をした牧師がいて、
私は受洗以来ずっと説教集を愛読している。
その牧師はじじと同じ年である。
その事を先月私は礼拝メッセージの中で触れた。
来月の月報に載る予定であるよ。
親を殺されないまでも、
朝祷会などで歴史の古い教派の教会の信徒の方々と出会って
同じように迫害を受けた体験を聞いた事をじじに話した。
じじはぽつりと言った。


「今は、いい時代だなぁ。
 こうして聖書読んでてもスパイ扱いされたり捕まる事は無いからな。」


そうだね。
しみじみ。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;17~25)

2011-02-08 21:45:12 | ヘブライ
来週火曜日からのじじの聖書研究会参加に備え、
本日もまたヘブライ人への手紙の13章の続きを今夜も読んだ。


じじ宅に私が行った時、
じじは既に就寝していたがまだ寝入ってはおらず、
「眠いなら無理しなくていいよ」と言っても
「いや、読む。」と言って這い出して来た。
何か・・・何処から湧いて来るのだろう?じじのこの意欲。


じじは平穏。


神学的解説は出来ないのでじじに音読させ、
これまで自分が通読してきた事を話しながら付き合っている。


受洗3年を迎えるじじは当初から何故か聖書の話を拒否せず、喜ぶ。


要点のみ。


信仰の指導者達の言う事に聞き従い、
彼らが悲嘆せず務める事が出来るよう協力せよ。


私達(筆者達)のために祈って欲しい。
早く教会の皆の元に帰れるように。


「永遠の契約の血による羊の大牧者、…」
この箇所は礼拝の最後に牧師先生が言う祝祷の言葉そのもの。
そして“永遠の契約の血”は聖餐式の分餐の言葉。
「井上○○さん、この杯は、キリストの血による新しい契約です。」


テモテが釈放された。
教会の指導者達と教会員達によろしく、
(獄中で)知り合ったイタリア人達からもよろしく。




ヘブライの終章を開き自分の父親に話すのは、
私達が今読んでいるこの手紙の著者は迫害の時代の獄中にあり、
その人が教会の仲間達に書き送った手紙を
2000年後の今、私達が読んでいるという不思議、
これが天主の御業であるという事。


しみじみ。

じじの聖書朗読(ヘブライ13;1~16)

2011-02-07 02:53:25 | ヘブライ
今度の火曜の会は、牧師先生が出張で不在なのでお休み。


私は昼間ケアマネとじじのヘルパー保険外利用を増やす件について相談し、
時間帯を微調整して貰った。
ヘルパーステーションの責任者からも夕方了解の連絡あり、
牧師夫人に問い合わせて毎週火曜の聖書箇所を確認。


あと一週間あるので予習と称し事前にじじと読み合わせしようと思った。
私は仕事の後じじ宅に行き、じじと一緒に聖書を開いた。
教会で使われている聖書は新改訳であるが、
じじの聖書は20年前私が看護助手だった時に
ボーナスで購入し贈った新共同訳である。
まず新共同訳で読んでみた。


『ヘブライ人への手紙』。。。。orz


くっ・・・難し過ぎ。
神学的解説は私には出来ないので牧師先生に委ねるとして、
じじとは朗読の読み合わせに徹し、聖書に馴染んで貰うのが精一杯。


じじは特大の虫眼鏡で聖書の文字を追っている。


ヘブライ13章の要点。


兄弟としていつも愛し合う。


人を思いやる。
 (獄中にある人を、自分も獄にいるつもりで思いやれという事。
  自分も同じ生身の体を持っているのだから
  虐待され苦められている人を思いやれという事。)


結婚を軽んじたり不品行をしない。


金銭に執着せず、今持っているもので満足すべき。


苦境に陥ったとしても、
神ご自身が言われた事を思って希望を捨ててはならない。
  (「わたしは、けっしてあなたから離れず、
   決してあなたを置き去りにはしない」と言われた。)


信仰の指導者達の殉教としっかり向き合って見倣え。


神の恵みによって心を強められる事。
 (祭壇に捧げられた生贄の肉を食べるかどうかの規定よりも
  祭司が何をしているかが大事であるという事。)


生贄の体は神殿の外で焼かれる。
主イエスも御自分を私達の罪の贖いのために捧げて下さった。
だから私達も苦難を共にするため、主イエスの御許に行こう。


主イエスを通して絶えず神の御名を賛美し、善行と施しを捧げると
神は喜んで下さる。


要点だけ。
ああでも、この手紙を書いた筆者こそ獄中にあり、釈放されて
早く教会の皆の所に帰りたいと切望しているのだ。


信仰の指導者達を思い出せと言うその指導者達は、
思い出せというからにはきっと殉教したのであろう。
この手紙は迫害の時代に獄中で書かれたのだ。
筆者は
日々どんな思いで手紙を書き送っただろう。
胸に迫る。
ぐっと来た。

じじと一緒に聖書を開く

2011-02-07 02:50:20 | ヘブライ
2月15日からじじが参加する事になった毎週火曜日の婦人聖書勉強会の
聖書箇所は使徒言行録とばかり思っていたらそれは水曜日の会の箇所で、
火曜日の会はヘブライの最終章であると牧師夫人に聞いた。


ヘブライを読み終えたら次に読む箇所は未定というので
じじのような初心者にとっつき易い福音書のマタイかルカを
牧師夫人にリクエストした。
マタイだといいな。
山上の垂訓、黄金律、主の祈りは最優先課題だから。
いいなぁじじは恵まれておる。
足腰立たなくなっても教会で聖書研究に参加出来るとは。


マタイを希望するのは、訳がある。
じじの受洗前にはびっしり付きっ切りで毎日マルコを読み、
マルコ読了の直後にじじは受洗日を迎えた。
受洗後はマタイを読み始めようとしたが、私がへたって
マタイは1章で頓挫したままになっているのだ。
じじに、山上の垂訓、主の祈り、黄金律を読み味わって
福音にもっと触れて貰いたいと思う。
私に時間的体力的な余裕が無くて実現出来ずにいるので
火曜の会でもしチャンスが与えられればと期待する。


でも、別の箇所でもいいんだ別に。
牧師先生や他の出席者達に委ねよう。


要はじじがデイケアの無い日に一人で自室でぽつんと過ごす間に
ADLの低下に落ち込んで抑鬱状態になり、認知症の兆候が進んで来ているため、
精神状態の安定を図る事が出来さえすれば御の字である。


じじは乗り気で、打って変わってにこにこしている。
教会、聖書と聞くとじじは意欲的になる。
不思議だ。

昨夜、教会に行った。

2009-08-21 14:51:00 | ヘブライ
昨夜、教会に行った。
昨日一日、雨降りだった。
ばばの部屋探しで物件を漁ったり
抑欝状態で引っ繰り返ったりして一日が過ぎた。


じじは一昨日の受診で
だいぶ水が引けなくなったと言われ、
内服を減らされた。
歩行状態は同じ。
夕方から女子バレーのテレビ観戦。
日本が負けると悔しがる。


私は夜の聖書と祈りの会に久しぶりに出た。
牧師夫妻の参加する市民合唱団で
『メサイア』の指揮をした先生が
土砂降りだというのに参加いらしていた。
無教会派の信者であられるそうだが
聖書を深く学んでおられ、
初対面だったが
聖書の文中に『メサイア』の歌詞になった箇所が
幾つか出てきて盛り上がった。
祈りを共にした後、
あの『メサイア』のCDを
私がいろいろな指揮者のバージョンで買い集めて
聴き比べたりしている事や
じじの受洗と教会通いの事を
牧師先生が話題にしたものだから
聖書と音楽と家族伝道の話が盛り上がった。


昨夜の聖書箇所はヘブライ5章の後半。


いつも参加する度に思うが
行ってよかった。


帰宅して再び住宅物件を検索し、
多分2時過ぎに睡沈したと思う。


雨の音がした。