どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。
えけれじやのまんだめんと 第五:ぱすくはぜんごにたつときえうかりすちやのさからめんとをさづかり奉るべし。
「公教会の六つのおきて」では「第三 少なくとも年に一度は御復活祭のころに聖体を受くべし」となっており、順序が違うが内容は同じである。これは前期版のどちりいなきりしたんでも現在と同じ第三に挙げられている。
ぱすくは(Paschoa=復活祭)前後にえうかりすちや(Eucharistia=聖体)のさからめんと(Sacramento=秘跡)を受けるべしという教会の掟、定めである。このまんだめんとをどのように考えるべきかという弟子の問いに対して師匠はこう答えている:「たつときえうかりすちやに御あるじぜずすきりしとおはします事をわきまへ、たつとみ奉るほどのちえあるきりしたんはいずれもぱすくはのぜんごにびすぽ(Bispo=司教)の御はつと(法度)にまかせ一年に一たびえうかりすちやをうけ奉るべしとのぎなり。しかれどもそれはこんひさんをきき玉ふぱあてれの御どうしん(同心=同意)をもてのぎなるべし。」
過ぎ越しの食事の時「弟子たちの食するに、イエズス、パンを取り、祝してこれを裂き、彼らに与えてのたまいけるは、取れよ汝ら、これ、わが体なり、と。 また杯を取り、謝して彼らに与え給い、みなこれをもって飲みしが、イエズス彼らにのたまいけるは、これ衆人のために流さるべき新約のわが血なり」(マルコ 14;22-24)。 パンとぶどう酒の形色・外観の下にイエズス・キリストの真の体と血の犠牲がミサの度毎に新たに繰り返され、信徒はそのえうかりすちや・御聖体を拝領することによってイエズス・キリストと一致し、そして霊魂の糧とする。教会は信徒に最低限一年に一度は復活祭の頃に聖体を受けることを命じる。それはキリストが「わが肉を食せずわが血を飲まざれば、汝らのうちに生命を有せざるべし」と言われたからである。
御聖体の中には実体的にイエズス・キリストの御体と御血がましますだけでなく、イエズス・キリストの御霊魂と神性がましますからして、われわれは聖体拝 領によって神御自身を受け奉るわけである。確かにキリストは最後の晩餐の席で弟子たちとともに食事をなさったのであるが、これは単なる食事・会食ではな い。そのときに上に述べたように、キリストはパンとぶどう酒を御自分の体と血と霊魂と神性とに変えられたのであり、それを弟子にお与えになり、弟子たちに 「汝らわが記念としてこれを行え」と言われて、えうかりすちやをさからめんととして行う権能を与えられた。
プロテスタント諸派はこのえうかりすちあがさからめんとで あることを否定して、単なるキリストと弟子たちとの会食の記念としての聖餐式に変えてしまった。そこで食されるパンとぶどう酒はもはやキリストの体と血、 霊魂と神性ではなくて、単なる会食のための食物・飲料でしかない。第二ヴァチカン公会議後はカトリックの中でも、聖体の中に真のイエズス・キリストがまし ますことを信じない人々が増加しており、ある世論調査ではアメリカで半数近いカトリック教徒がそのことを信じていないという結果が出ているそうである。彼 らはもはやカトリック教徒ではなくなっているのであろう。きりしたんはこの点でもまた現代に現れたならば驚倒するであろう。