Dream Gate ( 中野 浚次のブログ )   

本日はようこそ開いてくださいました!お芝居のことグルメを語ります!


          

新派と旧派(歌舞伎)の間で……  二代目喜多村緑郎襲名披露新派公演 『婦系図』

2016-10-05 | 演劇

 

 

 「それじゃまるで新派だね」。「それって、新派ぽいね」。

平成の今でも、「新派」という言葉だけは生きている。

いまの若い人は長谷川一夫や鶴田浩二の名前を知らぬ。ましてや水谷八重子なんて知るわけもない。

いわんや喜多村緑郎など団塊の世代でさえ、まずご存知ではないだろう。

初代喜多村緑郎は明治から昭和にかけて、庶民の哀歌を描く「新派」の写実芸を作り上げた俳優である。

さらに云わせてもらえば、初代喜多村緑郎の舞台は映像でしか知らないが、とにかく強情な人で、舞台装置はもとより小道具の位置ま

であれこれ注文した。

たとえば「湯島の境内」でお蔦が障子紙を落とす場面で、その障子紙を落とす位置まで注文したという伝説がある。

その喜多村緑郎の名跡を市川月乃助という歌舞伎役者が二代目として襲名したのである。

 

 「婦系図」お蔦(初代喜多村緑郎)  昭和21・東劇

 

新派の代名詞でもある「婦系図」を知らない人でも、『月は晴れても心は闇だ』 『切れるの別れるのって芸者の時に言うものよ』、湯島の

境内での名セリフぐらいはご存知であろう。

その「婦系図」が夜の部で上演され、順を追って私見を述べてみたいと思う。

 

二代目喜多村緑郎

 

  

(左から) 波乃久里子 水谷八重子(二代目)

 

   

 (左から)  尾上松也 春本由香 市川春猿 市川猿弥 

 

飯田町・早瀬主税宅

久里子のお蔦と喜多村の主税の二人は、飯田町に新所帯を持っているが、身を隠さねばならない事情が見えてこない。

これは一瞬のイキと間とからみ合いの面白さがうすい。だからもう一つ舞台が盛り上がらない。

たとえば、序幕のラストで久里子のお蔦が湯支度をして2階を見上げ、女中に半纏をなげて「チョン」と柝が入る見せ場だが、うまく

キマらない。

これはあまりにも先代の”かたち”ばかりを意識するために、「気持ち」が入っていないのである。

田口守の魚屋「めの惣」は江戸前のそれらしく、いかにも時代の雰囲気を表したのはさすが。

春本由香の酒井妙子は初舞台だから是非もないが、少々硬さはあるが、初々しく初役とは思えない出来。

川崎さおりの女中も目立たずしっかり芝居を運んでいる。

この幕のピカイチは河野菅子の春猿。弟の結婚の身元調べでちょっと出るだけだが存在感があり舞台を締めている。

ことに花道七三でピタリときまっている。平成13年4月の国立劇場で見た成田屋の升寿がよかったが、それに劣るものではない。

 

本郷薬師縁日

この場のポイントになる古本屋はともかく、、カルメラ焼き屋、小間物屋、揚饅頭屋、手遊屋、易者など、どれ一つカットするでなく、こま

かに舞台を飾ったのは評価したいが、けだし当時の縁日の匂いが、下町情緒が伝わって来ないのである。

この場ではじめて登場する柳田豊の酒井俊蔵に重圧感がなく、威厳さが不足。タダの明治のオッサンである。

だから対する喜多村の主税はオドオド感がうすい。

さらに河野栄吉(喜多村一郎)につきまとう芸者は、瀬戸摩純、畼原桂、山吹恭子と新派若手の美人揃いである。これに松也一門の

徳松あたりを年増芸者で起用すると、古風な味が出て面白いのではないか。

古風といえば,河野栄吉が芸者たちに「あとで洋食をご馳走するから」ではなく「あとで精養軒でご馳走するから」ではないのか。

些細なことだが明治のフンイキを大事にしたい。

前後するが、この場で書いておきたいのは、松也のスリ万吉。ニンに申し分はないと思うが、これでは歌舞伎の『め組の喧嘩』である。

つい最近、歌舞伎座で千本櫻「小金吾討死」の松也の立ち回りを見て、渡辺保先生が「あれはアスリートだね」と評されたのを思い

出す。

 

柳橋 柏家

この場から八重子の小芳が出る。初代喜多村緑郎は、晩年この小芳を勤めた。

初代喜多村は、主税との別れ話を聞いているときに火鉢をいじるが、観客の見えない火鉢の中で火箸を、台詞にそえてすとんと落とし

た。喜多村はそんな細かな所作までやってのけたという。

柳田の酒井俊蔵は、この場も印象がうすく、対する八重子の小芳も単調で、新派らしい情緒たっぷりの場がアッサリすんでしまうのは残

念である。

石原舞子の芸者綱次だけが、新派らしい風情を遺している。「苦界だわ」のセリフだけが、ここは聞かせどころと意識したのか、ヘンな間

があいてしまったのが惜しい。

ついでにいえば往年の英つや子の綱次がじつにうまかった。いまも心に遺っている。昭和31年3月の新橋演舞場であった。

 

湯島境内

てんめんたる情感のこもった湯島境内の場……梅の花びらをそぼろに散らした揉紙の感触を、わたしはこの一幕に感じるのである。

しかし、お蔦主税のわかれの哀しみがいま一つ共感を呼ばない。舞台が盛り上がらないのは、どうしてであろうか。

それにテンポもよくない。

新派なりの”かたち”にこだわる反面、お蔦主税のからみがなんだかギコチなくなる。さりとて大芝居をしなくて、サラサラなんのことなく

芝居をしていて、観客の心をつかむことが出来るだろうか。

”かたち”にとどまらず、その”かたち”の面白さを追及すべきではないだろうか。

清元「三千歳」の「門の外には丑松が」にて出になる松也のスリ万吉。いきなりベ羽織を盗んで逃げようとするのだが芝居が面白くない。

つまりリアルであってリアルでないのが新派芸の泣き所だと私はおもう。

もう一つ。主税は、自分もやはり隼の力と異名をとっていた若い頃の秘密を、スリの万吉に打ち明けるくだりが、歌舞伎でいう”物語”に

なってしまった。

(物語とは、劇中で主役が過去の事件や心境の述懐など、周囲の者に物語る場面をいう『歌舞伎事典』より

対する松也のスリ万吉も微動だにしない歌舞伎芸になっている。

 

八丁堀 めの惣

この場は、新派劇団員だけでまとめたせいかアンサンブルがよい。久里子、八重子、春本由香の三人をめぐって廻りも充実している。

屋台外には、祭の若い衆、郵便屋、俥夫と、どれもカットなく、しかもその時代のことこまかな市井の空気がただよう。

感心したのは、大野梨栄の子守がしっかりとそれらしく芝居をしていることだ。

久里子のお蔦は、ことさら大芝居をしないで、師匠初代水谷八重子の型どおりに演じた。

「めの惣」の場には、長唄『勧進帳』の下座音楽が効果的に使われている。たとえば、妙子の髪を梳くときの「人の情の盃を」はあまりにも

有名。

「これやこの…」で花道から出る春本の妙子は、可憐で初々しい。

水谷八重子の小芳が電話を掛けに出掛けるときに「ついに泣かぬ弁慶も、一期(いちご)の涙ぞ…」にて戸口を出る。一番おいしいとこ

ろであり、小芳のしどころなのだが、芝居にコクがなく物足りない。

めの惣は田口守、髪結い女房に伊藤みどり。

 

静岡・馬丁貞造小屋

大きな三日月を背に月明かりの幻想的な場面である。

春猿の河野菅子が色気たっぷりで抜群にうまい。

終戦直後の話だが、夫のある河野菅子が長襦袢ひとつで早瀬主税に言い寄る場面にしたところ、GHQの検閲でカットされたとか。

春猿の菅子はれっきとした着物姿でも、長襦袢ひとつで言い寄るのに匹敵するくらいの迫力があった。

さらに、河野とみ子の高橋よしこが風情のある存在感で、ちょっと出るだけだが、この人が加わると新派らしい雰囲気が漂うのが不思議。

猿弥の河野英臣も手堅い。

こう書いてくると、全幕中この場だけがいちばんの出来で、皮肉なことに客演である澤瀉屋一門のチームワークのよさで舞台が盛り上が

った。

 

めの惣の二階座敷

『残菊物語』をコピーしたような大詰で、さしたることもない。

       

                               (2016・9・21  大阪松竹座  夜の部所見)

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完成度の高い舞台  こまつ座『頭痛肩こり樋口一葉』

2016-09-11 | 演劇

 

ぼんぼん盆の十六日に

地獄の地獄の蓋があく

地獄の釜の蓋があく

 

宇野誠一郎の軽快な旋律にのって歌われる序幕のすばらしさ。

井上ひさしの『頭痛肩こり 樋口一葉』の100回記念公演に引き続き、今回の再演は女優陣のアンサンブルもさすがで、今までにないみ

ずみずしい舞台に仕上がった。

 あまたある井上ひさしの評伝劇のなかでも、宮沢賢治を題材に舞台ならではの世界を展開した『イーハトーポの劇列車』(昭和55年)

とならんで傑作の一つではないだろうか。

 

毎年の盂蘭盆に舞台をしぼって一葉の暮らしを追い、樋口一葉の作品のエピソードがふんだんに劇中に塗りかさねている。『にごりえ』

『大つごもり』、『十三夜』、『たけくらべ』とか、それを観客が気がついているかどうかは疑問だが。 しかも脇筋に作者自身がつくりだした

八重とか吉原の花魁の幽霊をユニークな形で登場させてこれが非常に効果的に使われて面白い。その作劇の妙には瞠目する。

 

また、女が職業をもつことが難しかった時代に、筆1本で生きようとした一葉の極貧生活。この作品には幕開きから終始あの世からこの

世を見ているという、視点の面白さがある。つまり”死者の眼”とでも云おうか、それがいかにも現在的であり前衛的でもある。 

 

    

    

画像・上段左から (夏子)永作博美 (多喜)三田和代 (邦子)深谷美歩

下段左から (稲葉 鉱)愛華みれ (花蛍)若村真由美 (中野八重)熊谷真美

 

出演者でいえば、今回は夏子(一葉)の永作博美だけが新加入。前回は小泉今日子だった。

この役でいちばん大事な”憤り感”がよく出ていて好演した。

花蛍は難役だが、持ち役といわれた新橋耐子に代って若村真由美。この世で恨む相手を探し続ける元吉原の花魁というユーモラスな

幽霊をうまく作り出した。ただ少し動き過ぎの感があり、そのためか台詞が上ずったところがあるのが残念である。

井上ひさしが新たに設けた数奇な運命を辿る女・八重の熊谷真美は好演。一葉の小説の一節をしゃべりまくり。この役がいちばんニン

に合っていたように思う。

終幕でひとりこの世に残った妹の邦子が、仏壇を背負っていく場面での深谷美歩が秀逸である。印象深いシーンだった。

仏壇の物理的な重さではなく、生きているさまざまな人間たちの”魂”がそこに入っている重みという実感を見ていて感じた。

 

松井るみの簡潔な美術は、演技の空間を計算尽くした名装置。

栗山民也の演出は切れ味もよく、永年、井上作品を手懸けてきただけに、原点の空気を深く吸い込み、作者追悼の思いが色濃くにじ

み出た今回の舞台だった。

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【最新版】 『 パーマ屋スミレ 』(鄭義信・三部作)の最終章 ●県芸術文化センター●

2016-06-25 | 演劇

 

6月18日(土)に見た「パーマ屋スミレ」再演の感想をただいまアップ。その間大勢の人からアクセスがあったのは、2012年初演の記

を読んで頂いたようで、今回 鄭義信・三部作 としての再演分は、本日アップしましたので、よろしかったらごゆっくり見ていた

だければありがたいです。 

今回の再演はすばらしい舞台成果をあげたが、初演の舞台もエネルギーにみちあふれた熱い舞台でした

初演の東京・初台の新国立の小劇場では、客席の前列2番目で、舞台からの水除けのためのビニールが配られて、狂言回し役で出演

中の酒向芳さんの音頭で、リハーサルを2回もやらされた。

しかも私の隣席が笑福亭鶴瓶さんである。

「わしの弟子がこの芝居に出てますねん。『師匠ぜひ観に来てくれ』いうて毎日のようにメール攻めに合いましてな」

一面識もない私に、あのデカイ声でひとくさり訊かされた。

もう1つ。劇場のロビーで無理やりにマッコリと韓国産の海苔半畳ほど食べさせられたのである。

そういえば舞台で『マッコリは酒やなか。ジュースばい』というセリフがある。

あの濁り酒のような白い液は私の口にはなじまなかった。

 

   

                   

 さて再演の舞台に話を戻そう。(写真左から 南果歩、根岸季衣、村上淳)

『パーマ屋スミレ』の時代設定は1965年。何もかもが大きく変わろうとした時代であった。

「サユリスト」の流行語を生んだ吉永小百合、「「若大将」の加山雄三、『ヨイトマケの唄』で人気が再熱した丸山明宏(現美輪明宏)の

名前が本舞台でも飛び交う時代でもあった。

 

ストーリは省くが、重要なことは前2作と大きくちがっているのは、ドラマのラストは別離や旅立ちを希望して表現することが多かった

鄭義信作品には珍しく”留まる決断”を下すヒロインの描写になっていた。

先日亡くなった蜷川幸雄さんがよくいう「人生で何事も逃げるな!!」に通ずることかもしれない。

 

 

配役でいえば、『焼肉ドラゴン』で好演した千葉哲也が、再演では南果歩の夫役に転じて達者な演技を見せた。

その弟役の村上淳は唯一の新加入である。村上はモデル出身。テレビドラマ『ナイトヒーローNAOTO』にレギュラー出演中。

ひそかに兄嫁(南果歩)を慕っているという、ありきたりのパターンだが、通俗的な芝居をするでなく、「こがんおれでも、北(北朝鮮)の

社会主義建設に貢献でけるち」。このアリラン峠をはなれて北へ行く決心を固めている好青年をみごとに活写し、さわやかであった。

若松役を演じた長本批呂士も初演より役を掘り下げていたのには感心。

長本は新国立演劇研修所第3期生であり、今後が楽しみな俳優さんだ。

 

 

いつも思うことだが、東京・初台の新国立の小劇場はとてもいい小屋だと、かねがね思っている。

小劇場といえども、手狭な感じや窮屈さなく、それでいて舞台との距離感がとても近いため、出演者それぞれの抱える痛み哀しみが

ダイレクトに胸に迫ってくる。

云いかえると”いつも濃い芝居がみられる” のである。

このことを新国立劇場の芸術監督である宮田慶子さんに訊いてみたいと思うのだが、宮田さんとはよくお会いしながら、いつも居酒屋

トークに終わってしまうのである(笑)。

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癒されることのない疵と、見えない未来の中で…  鄭義信・三部作『たとえば野に咲く花のように』

2016-05-08 | 演劇

 

「チャブ屋」 ってご存知だろうか。

「チャブ屋」とは、かつて横浜にあって、主に外国人客の出入りするダンスホールと売春宿を兼ねたような店で、今回の舞台で

ある「エンパイアダンスホール」は、このチャブ屋をモデルにして、場所の設定を横浜から九州のとある港町に置き換えた。

当時、しばしばそこに出入りしていたという俳優の殿山泰司さんは「値は高いだけにオンナもうんとよかった。お女郎さんとは

比較にならない。同じ体を売る女でも、これほど差があるものか」と、その署に書いている。

 

 

さて、『たとえば野に咲く花のように』は、 1951年朝鮮戦争勃発の翌年、真夏。九州の港町の寂れた「エンパイアダンスホー

ル」が舞台である。

朝鮮戦争が突然起こったワケではないが、当時これが”糸へん金へん景気”ともいわれた「特需景気」をもたらした、という

時代背景がこのドラマのバックにある。

大戦の疵の癒えない男と女、特需に違和感を抱く若い在日コリアン、ふたたび機雷の除去に身を投じる男。祖国を離れて

生きる哀しみと、たくましく生きる人々の泣き笑い。

どんなにシリアスでも、笑えるし、どんなに笑えてもやっぱり人は哀しいね…… そんな鄭さんのお家芸で、いろんなことが詰ま

っているお芝居である。

 

 

右上から ともさかえ 山口馬木也 右下から 村川絵梨 石田卓也

 

 

 鄭義信作品には、それが何気ない場面でも「言葉のウラにある会話」がある。それが時代であったり、戦争であったり……

今回は初演とは配役も一新し、よりエネルギシュに、アンサンブルもよくなった。

 

ともさかえ(満喜): 凛とした美しさがあり、あきらめと希望をうまく表現した。

山口馬木也(康男): 小劇場の貴公子。舞台経験が豊富なだけに、演技力は抜群であり、口跡の爽やかなのがいい。説明

的な台詞もこの人が演ずるとリアリティを帯び、説得力がある。

大石継太(諭吉): 蜷川作品の常連組。初演では太一役。今回はオカマっぽいダンスホールの支配人役。はじめはナヨナヨ

したオンナっぽい仕草があったが、後半はフツーウの男に戻った。マツコまでいかなくとも、しぐさ、語り口が女性っぽく通して

ほしかった。この芝居のひとつのアクセントになるのだから。

石田卓也(直也): 初演は山内圭哉だった。芸達者な人だけに、掴みどころのない役を、あれやこれやと一人芝居の感があ

った。石田は何の気負いもなく素直にストレートに演じた。それが逆に共感もてたのは確か。康男の弟分で母親は実の父を

した、それだけしかホンには書かれていない難役である。

池谷のぶえ(珠代): 初演はベテラン女優の梅沢昌代。この役をかなり勉強したのが見ていてわかる。しかし梅沢昌代のコピ

-にすぎなかった。池谷の珠代を見せてほしかった。

黄川田将也(淳雨): 仮面ライダー出身のイケメンだけに、いささかの甘さはあるが、満喜の弟で血走った当時の憲兵くずれ

の若者を熱演した。もう少し翳の部分がほしかった。

 

 

今回の再演で感心した場面が二つある。

1つは、康雄の婚約者・あかね(村川絵梨)は、心変わりした康雄を憎みながらも、恋心を断ち切れずにいる。そんなあかねを

ひたすら愛し続ける直也。互いに出口を見付けられないあかねと直也の葛藤のシーrンが3場に用意されている。

床に倒れこんだ直也、あかねは直也に馬乗りになって、ボトルを直也から奪い、ラッパ飲みする。そして、こんどは、口移しで

直也に吞ませるスリリングなシーンは圧巻である。計算されつくした鈴木治美さんの演出のキレ味が光る。

もう一つはラストシーン。

そもそも鄭さんは、”虹”がお好きらしい。

満喜のせりふに、「虹の向こうに国が、あんた、あると思うと?」とある。

文学座の『大空の虹を見ると私の心が躍る』、兵演協の『ピビンパウェディング』にも”虹”が登場する。

つまり、鄭作品によくある、どちらかといえば叙情に流されやすいところを、ダンスホールのいつものメンバーが、珈琲パーティ

らしく円卓を囲み団らんの場で終幕にした、鈴木治美の演出の妙を評価したい。西欧演劇っぽい幕切れでもある。

ともかくワタクシ的には、、鄭義信・三部作の中で、いちばん好きな作品であると申し添えたい。

                      (2016・4・29  県芸術文化センターにて所見)                                       

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たくましく生きる在日コリアンの家族を再演 『焼肉ドラゴン』 -県芸術文化センター

2016-04-20 | 演劇

 

 

「世界遺産の地で生まれたのはボクだけじゃない」。『焼肉ドラゴン』の作者で、在日三世の鄭義信さんは胸を張る。

戦後、姫路城の石垣あたりに鄭さん一家ら在日の人たちがバラックを建て集住した。

この国有地を”買った”と言い張る父の姿を、鄭さんは自作に出てくる焼肉店主に投影した。

「古い話をしてもえぇですか…」。静かに自身の半生を語りはじめる父。「働いた、働いた……また働いた…」カタコトの日本語

がよけいに切ない。

日本語と韓国語が飛び交う舞台は、故国への「郷愁」のかけらさえない。

鄭さんが描くのは国や時代に置き去りにされた「棄民」の記録だ。

 

 

 

狭い空間、近い人間関係の中で展開していくドラマは初演よりも濃厚である。

全力で生きる在日コリアンのエネルギーゆえか、登場人物たちの姿はコッケイで笑いに満ちあふれる。

「ギャグは三回しろ!」という鄭さんのしっこい演出も手厳しい。

そのせいかドタバタが多すぎるきらいはあるが、そこは鄭さんの持ち味で吉本新喜劇まで落とさない。

しかも差別の哀しみ、別れを乗り越えて生きる家族には、一条の光が見えてくる舞台につくり上げた。

 

 

 

 「これは観劇でなく、追体験だ」という劇場側の宣伝コピーではないが、”近くて遠い国”、韓国と日本に横たわる問題は

いまも数多い.

最近は在日コリアン社会で日本に帰化する若者が増えているという。

両国の教科書に出ていない、在日の歴史に潜んで,あるものを見つめあう鄭さんの”目”こそ,意味合いをを持っていると思えて

ならない。

 

                                       (2016・4・9 県芸術文化センターで所見)

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