けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2014年02月09日 | Weblog

「嵐の前の静けさ」(4)

The Fatima Crusader, Issue 56, Winter 1998より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

蛇の頭を踏みつぶす創世記3:15の女性は彼女の汚れなき御宿りの最初の瞬間から悪魔に対して勝利された祝せられたおとめマリアです。われらの主は十字架の上から「女」として祝せられたおとめに言及されました。(ヨハネ 19:26)われわれはまた黙示録の第12章において語られた「女」を持っています。創世記第3章においてはこう書かれています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

「彼女はお前の頭を砕く」

起源約430年頃に亡くなった聖ヒエロニムスは今でもなお偉大な聖書学者です。彼は聖書を原典の霊感を受けたギリシャ語とヘブライ語からラテン語--今日ヴルガタと呼ばれている版--へと翻訳しました。ヴルガタには教義上の誤りはないと教えているのはトレント公会議です。聖ヒエロニムスは、今日の聖書学者とは違って、ヘブライ語原典のテキストを持っていました。聖霊諸教父たちのうちの初期の教父の一人はユダヤ教の改宗者で、彼の父親はラビでした。彼はラビたちが旧約聖書のテキストを変えたと指摘しています。それは非常に容易なことです。もしあなたがヘブライ語を読んだこと、あるいは見たことがあるならば、そう言えます。ヘブライ語は子音の間には母音の間にあるようなしるしがほとんどありません。それでヘブライ語においてはその言語のゆえにテキストを変えることは非常に容易です。そしてこの学者が言ったことはユダヤの学者たちが、キリストの死後百年あるいは二百年頃に、聖書のテキストを変えたということです。というのは、諸々の預言がナザレトのイエズスがメシアであるということしか意味しえないということがますます明白となったからです。イエズスはキリストです。そしてそれゆえに、自分たちの民に対して支配力を維持するためにユダヤの学者たちはテキストそのものを変えたのです。こう言っているのはその父親がラビであった一人のユダヤ教からの改宗者です。聖ヒエロニムスはテキストを損ないませんでした。そして彼はそのほかにももはや利用できないテキストを利用することができました。それらは時間が経つにつれて拭い去られました。そして聖ヒエロニムスは「彼女はお前の頭を砕くであろう」と言うことによって、その節を翻訳しました。その意味は女が砕くであろうということです。そしてそのように、ファチマの聖母が「ただ私だけがあなたたちを助けることができます」と言われるとき、ある意味において、神でさえわれわれを助けることがおできにならず、「ただ私だけが」助けることができると言っておられるのです。それがほとんど冒涜のように聞こえる、そして確かにプロテスタントの人にはそのように聞こえるでしょうが、しかし私はそのことをあなたたちに説明しましょう。

ある特別の恵みはただ聖母を通してだけ来る

聖アウグスティヌスはわれわれにこう言っています。神がその愛と憐れみにおいてわれわれに与えようと望まれるある種の好意、ある種の恵みがある。しかし、神はわれわれがそれらに相応しくないということを知っておられる。そして神はまた、われわれがそれらに値する、ないしそれらを自分で獲得すると考えて非常に高慢になることもあるということをも知っておられる、と。われわれにとってそうすることは非常に容易です。私はこの考えは非常に理解しやすいと思います。そしてわれわれは、自分たちはある特別の賜物--よりよい知性、あるいは見栄えのよさ、魅力、体育上の能力、話す能力等々のような--を持っているために他の人々よりも優れた者として自分自身について考える傾向のある他の人々(おそらくわれわれはそれを自分たち自身のうちにさえ認めました)を見ました。われわれの賜物について気づいたり知ったりすることは間違いではありません。しかしわれわれがこれらの能力を、あたかも前もって神から得たのではないかのように、それらをわれわれ自身に帰するとき、それは間違いです。聖パウロが指摘しているように、もしあなたが最初にすべてのものを神から受け取ったのでなかったならば、なぜあなたはあなたが持っているものに栄光を帰するのですか。しかしわれわれは不遜で高慢な人々を見出します。そしてそのようにそれは非常に一般的な感情です。

 そのように、神はわれわれがこれらの特別の恵みを得るとき、われわれがそれらを自分自身に帰するだろうということを知っておられます。それで神は一つのジレンマを持たれるのです。神はこれらの恵みをわれわれにどのように与えようとなさるのでしょうか。神はわれわれに与えることを望まれます。そしてなおそれらの恵みがわれわれにとって高慢の機会となったり、われわれが実際あるよりもよいと考えることへと導いたりすることがないようにされます。もしわれわれがこの高慢に陥るならば、われわれはぜひなんとかしてよりよくなろうとする試みを止めるでしょう。というのは、われわれは「ああああ、私は何をしたことだろう」それで「われわれはよくあるためにもっと辛いことをする必要はない」と独り言を言うでしょう。ですから、神はここで一つの問題を持たれるのです。神はなおその大きな恵みをわれわれに与えたいと望んでおられます。聖アウグスティヌスは神が一つの道を見出されたとわれわれに告げています。神がただ諸聖人の功績と取りなしを通じてだけお与えになるある種の好意、ある種の恵みがあります。他の道はありません。ですから、われわれがそのような大きな恵みを得るとき、われわれは容易にこの高慢の罪に陥ることはありません。

世界平和は絶対的にただマリアの汚れなき御心を通じてだけ来るでしょう

ファチマにおいてわれわれは世界の平和はマリアの汚れなき御心に委ねられたと告げられています。ですから世界における平和は聖母の功績と恵みを通じて、そして人類によるその同じことの承認以外の他の仕方で起こらないでしょう。ですから、聖母は真実にそして文字通り「私だけがあなたたちを救うことができます」と言うことができるのです。彼女は実際御自身について、この場合に第三人称で話されました。「ただ彼女だけがあなたたちを救うことができます。」しかし、彼女はロザリオの聖母について話されていました。「ただ彼女だけがあなたたちを救うことができます。」

なぜ彼女はそう言うことがおできになるのでしょうか?それはわれわれがこの恵みを彼女の取りなしを通じて以外には、彼女の功績を通じて以外には、そして彼女の信用を得ることを通じて以外には得ることができないからです。

ファチマは最初の聖書の預言の実現です

そしてそのように今われわれは、神が人類の始まりのときに「彼女はお前の頭(悪魔の頭)を砕くだろう」(創世記 3:15)と約束なさったことをもっとよく理解することができます。もちろん、祝せられたおとめがなさることは何でも神の力によって為されます。それにもかかわらず、神は彼女を蛇の頭を砕くための一つの道具として用いておられます。もしあなたが聖書における女についての最初の預言、創世記3:15「彼女はお前の頭を砕くだろう」について考えるならば、あなたは、彼女がわれわれの世紀に約束なさっている聖母の勝利が起こるときに、その預言が実現するだろうということを見ることができます。彼女は蛇の頭を砕かれるでしょう。そしてわれわれの最初の両親[アダムとイヴ]に約束された勝利はわれわれの時代に実現されるでしょう。

聖書において女について話された第二の時はカナの婚宴においてです。祝せられたおとめはその祈りによって一つの恵み、予定されていなかった一つの奇跡を得ておられます。それは彼の時ではありませんでした。しかし彼女の要求でイエズスはそれを彼女にお与えになりました。あなたたちはファチマのメッセージのうちに恵みと憐れみを見ます。われわれはこの恵みに値しません。われわれはこの憐れみに値しません。聖母の祈りにおいてそれは達成されるでしょう。しかし彼女でさえ、勝利が来るとき信用がそれに属するところに与えられるために何が問題であるかを人々に理解させるためにわれわれから何かあるものを必要とされます。しかしそれは恵みと憐れみを通じてであって、われわれの側での功績を通じてではないでしょう。ですから、人々がわれわれに必要なものはただより多くの祈りです、われわれはもっと多くのロザリオを必要としている、われわれはこのことをもっと多く持たなければならない....などと言うとき、われわれがそれをもっと多く持つべきであるということに、私は同意します。しかし、われわれがこの特別な恵みを得るのは、これらすべてのことを為すわれわれによってではないのです。それはわれわれのうちの誰かが為すことができるどんなこと、そしてわれわれ皆が一緒に為すどんなことをも超越しています。

聖アルフォンソは、一人の人間、一人の男あるいは一人の女にとって、彼ら自身の魂を救うために彼ら自身のよい業と神との協同によって十分な恵みを得ることは偉大なことであるとわれわれに告げています。それは彼が言っている偉大なことです。彼はある人が単に彼自身の魂を救うばかりでなく、彼の兄弟たち、姉妹たち、隣人たちの魂を救うために十分な恵みを得たときはそれはなお一つのもっと偉大なことであると言っています。そして彼の言っていることは聖人たちがしていることです。しかし、彼はすべてのことの中で最も偉大なことは一つの被造物、一人の人間が全人類を救うために十分な恵みを得るときであり、そしてそれをしたのはただ祝せられたおとめだけである、と言っています。

彼女はすでにこれらの恵みを得られました。しかし、それらの恵みを適用するために、神は彼女が信頼を得られるまではそれらの恵みを適用させられないでしょう。ですから、それは教皇が公的に荘厳に(カトリックの全司教と一緒に)特別にロシアをマリアの汚れなき御心に奉献するという従順と信仰のこの行為に取って置かれているのです。ですからわれわれは他のどんな仕方でも平和を持つことはないでしょう。われわれはそれに値しません。しかし、神はそれをわれわれに与えようと望んでおられます。神は祝せられたおとめが信用を得られることを望んでおられるのです。ですから、それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。1930年代半ばにシスター・ルシアがそれを得ようと試み、そして教皇たちがそれに注意を払わなかった七年後に、彼女はイエズスに、なぜ奉献のその行為を通じて以外の仕方でイエズスがロシアを回心させ、世界に平和をもたらされないのか、と尋ねました。イエズスは娘よ、あなたは誤解しているとは仰いませんでした。それらは実際条件ではありません。それは本当は必要ではありません。彼はそれについては何も言われませんでした。彼が言われたことはこうでした。「後になって教会が私の聖心への信心につけ加えてこの汚れなき御心への信心を建てるように、マリアの汚れなき御心の勝利として、私の全教会があの奉献を認めることを私が望んでいるからだ。」言葉を換えて言えば、イエズスはこう言っておられるのです。「あなたは正しい。」「あなたは私を正しく理解している。」「われわれは世界の中に平和を持たないであろう。」「教皇が奉献をされないかぎり、そして奉献されるまでは、われわれはロシアの回心を持たないであろう。」「私はまさに、この恵みが人類に与えられるのは汚れなき御心の功績と取りなしを通じてであるということを全教会が認めることを望んでいるから、この恵みを取って置いている。」ですから、それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。あなたたちはそのことをシスター・ルシアの著作のうちに見るでしょう。あなたたちはそれをフレール・ミッシェルやフレール・フランソワの著作のうちに見るでしょう。

「女」の勝利

そしてそのように「女」は十字架の上から語られました。「女よ、あなたの子を見なさい。」「息子よ、あなたの母を見なさい。」聖書の「女」は祝せられたおとめマリアにほかなりません。彼女はマリアだと同定されています。創世記3:15の「女」は十字架でイエズスの弟子たちの御母マリアと同定されています。彼女は聖書の「女」です。彼女は黙示録12:1の「女」です。彼女はローマにおける1946年の承認された御出現においてご自身を明らかにされました。そして彼女は「私は黙示録の女です」として御自分の名を与えられました。彼女はどのようにもっとはっきりと明らかにされることができるでしょうか?彼女は買ったばかりの七インチのナイフを持った、そして教皇の心臓をそれで刺そうとしていた一人のプロテスタントに御自身を明らかにされました。そして彼女は彼を回心させられ、御自身の身元を明らかにされました。彼は教皇を反キリストと見ていた原理主義的プロテスタントでした。この男は今日もまだ生きていると思います。彼は八十歳台です。彼の名前はブルーノでした。そしてそこには一つの小さな聖堂、黙示録の聖母の聖堂があります。教皇パウロ六世は1967年にファチマに行かれたとき、私が世界中に持ってまわっている聖母像を祝福されました。1967年5月13日ファチマに到着された日に、彼はSignum Magnum--「大いなるしるし」という意味ですが--として知られている彼の回勅を発表されました。彼の回勅は「私は太陽をまとった一人の女を見た」という言葉で始まっています。それは啓示を意味するギリシャ語であるアポカリプス(黙示録)から取られています。彼の回勅は、ファチマの聖母が「太陽をまとった女」という聖書の預言の実現にほかならないということを明らかに示しています。あるいは最も少なく見積もっても、明らかにそれを暗示しています。それは非常に短い回勅で、教皇が書かれた最も短い回勅のうちの一つです。私はあなたたちにその最初の一節のためだけにでもその回勅を読むことをお勧めします。

第三の秘密 -- 信仰は危機に瀕している

ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密は聖書のうちに含まれているとわれわれに告げておられます。シスター・ルシアはある日こう言いました。「もしあなたたちがその秘密を知りたいならば、それは黙示録第八章から第十三章のうちにあります。」

教皇パウロ六世はファチマの聖母は太陽をまとった女についての聖書の預言の実現であるとはっきりと示唆されています。そしてそのように、あなたたちがこのすべてを一緒に結びつけるとき、われわれが背教の時代に生きているということは明らかです。

われわれは「信仰に関する報告」というラッツィンガー枢機卿の書物の内容を「信仰は世界中で危機に瀕している」というこの一節によって要約することができます。書物の残りはただそれが何からなっているかを説明しているだけです。

聖省の長官である枢機卿が信仰が世界中で危機に瀕していると言っている書物を書いたということは1540年聖省の創立以来現在に至るまで決して知られたことはありませんでした。ラッツィンガー枢機卿は1984年にそうしました。彼は1984年にインタビューに応じました。短い版が1984年に公表され、書物は1985年に出版されました。

われわれはここでもう希望がないとあなたたちに告げているのではありません。しかし、われわれはここでまたあなたたちに誤った希望を与えてはなりません。あなたたちは事実をありのままに見るべきでしょう。

歴史的展望

われわれのうちの多くの者はただ一日一日を生きているだけですから、われわれを助けてくれる歴史の展望を持っていません。ときどきわれわれの住んでいる時代を認識することはわれわれにとって困難です。しかし私がインドにいたとき(私はインドにはこれまでに五回行きました)、一人のインドの医師と話したことを覚えています。ところで彼女はパウロ六世が「フマネ・ヴィテ」(Humanae Vitae)を書かれたとき、その委員会に属していました。彼女は教会の教えに同意していた委員会の少数派の一人でした。そして教皇は最終的に彼の回勅「フマネ・ヴィテ」においてその委員会に従われました。彼女は異教徒のインド人たちでさえ中絶の罪を犯さないということを指摘しました。それは中絶する人が絶対的に誰もいないと言っているのではありません。しかし、中絶はそのように自然に反するものです。それは神が人間の心の中にお定めになった法に反しています。啓示は確かに助けてくれますが、しかしあなたたちはそれが悪であるということを知るために啓示を必要としません。現在インドに住んでいる九億の人々のことを考えてみるならば、彼らが一人当たり中絶によって殺すそのわずかの人数において、われわれを恥じ入らせます。

部分出産中絶がそうである残酷な殺人についてあなたが読むとき、もしあなたが部分出産中絶が何であるかを知らないならば、赤ん坊が吸引機によってその脳を吸引されたことによって処置される以前にはその子供は、おそらく一インチの頭部が母親の内部に残されていることだけを除けば、完全に生まれるのです。

今はわれわれにとって何らかのわれわれの無感覚を失う時期であり、われわれの周りを見ることを止め、ただ他のすべての人がそれを受け入れているがゆえに、他のすべての人がOKであるとして受け入れているものを受け入れることを止める時期です。今はわれわれにとってわれわれが一つの危機である歴史的瞬間に生きているということを理解する時です。それは危険でもあり、同時にまた機会でもあることを意味します。われわれにとっては、われわれがこれらの事柄に同意しないとしても、もしわれわれが何もしないならば、われわれの両手にこれらの子どもたちの血を持つというとてつもない危険が存在します。ただわれわれの声を上げないことだけによって、他のすべての人がそれをそのように受け入れているから、今あるように、すべてが正常であるかのように選挙を行うことによって、おそらくわれわれの両手に彼らの血を持ったことの受領証が来るでしょう。

最も異常な奇跡

聖母はわれわれが異常な時代にいるということをわれわれに警告しておられます。世界の始まり以来一つの奇跡が三ヶ月も前に予告されたことはかつてありませんでした。ファリサイ派の人々が天における一つのしるしとして自分たちに与えることをわれらの主に求めたその奇跡をわれらの主は彼らに与えることを拒否されました。彼は彼らに、あなたたちはヨナのしるしを見るであろうと言われました。しかし、ファリサイ派が求めたまさにそのしるしは聖母がわれわれの時代にわれわれに与えられたしるしです。それは以前には決して為されなかったことです。

それはわれわれが異常な危険にあるからであり、時代が異常であるということ、われわれがファチマのメッセージにおいて神がわれわれに与えられた大きな憐れみを理解しなければならないということです。(続く)


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