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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

主日礼拝

2011-04-03 23:06:45 | マルコ
詩篇16;1~11


あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
             (詩篇16;10~11)


罪に打ち勝ち死を破りて
我らの心解き放つ主
その勝ち歌こそ全地に満ちて
救われし者共に歌う
         (326番『賛美歌21』)


聖書はマルコ16;1~8。


空の墓穴。
主の復活を信じない者にとって
空っぽの墓は得体の知れない恐怖である。




おめでとう。
教会の子供達はそれぞれ小学校、中学校、高校の新入学。
これからの毎日に主が共にいて守り、導いて下さいますように。


礼拝の後、牧師先生と来週の礼拝奉仕の相談、
それから3月11日の大震災で
各地のキリスト教会の被災について少し話した。
被災地の各教派の教会で奉仕されていた司祭や信徒の方々が
大勢犠牲になられ、未だ行方不明の方もおられ、
会堂が焼失したり、教会自体が別の地域に避難せねばならず
移転先を求めている現状があり、胸が痛む。
ブログのお仲間の管轄地域の焼失した教会の事も牧師先生に話した。
牧師先生とは合唱で一緒だった事もあって心を痛めておられた。
教派が違っても私達は同じ主を信じる者の群れであり、兄弟姉妹である。
毎日の祈りに必ず覚える事は勿論であるが、
何か具体的に力になれる事がないだろうか。

イエスがロバに乗って

2008-04-04 21:51:26 | マルコ
さっきじじ宅に行くと、
じじが自分から私に話した。


「あのな、
 こないだ牧師先生が来てな、
 聖書の話してさ。」


「ふん。どんな話。」


「あのな、
 イエス・キリストがさ、
 ロバに乗って来るだろ。」


「うん。」


「王様みたいに威張らないで、
 立派な馬に乗って行くべきところをさ、
 小さいロバに乗ってさ、
 エルサレムに入って行くだろ。」


「うんうん。」


「・・・・・・・(^ロ^)」


?・・・じじ、笑っている。
何だかやたらと愉快そうな。


「うん。
 イエスは馬でなくて
 ロバに乗ってエルサレムに行くよ。
 それがどうかした?」


「うん。それがな・・・(>m<)・・・(笑)」


なんじゃー
おいおい大丈夫かい。
壊れたか?


「イ・・・イエスがさ、
 イエスがロバに乗って・・・・(>∀<)」


「うん、イエスがロバに乗って、・・・」


あ・・・何だか
こっちにまで笑いが伝染してきたぞ。
・・・くっ・・・・耐えられねー。。。


「イエスがさ・・・立派な馬でなくて
 ロバに乗ってさ、・・・ ・・・ ・・・・」


「だ・だから、
 イエスがロバに乗ってどうしたのっ・・・」


「エルサレムに、・・・・
 エルサレムに行ったんだ。」


「うんっ、それでっ・・・・」


これ笑う箇所か?
何でツボにはまるかなロバに乗ったキリストが。


「俺はそれが気に入ったんだ、
 牧師先生にそう言ってやった。(^o^)」


「牧師先生何て言ってた?」


「笑ってた。。。。。」


そりゃ笑うわ。
これだけツボにはまった笑いで言われたら
笑いたくなくても笑わせられる。


「キリストがな、・・・」


もういいもういい・・・・・orz・・・ぐ・腹・・・・痛・・・


(何もそこまで笑わなくても。)


じじ、
呼吸を整えながらまだ言ってる。


「俺はそこが気に入ったんだ。
 ロバに乗って来るのが。」


「うん。」


「偉ぶらないで
 ロバに乗って来るところが。」


「・・・わかったわかった
 (ひぃ~やめちくり!o(T□T;)o。。。)」


「変か?」


「いやいや、変でないさ。
 お父さん、
 この箇所を大好きだって言う人は
 他にもいるんだよ。
 私もこの箇所は好きだ。
 有名な牧師先生のニックネームの由来になってるし
 ラジオに出てた神父様は
 キリストを乗せた小さなロバに自分を見立てて
 黙想するらしいよ。
 私も大好きだ、この場面。」


「そうかぁー
 他にもこの場面を好きな人がいるのかぁー(^。^)」


じじにとっては
初めて自分の手で開いた旧約聖書がこの箇所だ。
私が電話で誘導して
時間かかったけど
じじが自分で開いて見つけた、
旧約の中の救い主の到来を預言する箇所、
ゼカリヤ9;9。


 見よ、
 あなたの王が来る。
 彼は神に従い、
 勝利を与えられた者
 高ぶることなく、
 ろばに乗って来る
 雌ろばの子である
 ろばに乗って。
      (ゼカリヤ9;9 新共同訳)


受洗前にマルコを読んだ時、
参照したこの箇所に
余程のインパクトを味わったらしい。


じじがこんなに愉快そうに聖書の話をするのは
予想外だ。


「牧師先生は
 イエス・キリストは平和主義だと言ってた。
 それで馬でなくてロバなんだと。」


主義・・・んー・・・σ(-"-)・・・ま、確かにそうだ。


じじ、語る語る。
キリストがロバに乗って
もう3回くらいぐるぐる回ってる。
よほど好きなのだ。
イエス・キリストが。


こういう具合に
じじがキリストに惚れ込んでいるので
近日中にマタイを読み始めよう。
楽しいな。

3月20日(木) マルコ16;1~19

2008-03-20 23:13:05 | マルコ
安息日が終わって女達は
イエスの遺体に油と香料を塗るために墓に行った。


「これはね、
 当時の埋葬の習慣だよ。
 遺体に防腐作用のある香料や油を塗るのさ。」


「ほぉ。」


彼女達の心配は入り口を塞いでいる大きな石を
誰か転がしてくれる人がいないか。
だれも石を転がしてくれなければ
彼女達は墓穴に入る事が出来ない。
せっかく買って持って来た油も香料も
イエスの遺体に塗ることが出来ないからだった。


「洞穴を塞ぐほどの石だから、
 石というよりは岩だったんだよねきっと。
 とても女2、3人の力でどける事は
 出来ないでしょう。」


「そうだな。
 しかし岩をどけないと油を塗れないなぁ。」


「うん。
 彼女達はそれを心配してたんだよ。」


しかし、行ってみると
入り口の石はわきへ転がしてあり、
墓の中に遺体はなかった。
白い長い衣を着た若者が座っていた。


 あの方は復活なさって、
 ここにはおられない。(16;6)


 あの方は、あなたがたより先に
 ガリラヤに行かれる。
 かねて言われたとおり、
 そこでお目にかかれる。(16;7)


「天使だよ。」


「・・・・ふっ( ̄ー ̄)=3」


むっ・・じじめ、鼻で笑ったな。
子供騙しのお話だと思っているだろう。
福音書の復活記事は、
今の段階ではじじにとってまだ陳腐な不思議物語に過ぎないのだ。
しかし、
この復活がただの不思議なお話であるうちは
キリストの救いを信じる事は無理、信仰告白が出来ない。


イエスは週の初めの日の早朝、
マグダラのマリアに御自身を現されたが、
誰も彼女の話を信じなかった。


「信じなかったんだって。」


「そうだろうな。」


イエスは田舎に向かって歩いていた二人の弟子達にも
御自身を現されたが、
だれも彼ら二人の話を信じなかった。


「この二人の話も信じなかったんだって。」


「そうだな。」


弟子達11人が食事をしている時、
イエスが現れて、
復活したイエスを見た人の話を
信じなかった彼らを咎めた。


そして大宣教命令。
天に昇られた。


じじ、
どん引きして首を傾げ、鼻で笑った。
無理もないか。
これでは信じろと言われても取り付く島がない。
マルコの復活記事はそっけない。
そっけなさ過ぎ。
それで、
他の福音書の復活記事に飛ぶ。


マタイの復活記事。
大体マルコと共通している。


女達が墓を見に行くと、
大きな地震が起こって
天使が入り口を塞いでいた大きな石を
わきへ転がして上に座り、
イエスが復活して先にガリラヤに行くと告げた。
それを女達が弟子達に知らせに行く途中、
イエスが現れて「おはよう」と言った。
そしてガリラヤで会えると告げる。


 恐れることはない。
 行って、わたしの兄弟達に
 ガリラヤに行くように言いなさい。
 そこでわたしに会うことになる。(マタイ28;10)


「それまでは師匠と弟子達だったのが
 ここで初めてイエスは弟子達を兄弟達と呼んでる。
 イエスは復活した後、彼らを
 弟子ではなくて兄弟と同等の立場に置いて呼んでいる。」


「ほぉー」


イエスの遺体が無い事を番兵達から聞いた祭司長達は
番兵達を買収して、
イエスの弟子達がイエスの死体を盗んだと証言させた。


「買収したんだな。」


「ローマ帝国時代に墓の番人が居眠りして
 もし死刑囚の死体を盗まれたら、
 その番兵が代わりに死刑にされて
 吊るされてた話を聞いた事がある。
 案外ほんとかもよ。
 だからイエスの死体が無いとか盗まれたとか、
 そんな事になったら番兵の首が危なかったから、
 祭司長達は番兵達に金払って
 弟子が盗んだ事にして偽証させたんだね。」


「なるほどなぁ。」


ルカの復活記事。
墓穴でのエピソードはマルコ、マタイと同様。


 なぜ、
 生きておられる方を死者の中に探すのか。
 あの方は、ここにはおられない。
 復活なさったのだ。
 まだガリラヤにおられたころ、
 お話になったことを思い出しなさい。
 人の子は必ず、
 罪びとの手に渡され、十字架につけられ、
 三日目に復活することになっている、
 と言われたではないか。(ルカ24;5~7)


天使に言われて、
女達はやっとイエスの言葉を思い出した。


「弟子達は、
 ルカの福音書でも女達の言う事を
 戯言だと思って信用してないね。」


「そりゃ信じられないだろう。」


じじだって、
まだ戯言だと思ってるでしょう。
今の時点では。


「ペトロも墓穴に見に行ったけど、
 亜麻布しかなかったんだよ。」


「ふん。」


イエスは、
エマオの村に向かって歩いていた二人の弟子達に現れた。
二人の弟子達はイエスだと気付かずに、
イエスの十字架刑の事件を語り合っていた。


「二人は、イエスが十字架で処刑されて
 もう既に死んだ、
 この世にいないと思い込んでいたんだよね。」


「そうだな。」


二人が気付かないままに、
イエスが近づいて来て会話に参加して来ていた。
二人はイエスと気付かないままに
一緒に泊まろうと引き止めた。
夕食の席で、
イエスがパンを取り、
賛美の祈りを唱え、
パンを裂いて渡した時、
二人はその人がイエスであると分かった。


「どうしてそれまで二人の弟子達が
 イエスだと気付かなかったか。
 二人がイエスは死んでもういないと
 思い込んでいたからだよ。」


「ふぅん。」


「思い込みは人間の目を塞ぐんだ。」


「それは仕方ないだろう。
 死んだんだから。」


「うん。
 でも二人が目の前の人を見てイエスだと気付いたのが、
 パンを取ったときの動作だって事がさ、
 これ、大事なんだけど。
 パンを取って、祈って、裂いて、渡した。
 この動作でイエスだと気付いたんだよ。
 キリストを信じる者は、
 パンを取って、祈って、裂いて、渡して、
 仲間と分かち合う事で
 イエスを思い出すんだよ。」


「・・・・・σ(?_?)」


今は分からないけど、
じじもそのうちに分かるよきっと。
近いうちに。


弟子達の集まっている所にイエスが現れた。


「弟子達は皆、亡霊だと思ったんだ。
 でもイエスは、手と足を見せた。
 十字架に釘で打ち付けられた穴の残った手と足をね。」


「・・・・・・(-“-;)」


「そしたらイエスは何か食べる物あるかと言って、
 弟子達の見ている目の前で焼いた魚を食べた。
 食べるという事は、生きている証拠。
 死んだ人間は物なんか食べないよ。」


「・・・・そうだな。」


さて、
ヨハネの復活記事。


「ヨハネの福音書は、今まで読んできた三つの福音書とは
 見る角度が違ってるのさ。
 十字架でイエスが死んだ事もその後の事も、
 見る角度が他と違ってるのさ。」


ちょっと長いけど、
じじと私と交代でヨハネの復活記事を輪読した。


「違ってるでしょう。
 お父さん、この福音書を書いた筆者ヨハネは、
 イエスの弟子のヨハネだよ。
 ヤコブとヨハネの二人の漁師の兄弟で、
 イエスから”雷の子ら”というあだ名で呼ばれた、
 エルサレムに向かう時、
 これから十字架で殺されるイエスの話を
 全然理解してなくて
 自分達兄弟二人を右大臣と左大臣にしてくれと言った、
 あの二人の漁師の兄弟の、一人だよ。
 あの人がこの福音書を書いてんのさ。」


「ほぉー」


「ヨハネの書いた福音書が他の三つの福音書と
 どう違うかというと、
 見た人にしか書けない書き方をしてるのさ。
 見た人にしか書けない具体的な描写だと思わない?」


「うん。そうだな。」


「ペトロと筆者である自分(もう一人の弟子)と
 二人で墓穴を見に走って行って
 どっちが先に墓に辿り着いたかとか。
 ペトロよりも自分が墓穴に着いたけど、
 自分は最初は中には入らなくて
 ペトロが後から追い付いて先に墓の中に入ったとか。
 墓穴の中を覗くと、
 イエスの顔を覆っていた布がどんな具合で
 どっち側に丸めてあったとかさ、
 見た人の立場で、
 その時の状況を見た時のままに描写してる表現でしょ。
 自分達がこの時はまだ
 復活の事実を理解出来てなかった事も、
 弟子達がイエスの復活を信じる事が出来なかった事実も、
 克明に詳しく、ちゃんと書いてある。
 これがヨハネの福音書の、
 他の三つの福音書と違うところだよ。」


「そうだな。
 見て来たように書いてあるな。」


「この時、
 女の弟子マリアが墓の外で泣いていた。
 何で泣いてたかというと、
 イエスの遺体を誰かに持って行かれたと思ってるから、
 それで泣いてた。
 弟子達にとってもこの時点ではまだ
 イエスの復活は全く信じられない事だったんだよ。」


「そうだな。
 そりゃ簡単には信じられる筈がない。」


イエスは弟子達の前に現れて、
彼らに息を吹きかけた。


 聖霊を受けなさい。(ヨハネ20;22)


「聖霊は、
 福音書読み始めた最初の場面で
 イエスが洗礼を受けた時に下って来た神の霊だよ。
 イエスは弟子達に神の霊を受けなさいって。」


「・・・・ううむ。」


イエスが弟子達に現れた時、
その場に居合わせなかったトマスは
皆の話を信じなかった。


 あの方の手に釘の跡を見、
 この指を釘跡に入れてみなければ、
 また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
 わたしは決して信じない。(ヨハネ20;25)


 わたしを見たから信じたのか。
 見ないのに信じる人は幸いである。(ヨハネ20;29)


「うーーーーーーん・・・・(-“-;)」


じじ、
感心しているけど、どうよ。

3月15日(土) 十字架の上のイエスの言葉

2008-03-15 23:58:06 | マルコ
イエスが十字架につけられたのは朝の9時。
息を引き取ったのは午後の3時。
この6時間の間、
イエスは何を思っておられたか。


「手と足を釘で打ちつけられて
 十字架に下げられて、
 エルサレムの炎天下に晒されてさ、
 痛かったろうし苦しかったと思うよ。」


「そうだな。」


 わが神、わが神、
 なぜわたしをお見捨てになったのですか。(15;34)


「お父さん。
 ここ読んでどう思う。」


「・・・・・(` ´)=3
 どうって・・・・どう思うって事もない。」


「イエスは
 神様から見捨てられて死んだと思うかい。」


「・・・・」


「この言葉だけを読むと
 神様から見捨てられたと言ってる。
 絶望してるんだよね。
 十字架の周りで野次飛ばしていた群集や
 律法学者達の言った通りなんだよ。」


 おやおや、
 神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
 十字架から降りて自分を救ってみろ。(15;29~30)


 他人は救ったのに、自分は救えない。
 メシア、イスラエルの王、
 今すぐ十字架から降りるがいい。
 それを見たら信じてやろう。(15;31~32) 


「・・・・・・(-"-)」


「信者でなかった頃にこの箇所を読んだ時、
 私はイエスが神から見捨てられて
 絶望して死んだと本気で思った。
 復活とか昇天とかそういうのは
 いくらでもでっち上げれると考えたし。
 どう思う?」


「・・・・どうって・・・わからんな。」


「イエスは神様から見捨てられて
 絶望して死んだと思うかい?」


「いや・・・・どうかな。
 違うだろう。」


そう。
じじ、
自分の言葉で表現出来ないでいるけど
私の質問に「違う」と答えたのはヒットだぜ。


「私が洗礼受けてからさ、
 1年くらい経ってから
 初めて新約旧約、
 聖書一冊全部を読み通したのさね。
 そしたら見方が変わった。
 というか変えられた。」


「ほう。」


「福音書って四つあってさ、
 十字架の上のイエスの言葉がそれぞれ違ってるのさ。
 今読んでるマルコと、マタイでは
 『わが神、わが神、
  なぜわたしをお見捨てになったのですか。』
           (マタイ27;46、マルコ15;34)
 ルカでは
 『父よ、
  わたしの霊を御手にゆだねます。』(ルカ23;46)
 ヨハネでは『成し遂げられた』(ヨハネ19;30)
 イエスの十字架の上の言葉は
 実は旧約聖書の詩篇に出てるのさ。」


「へーぇ。」


詩篇22編を開く。
しばらくじじと交互に輪読する。


 わたしの神よ、わたしの神よ
 なぜわたしをお見捨てになるのか。
 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
 呻きも言葉も聞いて下さらないのか。
 わたしの神よ
 昼は、呼び求めても答えてくださらない。
 夜も、黙ることをお許しにならない。(詩篇22;1~3)


 わたしを見る者は皆、わたしを嘲笑い
 唇を突き出し、頭を振る。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。
  主が愛しておられるなら
    助けてくださるだろう。」(詩篇22;8~9)
 

 主よ、あなただけは
     わたしを遠く離れないでください。
 わたしの力の神よ
     今すぐにわたしを助けてください。(詩篇22;20)


 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
 集会の中であなたを賛美します。(詩篇22;23~24)


 わたしの魂は必ず命を得
  子孫は神に仕え
 主のことを来るべき代に語り伝え
 成し遂げてくださった恵みの御業を
   民の末に告げ知らせるでしょう。(詩篇22;30~32)


「ほら、この詩篇22篇、
 十字架のイエスの言葉と同じでしょ。
 "わが神、わが神、
 なぜわたしをお見捨てになったのですか。"
 という絶望に始まって、
 "わたしの魂は必ず命を得・・・"
 という希望、神への信頼と賛美で終わってる。
 イエスは神様に失望して死んだのではなくて
 十字架で苦しみながら詩篇を暗誦してたのかも。
 息を引き取るまでずっと。」


「おおーーー!(`・o・´)=3」


「そういう見方もあるって事さ。」


「なるほどなー」


「でも、十字架の上で
 ただ詩篇を暗誦していたというよりも
 この詩篇の絶望は私達人類の苦しみの叫びだから
 イエスが私達と同じ絶望の淵まで
 降りて来て下さったと考えられるのさ。
 私達が自分はもうダメだ自分は神に見捨てられたと
 絶望するところまでもイエスは付き合って下さって
 私達と一緒に苦しんで下さったって事だよ。
 人間は一度絶望しても
 信仰によってまた立ち上がれるから。
 だからこの詩篇の最後は
 神への信頼で終わってるんじゃないかな。」


「うーーーん・・・・」


あ、じじごめん。
ちょっと熱く語り過ぎたであるよ。
次行こ。
詩篇31編。


 あなたはわたしの砦。
 まことの神、主よ、
 御手にわたしの霊をゆだねます。
 わたしを贖ってください。(詩篇31;5~6)


「これはルカの福音書の
 十字架のイエスの言葉と同じでしょ。」


「ほぉー同じだー。」


「この十字架のイエスの言葉は、
 確かに詩篇なんだけど、
 子供の"おやすみ"のお祈りの言葉なんだって。
 私の持ってる本に書いてあった。」


「へぇ。」


…これはユダヤ人の母親が子供に教えた
おやすみの祈りの最初の部分なのです。
ちょうど私たちが「今晩もよく眠れますように…」
と教えられたように、
イエスは子供の祈りを口にして、死んだのです。
 (ウィリアム・バークレー著『戦うキリスト』新教出版社)


「私はこの本読んだ時泣いたよ。
 十字架の上で極限まで苦しみながらさ、
 イエスが子供のお祈りを呟いて死んだと思うと
 私は泣けてきたさ。
 それ以来この言葉に対して見方が変わった。」


「・・・・・(;_;)」


ありゃりゃりゃ・・・・・
じじが鼻をかみ終わるまで
しばし中断。


では、
ヨハネでは。


「成し遂げられた」(ヨハネ19;30)


「成し遂げられたというのは、
 預言が成就されたという意味だよ。
 そしてこれも詩篇の中の言葉なのさ。」


詩篇22篇再び。


 成し遂げてくださった恵みの御業を
   民の末に告げ知らせるでしょう。(詩篇22;32)



「おおー」


「ねー。
 不思議でしょう。」


「そうだなぁ。
 同じだぁ。」


「イエスによって預言が成就されたというのは
 本当だと思うよ。」


「いやぁーこれはなかなか。」


「面白い?」


「面白いとかそういう事でなくて
 いやーなかなか。」


じじ、
しきりに感心しているけど、
明日私は夜勤入り。
今日はこれにてお開き。

3月15日(土) マルコ15;1~47

2008-03-15 23:32:23 | マルコ
ピラトの尋問。


「ピラトはローマ人だし
 ユダヤ人達の宗教問題なんか
 どうでもよかったんだよ。
 でも地方の一中堅管理職に過ぎないから
 暴動が起きたりしたら自分が責任を問われるし
 自分の保身というか、
 自分の立場とか面子を守るために
 祭司長達の言うままになったのさ。
 騒ぎが起こると面倒だからね。」


「そうだな。
 役人というのはそういうものだ。」


「祭司長達は群集を扇動してさ、
 イエスを十字架につけるように
 おそらく買収もしたろうし
 自分達の思う通りに群集を騒がせたんだよね。
 死刑だ十字架だって。」


「群集の力というのは凄いからな。」


「うん。
 そうだよ。
 イエスを十字架につけたのは群集だよ。
 祭司長や律法学者達では権限が無くて
 ローマ総督のピラトは
 大した犯罪人でもないイエスを死刑にしたくない、
 なのにどうしてイエスが死刑にされたかというと、
 群集が殺せ殺せ死刑だ死刑だと騒いだからさ。
 イエスを十字架に磔にして殺したのは
 群集なんだよ。」


「今の世の中も同じ事があるだろう。」


「2000年前も今も
 群集心理は同じなんだよ。」


「そうだな。」


「群集というのは、
 お父さんや私なんだよ。
 私達も殺せ殺せと叫んでイエスを十字架につけた、
 イエスを死刑に追いやった群集の一人なんだよ。」


「・・・・」


兵士達から侮辱され、
殴ったり唾を吐きかけられた後、
イエスは十字架を背負わされた。


「夜中から朝までずっと引き回されて
 殴ったり蹴ったり鞭打ちされて、
 へとへとのよれよれの状態で
 自分の身長の倍もある頑丈な十字架をさ、
 担がされて
 街中からゴルゴタの丘まで歩かされたんだ。
 イエスは途中でへたって
 十字架の下敷きになってしまった。」


「・・・・・」


クレネ人シモン。


「弟子達は全員イエスを見捨てて逃げた。
 このクレネ人シモンは通りがかりの人だった。
 イエスの十字架を一緒に背負ったのは
 史上たった一人、
 このクレネのシモンだけだよ。」


「ほー。」


「このクレネのシモンには
 息子が二人いて、アレクサンドロとルフォス。
 この息子達は
 キリスト教初代教会の指導者になった。」


「ほほぉー(゜O゜)」


「クレネのシモンは
 後々のキリスト教徒の憧れだよ。
 自分もその場にいてイエスの十字架を
 一緒に担わせて頂けたらと思って
 憧れる気持ちはあるよ。
 初代教会の信者達は皆
 クレネのシモンに憧れたと思うよ。」


「なるほどな。」


「だけどさ、
 イエスの十字架を愛する人は少ないんだよ。」


「σ(?_?)」


「『キリストにならう』という本に書いてあるのさ。」


じじに、
『キリストにならう』の中の一文を紹介する。


11.イエズスの十字架を愛する人は少ない

  イエズスの天の国を愛する人は多いが、
  その十字架をになおうとする人は少ない。
  慰めを望む人は多いが、
  苦しみをのぞむ人は少ない。
  イエズスと共に食卓につきたい人は多いが、
  イエズスと共に断食する人は少ない。
  キリストと共に楽しむことをのぞむが、
  キリストのために、
  何ごとかを忍ぼうとする人は、
  すくない。
  多くの人はその奇跡に驚嘆する、
  しかし十字架のはずかしめ迄つき従う人は、
  すくない。
  多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、
  慰めを受けている限り彼を祝する。
  しかしイエズスが姿をかくし、
  暫くの間でも、彼らから離されると、
  不平をいい、ひどく落胆する。
  しかし、
  イエズスから受ける慰めのためではなく、
  イエズスをイエズスとして愛している人は、
  患難や苦しみのときにも、
  慰めのときと同様に、かれを賛美する。
  そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、
  かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。
      (『キリストにならう』バルバロ訳
            ドン・ボスコ社 1967年より)


「イエスがさ、
 病人を癒して悪霊を追い払って
 パンを増やして魚増やして
 目を治して耳を直して手も足も直して
 奇跡を起こして腹一杯に満たしてくれる間は
 皆イエスと一緒にいたがるけど
 十字架を背負って
 罵声を浴びたり鞭で打たれたり石投げられたり
 十字架の苦しみまでイエスに付き合いたがる人は
 少ないって事を言ってるのさ。」


「・・・・・(-"-;)」


じじ、腕組みして考え込んだぞ。


「でもこれは本当の事だよ。
 私達の事を言ってるのさ。」


「・・・・・・」


「イエスは朝の9時に十字架に磔にされた。
 昔の絵画みたいに
 手のひらに釘を打ったんではなかったと思うよ。
 人間の手のひらって
 薄い筋肉と細い骨と皮しかないから
 釘を打っても十字架を立てて全体重がかかったら
 重みで手のひらが負けて裂けてしまって
 下に落っこちちゃったと思う。
 だからさ、
 釘を打ったのは手首の付け根の、
 この手根骨のあたりじゃないかと思うんだ。
 足首は右と左交差させて一本でがちっと。
 それだけでも惨たらしいよね。
 そして
 十字架に吊るしたまま死ぬまで炎天下に放置して
 脱水で苦しんで苦しんで死ぬのを
 さらし者にした。
 一番残酷な死刑のやり方だよ。」


「そうだな。」


「詩篇の22編に書いてあるのさ。」


 苦難が近づき、
 助けてくれる者はいないのです。(詩篇22;12)


 口は渇いて素焼きのかけらとなり
 舌は上顎にはり付く。(詩篇22;16)


「イエスを十字架につける時、
 ローマ兵達がイエスの着ていたものを
 山分けして、くじ引きしてるでしょ。
 これも書いてあるんだよ。」


 骨が数えられる程になったわたしのからだを
 かれらはさらしものにして眺め
 わたしの着物を分け
 衣を取ろうとしてくじを引く。(詩篇22;18~19)


「本当だなぁ。
 書いてあるなぁ。」


「旧約聖書の詩篇や預言書のいろんな所に
 私達が読んだらすぐに、
 あ、これイエス様の事だって分かる事が
 出てるのさ。
 預言が成就するとか預言の通りにって
 イエスが何度も言うでしょう。
 イエスの生まれる何百年も前から
 旧約聖書に預言されていた事なのさ。
 だけど、
 今の私達はこの聖書という本に
 読み易くまとまって書いてあるから分かるけど、
 イエスの時代の人達は誰一人分からなかったのさ。」


「そうだろうな。
 わからないだろうな。」


「うん。
 皆、自分達が何やってるのか
 分かってなかったんだよ。
 わからないまま、
 預言の通りイエスを十字架につけた。」


 ある者が十字架の上で苦しむイエスに
 酸っぱくなったぶどう酒を海綿に含ませて
 飲ませようとした。(15;36)


「これもさ、
 こんな事まで詩篇に書いてあるんだよ。」


 わたしが受けている嘲りを
 恥を、屈辱を、
 あなたはよくご存知です。
 わたしを苦しめる者は、全て御前にいます。
 嘲りに心を打ち砕かれ
 わたしは無力になりました。
 望んでいた同情は得られず
 慰めてくれる人も見いだせません。
 人は私に苦いものを食べさせようとし
 渇く私に酢を飲ませようとします。(詩篇69;21~22)


「酢というのは
 ぶどう酒が古くなって酸っぱくなったものさ。
 喉が渇いた人にこれを飲ませるってどうよ。
 嫌がらせとか虐待だよね。」


「なるほどなぁ。」


イエスは午後3時に息を引き取られた。
神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
夕方になって、
アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を
引き取って亜麻布で包み、
墓に納めて入り口を石で塞いだ。


「イエスが逮捕されて十字架で死んだ時、
 弟子達は皆逃げて誰もいなかった。
 でも、
 ローマ兵の百人隊長や、
 アリマタヤの議員ヨセフや、
 女の信者達がぞろぞろと
 イエスの後を付いて来ていたんだよ。
 そして十字架の上で死ぬところまで見届けた。
 女の信者達は目立たなくて弱いけど
 しぶとくて強かったんだ。
 逃げないでイエスの後を追って来たんだね。」


「そうだなぁ。」


じじ、
感慨に浸っている。
この後しばらく、
じじに十字架の上のイエスの言葉の事を話す。

3月14日(金) マルコ14;32~72

2008-03-14 23:59:08 | マルコ
ゲッセマネで祈るイエス。


「お父さん。
 これから十字架に架けられて殺される時、
 やっぱりイエスだって恐ろしかったんだよ。
 十字架の死刑は一番残酷な方法で殺す死刑だからね。
 出来れば避けたい、
 やっぱり怖かったんだろうね。」


「そうだな。」


「この時にイエスの傍にいた弟子達は
 皆寝てしまっててさ、孤独だったよね。
 これから十字架で殺されるのに
 誰も励まさないし理解もしない、祈りもしない、
 起きて傍にいる事すらしない、
 イエスはたった一人で孤独だったね。」


「皆、疲れて寝てたんだろうな。」


「"この杯を取りのけてください"の"杯"って
 苦しみの事だよ。
 こないだも出て来たけど。」


「そうか。」


「そうだよ。」


ユダは接吻を以ってイエスを裏切り、
イエスは逮捕された。
残りの弟子達は全員散り散りばらばらに
イエスを見捨てて逃げ去った。


裸で逃げた若者。


「お父さん、
 この裸で逃げた若者って、
 この福音書を書いた筆者マルコなんだってさ。」


「へぇぇ。」


「捕まりそうになって、
 着てるもの脱ぎ捨てて裸で逃げたんだよ。
 イエスを見捨てて。」


「そうだな。」


最高法院の裁判。


「裁判と言ったって
 でっち上げの言いがかりでさ、
 買収して偽証させた証人達と大勢の野次馬とさ、
 金ばら撒いてそこいらから掻き集めた群集達に
 イエスが不利になるような証言をさせてさ、
 それで冒瀆罪って事にした。
 でたらめの裁判さ。
 もう予めイエスを殺す事に決めていて
 死刑の口実として
 でっち上げの罪状を挙げたんだ。」


「そうだな。
 しかしこういう事はよくあるだろう。」


「ああ。
 そこんとこは昔も今も
 あまり変わらないよね。」


ペトロの否認。


「たとえ一緒に死ななければ
 ならなくなったとしても
 あなたの事を知らないなどとは言わないって
 言い張ってたけど、
 やっぱりイエスの予告通りに
 "そんな人知らない"って言ったんだ。
 3回も。」


「そうだな。
 言おうと思わなくても言ってしまったんだな。」


「弱いんだよね。
 人間てさ。」


「そうだな。」


ここでこのペトロの否認の場面を
もう少し詳しく、ルカに飛ぶ。(ルカ22;54~62)


「ペトロが"そんな人は知らない"と言った時、
 イエスが振り向いてペトロを見たって書いてある。
 イエスに聞こえてたんだよ。」


「あああ。
 そうか。
 それはなぁ。
 いやぁーそれはあんまりだなぁ。」


じじ、しきりに頭を振って嘆息している。


「イエスとペトロは目が合ったんだね。
 イエスは振り向いてペトロを見つめたんだ。」


「あああ。
 なんだかなぁ。。。。orz
 やりきれない。」


「想像するしかないんだけどさ、
 イエスはペトロを見た時、
 どんな顔してたと思う?」


「それは、
 キリストだから、
 怒ったり恨んだりはしていないだろう。」


「私もそう思うよ。
 イエスはペトロが裏切った事を
 恨んだり責めたり怒ったりはしてなかったと思う。
 推測だけどさ。
 だからペトロは後悔して泣いたんだと思うよ。」


「そうだな。」


「もしイエスがこう言ったらどうだろう。
 "何だペトロお前裏切りやがってこの嘘つき野郎"って、
 もしペトロにそう言って罵ったら、
 ペトロは後悔したり泣いたりしないで
 もう2、3回くらい"けっ知らん知らん知らん"って
 とっとと逃げたんじゃないかな。」


「いや、
 キリストはそんな事は言わない。」


「だから言わないって。
 もしそうだったらの話だよ。
 イエスはペトロを責めてない。
 ペトロと目が合った時、
 イエスはきっと許しと憐れみの目で
 ペトロを見たよねきっと。
 ペトロ、辛いよねぇ。
 後悔して苦しかったろうなぁ。」


「そうだなぁ。
 やりきれないなぁ。」


「この少し前の所を読むとさ、
 イエスはペトロが自分を裏切ると知りながら
 ペトロを励ましてるのさ。」


シモン、シモン、
サタンはあなたがたを、
小麦のようにふるいにかけることを
神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、
信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、
兄弟達を力づけてやりなさい。(ルカ22;31~32)


「"わたしはあなたのために、
 信仰が無くならないように祈った。"って、
 胸が痛くなるよ。
 こんなに
 自分のために祈ってくれた師匠なんだよ。
 その師匠を
 本人の目の前で、聞こえる所で
 知らないと言ってしまったんだもの。
 しかもそれを責めたりしないんだから
 ペトロの気持ちになってみたらさぁ。
 これは辛いよねぇ。」


「いやぁーこりゃあ辛いなぁ。
 後悔するなぁ。」


「泣けてくるよね。
 ペトロはイエスのこの言葉を
 後々何度も何度も繰り返し、
 反芻してたんじゃないかな。」


ペトロが見たであろう、
イエスの許しと慈愛の眼差し。
心臓を刺し貫くような後悔をもたらす。
私はこのルカ22;31~32の箇所に弱い。
自分で読む度に泣けてくる。
毎度毎度、
何度読んでも泣けてくる。
しかし
ここで私が泣いてどうする。


見れば
じじ、うるうるしている。


泣きながら福音書に入り込んだ
いい年のあほだら親子。


はー。
やっきりこいた。


今日はこれにてお開き。

3月13日(木) マルコ14;1~31

2008-03-13 23:22:36 | マルコ
祭司長達や律法学者達は
イエスを殺す計略を練っていた。


「過ぎ越しの祭りの間は避けたんだ。
 群集が暴動を起こすから。
 人目の無い時を狙ってた。」


「闇討ちにしようとしたんだな。」


「そう。
 汚いやり方だよね。」


「そうだな。」


イエスに香油を注ぐ女の話。


「香油というのは高価なものだったらしいよ。
 女を咎めた人達は、
 香油をイエスの頭にかけた事を
 無駄遣いだと言ってる。
 香油を高く売れば
 貧しい人達に施してやる事が出来たのにと言うんだよね。
 この人達の言う事は、
 一見事前のように聞こえるけど違うと思わない?」


「そうだな。
 無駄遣いと言ってるが。」


「貧しい人々に施しをするならば
 この女の持っている香油を売るとかどうとか
 言ってる事自体が変だよ。
 貧しい人に施しをするなら
 人の持っている物を当てにしないで
 自分が自分の物を売るか
 自分の手で稼ぐかするべきだよね。
 この女を責めている人達の言ってる事は
 慈善のようでいて何か薄汚いまやかしのような、
 偽善を感じないかい。」


「そうだな。
 しかし埋葬の準備をしたと書いてあるな。」


「そう。
 施しをしたいなら、
 貧しい人々はいつもすぐ身近にいるけど
 イエスはもう間もなく自分が殺されると言ってる。
 その埋葬の準備をしてくれたと。
 でも弟子達には今ひとつ危機感が無いよね。
 イエスが殺されるという危機感がさ。」


「何が起こるかわからなかったんだろう。」


「この女がイエスに油を注いだ事は
 イエスが予告した通り、
 世界中何処でも知られている。
 こうして福音書に書かれて、
 2000年経った今でも語り継がれている。」


「そうだな。」


イスカリオテのユダ。


「イエスを裏切って
 祭司長達に売り渡したイスカリオテのユダは、
 イエスと弟子達の
 一行の財布を任されていたんだって。」


「へぇ。」


「このユダがどうして
 イエスを裏切ろうと思うようになったかは、
 想像するしかないけど、
 この時点でイエスの弟子達は
 まだイエスの言っている神の国の意味とか
 全然理解してなかった。
 だから自分達の中で誰が一番偉いかとか
 自分達を右大臣と左大臣にしてくれとか
 暢気な事言ってるね。
 皆、財産も仕事も捨ててイエスに従って来てた。
 それだけ救い主としてイエスに期待してたと思う。
 でも
 ユダにとっては、
 イエスはユダの思い描いていた救い主像、
 軍事的政治的リーダーとは違うって事が分かって
 失望してたんではないかと思う。
 せっかく何もかも捨てて
 期待してついて来たのにってね。」


「う~ん。
 そうかも知れないなあ。」


「他の福音書では、
 ユダは銀貨30枚と引き換えに
 イエスを祭司長達に売り渡したと書いてあるよ。
 銀貨30枚というのはさ、
 奴隷一人の値段に相当するんだって。」


「ほぉー。」


「それと、銀30というのは
 旧約の預言書にも出て来る。(ゼカリヤ11;10~13)
 ユダはイエスが死刑の宣告をされた時に後悔して
 銀貨を祭司長達に返しに行ったけど相手にされなくて
 その銀貨30枚を神殿に投げ入れて自殺した。
 祭司長達はその銀貨30枚は血の代価だから
 汚れてるって事で神殿の献金には入れないで
 陶器師の畑を買い取って
 外国人の墓場にしたんだよ。」


「・・・・・(-"-)」


じじ、渋い表情で考え込んだ。
次行こう。
裏切る者について。


「はっきり言っておくが、
 あなたがたのうちの一人で、
 私と一緒に食事をしている者が、
 わたしを裏切ろうとしている。」(14;18)


「弟子達は皆それぞれ、
 まさか自分の事か!?ってうろたえたけど。
 一般的に、
 ここで言うイエスを裏切る者は
 イスカリオテのユダだよね。
 イエスを銀貨30枚で売ったんだから。」


「そうだな。」


「だけどさ、
 裏切り者はユダだけじゃないのさ。」


「・・・・」


「裏切り者は
 イエスを売ったユダも含めて、
 12人全員だよ。
 だってイエスが逮捕された時、
 土壇場で全員がイエスを見捨てて逃げた。」


「う~ん。
 そうか。そうだなぁ。」


「そうなんだよ。
 ユダだけじゃない。
 皆、全員がイエスを裏切った。」


主の晩餐。(14;22~26)


イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱えて、それを裂き、
弟子達に与えて言われた。
「取りなさい。
 これは私の体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを捧げて、
彼らにお渡しになった。
・・・・・
「これは、
 多くの人のために流されるわたしの血、
 契約の血である。・・・・」


「最後の晩餐て、聞いた事あるっしょ。
 ここの場面がその最後の晩餐だよ。
 イエスが十字架で死ぬ前の、最後の食事。」


「そうだな。
 飲む事はもう決して無いと言ってるなぁ。」


「この最後の晩餐は、
 聖餐式と言って
 キリスト教徒にとって一番大事な儀式だよ。
 イエスがここでした事を記念して、
 私達の教会でも毎月同じ事をするのさ。
 お父さんも洗礼を受けて正式に教会員になったら
 この聖餐式に参加出来るよ。」


ここで、
一時中断して私達の教会の聖餐式について
じじにさらっと説明した。
(後ほど記事にアップします。)


ペトロの離反の予告。(14;27~31)


「お父さん、ここに引用されている言葉も
 旧約の預言書に出てるんだよ。」


「ほぉ。」


『わたしは羊飼いを打つ。
 すると、羊は散ってしまう。』(ゼカリヤ13;7)


「たとえ、
 みんながつまずいても、
 わたしはつまずきません。」(14;29)


「たとえ、
 御一緒に死なねばならなくなっても、
 あなたのことを知らないなどとは
 決して申しません。」(14;31)


「ペトロはこう言って心は熱かったけど
 やっぱり土壇場で裏切ってしまう。」


「そうだな。
 鶏が鳴く前に知らないと言ったんだな。」


「そう。
 他の弟子達も同じ。
 結局は皆逃げた。」


では、次回は
主イエスの受難に進むよ。

3月8日(土) マルコ13;1~37

2008-03-08 23:56:55 | マルコ
西暦70年。
ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊され、
イエスの予告通り、
神殿の崩壊は現実のものとなる。


「2000年後の今
 こうやって聖書を読んでる私達は
 キリスト教徒が迫害を受けた事を知っていて
 弟子達の苦難も殉教も分かってるけど、
 イエスからこの話を聞いた時の弟子達は
 イエスが一体何の話をしてるのか、
 何が起こると言っているのか、
 全然現実感無かっただろうね。」


「そうだなぁ。
 分からないだろうなぁ。」


「うん。
 イエスが十字架で死なれて
 復活して、
 でもその後エルサレムがローマに攻め落とされて
 神殿も何もかも壊滅するからね。
 戦争が起こってもまだ世の終わりじゃないって。
 戦争に加えて地震や飢饉が起こるって。
 そして弟子達は官憲に引き渡されて
 拷問を受けて、
 権力者の前に立たされて
 自分の信仰を言い表さなければならなくなると。」


「うーむ。」


「その時に何喋ったらいいか
 心配しなくても、
 聖霊が言葉を与えてくれるから大丈夫だって。」


「へぇぇ。」


「ここにさ、副題がついてるでしょ。
 『大きな苦難を予告する』って。
 ローマ皇帝だったネロがさ、
 ローマ市内に放火して
 それをキリスト教徒がやったと言って
 キリスト教徒狩りしてさ、
 火炙りにしたり車裂きにしたり猛獣に食わせたり
 そりゃあ凄惨なやり方で殺したんだよ。
 有名な話だけど。」


「そうだな。」


「でもネロの迫害は
 あくまでローマ市内だけだったらしいけど
 ドミティアヌス帝の時は
 もっと酷い迫害だったんだよ。
 そして西暦250年には
 迫害がローマ帝国全土に広がっていったのさ。」


「切支丹の迫害と同じだな。」


あああ。
じじ、
今そういえば遠藤周作『切支丹の里』を
読んでいるのであった。


「お父さん。
 何も安土桃山とか江戸時代まで遡らなくても
 お父さんと同じ年で
 キリスト教徒弾圧を体験した人はいるんだよ。」


「?・・・・そうか?」


私はここで
ブログ『ぱんくず日記』にも書き、
礼拝のメッセージ奉仕でも紹介した、
故・辻宣道牧師の事をじじに話した。
(↓ぱんくず日記2006.7.8)
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/66529cabfa89781771006f6315c757a4


そうだ。
辻宣道牧師とじじは同じ昭和5年生まれ。


じじが父親に引き取られて
置戸の山奥から釧路に引っ越して来て、
継母から苛められていた時、
辻宣道少年の父親は逮捕されて教会籍を剥奪され、
教会は解散させられた。
家族は路頭に迷い、
母親は軍隊の残飯を得るために並んでいた。


昭和20年1月、
じじは父親の家を出て鉄道学校にいた。
同じ時、辻宣道少年は父を獄中で失った。
翌昭和21年のペンテコステに、
辻宣道少年は信仰を告白し、洗礼を受けた。
そして父親と同じ牧師の道を歩んだ。


「お父さん。
 迫害は何百年も何千年も昔の
 歴史の本の中の話じゃないのさ。
 つい最近、
 お父さんが小学生だった頃にもあった。
 同じ迫害を体験した人の話を
 朝祷会でお父さんと同年代の人から聞いた事あるし。」


「ほぉー」


「イエスの名のために、
 人々から憎まれる、
 でも最後まで耐え忍ぶ者は救われるって。」


「・・・・・・・。」


じじが考え込んだところでお開き。

3月3日(月) マルコ12;35~44

2008-03-03 22:48:49 | マルコ
ダビデの子問答。


「律法学者は救い主を"ダビデの子"と呼んでいた。
 それは旧約のイザヤ書に書いてあるんだよ。」


「へぇ。」


エッサイの株からひとつの芽が萌え出で
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。(イザヤ11;1~2)


「旧約の預言書で、
 "若枝"、"星"、"主の僕"という言葉が出て来たら、
 注目するんだ。
 それは救い主を言い表した言葉で、
 イエス・キリストの事だよ。」


「へーぇ。」


「イザヤ書のエッサイというのはダビデ王の父親。
 ダビデは貧しい羊飼いの末っ子だったけど
 神に選ばれてイスラエルを統一国家にした。
 イスラエルの英雄だよ。
 イザヤ書にこう書いてあるから
 救い主はダビデの子孫だと律法学者達は解釈していた。」


「ふん。」


「でも、ダビデ自身が旧約の詩篇の中で
 "主は、私の主にお告げになった・・・"
 と言ってるのさ。
 ダビデが言うのは、
 "天の父なる神様は、私の救い主にお告げになった。"
 という事だよ。
 だったら、何で救い主がダビデの子なのかって。
 イエスは律法学者達の教えていた事に
 突っ込みを入れたのさ。」


「なるほどなぁ。」


「イエスの律法学者達に対する批判は
 辛辣なものだね。
 長い衣を着てカッコウつけて歩くとか、
 広場で挨拶されるとか、
 人の集まる所ではいい席に特別待遇で座りたがり、
 やもめの家を食い物にして
 見せかけの長い祈りをする。」


「こりゃケチョンケチョンだな。」


「そういう律法学者に気をつけろって。
 そういう人の教えに耳を貸して
 食い物にされるなという事と、
 自分がそういう者になるなという事と、
 両方の意味があるよね。」


「なるほどな。」


「教会にもそういう人達が時々いるよ。
 職業が学校の教員とか教授だとか医師だという理由で
 教会でも
 教え子でも何でもない本来同等の立場の教会員達から
 先生先生と呼ばれて、
 自分は先生と敬称で呼ばれて当然としている人は
 札幌の教会にいた頃はよく見た。
 先生と呼んであげないと不機嫌になるのさ。(笑)
 自分が牧師先生達や他の信者達よりも
 先に洗礼を受けたとか
 古くからの信者だとか
 自分がいかに教会に貢献してきたかを理由にして
 この律法学者達そっくりに振舞う人がね、
 現実にいるよ。
 イエスがここで話しているのとそっくりな人達が。」


「ふふん。」


「尊敬されないと不機嫌になって会議を掻き回したり
 延々と埒も無い長演説をして
 自分がこういう解釈をするとか
 こういう主義だとか、
 教会という人の集まる場所で長々と垂れ流す、
 そういう人ってさ、いるよ。
 この福音書の中だけの話じゃなくて
 今の私達の教会の群れの中にもいる。
 だから気をつけなさいって。
 そういう人の話に耳を貸して翻弄されるなって。
 食い物にされるから。
 まして自分がそういう人にはなるなって事だよ。」


「そうだな。」


「教会は
 天使みたいに立派な信仰者の集まりではないのさ。
 私も含めて欠点のたくさんある人が
 許されて集まってるんだよ。」


やもめの献金の箇所について。


「イエスが律法学者を非難して、
 "やもめの家を食い物にし、・・・"って
 言ってるでしょ。
 ここにやもめが出て来てさ。」


「そうだな。」


「イスラエルは男性社会だからね。
 夫に先立たれた女はそこで収入が途絶えてしまって
 しかも女が働いて食べて行く社会ではなかった。
 だから、
 貧しい人、弱い立場の人の
 代表が孤児とやもめだったんだよ。」


「なるほどな。
 昔の日本と同じだな。」


「うん。
 でもこのやもめの女性は
 レプトン銅貨2枚、おそらく貨幣価値で言ったら
 今の日本で10円玉2枚。
 それしか持ってなかった訳だから
 貧乏のどん底だね。
 たった20円しか持ってない生活費の20円全部を、
 献金したんだ。
 イエス様はこのやもめは誰よりもたくさん捧げたと言った。
 イエスはお金の金額ではなくて
 捧げる心を見ておられるんだよ。」


「うーん。」


「私達は自分達をこのやもめの立場に置いて、
 お金にしろ持っている物にしろ、
 それだけじゃなくて能力や時間も手間隙も、
 気配りとか笑顔とかも、
 何でも捧げるものは惜しまずに、
 自分の持っている最大限を捧げるようにと
 このやもめを通して教えられてきた。
 何故なら私達のものは全部元々神様のものだから、
 神様が働かれるために私達は
 捧げるなら惜しまずに捧げるべきなんだよ。」


「そうだな。」


「だけどね。
 やもめは生活費全部献金して
 それからどうなったと思う?
 女が働いて食べられる社会ではなかったんだよ。
 どうしたと思う?」


「・・・・」


「書いてないから誰にも分からない事だけどさ、
 野垂れ死にするか、
 乞食をするか、
 売春をするか。
 このやもめにはそれしか選択肢がなかったと思わない?」


「そう簡単に食べては行けなかったろう。」


「で、
 イエスは律法学者達を非難してたけど。
 "やもめの家を食い物にし、・・・"ってね。
 たった20円しか生活費がない人にまで献金させる、
 献金という名目で貧民から金を搾り取っていた、
 当時の教会のあり方をイエスは非難してるんだよ。
 だって本当ならやもめは献金するのではなくて
 援助を受けるべき立場だよ。
 イエスの教えにあるように
 神様の心は慈しみと憐れみだから
 こんな貧しい人からまで
 献金搾り取っちゃダメでしょう。」


「そうだな。」


「ダメだと思うよ。
 この箇所はやもめの立場からだけ読んで
 持っている最大限の20円を全部捧げて
 飢えて野垂れ死にして
 天国行ってめでたしめでたしって
 それを信仰深いとか言って
 美談にしてしはダメでしょう。」


「昔から宗教というものは
 そういうものだ。
 そういう事をしてきた。」


「確かに、
 今も残る歴史のある寺院や教会も
 殆どが人々から搾り取って働かせて建てられて
 今に残ってるからね。
 イエスの時代のユダヤ教も同じだったんだきっと。
 イエスはその上に胡坐かいて
 私腹を肥やしていた宗教指導者達を非難してる。
 この後の箇所で、
 神殿が崩れると言ってるからね。
 でも、それは間もなく本当になったのさ。」


「ほぉー」


続きは次回のお楽しみ。

3月2日(日) マルコ12;1~34

2008-03-02 22:24:56 | マルコ
ぶどう園と農夫の譬え話。


「お父さん。
 ここは昨日の続きでさ、
 神殿で祭司長や律法学者達や長老達が
 イエスに難問をしかけて
 揚げ足を取ろうとしている所さ。
 イエスはそれらの宗教指導者達に対して
 譬え話で批判してる。」


「そうだな。」


「ぶどう園を預かって収穫を渡さない農夫達は
 祭司長や律法学者達や長老達、ファリサイ派など
 宗教指導者達の事だよ。」


「うん。そうだな。」


「ぶどう園の主人は天の父なる神。」


「うん。」


「主人に遣わされて収穫を受け取りに行ったけど
 空手で追い返されたり
 袋叩きにしたり殺された僕達は預言者達だよ。
 預言者達は昔から神様の言葉を預かって、託されて
 人々に悔い改めを呼びかけたけど
 殆どがその時その時の権力者や宗教指導者達に
 弾圧されて殺された。
 この福音書ではほら、洗礼者ヨハネが
 ヘロデに首切られて盆に生首を乗せられたりしたっしょ。」


「そうだな。
 迫害されたんだな。」


「うん。
 で、預言者の言う事を聞かないなら
 天の父なる神様は
 息子なら敬ってくれるかも知れないと言って
 一人息子を送った。
 この一人息子がイエス・キリストだよ。」


「そうだな。
 それで殺されてしまうんだな。」


「うん。
 イエスは十字架に架けられて
 殺されてしまうからね。」


「ひどい話だ。」


「イエスはぶどう園の話でその事を言ってるのさ。」


「うむ。」


「『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。』
 これは、旧約聖書に書いてあるのさ。(詩篇118;22)
 家を建てる専門家が要らないと言って捨てた石が、
 実は神様に選ばれて
 その家を建てるための定礎、土台になったって事。」


「ふん。」


「旧約の詩篇は長いお祈りで、
 祭司長や律法学者達や長老達やファリサイ派にしてみれば
 自分達こそが専門家でよく知ってた。
 誰よりも一番良くわかってるつもりでいたから、
 イエスの言う事なんか
 聞けるかと思ってたんじゃないかな。
 だからイエスは彼らの一番よくわかっている詩篇で
 彼らを批判したんだよ。
 家を作る専門家が土台になる石を見抜けずに捨ても、
 神様が御手でその石を家の土台に据えられる、
 そういう意味だよ。」


「それで頭に来て殺したんだな。」


「そう。
 プライド高い人達だったんだろうね。
 そして陰湿に議論を仕掛けて言葉尻を捉えたり
 人の目を気にして
 姑息なやり方でイエスを闇討ちしようとした。」


「ううーむ。」


皇帝への税金。
皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかいないか。


「当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあったから
 ローマから税金を取られても歯向かえなかった。
 そういう時代背景があるからね。
 ローマ皇帝に税金を納める事を、
 もしイエスが律法に適ってると答えたら
 同胞を裏切る売国奴呼ばわりするだろうし、
 イエスについて来た群衆をがっかりさせる事になる。
 だからと言って
 もしイエスがローマに税金を納める事を
 律法に適っていないと言ったら、
 議論を仕掛けた人々はイエスをローマに告発する。
 さあ、どうする。」


「いやぁー
 これはなかなか難しい問題だなぁ。」


「ローマの貨幣には皇帝の肖像が彫ってあって
 皇帝の名前が入ってた。
 イエスは、その貨幣を皆の前に出させて
 皇帝のものは皇帝に、
 神のものは神に返せと答えたのさ。」


「大したもんだなぁ。
 いやあ、大したもんだ。」


じじ、
水戸黄門の葵の御紋の場面みたいに
興奮している。


「この当時の、
 律法学者達に頭を抑えられていた人々は
 そりゃあスカッとしたさねぇ。」


「そうだなぁ。
 いやぁ、立派なもんだ。」


復活についてのサドカイ派との問答。


「イスラエルの指導者達同士でも
 死んだ人の復活を認めるか認めないかで
 立場が違ってさ、
 意見が分かれて対立してたのさ。」


「ほぉ。」


「それと、イスラエルのしきたりは
 家とか血筋を重んじて、
 長男が子供を残さないで死んだら
 次男が長男の嫁と子供を作らなければならない、
 そういう背景があった。
 でも、サドカイ派の人は
 もし死者の復活があるなら全員死んだ後、
 誰が誰の妻なのかって。」


「訳わからんな。」


「イエスはこの人達に対して、
 復活の時には婚姻なんか無い、
 神様は死んだ者の神ではなくて
 生きている者の神だときっぱり答えてる。
 生きてる者が分かりもしないで
 死んだ人の中の誰が誰の夫で妻か、
 議論しても仕方ない。
 そういう事は全然重要じゃないよね。」


「ふん。
 そうだな。」


最も重要な掟。


わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい。


「お父さん。
 この掟は大事なところだよ。
 心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
 神と人とを愛する。
 私達が大切にするのはこの掟。」


「うん。」

3月1日(土) マルコ11章の子ろばについて

2008-03-01 23:53:25 | マルコ
じじ宅から帰宅して、
私は旧約を開いた。
ロバに乗った救い主の記述はイザヤではなくて
ゼカリヤだった。
早速じじに電話する。


「お父さん、
 さっき話した預言書の、
 救い主がロバに乗って来る所あったよ。」


「おー」


イエスは子ろばに乗って
エルサレムに入って来た。
預言では、
救い主はロバに乗って来るのだ。
電話口で、
じじに旧約のページを開かせた。
これがまた難儀で。
礼拝ではヘルパーが開いてくれるし、
私と一緒に読む時は
予め読むページに紐を通してある。


「開いたぞ。」


じじ、電話口で
私が知らせたゼカリヤ9;9を読み上げる。


 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者。
 高ぶることなく、ろばに乗って来る。
 雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9;9)


「ほらね。
 書いてあったっしょ。」


「そうだな。」


「ここを読んだらすぐに
 あ、これはイエス様の事だって
 わかるよね。
 誰でもそう思うよきっと。
 イエスは預言書通りにエルサレムに入ったのさ。
 預言通りだから、
 馬でも戦車でもなくて、
 ろばだったんだよ。」


「なるほどなぁ。」


マルコ11章の冒頭を一緒に読んだ時、
私は少し前のFEBCの放送で
英隆一朗神父様が語られた話を少しじじに話した。


私達がイエスの弟子となって
イエスに従って行くという事は
この子ろばのような存在になっていく事ではないか。
目立たないがイエスをエルサレムに連れて行く、
重要な仕事を担う。
馬のように格好良くなる必要は無く、
黙々とイエスから言われた通りにするだけ。


「主がお入り用なのです。」(マルコ11:3)


主イエスが必要とされたから
この子ろばが連れて行かれた。
主イエスが働かれるために
私達は一人一人必要とされ、招かれて
キリスト者の道を歩くように呼ばれている。
    (FEBC『イエスの生涯を黙想する』より)


「お父さんも、私も、
 必要とされて、招かれたんだよ。」


「そうか。」

3月1日(土) マルコ11;27~33

2008-03-01 23:46:41 | マルコ
権威についての問答。


「何の権威でこんな事をするかって
 宗教指導者達はイエスに難癖つけてきたけど、
 彼らは自分達にこそ権威があると思っているから
 こういう言葉が出たのかもね。」


「そうだな。」


「権威の上にあぐらをかいて
 人々から献金を搾り取ったりピンはねして
 私腹を肥やすための道具に神までも利用する、
 それを暴いたイエスを闇討ちする口実を作るために
 イエスの言葉尻を捕らえようとした。
 そうやって自分達から議論をけしかけながら、
 返事に困ると逃げる。
 打算で成り立ってんだ。」


「うむ。」


「イエスがエルサレムに来て、
 この後しばらくこんな問答がいくつか続くよ。 
 祭司長達と律法学者達とファリサイ派達は
 あの手この手でイエスを論破しようとするから。」


「うーむ。」


おーいじじ、
2000年前の世界から戻って来~い。

3月1日(土) マルコ11;12~14、20~25

2008-03-01 22:50:50 | マルコ
実のならない木。


「イエスが何か食べたいと思って
 実を探したけど実のついてなかった無花果の木がさ、
 イエスが呪ったら枯れたんだって。」


「ほぇ~。」


「実を結ばない木というのは、
 祭司長や律法学者やファリサイ派の人々を指していると
 言った人もいるよ。
 象徴的な意味に解釈すると、
 神の御心から離れた信仰のあり方は、
 植えて育てたのに実のならない木と同じかも。
 洗礼者ヨハネが別の福音書で
 "悔い改めに相応しい実を結べ"と言ってるから。」


「なるほどな。」
 

神を信じなさいという事、
疑わずに祈る事、
祈り求めた事は既に得られたと信じる事。
神に向かう時の姿勢、
神を信頼する態度について。
ここは、
深く掘り下げずにさらっとだけ説明した。
いずれ牧師先生から教えて頂く必要があると思ったので。
私などの薄っぺらな説明などではなく
日々の生活の中で
ゆっくり時間をかけて少しずつ体得すべきものだと思う。


 「また、立って祈るとき、
  だれかに対して恨みに思うことがあれば、
  赦してあげなさい。
  そうすれば、
  あなたがたの天の父も、
  あなたがたの過ちを赦して下さる。」(11;25)


「お父さん、
 ほらここは主の祈りにあるよ。
 "私達の負い目をお許し下さい。
  私達も私達に負い目のある人達を許しました。"」


「おお。」


じじ、
ここでまた感心している。

3月1日(土) マルコ11;1~11

2008-03-01 22:30:14 | マルコ
エルサレム。


 「主がお入り用なのです。」(11;3)

 
まだ誰も乗った事のない子ロバ。
イエスはその子ロバに乗られた。


「お父さん、
 イスラエルの人々はローマ帝国の占領下で
 苦しい生活をしていて、
 いつか救い主がやって来て
 自分達をこの苦しい生活から
 開放してくれると信じて待ち望んでいたのさ。」


「そうだな。」


「イスラエルの人々にとって救い主は
 ローマを力で制圧してくれるような、
 例えば軍事クーデターなんかを起こしたり
 軍事力も経済力も指導力も有力な人脈もあって
 かっこよく勇ましく、華麗に現れる、
 大昔のダビデ王みたいに颯爽と現れるような
 期待をしていたかも知れない。」


「へぇ。」 


「大昔に、ダビデ王っていたの。
 貧しい一人の羊飼いの少年が
 イスラエルを統一国家にまでした王様さ。」


「へぇ~」


じじ、身を乗り出している。
大河ドラマ好きなんだよ。


「ま、とにかくイスラエルの人々は
 救い主がダビデみたいに華々しく現れて
 ローマの圧政から自分達を救い出してくれると
 期待していたのさ。」


「うん。」


「だけどね、
 救い主が現れる事を書いた預言書には
 そうは書いてないのさ。
 預言書では、
 救い主がそんなかっこよく現れるとは書いてない。」


「ほぉ~。」


「救い主は柔和で、
 子ロバに乗ってやって来ると書いてあるのさ。
 イザヤだったかな、
 旧約聖書の預言書の一つに、
 本当に書かれてあるんだよ。
 イエスが生まれるずっと昔の預言者の預言で。
 終わって自宅に帰ったら後で電話で教えるわ。
 今調べ始めたら朝になってしまうから。」


「そうか。」


「イエスは立派な馬ではなくて
 子ロバに乗って
 トコトコとゆっくりエルサレムに入った。
 貧しい群衆がイエスの前からも後ろからも集まって来て、
 手に棕櫚の葉とか木の枝とか持って振りながら、
 ほら、
 天皇陛下がパレードすると沿道で皆日の丸振ってるでしょ。
 2000年前のイスラエルの貧しい群衆は
 手に葉っぱの付いた木の枝を持って
 ホサナ、ホサナ、って
 叫びながらイエスに付いて来た。
 自分の着ている服を脱いで道に敷くのは
 王様に対して最大の尊敬を表わす行為なのさ。
 自分の服を道に敷いて、
 王様にその上を踏んで歩いて頂く。
 "ホサナ"というのは、
 救い主に向かって"今救って下さい"
 という意味なんだって。」


「ほぉ~」


じじ、
笑いながらしきりに感心している。
じじは周りの者の思惑を覆すような
イエスの言動行動が出て来ると
愉快そうに笑う。
じじはイエスのそんな所が好きらしい。


翌日、
イエスはエルサレム神殿の境内で
両替商や生贄用の家畜を売る商人達を
追い出した。


「イスラエルの神殿に献金する時は、
 外国であるローマの貨幣は使えなかったから、
 両替しないと献金出来なかったんだよね。
 それで両替商が神殿にいた訳さ。」


「ピンはねしてたんだな。」


「そうそう。
 生贄の動物も、
 イスラエルの律法で
 全く傷の無い雄の第一子でなければならないと。
 そういう決まりがあったから神殿で売ってたのさ。
 きっと値段を吊り上げて
 貧しい人にも高く売りつけて
 ぼろ儲けしてたんだよ。
 そして、
 燔祭として捧げた生贄の一番良い部分は
 祭司の物という決まりだったからね。」


「ぼったくりだな。」


「そう。
 イエスは強盗の巣と言ってるね。
 神殿は神様の御心とは何の関係も無くなっていて、
 むしろ欲たかりの宗教指導者達が
 私腹を肥やす場となってた。
 それでイエスは怒って
 商人達を神殿から追い出したんだよ。」


「なるほどな。」


「イエスがそんな事をしたから
 祭司長達も律法学者達も頭に来たけど
 手出ししなかった。
 表だって手出ししないで闇討ちしようとしていたのさ。
 群集がイエスに大勢付いて来ていたから
 イエスに手出ししたら暴動になり兼ねなかったし。」


「そうだな。
 暴動になったかもわからんな。」

2月29日(金) マルコ10;32~52

2008-02-29 23:59:59 | マルコ
エルサレムへの道を、
イエスは先頭切って進まれた。


「弟子達は相当びびってたと思うよ。
 エルサレムと言えば、
 神殿目指して行くんだし、
 そこは、
 イエスを目の敵にする祭司長、律法学者、
 ファリサイ派達の
 根城というか、総本山というか、拠点だったからね。
 イエスは命を狙われていたし、
 何時闇討ちに遭うかわからない場所目指して、
 堂々と先頭切って進んで行かれたのさ。」


「ほぉ。」


ここでもイエスは自分が殺される事を予告する。
イエスご自身による3回目の予告。


「師匠がこれからエルサレムへ殺されに行くと言ってるのに
 弟子達は誰が一番偉いかとか
 ヤコブとヨハネの兄弟二人して
 自分達を左大臣と右大臣にしてくれとか
 願い出たりしてんのね。」


「呑気な話だな。
 わかってなかったんだな。」


「弟子達はこの時点で
 誰一人イエスを理解していなかった。
 だからイエスから
 "このわたしが飲む杯を飲み、
  このわたしが受ける洗礼を受けることができるか"
 って問われて、
 "出来ます"なんて答えてる。」


「ははは」


「お父さん、
 杯と言うのは、ここでは飲み物じゃないのさ。
 杯って苦しみの事を言ってるんだよ。
 洗礼も、儀式の事を言ってるんじゃなくて
 死に方の事を言ってるのさ。」


「ほぉ。」


「イエスがどんな苦しみを受けて
 どんな死に方をするか、
 弟子達は全然理解してなかったから
 "出来ます"とか答えたんだと思う。
 確かに、
 ずっと後になって弟子達は殉教する。
 でもイエスと一緒にいた頃の彼らはまだ
 その事を知らなかったと思う。
 知ってたら
 ひとつ返事で"出来ます"とは
 答えられなかったんじゃないかな。」


「そうだな。」


「全然わかってなくて、
 自分達の中で誰が偉いかとか議論し合ってた。
 このみっともない、
 恥ずかしい姿が私達人間の本性だよ。
 だから笑えない。」


「・・・・」


「そんな惨めな人間達の罪を贖う身代金として
 イエスはご自分の命を捧げに来たと、
 ここではっきり言ってる。
 だから、
 イエスに倣って
 偉くなりたい者は僕になれと言ったんだよ。」


じじ、
腕組みして考え込んだ。


エリコに来て、
イエスは目の見えない人を癒した。


「ここでも言ってるでしょ。
 "あなたの信仰があなたを救った。"
 信仰によって救われるんだ。」


「・・・・」


「次回はいよいよエルサレムに入城するよ。」


「そうか。」


じじが考え込んだところで本日はお開き。
次回をお楽しみに。