古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

俳誌「松」 木枯號 令和元年十一月号

2019-11-26 16:51:34 | 

 

主宰5句   村中のぶを

 近代洋画展2句
この秋や村山槐多の「裸婦」に立ち
秋光や松本竣介「立てる像」 

  円空展3句
菊挿して円空菩薩の笑まひかな
荒荒し木端佛や秋のこゑ
烏帽子の人麿像ぞ花すすき

 

 松の実集

 島 の 秋   野鴫孝子
花芙蓉校門前の船溜り
石榴の実貸し自転車に回る島
秋の色化石に島の歴史あり
商人の飾らぬ会話秋日和
島の秋迷はず選ぶ漁師飯  

 鰯 雲    野田貴美恵
小春日や百金巡り欒しかり
遠き日や月に兎のゐると母
秋時雨山籠り行く夫案ず
旅に来て宿下駄任す月の夜
英彦山包む空いっぱいの鰯雲

 秋 燈 下   園田篤子
秋燈下ずしりと重き裁ち鋏
霧うすれ輪郭線の駅舎かな
朝戸出の折戸に絡む大蟷螂
萩の尾や庭石一つぽつねんと
秋日和サイクリングの列続く

 竹崎季長墓所  西村 泰三
返り花コスモス野菊墓の径
玉すだれ鎌倉武士の墓囲み
返り花散るや古武士の墓五輪
柿たわわ門の屋根にも舵を乗せ
四体の神仏一字に木の実降る

 

 雑詠選後に  村中のぶを

蚊のこゑも亦追悼と聞きて侍す 阿部 紫流
「蚊のこゑも亦追悼と」、蚊にご縁のある故人ではなく、 蚊のひそかなる声も亦わびしく、作者は今は亡き人を偲んでゐるのです。副詞の亦はその思ひを強くしてゐます。  一体に蚊は人畜の血を吸ひ、蚊の声もよしとする人はゐないのですが、一句の作者の心情には郷愁のやうな思ひもして、「聞きて侍す」は式場の雰囲気をも伝へてゐます。

蝉に明け虫に更けゆく日となりぬ 伊織 信介
「蝉に明け虫に更け」とは、昨今の日日の明け暮れを実 に端的に叙してゐます。それもいはゆる古調を重ねての詠、 正に作者の手柄といふべく、そして「日となりぬ」は推移 する季節への感慨を表し、しみじみとした秋の到来を詠じ てゐるのです。

枯木めく老いの手足や秋暑し 橘 一瓢  
 高齢の痩躯を敢へて「枯木めく老いの手足」、と詠じた 作者の気概に、同世代の筆者として自づと一歩身が退けま す。それにいたづらに老いを嘆くのではなく、老境の自在 さに示唆を与へる句としても挙げるべきでせう。

とんぼうや山あり川あり風のあり 村田  徹
 一読してなにか購蛤の目線で詠じたやうな句、また確かに晴蛤はどこを飛んでも風情を呼ぶ昆虫でもあります。掲句は「山あり川あり風のあり」と句風壮大に叙して、特に結句の風のありは、生生とした蜻蛉の流動を読み取って余りあります。

朝露の牧に牛呼ぶ鐘の音  細野佐和子  
 吸ひ込まれるやうなすがすがしい点景の旬、長い夏を経 て、「朝露の牧に」、新たな「鐘の音」が印象的。

薪爆ぜ能たけなはの笛高く 白石とも子  
 作者は熊本の方、私の知る限りでは熊本の能舞台は生家より歩いて子供の足で十分位の、水前寺公園(成趣園)南隅の一角で、当日は桟敷が出来、紋付和装の翁姐の人達が 大半でした。「薪爆ぜ」は篝火の盛んなこと、そしてクライマックス の、シテの序破急の急の舞を、笛の高音と共に「能たけなはの笛高く」と詠出してゐます。先年この欄に都心に住む 方の、同じく薪能の句を挙げてゐますが、やはりこの様な 複雑な光景を一句に纏めることは気概の要る事だと、改めて感じ入ります。

真野御陵しのぶ風鈴吊れば鳴る  池原 倫子  
 佐渡に遠流の順徳帝を葬る真野御陵、作者は熊本より遠く訪れての詠、当地で求めた風鈴でせうか、「吊れば鳴る」に強い思ひ入れがあります。また同時に佐渡金山の羈旅の 句も見えますが、実に貴重な事だと思ひます。

寺の塀箒立てかけ彼岸花  松尾 照子  
 なんの屈折もない句、人通りの稀な或る寺の低い土塀に 等が立てられ、其所だけ彼岸花が咲き点ってゐる景、即ちありのままに自然の景を描写してゐます。しかし実はそれ となく秋といふ、季節の心情を伝へてゐることを私共は読み取るべきでせう。それにまた見逃し易い一句でもありま す。

魂を抜きとられたる大昼寝  勝 奇山  
 たぶん昼寝より目覚めた直後の、ぼんやりと気抜けした、 茫然自失の態を「魂を抜きとられたる」とは、実に言ひ得て妙です。それも「大昼寝」です。

負荷なしの水中歩行爽やかに 安永 静子
「負荷なしの水中歩行」、屋内の温水プールでの二景でせ うか、負荷なしはその場の用語でせうが、それを措辞とし てゐるのはまた作者の手柄です。それといふのも手垢のつ いた言葉ではないといふ事です。としても作者は投句で推察する限り大病の後と承知してゐますが、限られた生活の一片を斯うして一句に昇華されることは、見習ふべき事だと強く思ひます。

古竹を欄に竹林秋日影  菊池 洋子
「古竹を柵に竹林」、実際の有様を掲句は其の儘叙してゐます。辞書では実際の有様、真実のすがたを(実相)と有ります。所で師逝いて二十年余、旧居の庭に自らの染筆で (実相観入)の碑を残してゐます。むろん斯の言葉は斉藤茂吉の歌論の要諦をなす言葉です。宗像夕野火さんは碑を見て(こらあ、占魚さんの本音たい)と言ったのを私は覚えてゐます。私もまた全くその通りだと思ってゐます。それは亡師は常々(徹底写生 創意工夫)を唱道してゐたからです。句は「秋日影」の陰翳と共に、しんとした秋の日の竹の疎林を切に詠出してゐます。

水のきら日のきらさざめく竹の春  温品はるこ  
 一句の竹林は「水のきら日のきらさざめく竹の春」と、 青々とした水辺の竹林のさやぎを映出してゐます。水のきら日のきらと、このリフレインがなんとも印象的です。それも句が躍動してゐます。