あんまり体調悪いので体力温存のため臥床している。
教会の復活の主日礼拝には行けないかも知れない。
復活前夜の黙想。
1月8日の朝祷会で自分が話した、復活の朝のマリアについて。
ヨハネ11;1~44
参照箇所(詩篇16;10、ヨハネ14;6、ヨハネ20;13~16、詩篇41;10、ヨハネ13;18~19)
(詩篇16;10)
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
右の手から永遠の喜びをいただきます。
(ヨハネ14;6)
私は道であり、真理であり、命である。
(ヨハネ20;13~16)
「婦人よ、なぜ泣いているのか」
「わたしの主が取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
「婦人よ、なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
「マリア」
「先生」
イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。
イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。
マリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。
成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。
ラザロが死んだ時、
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。
自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみた。
マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、
イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。
この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐く苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまった。
“ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”
ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。
イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。
死人ラザロが復活した奇跡よりも、死んだ人間を生き返らせてまでも、
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
ラザロの復活の奇跡よりも、イエスがマリアに伝えようとした事の方に
私は注目する。
マリアは、イエスがパンを食べさせてくれたからとか
病気を癒してくれたからという理由でイエスに付いて行く人々とは違っていた。
(詩篇41;10)
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
(ヨハネ13;18~19)
わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
しかし、
『わたしのパンを食べている者が、
わたしに逆らった』
という聖書の言葉は実現しなければならない。
事の起こる前に、今、言っておく。
事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
あなたがたが信じるようになるためである。
弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。
(De imitatione Christiより)
パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
多くの人はその奇跡に感嘆する、
しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエスが姿を隠し、
暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
ひどく落胆する。
しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
イエスをイエスとして愛している人は、
患難や苦しみの時にも
慰めの時と同様に、
彼を賛美する。
マリアも、
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。
イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、
私達はこの時のマリアの気持ちが理解できる。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を持っている。
そんなマリアに、イエスは「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと。
彼女の姉妹マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れる者であった。
マリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと望んで
マリアにそう言われたのではないだろうか。
弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなくイエスをイエスとして
心底愛した人達がマリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。
2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。
1月8日にこの箇所を読んだ時は想像しなかった。
3月11日以来、愛する者を失った人々の裂かれるような苦しみを
今私達は目の前にして、今年の主の復活の日を迎える。
3月11日の大災害によって
津波で壊滅した教会、火災で焼け落ちた教会、
原発の放射能漏れで退避させられた教会、
被災した教会の全てのキリスト者が復活の主イエスに望みを置いている。
この世の命を災害で奪われた人も、
今この世にあって苦しみながら生きなければならない人も、皆。
主なる神、憐れんで下さい。
私達は弱く、揺れ動く地面に怯え、
いつ再び来るかもわからない津波にうろたえています。
それでも被災地の一面瓦礫の荒野にまた一つ十字架が立ちました。
信徒とボランティアで掘り起こして、一面瓦礫の荒野に。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110422/art11042214370007-n1.htm
信仰者はこうしていつも
教会が被災する度に瓦礫の中に希望を探し当てました。
長崎の原爆の時は瓦礫の中から鐘を掘り起こし、
阪神淡路大震災の時には倒壊した聖堂にキリスト像だけが立ち残り、
仙台では今こうして大津波に洗われて三日後に瓦礫の中から
十字架の土台が掘り起こされ、十字架本体を作り直して立てました。
教会の建物は崩れ去っても信仰者の希望は損なわれない事を
私達は今、目に見ています。
ハレルヤ。
教会の復活の主日礼拝には行けないかも知れない。
復活前夜の黙想。
1月8日の朝祷会で自分が話した、復活の朝のマリアについて。
ヨハネ11;1~44
参照箇所(詩篇16;10、ヨハネ14;6、ヨハネ20;13~16、詩篇41;10、ヨハネ13;18~19)
(詩篇16;10)
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
右の手から永遠の喜びをいただきます。
(ヨハネ14;6)
私は道であり、真理であり、命である。
(ヨハネ20;13~16)
「婦人よ、なぜ泣いているのか」
「わたしの主が取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
「婦人よ、なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
「マリア」
「先生」
イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。
イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。
2000年の時間を経て、マルタは成熟した信仰者のお手本だと私は思う。
マリアはそうではない。
自分の思いを表現する言葉も持たず、イエスを出迎えにも行かず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼んでいる。
成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮に心を砕くマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。
ラザロが死んだ時、
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。
自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いに照準を合わせて共感出来る事が無いかを探してみた。
マリアの立場になって考えてみた。
マリアは兄弟ラザロが癒されて元気になる事を願い、
イエスを信じて祈っていた。
しかし信じていくら祈っても、ラザロは結局助からなかった。
この時のマリアの感情は、
末期の病人とその家族の血反吐を吐く苦しい気持ちそのものではないか。
病人の回復を必死に願い、祈ってきた。
でも現実には病人は癒されず、この世での最後の別れの時が来てしまった。
“ああ、「病気を治して下さい」という私の願いは聞かれなかった。
神の御心と私の願いは合っていなかったんだろうか、
この人を癒して下さい、病気を治して下さいという私の願いと祈りは、
所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎなかったんだろうか、
本当の神の望みとずれているという事なんだろうか。”
ラザロの死を聞いてイエスがやって来たのに
出迎えにも行かないマリアの気持ちに、私達は共感する事が出来ると思う。
イエスは、
この未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
イエスがラザロを呼ぶと死後4日も経っていたラザロが生きて墓から出て来た。
死人ラザロが復活した奇跡よりも、死んだ人間を生き返らせてまでも、
イエスがマリアに伝えたかった事は何だろう?
ラザロの復活の奇跡よりも、イエスがマリアに伝えようとした事の方に
私は注目する。
マリアは、イエスがパンを食べさせてくれたからとか
病気を癒してくれたからという理由でイエスに付いて行く人々とは違っていた。
(詩篇41;10)
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
(ヨハネ13;18~19)
わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
しかし、
『わたしのパンを食べている者が、
わたしに逆らった』
という聖書の言葉は実現しなければならない。
事の起こる前に、今、言っておく。
事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
あなたがたが信じるようになるためである。
弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。
(De imitatione Christiより)
パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
多くの人はその奇跡に感嘆する、
しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエスが姿を隠し、
暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
ひどく落胆する。
しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
イエスをイエスとして愛している人は、
患難や苦しみの時にも
慰めの時と同様に、
彼を賛美する。
マリアも、
イエスをイエスとして愛していた人の一人だった。
イエスが何かしてくれたからではなく、イエスをイエスとして
マリアが心の底から愛していた事が復活の箇所から読み取れる。
マリアはイエスの復活される朝、相手がイエスとも知らずに会話する。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアはイエスの遺体を引き取ってどうしたかったのだろう。
引き取ったとしても、遺体になったイエスは抜け殻に過ぎないのに。
マリアのイエスに対する愛は、執着と紙一重である。
しかし、
私達はこの時のマリアの気持ちが理解できる。
親族や親しい人の死に直面した事のある私達は
この時のマリアと同じ感情を共有している。
私達は2000年以上の時間を経てマリアと同じ感情を持っている。
そんなマリアに、イエスは「わたしにすがりついてはいけない」と言い、
行ってイエスが復活した事を伝えなさいと言う。
イエスはマリアに、執着を捨てて信仰の共同体に戻れと。
彼女の姉妹マルタはイエスへの揺るぎない信頼を持ち、
共同体の中に人を迎え入れる者であった。
マリアは自分とイエスしか目に入っていなかった。
イエスはマリアに、共同体に戻ってイエスの復活を皆に知らせ、
イエスが教えた救いの希望を告げ広める者、
信仰の共同体に人々を迎え入れる者になれと望んで
マリアにそう言われたのではないだろうか。
弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなくイエスをイエスとして
心底愛した人達がマリアをはじめ大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。
2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。
1月8日にこの箇所を読んだ時は想像しなかった。
3月11日以来、愛する者を失った人々の裂かれるような苦しみを
今私達は目の前にして、今年の主の復活の日を迎える。
3月11日の大災害によって
津波で壊滅した教会、火災で焼け落ちた教会、
原発の放射能漏れで退避させられた教会、
被災した教会の全てのキリスト者が復活の主イエスに望みを置いている。
この世の命を災害で奪われた人も、
今この世にあって苦しみながら生きなければならない人も、皆。
主なる神、憐れんで下さい。
私達は弱く、揺れ動く地面に怯え、
いつ再び来るかもわからない津波にうろたえています。
それでも被災地の一面瓦礫の荒野にまた一つ十字架が立ちました。
信徒とボランティアで掘り起こして、一面瓦礫の荒野に。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110422/art11042214370007-n1.htm
信仰者はこうしていつも
教会が被災する度に瓦礫の中に希望を探し当てました。
長崎の原爆の時は瓦礫の中から鐘を掘り起こし、
阪神淡路大震災の時には倒壊した聖堂にキリスト像だけが立ち残り、
仙台では今こうして大津波に洗われて三日後に瓦礫の中から
十字架の土台が掘り起こされ、十字架本体を作り直して立てました。
教会の建物は崩れ去っても信仰者の希望は損なわれない事を
私達は今、目に見ています。
ハレルヤ。