写生自在10 写生の極致
藪ぞひに夕明りして鷭の水 迦 南
夕雲のさゝべり光り鶴舞へり 〃
かへり見る蓮田は遠く盛りあがり 〃
単純に見たままを叙しているだけのように見えますが、なかなかそんななま易しい句ではありません。
客観写生の極致を見せられているような、すごい句だとわたしは思っています。
どこがそんなに良いのかと聞かれても簡単に説明ができませんが、永年写生を心がけてきて己の到達点がいかに低いところにあるかを思い知らされる句、と言えば実感に近いです。
まず一句目、感心するのは初五の「藪ぞひ」です。でも、そこに藪があったのでしょう。在ったから詠んだのであつて、それ程のこととも思えない、という意見がありそうです。
いや、そうではないんだ、薮なんてものは実際には雑然と存在していて、これを句に取り込むようなことは思いも寄らないことがおおいのであって、これはコロンブスの卵なんだ。
それによって「鷭の水」の位置を確定し、さらに「夕明り」で時間を示し、夏の夕べの風景のもつある種の物悲しさを描出しているのです。
~に~して、という助詞の 斡旋によつて叙法に力強さを与えて、印象明瞭の句になっています。
二句目、これはリズムによって句に力強さを与えています。つまり、さゝべり、光り、舞へり、の三つの「り」です。
この三様の「り」は文法的には全く意味合いのことなる「り」なのですが、音で聴けば差違はなく、鶴の凛とした清潔感を描き出すのに貢献しています。
また三つ目の「り」は断定継続の助動詞で、鶴の舞っている状態がいまも継続していると言うことのなかに鶴の躍動感が彷彿としてせまってくるような効果を発揮しています。
三句目は措辞がどうこうというより、内容が印象深いですね。蓮田には言われてみれば確かにそういう一面があります。
盛りの蓮は正面から見ていて何か圧倒されるような存在感がありますが、この句はその後ろ姿を描写して印象深いです。「遠く盛上り」が利いています。
また今し方蓮を見てきての帰るさ振り返って見たらと言うことですから、そこには意味的な奥行きを付与しています。
迦南は過去の俳人ですが、句はけして古びていません。それはやはり事物の真を捉えているからでしょうね。