何か良い話題は無いかと思案しててふと思い出したのがこの話し。
「そうだ、今日は(昨夜、思い出した)エルトゥールル号遭難事件が起きた日じゃないか。」
と、言うわけで、ちょいと書いてみようと思います。
ちなみに、タイトルの日土の「土」って何処だよ?って思う人も居ると思うので先に書いておくと、
「土」とはトルコの漢字表記「土耳古」の頭文字です。
これは、是非、多くの人に読んでもらいたい出来事ですね。
1889年7月、オスマン帝国(現在のトルコ)海軍の木造フリゲート艦・エルトゥールル号は、その2年前に日本の皇族・小松宮夫妻がイスタンブールに訪問されたことを受け、それに応える目的で練習航海も兼ね、日本へ派遣されることとなった。
11ヶ月の航海をへて、翌1890年6月に横浜へ入港し、彼らはオスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。
その後、船員の多くがコレラに見舞われ出航の目処がついたのはそれから3ヶ月後の9月に入ってからだった。
9月と言えば、日本では台風の季節、その上、エルトゥールル号は既に老朽化で限界が見えていた船だった。
日本側は台風の時期はやり過ごすようにと薦めたが、エルトゥールル号は出航してしまった。
その帰路で悲劇が待っているとも知らずに…
1890(明治23年)9月16日夜半、和歌山県の南端にある大島の樫野崎灯台の燈台守は強風と荒波の音をも上回る爆発音を聞いた。
それはエルトゥールル号の断末魔…
だが、その時点でそうと知っていたのは悲劇に遭遇した船員たちだけだった…
和歌山県沖で運悪く台風に遭遇してしまったエルトゥールル号は強い波風に大島へと流されていき、「魔の船甲羅」と呼ばれる岩礁地帯へと乗り上げてしまった。
船体は真っ二つに折れ、海水が機関部に浸水し大爆発を起こし、司令官オスマン・パシャ以下650名は海へと投げ出された。
船員のうちの一人が灯台の下へと流れ着いた。
彼は死に物狂いで40m程の崖を上り、灯台へとたどり着いた。
燈台守は、突然の闖入者に驚きしばし呆然としたが、その身なりからすぐに付近で難破した外国人である事を察し、直ちに手当てを施した。
その後、「万国信号書」を見せ、それを手掛かりに彼がエルトゥールル号の船員であることを知った。
エルトゥールル号の最後の声を聞いたのは、他にも居た。
樫野区民の一人が爆発音がした事を灯台に知らせるために風雨の中を走っていた。
その途中で、エルトゥールル号の船員と出くわした。
すぐさま、区民に通報し協力し合って介抱した。
冷え切った体を人肌で温め、ありったけの着衣を用意し、非常用に蓄えていた食糧を提供した。
男達は総出で他の船員達の捜索をした。
そして69名が一命を取り留めた。
だが、その後アリーベ艦長以下219名の遺体が収容され、オスマン・パシャ司令以下362名は遺体すら発見されなかった…
遺体は、ハイダール士官立会いのもと樫野崎の丘に埋葬され、翌年には県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。
その後、追悼祭が催され遭難し亡くなった人たちの霊を弔った。
エルトゥールル号遭難の報は和歌山県知事に伝わり、その後明治天皇に言上された。
天皇はただちに医師・看護婦を派遣させ、礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて故郷に送り返した。
この事は、やがて日本中に知るところとなり大きなニュースになった。
この事件は、日土友好の象徴的なエピソードであり、トルコの教科書にも載っていて向こうでは子供でも知っている話しです。
そして、このエピソードは後の出来事に大きな影響を及ぼしました。
山田寅次郎はこの事件を受け、協力者の支援を受け全国を回り義捐金を募った。
事件から2年後、彼は自ら義捐金を携えイスタンブールを訪れた。
民間人でありながら熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁することにまでなった。
この時、彼は皇帝から留まるよう要請を受けた。
彼は要請を受け、トルコに留まると貿易商店を開き、士官学校で日本語教師も務めた。
この時の教え子の中に、後にオスマン帝国を打倒しトルコ共和国初代大統領になるケマル・パシャの姿があった。
時は流れ1985年、1980年から88年にかけて起こったイラン・イラク戦争の只中。
サダム・フセイン率いるイラク軍はイランの首都テヘランに空爆を開始した。
そしてフセインは「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を 撃ち落とす。」と世界に向けて発信した。
在イランの外国人たちはこぞって、テヘラン空港を目指しイランからの脱出を図った。
その中には、215名の日本人が居た。
だが、どの飛行機も満席で彼らの席は無かった。
各国は救援機をイランに向かわせ自国民の救出を図っていた中、日本は素早い対応がとれず、遂に救援を出す事が出来なかった…
脱出する術を持たず生命の危機に晒されパニックに陥る邦人たち、タイムリミットは刻一刻と迫っていた…
そんな中、空港に二機の航空機が飛来し、邦人全員を救出すると成田へと向け飛び立っていった。
声明から38時間45分、タイムリミットまで残り1時間15分だった。
彼らを救出したのは、トルコ政府の指示によって派遣されたトルコ航空機だった。
だが、その時は誰も…日本政府さえ何故、トルコが邦人救出を行ってくれたのかわからなかった。
朝日新聞は、対トルコ経済援助効果によるものだと記事にした。
だが、後に駐日トルコ大使のネジアティ=ウトカン氏がその理由を述べた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
今日でもトルコはフィンランド、ハンガリーと並び世界一の親日国と言われている。
だが、日本はトルコをどれだけ理解しているだろうか?
その思いにどれだけ報いる事が出来ているだろうか?
残念ながら、日本はトルコの対日感情を悪化させるような出来事を多く起こしている。
今でも115年前の出来事を語り継ぎ忘れないで居てくれるトルコについて日本人はもっと彼らの事を知るべきではないだろうか?
幸いな事に近年、インターネットの普及とともに各国の交流エピソードが紹介され知れ渡り、その中にはエルトゥールル号遭難事件やイランの邦人救出も多くある。
トルコに理解を示す人たちが増えてきているといわれている。
このエントリーもそんなきっかけを生む場になればいいと思う。
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反日マスコミが伝えない親日の話
トルコ他、多くの国の親日エピソードが紹介されています。
極めて一部の反日国家や、売国政治家が謳う、日本は国際社会において孤立していると言う言い分は、所詮、特定アジアからの声でしかありません。
「そうだ、今日は(昨夜、思い出した)エルトゥールル号遭難事件が起きた日じゃないか。」
と、言うわけで、ちょいと書いてみようと思います。
ちなみに、タイトルの日土の「土」って何処だよ?って思う人も居ると思うので先に書いておくと、
「土」とはトルコの漢字表記「土耳古」の頭文字です。
これは、是非、多くの人に読んでもらいたい出来事ですね。
1889年7月、オスマン帝国(現在のトルコ)海軍の木造フリゲート艦・エルトゥールル号は、その2年前に日本の皇族・小松宮夫妻がイスタンブールに訪問されたことを受け、それに応える目的で練習航海も兼ね、日本へ派遣されることとなった。
11ヶ月の航海をへて、翌1890年6月に横浜へ入港し、彼らはオスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。
その後、船員の多くがコレラに見舞われ出航の目処がついたのはそれから3ヶ月後の9月に入ってからだった。
9月と言えば、日本では台風の季節、その上、エルトゥールル号は既に老朽化で限界が見えていた船だった。
日本側は台風の時期はやり過ごすようにと薦めたが、エルトゥールル号は出航してしまった。
その帰路で悲劇が待っているとも知らずに…
1890(明治23年)9月16日夜半、和歌山県の南端にある大島の樫野崎灯台の燈台守は強風と荒波の音をも上回る爆発音を聞いた。
それはエルトゥールル号の断末魔…
だが、その時点でそうと知っていたのは悲劇に遭遇した船員たちだけだった…
和歌山県沖で運悪く台風に遭遇してしまったエルトゥールル号は強い波風に大島へと流されていき、「魔の船甲羅」と呼ばれる岩礁地帯へと乗り上げてしまった。
船体は真っ二つに折れ、海水が機関部に浸水し大爆発を起こし、司令官オスマン・パシャ以下650名は海へと投げ出された。
船員のうちの一人が灯台の下へと流れ着いた。
彼は死に物狂いで40m程の崖を上り、灯台へとたどり着いた。
燈台守は、突然の闖入者に驚きしばし呆然としたが、その身なりからすぐに付近で難破した外国人である事を察し、直ちに手当てを施した。
その後、「万国信号書」を見せ、それを手掛かりに彼がエルトゥールル号の船員であることを知った。
エルトゥールル号の最後の声を聞いたのは、他にも居た。
樫野区民の一人が爆発音がした事を灯台に知らせるために風雨の中を走っていた。
その途中で、エルトゥールル号の船員と出くわした。
すぐさま、区民に通報し協力し合って介抱した。
冷え切った体を人肌で温め、ありったけの着衣を用意し、非常用に蓄えていた食糧を提供した。
男達は総出で他の船員達の捜索をした。
そして69名が一命を取り留めた。
だが、その後アリーベ艦長以下219名の遺体が収容され、オスマン・パシャ司令以下362名は遺体すら発見されなかった…
遺体は、ハイダール士官立会いのもと樫野崎の丘に埋葬され、翌年には県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。
その後、追悼祭が催され遭難し亡くなった人たちの霊を弔った。
エルトゥールル号遭難の報は和歌山県知事に伝わり、その後明治天皇に言上された。
天皇はただちに医師・看護婦を派遣させ、礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて故郷に送り返した。
この事は、やがて日本中に知るところとなり大きなニュースになった。
この事件は、日土友好の象徴的なエピソードであり、トルコの教科書にも載っていて向こうでは子供でも知っている話しです。
そして、このエピソードは後の出来事に大きな影響を及ぼしました。
山田寅次郎はこの事件を受け、協力者の支援を受け全国を回り義捐金を募った。
事件から2年後、彼は自ら義捐金を携えイスタンブールを訪れた。
民間人でありながら熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁することにまでなった。
この時、彼は皇帝から留まるよう要請を受けた。
彼は要請を受け、トルコに留まると貿易商店を開き、士官学校で日本語教師も務めた。
この時の教え子の中に、後にオスマン帝国を打倒しトルコ共和国初代大統領になるケマル・パシャの姿があった。
時は流れ1985年、1980年から88年にかけて起こったイラン・イラク戦争の只中。
サダム・フセイン率いるイラク軍はイランの首都テヘランに空爆を開始した。
そしてフセインは「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を 撃ち落とす。」と世界に向けて発信した。
在イランの外国人たちはこぞって、テヘラン空港を目指しイランからの脱出を図った。
その中には、215名の日本人が居た。
だが、どの飛行機も満席で彼らの席は無かった。
各国は救援機をイランに向かわせ自国民の救出を図っていた中、日本は素早い対応がとれず、遂に救援を出す事が出来なかった…
脱出する術を持たず生命の危機に晒されパニックに陥る邦人たち、タイムリミットは刻一刻と迫っていた…
そんな中、空港に二機の航空機が飛来し、邦人全員を救出すると成田へと向け飛び立っていった。
声明から38時間45分、タイムリミットまで残り1時間15分だった。
彼らを救出したのは、トルコ政府の指示によって派遣されたトルコ航空機だった。
だが、その時は誰も…日本政府さえ何故、トルコが邦人救出を行ってくれたのかわからなかった。
朝日新聞は、対トルコ経済援助効果によるものだと記事にした。
だが、後に駐日トルコ大使のネジアティ=ウトカン氏がその理由を述べた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
今日でもトルコはフィンランド、ハンガリーと並び世界一の親日国と言われている。
だが、日本はトルコをどれだけ理解しているだろうか?
その思いにどれだけ報いる事が出来ているだろうか?
残念ながら、日本はトルコの対日感情を悪化させるような出来事を多く起こしている。
今でも115年前の出来事を語り継ぎ忘れないで居てくれるトルコについて日本人はもっと彼らの事を知るべきではないだろうか?
幸いな事に近年、インターネットの普及とともに各国の交流エピソードが紹介され知れ渡り、その中にはエルトゥールル号遭難事件やイランの邦人救出も多くある。
トルコに理解を示す人たちが増えてきているといわれている。
このエントリーもそんなきっかけを生む場になればいいと思う。
推奨リンク
反日マスコミが伝えない親日の話
トルコ他、多くの国の親日エピソードが紹介されています。
極めて一部の反日国家や、売国政治家が謳う、日本は国際社会において孤立していると言う言い分は、所詮、特定アジアからの声でしかありません。