無防備地域宣言は危険を招く危険な宣言だと断固主張する、嘘つきが、せめてブログで正直な事を語る

戦時法であるジュネーブ条約を平時に扱う愚か者を断固糾弾する。

過ぎた理想より、実行力のある現実を

2005年10月11日 20時17分09秒 | 憲法
在日朝鮮人2世の思い 「九条」の志、消さないで

 岐阜・九条の会が今春初めて開いた対話集会。会場から在日朝鮮人二世の卞元守(ビョン・ウォンス)さん(68)=岐阜市長森岩戸=が「体調は悪いが、出掛けねばと思って来た」と話し出した。
 「私は日本で国民学校に入った。中学二年の時に新憲法ができ、これで日本でも生きられると思った。その後、在日に対しては裏切られたが、今の状況はもっとひどい。二千万人の命を奪い、二度と戦争しないと誓った憲法九条は日本にとっても大事な宝。過去を消したら未来も無い。日本人一人一人が、自分の問題として考えてほしい」
 その後も、平和に関する市民の集まりでよく見かけた。時に会場から、差別と貧困に苦しんできた「戦後体験」を、やはりとつとつと語るのだ。
 日中戦争が始まった一九三七年に韓国・慶尚南道に生まれ、四〇年に一家五人で下関に渡日。国民学校一年の時に島根に移り、高校に入ってすぐ肺浸潤で退学。「なべ底不況」で土木業などをしていた父は五七年、亜炭景気の可児郡御嵩町に移住。卞さんも合流、一時は東京に出たが、働く場も希望も無くして「帰国申請」。それも父の急病で断念し、そのまま岐阜に居着いて今日に至る。
 「クリスチャンの父から厳しく朝鮮語を教えられ、学校で『ヘン君』と間違って呼ばれて訳も分からず返事していた。軍国少年だったが、中学二年の時に『アリランの歌-ある朝鮮人革命家の生涯-』という本を読み、初めて民族の問題を自覚した。それまで、そんなことにかかわっていたら日本で生きていけないという意識しかなかった」
 聞けば苦労の連続だ。母は御嵩に来て間もなく自死。父も既に他界。教員、日雇い、廃品回収など何でもやって生計を立てたが、交通事故に作業事故、心臓病発病と災難続き。「苦労ばかりかけた」妻は四児の巣立ちを見届け去っていった。
 この間、愛知の「在日朝鮮人作家を読む会」に入り、機関誌「架橋」に詩や短編を書いてきた。
 だが、八九年、長距離運転手時代に書いた一文は最も広く知られることになる。「長崎市長への七三〇〇通の手紙-天皇の戦争責任をめぐって」(径書房編)に収録され「天皇の逝(ゆ)く国で」(ノーマ・フィールド著)にも再録された。
 〈今日を生きる人間にとって過去をおそろかにしていいことがあろう筈(はず)がありません。戦争というような犯罪を侵略国の国民として、今日、世界に向けて頬(ほお)かむりして素通りすることがこれからの歴史を担う生きた人間のためによかろう筈がありません。…〉(同書より)
 十月。体調がいまだ回復しない卞さんは言う。
 「日本人が真に民主主義や人権ということを自分のものにしていたら、こうはならなかったはず。日本が再び戦争できる国になろうとしている流れを止める力に少しでもなればと思って、今もあちこち出掛けている」
 (永井豪編集委員)


そんなに素晴らしい法律だと思うのなら、先ず祖国に採用するように進めてください。
このブログで何度も言っていることだが、現代の平和はパワーバランス等、諸々の事情の微妙なバランスの上にある。
だから、それがちょっとでも崩れたら即刻、火の手があがる。
相手より強くあれればよいが、それが無理でも常に「手を出せば痛い目を見る」「屈服させるには高くつく」そう思わせておく必要がある。
それが積極的に平和を獲る近道になる。
9条の理念は立派だとは思うが、日本は愚か、世界の手にも余る、過ぎた理想にすぎない。
厳しい現実の前では、ただの足枷だ。

積極的に平和をつくる方法として、まんが『無防備マン』が行く!と言うwebコミックで無防備地域についてなにやら電波を発信しているが、はっきりいって不足の事態に対応することは出来ない。
確かに、国際法で認められてはいるが、その国際法の拘束力を考えれば穴だらけの宣言だとよくわかる。
国際法なんて破られるためにあるようなものだ。
少なくとも、これまではそうだったし、今後はそうならないと言う保証は無い。