拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  カメラという鏡器で自撮した男

2024年08月08日 | 東洋自分なり研究所

  毎回、毎回、自分の写真をアップする奴って何考えてるんだか・・・っていう突っ込みを自分に入れるべきだろうか。

 

  なんせ私は『Self−Portrait』写真で、音楽家・坂本龍一氏の『写楽・坂本龍一賞』を受賞した撮人家である・・・。(唯一自慢できるネタ)

  で問題は、『何故、私はセルフ・ポートレートを撮ったのか?』・・・ということなのだと思う。

 

  後年、禅修行をした体験から『自他不二』に行き着いた感があるが、禅以前に写真活動をしていた私が『自撮』に到った理由というのが

  禅で言うところの『己事究明』への無意識な欲求ではなかったか・・・? という当たりに腑に落ちる(不二に落ちる)のだ。

 

  『坐』という字に象徴される『人』が『二人』というのが、私の『自分』論・・・『自ずと分かれ、自ずと分かる』という形で

  『自我と無我の対話』が始まる形で『自他不二』が実現する・・・ことを表しているとすると

  『自分』という『意伝子』は、あらゆる方法で人に対し『自他不二』という『悟りの華』を開花させようとするのだろう。

 

  『ピストルという凶器で自殺した男』ではなく、『カメラという鏡器で自撮した男』へと、私の意伝子(無意識)は私を導いたが

  禅では『大死一番』という言葉〜 (自分の心の中にある執着心をすべてなげうち、心をむなしくして仏の道に徹しようとすること。

                   転じて、1度死んだものと思って全力を尽くすこと。)

  ・・・があり、禅を全く知らなかった若造の私が、無心になって撮った『自撮』は、案外『大死一番』としての『自殺』行為であったかもしれない。

 

              

               23歳頃。 自撮する私の頭の中心には『?』が占めていたが、そこに意識が及ばなかった・・・

                    しかし、『自撮』行為そのものに、『自分』究明の『道』が開いていたのだ。



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