久しぶりにじじと聖書を開く。
まず先に主の祈りを唱えてから始めるが、途中で言葉が詰まる。
元々は認知症の入り口にあって不穏で落ち着かないじじの
精神的な安定を目論んで始めた聖書朗読だった。
聖書の箇所はたまたま山上の垂訓の「幸いな人」である。
主の祈りも、山上の垂訓も、今これほどまでに心に沁みた事は無い。
あの3月11日金曜日、
激震と大津波と大火災に遭って肉親とはぐれ、
着の身着のまま氷点下の避難所で身を寄せ合い、
救援の毛布とおにぎりを待つ人々を目にしてから、
主の祈りと山上の垂訓を冷静に読めなくなった。
炊き出しのおにぎりを配るが人数分に足りず、
一個を数人で分け合って食べる避難所もあるとテレビで見て聞いてから、
主の祈りが苦しい。
「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」という文言に
苦しくなって涙が出る。
山上の垂訓の場面でイエスに付いて来て話に聞き入る群衆は
その日食べる物すら無い、無力な貧しい人々だった。
神を頼りに、神にすがるしか生き延びる術の無い、
心身も社会的にも弱い人々。
今夜食べる物が無い、どうしよう…
僅かに残っていた食料が尽きてしまった。
子供達に食べさせる物が何も無い。
神様、わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。
避難所に救援物資が行き届かない。
おにぎりが全員に行き渡らない、暖房が無い、
赤ん坊がいるのに粉ミルクの残りが底を突いてしまった。
神様、被災者の一人一人に必要な糧を今日与えて下さい。
今日。
どうかお願いします。
お願いします。
長年住み慣れた街で、自分の住まいで、暖かい部屋で
いつものように食事を摂り、珈琲を飲む、
そんないつもと同じ日常の営みに罪悪感と後ろめたさを感じ、
祈りの言葉に詰まる。
本日の聖書箇所。
心の清い人々は幸いである、
その人達は神を見る。
(マタイ5;8)
罪深い人間の
穢れた心を清める事が出来るのは神の愛だけである。
神の愛だけが私達の心を清めて下さる。
自分の貧しさ、無力さに気づき、
自分の罪の深さに心を砕かれて神の前で泣き、
惨めな自分自身のありのままを受け入れる事が出来るようになり、
他者の弱さや痛みをも受け入れる事が出来るようになって、
自分が神に愛されている事に気づく。
神に愛されている事に気づいたら他者と分かち合う事を望んで
他者の弱さや痛みを思いやる事が出来るようになる。
人の心は神の愛を受けて血が通い、清められていく。
神の愛を受けて心を清められた者は神を見るとイエスは言われた。
神を見るとは、神の御前に立って神と会う事だ。
どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心を持つ人。
(詩篇24;3~4)
イエスに付いて来て話に聞き入る貧しい人々は
それとは知らずに山に上り、イエス・キリストの御前に立っている。
主なる神、憐れんで下さい。
まず先に主の祈りを唱えてから始めるが、途中で言葉が詰まる。
元々は認知症の入り口にあって不穏で落ち着かないじじの
精神的な安定を目論んで始めた聖書朗読だった。
聖書の箇所はたまたま山上の垂訓の「幸いな人」である。
主の祈りも、山上の垂訓も、今これほどまでに心に沁みた事は無い。
あの3月11日金曜日、
激震と大津波と大火災に遭って肉親とはぐれ、
着の身着のまま氷点下の避難所で身を寄せ合い、
救援の毛布とおにぎりを待つ人々を目にしてから、
主の祈りと山上の垂訓を冷静に読めなくなった。
炊き出しのおにぎりを配るが人数分に足りず、
一個を数人で分け合って食べる避難所もあるとテレビで見て聞いてから、
主の祈りが苦しい。
「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」という文言に
苦しくなって涙が出る。
山上の垂訓の場面でイエスに付いて来て話に聞き入る群衆は
その日食べる物すら無い、無力な貧しい人々だった。
神を頼りに、神にすがるしか生き延びる術の無い、
心身も社会的にも弱い人々。
今夜食べる物が無い、どうしよう…
僅かに残っていた食料が尽きてしまった。
子供達に食べさせる物が何も無い。
神様、わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。
避難所に救援物資が行き届かない。
おにぎりが全員に行き渡らない、暖房が無い、
赤ん坊がいるのに粉ミルクの残りが底を突いてしまった。
神様、被災者の一人一人に必要な糧を今日与えて下さい。
今日。
どうかお願いします。
お願いします。
長年住み慣れた街で、自分の住まいで、暖かい部屋で
いつものように食事を摂り、珈琲を飲む、
そんないつもと同じ日常の営みに罪悪感と後ろめたさを感じ、
祈りの言葉に詰まる。
本日の聖書箇所。
心の清い人々は幸いである、
その人達は神を見る。
(マタイ5;8)
罪深い人間の
穢れた心を清める事が出来るのは神の愛だけである。
神の愛だけが私達の心を清めて下さる。
自分の貧しさ、無力さに気づき、
自分の罪の深さに心を砕かれて神の前で泣き、
惨めな自分自身のありのままを受け入れる事が出来るようになり、
他者の弱さや痛みをも受け入れる事が出来るようになって、
自分が神に愛されている事に気づく。
神に愛されている事に気づいたら他者と分かち合う事を望んで
他者の弱さや痛みを思いやる事が出来るようになる。
人の心は神の愛を受けて血が通い、清められていく。
神の愛を受けて心を清められた者は神を見るとイエスは言われた。
神を見るとは、神の御前に立って神と会う事だ。
どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心を持つ人。
(詩篇24;3~4)
イエスに付いて来て話に聞き入る貧しい人々は
それとは知らずに山に上り、イエス・キリストの御前に立っている。
主なる神、憐れんで下さい。