古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

迦南句を読む12    横井迦南句集より

2017-05-05 16:01:46 | 横井迦南

 写生自在10  写生の極致

藪ぞひに夕明りして鷭の水     迦 南

夕雲のさゝべり光り鶴舞へり      〃

かへり見る蓮田は遠く盛りあがり   〃

 

単純に見たままを叙しているだけのように見えますが、なかなかそんななま易しい句ではありません。

客観写生の極致を見せられているような、すごい句だとわたしは思っています。

どこがそんなに良いのかと聞かれても簡単に説明ができませんが、永年写生を心がけてきて己の到達点がいかに低いところにあるかを思い知らされる句、と言えば実感に近いです。

まず一句目、感心するのは初五の「藪ぞひ」です。でも、そこに藪があったのでしょう。在ったから詠んだのであつて、それ程のこととも思えない、という意見がありそうです。

いや、そうではないんだ、薮なんてものは実際には雑然と存在していて、これを句に取り込むようなことは思いも寄らないことがおおいのであって、これはコロンブスの卵なんだ。

それによって「鷭の水」の位置を確定し、さらに「夕明り」で時間を示し、夏の夕べの風景のもつある種の物悲しさを描出しているのです。

~に~して、という助詞の 斡旋によつて叙法に力強さを与えて、印象明瞭の句になっています。

二句目、これはリズムによって句に力強さを与えています。つまり、さゝべり、光り、舞へり、の三つの「り」です。

この三様の「り」は文法的には全く意味合いのことなる「り」なのですが、音で聴けば差違はなく、鶴の凛とした清潔感を描き出すのに貢献しています。

また三つ目の「り」は断定継続の助動詞で、鶴の舞っている状態がいまも継続していると言うことのなかに鶴の躍動感が彷彿としてせまってくるような効果を発揮しています。

三句目は措辞がどうこうというより、内容が印象深いですね。蓮田には言われてみれば確かにそういう一面があります。

盛りの蓮は正面から見ていて何か圧倒されるような存在感がありますが、この句はその後ろ姿を描写して印象深いです。「遠く盛上り」が利いています。

また今し方蓮を見てきての帰るさ振り返って見たらと言うことですから、そこには意味的な奥行きを付与しています。

迦南は過去の俳人ですが、句はけして古びていません。それはやはり事物の真を捉えているからでしょうね。


迦南俳句を読む11   横井迦南句集より

2017-05-02 22:14:38 | 横井迦南

写生自在9  これは写生句だろうか・・

麦秋の医者を床屋に探しあて  迦 南

 

迦南句集のなかで本当にこの一句だけが外の句と風合いを異にしています。類句は一句もないのです。

起承転結における「転」だけを、或いは4コマ漫画の3コマだけをぽんと示して、前後のことを作者は何も語らず、解釈はどうぞご勝手にと読者に丸投げにしているような句です。

この句はホトトギス誌上で虚子が採った句です。虚子は何を考えて採ったのか、それを考えてみるのはなかなか面白いことです。

わたしは長い間この句は自分の力では鑑賞不能の句として取退けてきましたが、ここで少し考えてみたいと思います。

この句を構成している言葉の内、重要なのは麦秋・医者・床屋の3語です。「医者を探しあて」このフレーズはこれ以上削りようがなくこれが基幹部ですね。

そうすると麦秋・床屋はその修飾語ということになります。そういうことをずっと考えてきたのですが、それは出口の見つからぬどうどう巡りであることに気付き、

ここは発想の転換が必要な場面であると思い至り、その挙げ句ある事に気が付いたのです。

そのある事とは…連句です。

これは連句における第三もしくは平句ではないかと思いつき、そしてだんだんそのことを確信するようになりました。

  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮

上の句は、芭蕉七部集の「冬の日」から抜き出した一句です。どうでしょう、4コマ漫画の3コマ目というスタイルですよね。これには前句があるのです。

 しばし宗祇の名を付し水     杜國

この前句の「付し水」から水の縁語である時雨が導き出され、さらに宗祇のような風流人ならば、時雨が降ってくれば、無理にも笠を脱いで濡れて歩くだろうと諧謔に転じたものです。

迦南の句をそういうものと理解すればそれには前句があったはずですが、それは失われています。

ここで、傍証となるのは虚子が連句を優れた文芸として推奨した時期があったということ。ホトトキスに連句が掲載されていた時期があり、高浜年尾など熱心な作者でした。

 迦南句の前句が見つかればこの疑問ははれるのですが・・・

 

 


迦南俳句を読む10  横井迦南句集より

2017-05-02 10:00:38 | 横井迦南

写生自在8 客観写生

蜜柑もぐ女の顔に葉青く   迦 南

仰向きの娘の顔青く懸煙草  〃

 

前回採り上げた句は写生の句でありながらも主観的語句の働きによっ

命力を付与した句でした。「七面鳥闊歩し棕櫚の花こぼれ」、「朱欒 

たる庭に驕れり薩摩鶏」の句における「闊歩し」、「驕れり」がそれに

あたります。ところが上記2句にはそういう主観語句がありません。

一句目は蜜柑の収穫作業をしている女性の顔をスケッチしたもので

す。

一枚の蜜柑の葉に遮られて女性の顔の一部が隠れて見えないという、

それだけの事を言っているのですが、ここには容易ならざる作句上の

技法があります。つまり虚子などによって唱えられた客観写生という方

法論ですね。

この句で言えば、顔の手前にある蜜柑の青い葉に焦点を当てれば女

の顔はぼやけ、顔に焦点を合わせれば手前にある蜜柑の葉がぼけて

見えるという、望遠レンズで撮った写真のような効果を句の上にもたら

しているのです。

では作者の主観はどこにあるかといえば、万象の中からその場面を切

り取った感性、心緒にあるのです。そういう句を詠む作者の心に読者が

共感するという構図です。

 

2句目、これは煙草乾燥室で煙草懸けの作業をしている女性を詠んだ

ので、1句目と共通するのは作業する人の動きがあること、色彩が青

いうこと、また人物が女性であることです。

この女性は煙草の青い把を干竿に仰向いて懸ける作業を繰り返しして

いるのですが、狭い室内はすでに煙草の青色に染まっていて、仰向く

たびに女性の顔は肌色を失って煙草色に染まるというのです。一幅の

油絵を見ているようですが、句の後ろには作者の複雑な感情がうごい

ています。ではそれはどういう感情かと訊かれても正解があるわけで

はなく、読者それぞれで良いのです。この句が良い句かどうかを判定

するのは読者の想像力次第ということになります。

わたしなどは、ついつい脇道の鑑賞をしてしまいます。

 花は霧島たばこは国分燃えて上がるはお原ハアー桜島

                     (鹿児島おはら節)

霧島盆地の気候風土はたばこ生産に適しており、香りのよい葉煙草を産し、江戸などで高級たばことしてもてはやされました。

 

この句は国分の煙草農家の女性を詠んだものと思います。時代は敗

色濃厚な戦時中で、統制経済の苦しい暮らし向きのなかでの詠句であ

ることを見落とすことはできません。

2句とも働いているのが女性であるというのは、けして偶然ではなく男

は皆戦場にかり出されて、労働力の主体は年寄りと女性にあったとい

う現実がありました。六十を超えた知識階級に属する迦南の心境が

が、詠まれているのかもしれないですね。