けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月15日 | Weblog
バチカン・ニュースペーパーは言う:

教皇はもはや手に御聖体を与えられないであろう

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

ジョン・ヴェナリ

今日の第二バチカン公会議後の混沌からのわれわれの教会の大いに必要とされている回復について話しているときに、一人の賢明な大司教は20年前こう述べられた:「われわれの未来はわれわれの過去のうちにある。」換言すれば、悪魔的方向感覚喪失の時代にわれわれのカトリック的な平衡を取り戻すために、教会の未来は過去の堅固な教えと実践を取り戻すことに存する。

数十世紀の時の経過を越えて合法的に発展してきた過去の教義的、道徳的そして典礼的な実践は第二バチカン公会議および第二バチカン公会議後のいわゆる諸改革のために猛烈な断絶を被った。

教会によって常に断罪されてきたエキュメニズム:キリストは政府や社会機構の上に君臨すべきではないと主張する近代的な教えは広く受け入れられるようになった。新しいプロテスタント化された典礼が信者たちに押しつけられた。

典礼上の革命の最も際だった局面の一つは手への御聖体という実践である。ファチマ・クルーセイダーはこの神聖冒涜に反対して繰り返し声を挙げてきた。さて、ローマからの二つの最近のニュースはこの悪用を抑制することにおける一つの慎ましい始まりであるかもしれないものを示している。

2008年初めに、バチカンのランジス大司教 Archbishop Ranjith は、ある書物への序文を書かれたが、その中で手への御聖体という実践そして聖体拝領を立って行うという実践の再評価を求めておられる。

次に、2008年の春の終わりにバチカンは、教皇ベネディクト十六世からその教皇ミサで御聖体を拝領するすべての人は跪いて舌の上に御聖体を受けなければならないであろうということを知らしめた。

ランジス大司教

2008年1月頃、リブレリア・エディトリーチェ・バチカーナ Libreria Editrice Vaticana (バチカンの公式出版社)はアタナシウス・シュナイダー(Athanasius Schneider)司教による Dominus est (主はいます)という書物を出版した。その中で司教は跪き、舌の上に受けられる御聖体拝領の問題を分析しておられる。バチカンの神の礼拝聖省長官マルコルム・ランジス大司教はその書物の序文を書かれた。

ランジス大司教はその序文を、旧約、新約両聖書を通じてすべて、跪くことが神の前に出る人々の適切な態度であるということに注目しながら、始めておられる。大司教はソロモン、聖ペトロ、そして黙示録における福音記者聖ヨハネの例を出しておられる。

ランジス大司教は次に、直接的な適用をしておられる:「教会においてさえ、御聖体の[パンと葡萄酒の]形色のうちに主が真にそして実際に現存しておられるという深い確信は、聖櫃の中にこの聖なる秘跡[御聖体]を保存するというますます増大する実践と共に、御聖体のうちにまします主を謙遜に礼拝するという態度において跪く実践に貢献した。」

大司教は次に手への御聖体の授与という現代の悪用のことを次のように述べられる。彼はこう書いておられる:「...手への御聖体について話すとき、その実践が、大昔からの実践を変え、そしてその実践が、全教会のための通常の実践となりながら、公会議後にすぐに教会のいくつかの場所に不当にまた素早く導入されたということが認識されなければならない。」

大司教はこう言っておられる。「この実践の理由が何であれ、われわれはこの実践が実行されてきたところで世界的に起こっていることを無視することはできない。この態度は、以前の実践が崇敬の感覚をよりよく守って来たのに、聖なる御聖体の形色に対する尊敬の態度を徐々に弱めることに貢献して来た。その代わりにそこに起こったのは、記憶の不安にさせるような欠如と不注意の一般的精神である。われわれは、あたかも並々ならぬことが何も起こらなかったかのように、しばしば自分たちの席へと戻る聖体拝領者たちを見る...多くの場合、人は霊魂における神の現存の証拠とならなければならない真剣さの感覚と内的沈黙を見分けることができない。」

ランジス大司教はシュナイダー司教に、「御聖体を跪いて舌の上に受ける実践が長い時の間に教会においてどのように受け入れられて来たかを明らかにする」歴史的・神学的な考察に焦点を当てることを推賞しておられる。

ランジス大司教はこう結論される:「今はそのようなよい実践を再検討し、再評価し、そしてもし必要ならば、Sacrosanctum Conciliumによっても、また[第二バチカン公会議の]教父たちによっても要求されず、ただ数カ国におけるその非合法な導入の後にのみ受け入れられた現在の実践を放棄する絶好の機会である。今、かつてより以上に、われわれは、教会の生命を強化し、そしてそれを、この状況が引き起こし続けている信仰の危険な歪曲のただ中で、防衛するために、御聖体の形色におけるキリストの真の現存に対する深い信仰を新たにするよう信徒たちを助けなければならない。」

教皇のキリストの御聖体の祝日のミサ

今年の5月22日に聖ヨハネ・ラテラノ・バジリカの外で行われた教皇ベネディクト十六世のキリストの御聖体の祝日のミサの間に、二人の案内係は祭壇の前に跪き台を置いた。そして選ばれた聖体拝領者たちはすべて跪き、教皇の手から舌の上に御聖体を受けた。

6月15日の南イタリア港湾都市ブリンディジでのミサで、教皇は再び、信徒たちに、御聖体を跪いている間に舌の上にのみ与えられた。

それから6月26日に、バチカンの公式新聞オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙は教皇つきの新しい儀典長、モンシニョール・グイド・マリーニとのインタビューを掲載した。

モンシニョール・マリーニは、教皇の前では跪いている間に舌の上に御聖体を受けることが教皇の典礼での規範となるであろうと指摘された。

モンシニョール・マリーニは、跪いて舌の上に御聖体を受けるとことは御聖体における(キリストの)真の現存の真理」を強調し、「信徒の信心を助け、そして神秘の感覚をより容易に導入する」と説明された。

彼はこう言われた:司牧的言って、現代における御聖体の聖性と神秘のこれらの局面を「強調し、そして回復することは緊急を要することである。」

オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙とのインタビューの中で、モンシニョール・マリーニは、この実践がすべての教皇の儀式において規範となるかどうかを尋ねられ、こう答えられた。「私は本当にそうだと思う。」

モンシニョール・マリーニは法律的な見地から、手の中に御聖体を配ることは「今は免除(indult)」、一般的な要求からの一つの義務免除「にとどまっている」と指摘しておられる。彼は御聖体配布の伝統的な実践の教皇による採用は「全教会のために正当な規範の力を強調することを目的としている」と説明されている。

真のカトリック神学および典礼に従って回復される必要のある多くのことが教会にはある。聖マキシミリアノ・コルベが正当にも「無原罪である方[マリア]の敵」と呼んだ今日のエキュメニズムを除去する特別の必要性がある。

われわれはただローマからの諸々の報告が、聖体拝領のために立つという実践、そして手による聖体拝領の実践が抑制される - そしてゆくゆくは廃止される - 真の第一歩を示すものであることを希望するだけである。

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