けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

グレゴリオ聖歌と『悪魔の最後の戦い』 (4)

2011年08月30日 | Weblog

1)グレゴリオ聖歌:

 Dominica III. post Epiphaniam - Communio

http://www.youtube.com/watch?v=gfYKpQsSn4w&feature=related


2)『悪魔の最後の戦い』 (4):序論

毎年ファチマには数百万人の巡礼者たちが来続けている。上の写真はファチマ大聖堂前の広場の上空からの眺めである。教皇パウロ六世(白い丸印の中におられる)がファチマの聖母の最初の御出現の50周年記念日、1967年5月13日にファチマを訪問されたとき、100万人以上の人々がそこにいた。同じように、教皇ヨハネ・パウロ二世が1982年、1991年そして2000年の5月13日にそこを訪問されたときも、巡礼者の大群衆がファチマにやって来た。

一つの大きな犯罪がカトリック教会と世界全般に対して犯されてきた。この犯罪の犯人たちはカトリック位階において高い役職を持っている人々である。彼らの名前はこの発表の途中で紹介されるであろう。

この犯罪の犠牲者はあなたとあなたの愛する人々を含む。その犯罪の諸々の結果はすでに破局的であった。そしてもし責任を持っている人々がすぐさま彼らの現在の進路から転じないならば、その最終的な結果はそのさまざまの相において黙示録的なもの以外のものではないであろう。実際、非カトリック教徒や信じない人々でさえ、今日世界が黙示録の方へと向かっているという感覚を持っている。この犯罪を犯すことはこれがその通りである主要な理由である。

われわれに関係しているその犯罪の主題は一般にファチマのメッセージとして知られている。1917年に神の御母はポルトガル、ファチマの聖人のような三人の子どもたちに教会と人類にとって最も緊急性をもった一つのメッセージを委ねられた。それは三ヶ月前に予告され、7万人の人々によって目撃された一つの前例のない公的な奇跡によってその真正性が保証されたメッセージであり、その未来の世界の諸々の出来事についての預言がこれまでに文字通り実現されてきたメッセージ、カトリック教会の最高の権威によって信ずるに相応しいものと公に宣言されたメッセージ、彼自身が繰り返しそのメッセージの黙示録的な諸要素を仄めかされた現教皇を含む歴代諸教皇によってその本物であることが証言されたメッセージである。

犯罪の性格は、まさにわれわれの眼の前でその不安にさせる諸々の預言が実現されているときでさえ、このメッセージの真正性を隠し、故意に誤って伝えそして否定する、1960年以来の一つの組織的な試みである。後に証明するように、ファチマのメッセージを抹殺するこの試みは他ならぬカトリック位階のまさに頂点にいる教会人たち -- 病に苦しみ、だんだん弱って来ておられる教皇を取り囲んでいるバチカン当局に所属する人々 -- によって犯されてきたのである。

あらゆる犯罪は、犯人が狂気ではないと仮定すれば、一つの動機を持っている。この犯罪に係り合いになっている人々は狂気ではない。そしてわれわれは彼らが一つの動機を持っていると信じる。動機は時には証明することが困難であろうけれども、動機の証拠はこの場合にはたくさんある。

犯人たちが教会の意識的な敵であると仮定することなしに(彼らのうちのある者はそうであるかもしれないけれども)、証拠に基づけば、その犯罪のありそうな動機はこうであると思われる:犯人たちは伝統的なカトリック的意味において理解されたものとしてのファチマのメッセージの内容が第二バチカン公会議(1962-65)以来なされた決定、カトリック教会の方向全体を変えるために彼らが揺らぐことなく遂行してきた決定とは共存し得ないということを認識している。この方向づけの変化は(もしそれが可能であるならば)カトリック教会を、その地上的な活動を霊魂の永遠の救いへと向けている神的な制度からすべての諸宗教あるいは全然無宗教の人々の間の一つのユートピア的な世界「兄弟愛」の建設における人間的な組織へと変えることであろう。

教会のこの新しい方向づけは、それが、すべての民を弟子とし、彼らを父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよという教会の神的委託に反するものであるような幻想的な世界の理想像を追求するものである。この新しい方向づけは、実際、ほとんど300年間教会に反対して陰謀を企んできたあれらの組織化された勢力、そしてその諸活動が教会史の中で他のどの単一の主題に関して発せられたものよりも多くの教皇の諸宣言において暴露され、断罪されてきた勢力が大切にしてきた目標である。

このことは、教会自身がその神的委託をこれまでに公式に断念したということを言っているのではない。なぜなら、こういうことは時の終わりまで地上でのカトリック教会の生き残りに関するわれらの主の約束に従えば不可能なことだからである。しかし第二バチカン公会議以来、教会の人間的諸要素の多くが世界に対する現代的な、より政治的に正しいアプローチのために、実質的にはその委託を追求することをやめたということは否定できない。われらの主とファチマの聖母の約束のことを考えれば、この実験の終結とカトリック教会の回復は不可避である。しかし、このことが起こるまで、多くの霊魂が永遠に失われるであろう。そしてわれわれは教会の歴史における最悪の危機 -- われわれが論証するであろうように、ファチマの聖母御自身によって予告された危機 -- を目撃し続けるであろう。

その犯罪の直接および付随的両方の証拠は、それが教会の方向を変えるこの努力とその試みの破滅を招く諸結果を正確に予告しているファチマのメッセージの一部の意図的な隠蔽にまで拡がるということを示している。一般にファチマ第三の秘密として知られているメッセージの隠された部分はこのように、この犯罪を犯してきたまさにそれらの人々によって為された決定と取られた行動についての天からの告発状であろう。

証拠は、その犯罪がまたファチマ・メッセージの最後の生き残りの証人、シスター・ルチア・ドス・サントスへの不当な干渉にまで拡がっているということを示している。シスター・ルチアは、犯罪者たちの教会の新しい方向づけの追求の邪魔になるメッセージの真正の内容に関する彼女の不変の証言を変更させるための努力において秘密の「インタビュー」や他の諸々の形式の圧力にさらされてきた。

これがその犯罪であり、そしてこれがその動機である。さてその両方のことを証明することがわれわれの義務である。われわれは以下のページにおいて、彼らの罪を証明するために、被告人たち自身の陳述、他の証人たちの証言そして非常に多くの他の証拠を用いながら、そうするように努力するであろう。そしてわれわれは、証拠を提示し終えたとき、あなた、読者に判決をくだすように求めるであろう。法的な意味における判決ではない。なぜなら、われわれはわれわれ自身で教会法上の法廷を構成する権利を持っていないからである。むしろ、われわれが意味しているのは、われわれがここに主張している犯罪の徹底的な調査のための、そして教会における最高の権威:すなわち教皇ヨハネ・パウロ二世、あるいは場合によっては彼の後継者、によるその起訴のための、しかるべき根拠が存在しているという、信徒のメンバーたちの良心的な信念を代表する評決である。


そこで、われわれはあなたに、申し立てられた犯罪の一種の起訴に等しい評決をくだすように求めるであろう。われわれはまた、教会における正しい苦情をなくすために教皇に直接そして直ちに請願する神から与えられた信徒の権利 -- 第一バチカン公会議によって不可謬的に決定され、教会法によって保証された -- に一致して、その起訴状を教皇に手渡す際にあなたの助けを求めるであろう。これらの要求をするに際して、われわれが念頭に置いているのは、「もし信仰が危険に曝されたならば、目下の者は公的にさえ、彼の高位聖職者を非難すべきである」という聖トマス・アクィナスの教え、ならびに教会の諸々の神学者や博士たちの一致した教えである。

われわれが提示しようとしている証拠を考察する祭に、われわれはあなたに一つの何よりも大切な原理を守るように求める:すなわち、聖トマスが教えているように、事実に対してはいかなる議論もない contra factum non argumentum est. という原理である。もしある陳述が事実に反するならば、そのとき地上のいかなる権威もそれを信じることをわれわれに期待することはできない。このように、例えば、あるバチカンの高官が、カトリック教徒はエッフェル塔が聖ペトロ広場にあると信じなければならないという布告を発したとするならば、そのことはそれをそうするのではないであろうし、そしてわれわれはその布告を拒否する義務があるであろう。なぜなら、事実はエッフェル塔はパリにあるからである。そして事実に反する議論は存在しない。それゆえに、誰も、彼の権威がどんなものであれ、明らかに事実に反している何かを信じるように要求することはできない。

しかしながら、あなたが見るであろうように、ファチマに関係している犯罪は、主として、教会において高い地位を享受している若干の人々による、単純に事実に反するファチマ・メッセージの理解 -- 例えば、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献が、ロシアのいかなる言及も意図的に避けていながら、世界を奉献することによって達成され得るというこれらの人々による主張のような -- をカトリック教徒に押しつける一つの試みなのである。

教会自身が教えている(第一バチカン公会議およびヨハネ・パウロ二世の回勅Fides et Ratio 「信仰と理性」参照)ように、信仰は理性と衝突しない。カトリック教徒はカトリック教徒であるために、彼らの理性、彼らの常識の使用を差し控えることを期待されてはいない。それは信仰ではなくて、盲目 -- ファリザイ人の盲目 -- であろう。そしてファチマのメッセージについても同様である。バチカンのある人々がどんなことを好もうとも、教会はわれわれに、メッセージが実際に何を意味しているかが問題であるときに、ナンセンスなことを信じることを期待してはいない。

そこで、われわれはあなたに、あなたの常識を用いること、開かれた精神を保つこと、証拠を冷静に考察すること、そしてそれから決定することを求める。実際、あなたは決定しなければならない。なぜなら、もしわれわれが行った告発が真であるならば、そのときこの場合に危険に曝されているのは数百万の霊魂(おそらくあなた自身の霊魂を含む)の救い、教会の福祉、そしてこの人間性の時代における文明そのものの生き残りに他ならないからである。他のいかなる理由でも、神の御母はファチマのメッセージをわれわれのますます危険にさらされた世界に伝えられなかったのである。

                           2005/04/14 三上 茂 試訳

http://www.d-b.ne.jp/mikami/dfbintro.htm


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