「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも
行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを
試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)
どちりなきりしたん:われらをけうあく(凶悪)よりのがしたまへと、此こころはあにまのあた(仇)となるとが(科)と、しきしん(色身)のわざはい(災い)をものがしたまへというこころなり。
Sed libera nos a malo. この世の生活においてわれわれは諸々の試練や危険、誘惑にさらされざるを得ない。人間を抑圧し人間に脅威を与える諸々の悪から解放してくださるようにわれ われは神に嘆願しなければならない。この嘆願・祈願は人間が苦境に立たされ苦難を経験するときには自ずと発せられるもので、ある意味では人間に本性的に具 わっているものである。われわれはそのような時にのみ神の名を呼ぶ。「苦しい時の神頼み」は本末転倒である。
ぱあてるのすてるのこの祈願はそれゆえに祈りの最後、第七番目に来ているのである。まず先に、み名の聖とされんこと、み国の来らんこと、み 旨の地に行なわれんことをわれわれは願わなければならない。それは神の御意志である。苦しいときだけ身勝手に神に助けを求めるのは筋違いである。イエズス は山上の説教の中で「ゆえに、まず神の国と、その義とを求めよ、しからばこれらのもの、みな汝らに加えらるべし」(マテオ6:33)とわれわれが希求すべ きものの順序を教えられた。われわれは災厄、試練、危険、悪からの救助を願う場合にも、まず神の光栄ということを念頭において願わなければならない。
そもそもわれわれにとって最大の悪・危険・災厄は神からの離反、永遠の救いからの排除ではないか。この世の諸々の苦難がわれわれを襲うとし ても、救助を求め、避難所として逃れるべき場所は神の懐以外にはないのである。神のみ旨を果たすことにおいて神に希望を置くこと、それが信仰である。激し い迫害の中できりしたんが抱いた神に対するこの絶対の信仰は彼らを殉教の栄冠にまで導くほどに純粋であった。
悪よりの救いの祈願は最終的には神の敵であるサタンからの解放の祈りである。サタンは人間に罪を犯させ邪悪な者とした張本人である。サタン は神と神の特別の被造物である人間に対して憎しみを抱き永遠に戦いをしかける悪そのものである。この悪より救い給えと祈ることはすべての人間にとって必要 なことである。しかも悪魔との戦いにおいて神や善なる天使の助けなしにはその勝利はおぼつかない。サタンは人間が自力に頼って戦える相手ではない。キリス トはそのことをよく御存知の上で、神に信頼してこの悪からの解放の祈願をするように教えられたのである。
サタンによって支配されることが人間にとっての悪であり、罪である。われわれはそのようにサタンによって支配され彼の支配の下で神の敵対者 となるのである。人間にとっての外的な諸々の悪も確かにわれわれを痛めつけるが、しかし、内的・霊的な悪つまり罪よりもわれわれを傷つけるものはない。わ れわれはそれを恐れ、それから解放してくださるように祈らなければならない。なぜなら永遠の救いがそのことにかかっており、人間の永遠の救いを妨害するこ とが永遠の滅びの中にいるサタンの最終的な目的だからである。
どちりなきりしたん:われらをけうあく(凶悪)よりのがしたまへと、此こころはあにまのあた(仇)となるとが(科)と、しきしん(色身)のわざはい(災い)をものがしたまへというこころなり。
Sed libera nos a malo. この世の生活においてわれわれは諸々の試練や危険、誘惑にさらされざるを得ない。人間を抑圧し人間に脅威を与える諸々の悪から解放してくださるようにわれ われは神に嘆願しなければならない。この嘆願・祈願は人間が苦境に立たされ苦難を経験するときには自ずと発せられるもので、ある意味では人間に本性的に具 わっているものである。われわれはそのような時にのみ神の名を呼ぶ。「苦しい時の神頼み」は本末転倒である。
ぱあてるのすてるのこの祈願はそれゆえに祈りの最後、第七番目に来ているのである。まず先に、み名の聖とされんこと、み国の来らんこと、み 旨の地に行なわれんことをわれわれは願わなければならない。それは神の御意志である。苦しいときだけ身勝手に神に助けを求めるのは筋違いである。イエズス は山上の説教の中で「ゆえに、まず神の国と、その義とを求めよ、しからばこれらのもの、みな汝らに加えらるべし」(マテオ6:33)とわれわれが希求すべ きものの順序を教えられた。われわれは災厄、試練、危険、悪からの救助を願う場合にも、まず神の光栄ということを念頭において願わなければならない。
そもそもわれわれにとって最大の悪・危険・災厄は神からの離反、永遠の救いからの排除ではないか。この世の諸々の苦難がわれわれを襲うとし ても、救助を求め、避難所として逃れるべき場所は神の懐以外にはないのである。神のみ旨を果たすことにおいて神に希望を置くこと、それが信仰である。激し い迫害の中できりしたんが抱いた神に対するこの絶対の信仰は彼らを殉教の栄冠にまで導くほどに純粋であった。
悪よりの救いの祈願は最終的には神の敵であるサタンからの解放の祈りである。サタンは人間に罪を犯させ邪悪な者とした張本人である。サタン は神と神の特別の被造物である人間に対して憎しみを抱き永遠に戦いをしかける悪そのものである。この悪より救い給えと祈ることはすべての人間にとって必要 なことである。しかも悪魔との戦いにおいて神や善なる天使の助けなしにはその勝利はおぼつかない。サタンは人間が自力に頼って戦える相手ではない。キリス トはそのことをよく御存知の上で、神に信頼してこの悪からの解放の祈願をするように教えられたのである。
サタンによって支配されることが人間にとっての悪であり、罪である。われわれはそのようにサタンによって支配され彼の支配の下で神の敵対者 となるのである。人間にとっての外的な諸々の悪も確かにわれわれを痛めつけるが、しかし、内的・霊的な悪つまり罪よりもわれわれを傷つけるものはない。わ れわれはそれを恐れ、それから解放してくださるように祈らなければならない。なぜなら永遠の救いがそのことにかかっており、人間の永遠の救いを妨害するこ とが永遠の滅びの中にいるサタンの最終的な目的だからである。