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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

2011年復活の主日礼拝

2011-04-24 15:16:02 | コリントⅠ、Ⅱ
招詞。


 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。
 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
 わたしたちの主イエス・キリストによって
 わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
                  (Ⅰコリント15;55~57)




全ての民、喜べ、
主イエスは死に勝ちませば
陰府の力早や失せて、人の命限り無し。


明日をも知らぬ世に住み、
涙の谷辿る身の
悲しみも悩みも消え、今は喜びに溢る。
                 (327番『賛美歌21』)




地よ、声高く告げ知らせよ、貴きイエスの甦りを。
死より命へと導き給う主イエスと共に我ら進まん。


天よ、喜べ、地よ、讃えよ、造られしもの声合わせよ。
主の甦りのこの日を祝い、尽きぬ喜び我ら讃えん。
                 (326番『賛美歌21』)




聖書はⅠコリント15;12~26。


 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、
 わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
 しかし、実際、キリストは使者の仲から復活し、
 眠りについた人たちの初穂となられました。
 死が一人の人によって来たのだから、
 死者の復活も一人の人によって来るのです。
 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、
 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
                        (Ⅰコリント15;19~22)



先月、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』の全曲上演が
この小さな片田舎で実現した。
牧師夫妻はこの2年間混声合唱団に参加して猛練習を積んだ。


その中のソプラノのアリアが印象深いという。


 わたしは知っている
 わたしを購う方は生きておられ、
 ついには塵のに立たれるであろう。
 この皮膚が損なわれようとも
 この身をもって
   わたしは神を仰ぎ見るであろう。
               (ヨブ19;25~26)


そして合唱が後に続く。


 しかし、実際、キリストは使者の仲から復活し、
 眠りについた人たちの初穂となられました。
                   (Ⅰコリント15;20)




牧師先生は説教の中で
先日ローマ教皇が東日本大震災で被災した7歳の女の子からの質問に
答えた事についても触れていた。


「なんで子どももこんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」


子供の質問は、答えるのが難しい。
教皇の答え。


 …私たちはこれに対する答えを持っていません。
 でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだ事、
 イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの傍におられる事を、
 私たちは知っています。
 たとえ私達が答えを持ち合わせていなくても、たとえ悲しみは残っても、
 この事は私にはとても大事な事に思われます。
 神様が皆さんのそばにおられるという事、
 これが皆さんの助けになる事は間違いありません。
 いつか何故こうだったかが分かる時さえ来るかも知れません。
 今、大切な事は、「神様は私を愛しておられる」と知る事です。
 それはたとえ神様が自分を知っているように見えなくてもです。
 いいえ、神様は私を愛して下さり、私の傍におられるのです。
 そして、世界で多くの人達が皆さんに心を寄せ、皆さんの事思い、
 皆さんを助けるために、何か出来る限りの事をしようとしている
 という事を知って、心強く思って欲しいのです。
 そして、いつか、この苦しみが無駄ではなく、その後に良い計画、
 愛の計画がある事を理解出来る日が来るでしょう。
 安心してください。
 私達は、あなたと、そして全ての苦しむ日本の子供達と共にいます。
 私達は、祈りと行いを通して皆さんをお助けしたいと思っています。
 そして、神様が皆さんを助けて下さる事を信じて下さい。
 その意味で、皆さんに一刻も早く光が訪れるよう一緒にお祈りしましょう。
      (バチカンニュースより
         http://www.radiovaticana.org/gia/Articolo.asp?c=481014)


誰にも答える事の出来ない子供からの質問に対して、
「イエスも無実でありながら苦しまれた、この苦しみが無駄ではない、
 神は私達を愛しておられ、共にいて下さる」
と答える事が出来るのは、
主イエスの復活、永遠の命、主が私達と共にいて下さるという確信があって
初めて言う事が出来る。


この世の生活でどんなに辛い日々を送ったとしても、
私達は復活された主イエスによって自分が生かされている事を信じる。
死者の中から初穂として甦られたイエスが私達と共にいて下さるからである。


ハレルヤ。

主日礼拝

2010-05-02 12:20:00 | コリントⅠ、Ⅱ
賛美歌336(賛美歌21)の歌詞、2番。


  何処に我らの憩いあるべき。
  我が主のまします御国を慕う。
  我が心はただ主イエスに憧れ、
  ひたすら求む。


今朝の賛美歌は主の昇天の歌だった。
牧師先生によると、
主イエス・キリストの昇天は転換点であるという事。


十字架の死以前は、
イエスがご自身で直接人々をお救いになった。
主が天に昇られた後は、
救いの業が教会を通して為されるようになる。
その転換点が主の昇天である。


昇天された主は聖霊を個人にではなく、
教会という「人間の群れ」に送って下さった。


今日の礼拝説教、聖書はⅠコリント12;1~11。


教会用語であるが、
よく人の持つ能力や技能を“賜物”と呼ぶ。
私達は何故それを“賜物”と呼ぶのか。
それは神が御心を以って必要な働きをするために
私達一人一人に与えて下さった力だからである。
神から賜った力、だから賜物。


霊の賜物は特権的な意味での“才能”とは異なる。
コリントの教会の人々にはそれが理解出来なかったんだな。
教会という群れの中での奉仕の意味が歪められていて、
パウロは危機感を持っていたらしい。
大切なのは、
私達の働きは、どんな働きであっても
同じ主、同じ唯一人の神から頂いた、
恵みの賜物であるという事。

2010年復活の主日礼拝

2010-04-04 12:02:00 | コリントⅠ、Ⅱ
復活の主日の今日、
礼拝説教の聖書箇所はⅠコリント15;12~20だった。


  キリストが復活しなかったのなら、
  わたしたちの宣教は無駄であるし、
  あなたがたの信仰も無駄です。
  ・・・・・
  この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、
  わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
  しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、
  眠りについた人たちの初穂となられました。
                    (Ⅰコリント15;12~20)

主日礼拝

2009-08-23 19:16:00 | コリントⅠ、Ⅱ
礼拝でじじは居眠りしていたが
途中から目を覚まして正面を向き
聞き入っていた。


午後から聖餐式。
先日夜の集会に出た時、
近況報告ついでに
じじの聖餐式についての疑問を
牧師先生に伝えておいたら
聖餐式の説教で
コリントⅠ11;23~31の聖餐の箇所を朗読し、
説明して下さった。


じじは何度かヘルパーや私に聞いていたのだが
私の話では納得がいかない様子だったのだ。


「あの、分餐のやつな、・・・」


「ああ、聖餐式。」


「その聖餐式な、
 あれはいつまでやるんだ?」


「ずっとさ。」


「ずっと?」


「そう。
 ずっと、一生。」


「一生!?
 そんな事はあるまい。」


「何でよ。
 信者は一生聖餐式やり続けるんだよ。」


「なんぼなんでも
 一生聖餐式やった人なんて
 いる訳ないだろう。」


「いや、
 我々キリスト教徒は一生、
 死ぬまで聖餐式やるんだよ。」


「・・・・・(?_?)」




聖餐式が始まり、
牧師先生はコリントⅠ11;23~31の
主の晩餐の箇所を開いた。


「私達の行う聖餐式は、
 初代教会の時代からずっと、
 イエス・キリストを救い主と信じる人々の間で、
 つまりキリスト教の教会で代々行われてきました。
 どういう頻度で聖餐式を行うかは、
 教派や教会によって考え方や時代や教会の背景が違って
 月に一回だったり毎週だったりいろいろですが
 初期の頃や大昔には
 集まる度に毎回毎回行っていた時代もありました。
 今でも毎日行う教会もおそらくありますが、
 何故聖餐式を行うかというと、
 イエス様が「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と
 言われたからです。
 イエス・キリストが私達一人一人の罪を贖うために
 十字架に架けられ、苦しみを受けて血を流し
 ご自分の命を私達の救いのために捧げて下さった、
 その事を覚え、記念してこの聖餐式を行うのです。
 では、私達はいつまで聖餐式を続けるかというと、
 パウロがここで言っています。


  ですから、あなたがたは、
  このパンを食べ、この杯を飲むたびに、
  主が来られるまで、
  主の死を告げ知らせるのです。(コリントⅠ11;26)


 このように、
 私達は主イエス・キリストが来られるまでずっと、
 聖餐式を続けるのです。
 いつかイエス様が再び来られる。
 それは明日かも知れない、
 10年後か100年後か何百年後か、
 主がいつ来られるのかは私達にはわかりません。
 だから、いつ主が来られてもいいように
 私達は自分の信仰を吟味し神に立ち返って備えるのです。」


じじは頷きながら聞いていたが
何だか納得したような満足気な顔をしていた。


どうよ。じじ。


聖餐式が始まった。
じじは渡された銀盆からパンを一切れ取って
反対側にいる教会員の名前を呼び、分餐の言葉を告げた。


・・・・・・(;-"-)・・・・


「○○さん、
 これは、
 あなたのために裂かれたキリストの体です。」


・・・ほっ・・(;+。+)=3・・・・分餐の言葉、噛まなかった。


次に杯が回って来た。
小さな杯を乗せた銀盆が渡される。
盆を落とさないように、
揺らしてこぼさないように受け渡しするのに精一杯だが、
じじは何とか自分の杯を一つ取って
隣に座っている教会員に分餐の言葉を告げた。


・・・・・・(;="=)・・・・


「○○さん、
 この杯は、
 キリストの血による新しい契約です。」


・・・ほっ・・・(;+。+)=3・・(;*。*)=3・・・・OKOK!


よかった。
じじは隣に座った教会員の名前をちゃんと間違えず呼び、
分餐の言葉をすらすらと告げて
パンの乗った盆に乗ったと杯の乗った盆とを
落とさずこぼさず受け渡し出来た。


はーめでたしめでたし。
毎度毎度緊張する。




(追記)
20:30頃、じじ宅に寄った時に聞いてみた。


「お父さん今日の聖餐式、
 牧師先生の説明、わかった?」


じじはベルリンマラソンで金か銀か、
先頭3人のうちの一人である日本人選手に
目が釘付けになりながら答えた。


「わかった。」