このブログを訪ねて下さり、ありがとうございます。
このブログでは、
これまでの自分と教会についての記事と、
3年前に受洗した父の教会生活についての記事とを
記事が増え過ぎてしまった元の日記ブログから独立させて
日々の教会生活として記録してきましたが、
最近2ヶ月間の父の在宅介護の荒れ果てた日常のうち、
教会に行かなくなった直接の原因となった出来事の記録を
介護ブログから持ってきました。
教会に行かなくなった経緯を
今これを読んで下さる読者の皆様にも知って頂きたいと思いました。
これまでの記事を読んで下さった方は幻滅し、失望されるに違いありません。
どうぞ、
これらの浅ましい現実と荒廃した精神生活とをお笑い下さい。
父と私のありのままの日常生活です。
私達の所属する教会は
人数少なく建物が小さくても主の下に集まった家族であり、
愛と平安に満たされた教会です。
しかし
父にとっても私にとっても教会を一歩出ると
このブログ公開した日常こそが本物の現実です。
私は20年前のクリスマスに受洗しました。
親とも妹とも15年も関わりの途絶えた中で、
自分自身がどう神を信じるかだけで精一杯の、
本来自分が立ち向かわなければならない問題については棚上げ状態の、
ただ祝福され喜び浮かれていた、札幌の母教会での幸福一色な7年間でした。
父の脳梗塞発症によって今の地元に来て現在の所属教会に移り、
在宅介護しながら教会での色々な山や谷を教会家族達と共に越えた13年が
あと3ヶ月で終わります。
受洗から20年めにしてどれだけの霊的成長を自分がしたかといえば
全く評価に値しないものです。
受洗当時棚上げし黙殺してあった問題に直面し、
くたびれて教会から距離を置いている有様です。
くたびれたとうのは、介護で疲れたという意味だけでなく、
教会における模範解答的で予定調和的な思考回路や会話と
今現在自分が直面する日常の現実とがあまりにもかけ離れ過ぎ、
接点が無くなってしまっているためでもあります。
父と私とそして母や妹が抱え込み、縛られている問題について、
私は改めて神と向き合わねばなりません。
半世紀前に私と言う人間を
これら父と母という二人の人間達の間に生み出したのは主なる神であり、
所属教会と出会わせたのも同じ御方ですから、
他者を巻き込まずに神と向き合おうと思います。
今の時点では
私は主なる神が父という一人の人間を憐れみ、
慈しんでおられ、そのために私と言う人間が道具として生まれ
これまでもこれからも使われる事は理解できます。
しかしその一日一日があと何日続くのか、
これ以上神が何をしろと言われるのかはわかりません。
考えます。
主が何をするためにこの人をこの世に生まれさせたのか。
親に疎まれ置き去りにされ、
配偶者からは忌み嫌われて捨てられ、
可愛がっていた次女からも見捨てられ、
世話する人の手を散々焼かせ虐げてずたずたに踏み躙じるこの老人を
主が慈しんでこられた事を私は知っています。
この人に何をさせたくて主が81年間この世に生かしているのか。
主があと何と何をこの人のために、私にさせたいのか。
私は自分が
主がこの人を慈しむために使うツールの一つに過ぎない事を
よく知っています。
ツールはツールであり、それ以上でもそれ以下でもありません。
自分が何をしたいとかどう生きたいとか希望とか期待とか願いとか
そんなものは実際何一つありません。
しかしそれらが無ければ霊的成長もあり得ない事が少しずつ気づいてきました。
心に共感するものも共有するものも無い、業務分担と業務連絡だけでしか
実質上つながっていない所属教会から私はしばらく距離を置き
自分自身の信仰のあり方を考え直そうと思います。
長い間このブログを読んで下さり、
ありがとうございました。
読者の皆様、どうぞお元気で。
2011.9.19 管理人 井上