goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

2011年復活前夜

2011-04-23 20:21:13 | ヨハネ
あんまり体調悪いので体力温存のため臥床している。
教会の復活の主日礼拝には行けないかも知れない。


復活前夜の黙想。
1月8日の朝祷会で自分が話した、復活の朝のマリアについて。


ヨハネ11;1~44
参照箇所(詩篇16;10、ヨハネ14;6、ヨハネ20;13~16、詩篇41;10、ヨハネ13;18~19)


(詩篇16;10)
 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
 あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
 命の道を教えてくださいます。
 わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
 右の手から永遠の喜びをいただきます。
                  

(ヨハネ14;6) 
 私は道であり、真理であり、命である。


(ヨハネ20;13~16)
 「婦人よ、なぜ泣いているのか」
  
 「わたしの主が取り去られました。
  どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 「婦人よ、なぜ泣いているのか。
  だれを捜しているのか。」

 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
  どこに置いたのか教えてください。
  わたしが、あの方を引き取ります。」

 「マリア」

 「先生」




イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。


イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。


マリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。


成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。


ラザロが死んだ時、
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。


自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみた。


マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、
イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。


この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐く苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまった。


“ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
 神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
 この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
 所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
 本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”
 

ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。


イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。


死人ラザロが復活した奇跡よりも、死んだ人間を生き返らせてまでも、
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
ラザロの復活の奇跡よりも、イエスがマリアに伝えようとした事の方に
私は注目する。


マリアは、イエスがパンを食べさせてくれたからとか
病気を癒してくれたからという理由でイエスに付いて行く人々とは違っていた。


(詩篇41;10)
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。                  


(ヨハネ13;18~19)
 わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
 しかし、
 『わたしのパンを食べている者が、
  わたしに逆らった』
 という聖書の言葉は実現しなければならない。
 事の起こる前に、今、言っておく。
 事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
 あなたがたが信じるようになるためである。


弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。



(De imitatione Christiより)
 パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
 受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に感嘆する、
 しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかしイエスが姿を隠し、
 暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
 ひどく落胆する。
 しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
 イエスをイエスとして愛している人は、
 患難や苦しみの時にも
 慰めの時と同様に、
 彼を賛美する。
           

マリアも、
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。


イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。


  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
   どこに置いたのか教えてください。
   わたしが、あの方を引き取ります。」


マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、
私達はこの時のマリアの気持ちが理解できる。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を持っている。


そんなマリアに、イエスは「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと。
彼女の姉妹マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れる者であった。
マリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと望んで
マリアにそう言われたのではないだろうか。


弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなくイエスをイエスとして
心底愛した人達がマリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。


2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。





1月8日にこの箇所を読んだ時は想像しなかった。
3月11日以来、愛する者を失った人々の裂かれるような苦しみを
今私達は目の前にして、今年の主の復活の日を迎える。


3月11日の大災害によって
津波で壊滅した教会、火災で焼け落ちた教会、
原発の放射能漏れで退避させられた教会、
被災した教会の全てのキリスト者が復活の主イエスに望みを置いている。
この世の命を災害で奪われた人も、
今この世にあって苦しみながら生きなければならない人も、皆。


主なる神、憐れんで下さい。


私達は弱く、揺れ動く地面に怯え、
いつ再び来るかもわからない津波にうろたえています。
それでも被災地の一面瓦礫の荒野にまた一つ十字架が立ちました。
信徒とボランティアで掘り起こして、一面瓦礫の荒野に。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110422/art11042214370007-n1.htm

信仰者はこうしていつも
教会が被災する度に瓦礫の中に希望を探し当てました。
長崎の原爆の時は瓦礫の中から鐘を掘り起こし、
阪神淡路大震災の時には倒壊した聖堂にキリスト像だけが立ち残り、
仙台では今こうして大津波に洗われて三日後に瓦礫の中から
十字架の土台が掘り起こされ、十字架本体を作り直して立てました。
教会の建物は崩れ去っても信仰者の希望は損なわれない事を
私達は今、目に見ています。

ハレルヤ。

枝の主日

2011-04-17 23:36:46 | ヨハネ
枝の主日。
誉むべきかな、主の御名によって来る者。


招詞。


  見よ、
  あなたの王が来る。
  彼は神に従い、
  勝利を与えられた者
  高ぶることなく、
  ろばに乗って来る
  雌ろばの子である
  ろばに乗って。
        (ゼカリヤ9;9)


  ハレルヤ。
  主を誉め讃え、高らかに歌え。
  我が心よひたすらに主の御名讃えよ。
  命ある限り、我は主を崇めん。
  ハレルヤ、ハレルヤ。
               (169番『賛美歌21』)


聖書箇所はヨハネ12;20~26。


一粒の麦の恵み。


主イエスはご自分がこれから麦となって死に
私達に命を与えて下さると言われた。
苦しみを受けて死ぬ麦の苦しみは
私達の罪を代わりに担う苦しみ。


麦は死んで地に落ち、
芽吹いて成長し、実を結ぶ。
その恵みによって私達は生かされている。



教会の食卓、昼食はうどんだった。
私は歯の治療中に右の顎関節が外れて治療中であり、食べ難い。
体全体がだるく、バランス悪い。


その話をしながら、
そういえば牧師先生も何年か前に顎が外れたと聞いた。
牧師先生に聞くと、あくびをしたら両顎が外れたのだそうである。
それも日曜日の朝、これから礼拝で
講壇に立って説教しなければならない時に。
両顎外れると自分では修復出来ず、唾液が流れっ放しになって
それは難儀したという。
幸い近所の医院のお爺ちゃん先生が診てくれた。
牧師先生の口に両手を突っ込んでゴキッと
外れた顎を戻してくれたそうである。
礼拝には間に合ったので教会員達は誰も気づかなかったという。



食事の後、聖餐式。


  最後の食卓囲みしその夜
  主イエスは御糧を御手に取り上げ
  感謝し、分かちて、与え給えり
                (76番『賛美歌21』)


聖書の箇所はヨハネ12;24~26。


  はっきり言っておく。
  一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
  だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
  自分の命を愛する者は、それを失うが、
  この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
  わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
  そうすれば、わたしのいるところに、
  わたしに仕える者もいることになる。
  わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。


主イエス、私達と共にいらして下さい。
アーメン。

主日礼拝

2011-03-27 23:12:25 | ヨハネ
昨夜からPCがストを起こして、
メンテナンスを朝の5時までやっていた。
目が覚めたら10時。
タクシーで教会に行った。
車中、運転手さんが興味深い話をしていた。


「いやぁー先日海岸近くの道路で
 カモメ一羽をカラスが集団で羽を引っ張ったり突いたり、
 虐めて酷かったんですけどね、そこに漁師らしいおっちゃんが出て来て
 棒を振り回してカラスどもを追い払ってたんですよ。
 漁師ってカモメを大事にするんですね、
 余った雑魚なんかをやったりして、親近感あるというか、
 カモメとは親しくしてるんですよ。
 カモメも海の上から漁船と分かると何か貰えると思って集まって来るんです。
 これが大事なんです。」


「へぇ~?」


「船に乗っていると、自分の周囲360度全部海でしょう。
 海以外に何も無い。
 波の上で何処を見回しても何も見えない。
 でもカモメが寄って来たら、ああ、陸が近いんだなと分かるんです。
 漁師にとってカモメは物凄く大事なんです。」


たまたま乗った車の運転手さんの話であったが、
非常に意味深く、示唆に富んでいる。
日曜日の朝、教会に向かう道の途中、見ず知らずの人の口を通して
この話を聞かされた事の意味を考えた。


海の上では陸が何処にあるか分からない。
近いのか遠いのか、太陽が出ていれば東西南北くらいは分かるが
あとどれくらいの距離なのか、遠いのか近いのかは見て知る事が出来ない。
分からない、知る事が出来ないと焦りが生じ、先の見えない不安が起こる。
期待したり失望したり、一喜一憂したり、迷ったり混乱し、
私達は動揺する。
しかしカモメは漂流する船のすぐ近くに陸があるのを眼下に見ている。


漁師はカモメを大事にする。


目の前の波にばかり気を取られて
頭上にいるカモメに気がつかず、失望する、
自分の日常はそんなものかも知れない。



詩篇23;1~6


主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
           (詩篇23;2、3)


死の陰の谷を行くときも
  わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
               (詩篇23;4)


四旬節第3主日。
そしてあの大地震、大津波から16日目。


聖書箇所はヨハネ1;14


言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。
              (ヨハネ1;14)


出エジプトの、主と共に荒野の旅路を行く人々。
主は荒野で人々を導かれる。
人々は旅路の間いつも主を見上げ、主に導かれて進んだ。
                  (出エジプト40;34~38)


この地上で荒野の現実の厳しさだけに目を奪われると
道を前に進む事が出来ない。
常に主を見上げて歩き続ける事。
どんな境遇にあっても私達は
主の恵みによって満ち足りる事を学ぶとパウロも言っている。


わたしは、
自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
                      (フィリピ4;11)

主日礼拝

2011-02-20 22:01:10 | ヨハネ
聖書はヨハネ1;6~13。


神の子供とされる特権。




我らの道を照らし給もう
神の言葉を褒め称えよ
          (55番『賛美歌21』)




私達の教会にお江戸の教会から転入された方がお一人。嬉)
じじよりも6歳も年上であるがシャンシャン自分の足で歩き、
礼拝、昼食、聖餐式、そして今日最後の行事である月例の教会員会まで
私達と一緒にしっかりフル参加される様子を見て羨ましい。
教会には子供と同じだけの高齢者がいて欲しい。
いてくれるだけでいい。
私達の世代に無い知恵と強さをこの世代は持っている。
ようこそ。
私達の教会に加わって下さってありがとう。
どうぞよろしくお願いします。
主に感謝。

主日礼拝

2010-11-07 21:57:23 | ヨハネ
今日の聖書はヨハネ14;1~6。
道、真理、命。


天国には住宅難は無い。(((^ロ^)))
あったとしても主イエスが私達の住まいを用意して下さると。




永眠者記念日という事もあって、『賛美歌21』385番を歌った。
世を去って天に帰った教会仲間を偲ぶ。
牧師先生がこの賛美歌の4番に注目する。


  雪輝く冬をこの友は生きた
  命温めつつ安らかに
  この日、目を閉じれば思い浮かぶのは
  この友を包んだ主の光。
        (385花彩る春を;詞 上島美枝
              『賛美歌21』日本基督教団出版局)


彼が帰天してもう何年経ったか、戦時中は苦労して、
縁あって私達の教派の教会に来ていた教会家族の一人がいた。
10年前に私が一度だけ会った時は、既に介護の必要な状態だったと思う。
元気だった頃の彼は、派手な活躍や目立つ働きはなかったが
晩年視力も聴力も失って施設に行くまでの間ずっと
雪が降ると必ず誰よりも早く教会に来て、
一人黙々と雪掻きをしてくれていた。
元気だった頃の彼はいつもそうだったと。
この4番の歌詞で彼を思い出す、と牧師先生が言う。
朝早く、一人雪掻きをする彼は主と共に生きていた。


11月は収穫感謝もあるんだな。
『賛美歌21』389、収穫与え私達を養って下さる神の愛を
覚えて歌う賛美歌。
主に感謝。


  年毎に廻る時を定め
  雨露を注ぎ日を照らして
  新たな実り今下さる
  計りも知れない深い神の愛
           (389「み神をたたえよ」;詞 A.W.Koskimies
                   『賛美歌21』日本基督教出版局)


で、待降節もやって来る。
忙しいよ。
一年はあっという間だ。

朝祷会に行って来た。

2010-05-01 12:27:00 | ヨハネ
いつもの如く教会の屋根の十字架を撮ったけど
オカルト映画のオープニングではないよ。
風が物凄く強くて
真っ黒な積乱雲が押し寄せたり流されて行ったり
雲に切れ間が出来て
日が差したりまた真っ黒な雲に覆われたり、
オカルト映画というよりも、風林火山っっっばばーん!!みたいな
大河ドラマのタイトルっぽい風雲であるよ。


一日中アホらーっと口開けて眺めていたいほどに
退屈する間もないほど目まぐるしく変化する雲の様相。
こういうのが楽しくて好きだなぁ。
寒いけど。


今日の教会仲間のメッセージ、
聖書はヨハネ21;15~19の
復活したイエスとシモン・ペトロの対話の箇所だった。


仲間は、教会学校の奉仕での、或いは
教会役員の奉仕での自分の失敗談に触れ、
土壇場で3回イエスを知らないと言ったペトロに
復活して再開した後で3回「愛する」と言わせた、
その時のイエスの眼差しを思い浮かべる、という。
自分もペトロのように失敗をして後悔してへこむが
立ち直りの機会を神がいつも備えて下さっていた事に気づく。
だから、自分が失敗してダメダメであっても
「もうダメなんだ」と諦めてはいけない、と
励まされている気がするという。
自分に出来る事を精一杯やって、
ダメでも失敗しても立ち直りの機会も場も、
ちゃんと用意して整えて下さる方がおられる。
そのお方の眼差しをいつも心に留めて生きたいという話であった。


メッセージ、よかった。
お疲れ様。


また明日、教会の礼拝で。

主日礼拝

2010-04-11 12:21:00 | ヨハネ
じじの昼夕飯を詰めて電話したら
ヘルパーがちょうどこれからじじを
教会に連れて行くと言うので
じじ達の通る国道に出て私も車に便乗した。


自分がこれからメッセージの奉仕で
講壇に立つというのに眠気のピーク、
それも語るための準備ではなく
深夜過ぎまで台所の掃除と片付けものをして
寝不足である。
普段からちゃんと掃除しないから台所が底無し沼化するのである。


髭剃れコールする余裕が無かったにも拘らず
ヘルパーさんがちゃんとじじに声をかけてくれたのか
じじはさっぱり髭を剃って来ていた。
今日のじじの昼と晩の飯は
和食洋食のメニウ考える余裕が無くて
二食とも寿司になってしまってごめんなどと
話ながら教会に着いた。


今日は曇ると聞いていたが
教会の入り口で見上げると快晴。




今日の聖書はヨハネ21;1~14。
先週の復活の前の受難週に読んだ
聖書の箇所である。
ブログ記事で散々書いたので
ここには書かない、
「魚焼くイエス」について喋った。


私がメッセージ奉仕の当番に当たる日は
何故かかなりの確率で
宣教師が来ている事が多い。
と言う事は、
行事その他の関係で第二週に繰り上げて
教会員の月一メッセージのある日に
たまたま私が当たるという事である。
何も無ければ
通常は第四週が教会員のメッセージなんだけど
それだけ行事が立て込んでるんだな。
皆忙しくてしんどいなきっと。


今月の第四週は年一回の教会員総会、
そして月末には北海道全体の総会がある。


きっついわ。
私はパートで暦どおりの休みだからいいけど
連休があるおかげで収入が減るんであるよ。


がんばろー(何を?w)


礼拝の終わった後、
教会の婦人の一人が私に声をかけてきた。
今日私が語った「魚焼くイエス」から
「どんぐりと山猫」を思い出したと言う。


・・・・σ(?ω?)r


宮沢賢治の?
私は『銀河鉄道の夜』しか記憶に無いなぁ。
文庫で全部持ってるから
読んだ筈だけどね。
どんな話だったっけ。
読んでみよ。

じじとヨハネを読んだ。

2010-04-03 22:30:00 | ヨハネ
自分一人で福音書を読んでいる時には
福音書の中に入り込み過ぎて
ペトロに感情移入して泣けてきてどうにもならなかったが
じじ宅で自分が朗読したりじじに朗読させたりすると
多少は冷静に読む事が出来た。


夕方、外は寒かった。
とりあえず珈琲を沸かし、
ストーブの傍でじじと一緒になって
珈琲を啜りながら聖書を開いた。


読み終わるなり、じじは感極まった声で言った。


「何かこれ小説みたいだなぁ。」


いや、事実は小説より奇なり。
イエスキリストは死んで三日後に甦り、弟子達の前に姿を現された。


じじと珈琲を飲みながら、
しばしイエスの教えられた無条件の赦しについて語った。
甦られた主イエスが、
ご自分を裏切って見殺しにした弟子達を責めずに
「おいで、朝飯食べなさい。」と言って炭火を起こし、
魚を焼いていた。


土壇場で師を見捨てて逃げ出した弟子達が
もし甦られた主イエスに出会わなかったら
「オレはダメな奴だ」と自分自身に失望し自己嫌悪のまま
生涯を終えた筈である。
しかしペトロはじめイエスの受難の時にあれ程不甲斐無かった弟子達は
その後迫害の中で命を懸けて宣教の働きをし、殉教した。
復活したイエスに出会って、
不甲斐無い弟子だった自分の裏切りを
無条件で赦して頂いたという事実が無ければ
確信を持って福音を語る事など出来ようも無かったであろうし
まして大勢の群集に宣教して多くの人の心を動かすなど出来る筈も無く、
その後の新しい信仰者達を誕生させる事もなく、
後世に福音を語り継ぐ事も無かったであろうと思う。
聖書だって書き残される事も無かったであろうし
2000年後の今の時代に私達がイエスの教えを受ける事など
有り得無かったであろうと思う。
そんな話を
私はイエスの復活についての自分の考えとしてじじに語った。


一番重要な事は、イエスの教えられた赦しは
この世の「許してやる」とは別物であるという事。
イエスは相手が悔い改めようと悔い改めなかろうと
反省しようと反省しまいと
償いを要求せずに無条件で相手を赦した。


被害者の立場で高みから相手を見下して「許してやる」のとは違う。
大晦日にじじが私に語った、
相手が死んだ今に至ってもじじが生涯どうしても赦せない、
あの継母に対しても、
主イエスはじじに赦す事を望まれている。
イエスはイエスが弟子達を無条件で赦したと同じように
じじにも私にも誰にも赦せない相手を無条件で赦し
受け入れる事を望んでおられる。


簡単な事ではない。
しかし主の祈りを唱える時、
私達はイエスから突きつけられた課題に対して
「私も赦します」と宣言している。
主の祈りを唱え、
口で赦しますと宣言しながらいつまでも赦さないのは
偽りの祈りを捧げて神を欺くのと同じ。


じじは一言、「難しいな」と呟いた。
難しいんだ。
私達はいつもこの事で、これが出来なくて苦しんでいる。

七の七十倍

2010-04-03 18:12:00 | ヨハネ
今日はこれから夕方じじ宅に行って、
福音書の復活の箇所を朗読するつもりでいるのであるが。


前日のルカ22;31~32のイエスの言葉を
鶏の鳴いた後で回想し涙したであろうペトロに
どうしても感情移入してしまう。
その余韻をまだ引き摺っていて、
今日読むヨハネ21章の箇所に来ると泣けてくる。
これではじじもびっくり仰天だ。


復活されたイエスは岸辺で炭火を起こし、
夜通しの漁から疲れて戻ってきた弟子達のためにパンを用意し、
魚を焼いている。
その魚を焼くイエスを、ヨハネの眼を通して私は
弟子達の一人一人に感情移入しながら読んでいる。


イスカリオテのユダは自分の罪を認めて言い表し、
後悔して首を吊って自殺した。


シモン・ペトロは自分がイエスの見聞きしている所で
三度知らないと言った。


他の弟子達も、土壇場でイエスを見捨てて逃げ、
物陰に隠れて息を潜めていた。
12人いた弟子達は誰一人イエスの傍に居残る事無く
一人残らずイエスを見捨てて逃亡した。


復活して目の前に現れたイエスに対峙する弟子達の
ばつの悪い気まずい思い、自責、自己嫌悪、
言葉で表現しようの無い惨めさはどれほどだった事だろう。


弟子達の、文字に描かれていない苦しい思い、
喉元につかえたまま言葉に言い表せない感情が伝わってくる。


「主よ、私はあなたが一番辛い時にあなたを見捨てました。
 あなたを敵の手に渡されるまま見放し、
 あなたが足蹴にされ鞭打たれ十字架を背負わされ歩かされ、
 十字架の重さに耐え切れず下敷きになって倒れた時も、
 あなたの手と足に釘が打ち込まれ、
 あなたが十字架に磔けられて何時間も太陽に焼かれ晒されて
 渇きに苦しんでいるのを、
 私は人々に混じって遠巻きに傍観し、物陰に隠れていました。

 主よ、私は侮辱と暴行の苦しみの中にあなたを置き去りにしました。
 私はあなたに対して罪を犯しました。
 もうあなたの弟子と呼ばれる資格はありません。
 この弱く愚かな、惨めな私を憐れんで下さい。
 主よどうか卑怯者の私をお赦し下さい。」


復活したイエスは弟子達の裏切りを責めない。
夜通し漁に出ても何も獲れなかった弟子達の疲れと空腹を労い、
何処に網を打てば魚が獲れるかを告げ、岸辺で朝食の用意をしていた。
弟子達のために。
裏切りを責める事無く、
ただ「おいで、朝の食事をしなさい。」と言って
パンと魚を取って弟子達に与えられた。
イエスから与えられたパンと魚はどんな味がしただろう。
この箇所を読むと胸が詰まる。


福音記者ヨハネは
息遣いを感じるほど間近で接した者だけが描き得るイエスであり、
細部まで克明に、見たまま触って感じたままのイエスの姿を
生き生きと浮かび上がらせる。
まるで魚を焼くイエスの息遣いや体温がこちらに伝わるような、
横顔が眼に見えるような克明な描き方をしている。


イエスは弟子達を責める事無く、
無条件で赦しておられた事が読者に伝わってくる。
弟子達が後悔したから赦すのではなく
弟子達が謝罪したから赦すのではなく
弟子達が償いをしたから赦すのではなく
ただ、無条件でご自分を裏切った弟子達を赦している。


ルカ福音書の放蕩息子の譬えや七の七十倍までも赦せという訓戒を通して
教えの中で一貫してイエスが語り続けられた無条件の赦しが、
火を起こし、魚を焼き、食事を勧めて与える行為に込められている。


それに気づいてからこの箇所を読むと、
泣けてきてダメだ。
ペトロや他の弟子達にどうしても感情移入してしまう。






個人的な解釈であるが、
もしユダが自殺せずにその時まだ生きていたら。
もしイスカリオテのユダが自殺せずに
失意と自己嫌悪に打ちひしがれて生き残り、弟子達の群れの隅で
小さくなっていたとしたら、イエスはユダを赦しただろうか。
私は赦したであろうと思う。
ペトロと同様に。
裏切りも後悔も、ユダと他の弟子達との間に差は無い。
イエスの赦しは無条件の赦しだから。


ユダは自殺さえしなければ
悔い改めと和解の機会が無条件に与えられ、
イエスの方から手を差し伸べ
迎えに来てくれたかも知れないのに
自ら死ぬ事でその道を封じてしまった。






主の祈りの祈りの中で、
私達が自らしなければならない唯一の事は、人を赦す事である。
イエスは福音書の中で七の七十倍までも赦せと私達に教えられた。
イエスがご自分を裏切った弟子達を無条件で赦されたように、
私達も同じように無条件で人を赦しなさいと教えている。
それが主の祈りの中で私達に神から要求されている唯一の事。
それが出来なくて私達はいつも苦しんでいる。

3月20日(木) もしイエスの復活が作り話だったら

2008-03-20 23:40:12 | ヨハネ
マルコ伝のイエスは砂埃の向こうに霞んでいる。
マタイ伝のイエスは不機嫌な改革者。
ルカ伝のイエスは慈愛に満ちて優しい。
ヨハネ伝のイエスは・・・


ヨハネ伝のイエスは不思議だ。
ヨハネの目を通して
イエスの横顔が間近に見えるような気がする。
身近に接触し、
共に行動した者にしかできない描き方だ。
あまりにも至近距離で
どんな・・と言い表わす事が出来ない。


ヨハネの視点を通すと
復活という信じがたい超自然的な事でさえも
そうか、甦られたのだなと
あっさり納得してしまう。
復活に様々な解釈や理屈を付け加えたり、
否定する事の方が不自然に思えてくる。


ヨハネの中の
甦られたイエスは
生き生きと気さくに話しかけてくる。
自ら火を起こして
岸に上がった弟子達のために
魚を焼くイエスの姿が見えてくる。


マルコの復活記事を読んで、
陳腐な作り話を嘲笑うかの表情を見せたじじに、
或いはじじと同じ反応をする求道者に、
私達の信じるイエスの復活を
どう伝えたらいいのか。


イエスの教え、
山上の垂訓や黄金律、譬え話に納得しても
イエスの愛と平和に感銘しても
十字架で私達に
ご自分の全てを捧げて下さった事に涙しても
復活でどん引きしてしまったのでは、
求道も信仰告白に至る事が出来ない。
道は中断し、そこまで。


私は、
私自身はイエスの復活をどう受け止めて
どう受け入れたのか。
じじには自分の思うままを率直に話す事にした。


「お父さん。
 ヨハネの福音書は不思議なんだよ。
 私はヨハネを読むと、
 イエスの横顔が間近に見えるような気がする。
 身近で直接接触して、
 イエスと親しく行動した人にしか
 書けない表現だと思わない?」


「む・・・・」


「死んだ人が甦るという事なのに、
 私はこのヨハネの福音書を読んで
 そうか、甦られたんだなと
 あっさり納得してしまったよ。
 何でかは分からないけど。
 何でだろうね。」


「わからんな。」


「復活っていうあり得ない事が
 いかにもあり得る事のように
 色んな解釈や理屈を考え出して
 強引に解釈して辻褄合わせる人はたくさんいる。
 逆に、
 死んだ者が甦る筈が無いと
 頭から否定する人もたくさんいる。
 このヨハネの福音書を読むと、
 辻褄合わせまでして肯定するのも
 頭ごなしに否定するのも
 どっちも不自然に思えてくるから不思議なんだよ。」


「しかし簡単には信じられないだろう。」


「お父さん。
 私はね、このヨハネを読んで、
 もしイエスが復活しなかったらと考えた。」


「ふーん。」


「もしイエスの復活が事実でなかったら。」


「ふん。」


「逮捕されたイエスの目の前で3回も
 そんな人知らないと言って裏切ったペテロがさ、
 イエスの教えを宣べ伝えて、
 ユダヤ教指導者達やローマの弾圧に耐えて、
 厳しい迫害の中で各地を伝道して回って、
 信徒達の信仰を育てて励まして、
 初代教会を誕生させて育てて、
 ローマでイエスのように十字架刑で
 それも頭を下に、逆さまに磔にされて、
 苦しみながら殉教したんだよ。
 一体どうして、
 何のためにそんな事をしたと思う?
 もしイエスの復活がでっち上げの作り話なら
 ペトロは何のために
 そんな事をする必要があったのかな。」


「うむ。
 意味の無い事だ。
 無駄だな。」


「イエスを見捨てて裏切ってから、
 ローマで殉教するまでの間に、
 ペトロや弟子達に何が起こったか、だよ。
 イエスが復活しなかったら、
 ペトロと弟子達の心理的な変化が、
 それこそ全く辻褄合わなくなるよ。
 誰にも帳尻合わせ出来ない心理的な矛盾がさ、
 起こって来ると思わないかい?
 もしイエスの復活が無かったら。」


「そうだな。
 そんな事のために
 何で苦労して死刑になったのか、
 訳が分からないな。」


「でしょう。
 ペトロは土壇場でイエスを裏切った。
 そういう自分の弱さをどう感じていたかな。
 自分がイエスを裏切った、
 自分が見殺しにした、
 そういう意識って誤魔化せるのかな。
 自己嫌悪に陥ったのは間違いないと思わない?
 鶏が鳴いた時に後悔して泣いた事が
 周りの人達に既に知られててさ、
 もう自分も他人も誤魔化せないほど
 精神的に追い詰められて、
 参っていたんじゃないかな。
 人間の心理って
 そういうものじゃないのかな。」


「うーーーーむ。(-"-)・・・・」


イスカリオテのユダは自殺した。
イエスを3回も否認したペテロの後悔は、
ユダの良心の呵責と同じか
或いはそれ以上だったのではないだろうか。
イエスが十字架の上で息を引き取られた後、
ペテロが失意と自己嫌悪のどん底にいたのは
間違いない。


もしイエスの復活が作り事だったら…?


「例えペトロや弟子達がイエスの復活を
 でっち上げたとしても、
 その当時の社会でさ、
 世の中の人々を誤魔化す事なんて
 出来たと思うかい?
 イエスが十字架で殺された時には
 まだキリスト教なんて確立してなかった。
 新興宗教程度にしか認められてないイエスの仲間の、
 それも当のイエスを裏切って四散した残党がさ、
 復活したとか何とか噂を流したとしても、
 誰が耳貸したんだろうか。」


「そんな話は誰も信用しなかっただろう。」


「イエスの前で、
 人々の前でイエスを知らないと言ったペトロは、
 ただでさえ裏切り者のレッテルを貼られて
 軽蔑されてたんじゃないのかな。
 ペトロが何喋ったって
 誰も聞かなかった筈だよね。」


「そうだな。」


「イエスを裏切ったペトロが
 どんな立場に立たされていたか、
 想像するのは簡単だよね。
 教祖のいない新興宗教の残党がでっちあげた復活に
 耳を貸すほど世の中は甘かった筈がないよ。
 ペトロがイエスを3度知らないと言った事は、
 広く知れ渡っていて、伝説だけどさ、
 ペテロがやって来ると
 人々が鶏の鳴き真似をして囃し立てたんだって。
 そういう伝説が残っているらしいよ。
 この伝説は、所詮伝説だけど、
 私は案外事実だと思うよ。」


「そうだな。
 それは今の世の中と同じだ。」


そう。
この伝説は、
群集心理の残酷さが2000年前の昔も今も
全く変わっていない事を示す、
私達にとっては珍しくない
身近なエピソードだ。


「もしイエスの復活が作り事だったら。」


「うん。」


「自分で捏造した幻想のために、
 ペトロは心血を注いだかな。
 自分ででっち上げた復活のために、
 ペトロは迫害にも拷問にも負けずに宣教して、
 まして命まで差し出せただろうか。
 どう思う?
 出来るだろうか、そんな事が。」


「うーん・・・」


「そこまで自分で自分を騙す事が
 人間には出来るものだろうか。」


「・・・・・・」


「自分で自分を騙す者の語る言葉がさ、
 2000年もの長い時間の間に
 無数の大勢の人々に、
 救いの希望を与えて、
 回心に導く事なんてあり得るだろうか。
 作り事の嘘の復活なんて、
 どんなに誤魔化したって
 2000年の間に無数の人間の中の誰かが
 見破った筈だと思わない?」


「そうだな。」


イエスの死後、
ペトロ達を取り巻く現実は、
私が想像する以上に過酷なものだった筈だ。
もし復活が現実に起こった事実でなかったならば、
ペトロや他の弟子達のその後の行動の上に
考えようのない心理的な矛盾が次々と生じてくる。


「ペトロがね、
 イエスを裏切ったペトロが
 甦られたイエスと出会って、
 裏切った事を赦して貰ったという"事実"が無ければ、
 その後のペトロの行動が何もかも、
 心理的に矛盾してくるでしょう?」


「うん。
 そうだな。」


もしイエスの復活が作り事だったら。


「もしイエスの復活が嘘だったら、
 大勢の罪人の処刑の一つに過ぎない十字架なんか、
 すぐに忘れられたよきっと。」


「皆忘れるだろうな。」


もしイエスの復活が作り事だったら。


「その後には大きな戦争も起こってるし、
 2000年もの間、
 歴史のいろんな大きな出来事が起こるうちに
 世の中から忘れ去られてさ、
 十字架の史実は風化して、
 ペトロは失意のしがない漁師のまま、
 日の目も見ずに歳とって惨めに死んでさ、
 初代キリスト教会が生まれる事はなく、
 ペトロや弟子達や信徒達は殉教せず、
 お父さんや私が今読んでるこの新約聖書なんて
 書き残される事もなくて、
 キリスト教自体が
 今日まで存続出来なかったんじゃないかな。
 私はそう思うのさ。
 イエスは本当に甦ったんだよ。」


「うん。そうだな。」


理屈ではない。
心理的な矛盾を孕んだ信仰が
2000年もの長い間矛盾を暴かれる事もなく
人々の共感を呼び、
苦しみ悩む者の心を癒し、
慰めでいられる事などあり得ないと
私は思う。


私達は2000年後の今、
現実に聖書を手に取って読んでいる。
その中で
甦られたイエスはあまりにも生き生きと
気さくに話しかけてくる。


「やあみんな、
 何か魚(魚は直訳ではおかず)はないのか?」


「船の右側に網を打ってごらん。
 そうすれば捕れるから。」


「今捕った魚を何匹か持っておいで」


「さあ、朝飯にしよう。」


自ら火を起こして
岸に上がって来た弟子達を労うイエスの姿が
ありありと浮かんでくるではないか。


「お父さん。
 イエス・キリストを信じて洗礼を受ける時に、
 信仰告白をするのさ。
 牧師先生がお父さんに"信じますか?"って
 質問するんだけど、
 お父さんはイエスが死んで甦った事を
 信じるかい?
 イエスの復活を、
 イエスが本当に甦られたと信じるかい?
 何て答える?」


「はい。
 信じます。」


ハレルヤ。