車輪を再発見する人のブログ

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とりあえず欧米の発明だと言っておけば間違いない

2009年05月08日 | 論理

アゴラで池田信夫氏が株式会社制度が純粋に西洋圏の発明だと書いているのを読んで笑ってしまった。池田氏が悪いわけでは全然ないのだが、またお約束の西洋中心主義かと思ってしまった。学問の世界では最近はかなりましになって来たが、知識人層においては現在も何でも西洋が優れている、優れているものはすべて西洋発祥だというような主張がまかり通っている。

論法はこうだ。株式会社でも何でもいいが、色々な側面や要因が積み重なって新しい出来事や制度、発明は成り立っていることが多くある。そんな時、何か「特定のもの」が絶対不可欠でそれがないと株式会社ではないと定義すると、「特定のもの」が最終的に加わって初めて株式会社が発明された事になる。だから、そういう風に定義すれば株式会社が西洋で発明されたということになるが、それと似たようなものは他の文明にもあったし、特にイスラム社会においては団体や集団的なものは大いに発達していた。だから、結局のところヨーロッパにおいて何からの新しい変更点があったとしても前の時代のものとまったく違ったものであるという訳ではないだろう。

このような画期的な発明はすべて西欧起源だというような論法はたくさんあって、地動説や国際法などもそうだ。地動説の内容の多くは実はイスラム科学においてかなり前からずっと知られていたことであったし、そもそもガリレオ・ガリレイがイスラム科学の観察データを元に研究をしていたことは紛れもない事実である。これは、ガリレオの業績を否定しているのではなく、結局は多くの発見や発明は前からの知識を受け継ぐ形でなされていると言う事実を指摘しているだけだ。それを、都合のいいように解釈して、すべてが西洋から始まっているかのように考えるのは間違っているだろう。

西洋の場合は少しでも何か付け加えるとすべてが新発見とされるのに対して、日本などの場合は少しでも前の発見を参考にしていると単なる改良としか見なされないようだ。これは日本に対する非難としてよくあるものであるが、独創性がない独自の新発見ではないというものだ。しかし、現実を見てみると新しい知見や独創的な発見がちゃんとある。ただ、前から何らかの知識を受け継いでいると相手にされないので発見だとされないだけだ。

このように、少しでも西洋で新しいことが付け加わったり、違った部分があったりしたら、それが絶対的に大事なものだとされるので、優れた制度や新発見のほとんどは西洋のものであると言っておけば大概は問題ない。だが現実には、その前後に様々な発見の過程があるし、また一つ一つの発見が違う形で影響を与えている。そういうことをちゃんと理解した上で、発見や発明を語っていく必要があるだろう。

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