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天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

ヒヨドリバナ

2008年10月01日 | 日記・紀行

 

今日から十月、神無月である。神無月とは日本全国の神社に祭られている神々が、この月に出雲大社に集まるためにいなくなることに由来するそうだ。その真偽はとにかく、そこに古来からの土着的な宗教の起源について何らかの真実が語られていそうで奥ゆかしい。

陽暦ではただの10月で数字の順位が示されるだけで味も素っ気もないけれど、歴史的にはそのほとんどを陰暦の下に暮らしてきた日本人にとっては、当然のことながら、その呼称の裏には人々の季節感や生活感、自然観が籠められている。

陰暦の月呼称と別称
http://www.taka.co.jp/okuru/engi/inreki01.htm

はるか昔、出雲地方から日本全国に散らばった豪族たちが、自分たち氏族の出自と団結を確認するために、年に一度自らの出身地に帰り集結するという、民族の遠くはるかな記憶がそこに刻み残されているのかもしれない。

山畑へ行く。青紫蘇がいよいよ薹がたち実を付けはじめて、もはや柔らかく薫り高い若葉がなくなり始めて残念に思っていたところ、青紫蘇の実がいい佃煮になり鉄分も豊富であることを教えられた。それで、ざるに一杯ほど摘んで帰ることにする。

自宅に戻ってから、その青紫蘇の実を採っていると、指先が濃い茶色に染まるほどだった。それは葉や実に含まれる鉄分によるものかもしれないと思った。そして、教えられたとおりに、油と醤油と酒と味醂で――あいにく切らしていたので黒砂糖を代わりに、佃煮にした。

美味しいご飯に合う。鉄分の不足しがちだといわれる日本の女性におすすめかもしれない。今年の夏、この青紫蘇は冷や奴などにもよい香りを添えてくれた。

また、それほどたくさん育ったわけでもないけれど、小さな畑の一角から葉生姜を引き抜いて帰った。洗ってそれに八丁みそを付けて食す。ささやかな山の幸であり味わいではある。
はたして、いつの日か本格的に農に打ち込める日は来るのだろうか。それも神様の思し召ししだいか。

何をきっかけに見て知ったのか、アフリカの若い娘から詐欺メールが届いていた。さまざまなところから送られてくるスパムメールに現代人の精神状況の一端が知られる。最近の犯罪も「ネット文明」と決して無関係ではないと思う。それは人間を獣性に駆り立てる。

注文していた『HYMNS  ANCIENT  &  MODERN  NEW  STANDARD』が届く。

[短歌日誌]①2008/10/01 

山合の道を歩いているとき、白い素朴な花に出くわした。一見フジバカマの風情で一瞬歓んだけれど、色が白くて赤みがない。花先が絹綿のようでふっくらとしているからオトコエシのようにも思われない。家に帰ってからネットで調べてみると、どうやらヒヨドリバナと言うらしい。その呼び名は可愛いけれど、花の姿とどうしても結びつかない。ただ、暮れなずむ山野の中で、その野草の花の白さだけが印象に残った。

 

初秋の人影もなき山野辺に名も知らぬ花の潔く白けし

 

 


過ぎゆく時は

2008年09月17日 | 日記・紀行

九月に入ったとはいえまだ月半ばである。残暑も強い。それでも道々のいたるところに秋の兆しが見て取れるようになった。すでに曼珠沙華の蕾や花をいくつ見た。コスモスの咲き始めているのも見た。ふたたびめぐり来る、時。去りゆく、時。

                                                       最後のトマト

時間そのものは無限であるかもしれないが、私たちに与えられた時間には絶対的に初めと終わりがある。人類史上いまだ誰一人として例外はない。いや、おそらくただ一人あったかもしれないがわからない。

人間の時間の単位は、おそらく60年。しかし、バッタや蛙にはそれぞれ時間の尺度が異なるだろう。それは相対的なもので、どちらが長いとか短いということもできない。

初夏あれほど耳をざわめかせた蝉やカゲロウの寿命も短いけれど、かといって人間の寿命も、天体の寿命に比べれば、まばたきの一瞬にすぎない。

                                         

見事に成長した稲田を見る。背に子を負った小さなバッタの母子を見て憐れみを感じる。 

                                   

背丈より大きくなったイチジクの木。 もう、主がいなくてもひとりで育ってゆける。                       

685     今日ぞ知る    思い出でよと     ちぎりしは  

                      忘れんとての    情けなりけり   

西行もまた別れの恋のつらさを深く知った人であったことがわかる。                                              

ニュースで、歌手の日野てる子さんが肺がんで9日に亡くなられていたことを知った。63歳。高校でフォークダンスを踊った同級生に似ていた。忘れえぬ時の記憶のために。

日野てる子  - 道

                 -1965 夏の日の思い出

 


 


夏の終わり

2008年09月10日 | 日記・紀行

 

畑に行く途中に見る稲畑も、いよいよ色づき始めた。真夏の頃にあの覚めるように青かった田んぼも、時間の移ろいに色づきはじめた。稲穂もいよいよ重そうに頭を垂れる。

とりわけ夏の八月は、終戦記念日や広島長崎での原爆投下を回顧する特別の月でもあった。また今年の夏は、お隣の中国で北京オリンピックが開催された。ちょうど四十四年前に日本が東京オリンピックを契機に高度経済成長に入り、国際経済の仲間入りを本格的に果たしていったように、これからは中国が政治的に経済的に台頭して来ることは紛れもない事実としてある。

開催日時を八という数字にこだわったり、共産党幹部の指示で歌唱少女とは別の女の子を舞台に立たせるなど、共産国家の裏にある、いかにも面子にこだわる権威主義の一面も見せた。開会式も閉会式もテレビで観戦したが、台頭する中国と、一方に国際的にも存在感を失いつつある日本と、いろいろ考えさせられることも多かった。すべて自業自得とはいえ国の衰退に立ち会うのは耐えられない。「すべての国民は自分にふさわしい政治しかもてない」というのは、西洋のことわざである.

この夏は思い出深い夏になったと思う。祭りの後のように、今はすっかり枯れ葉になったキュウリやトマトに夏の盛りの面影はもうない。生命力にあふれた暑い夏のことを思いながら、枯れ葉や枯れた茎を取り払う。

照りつける夏の陽の下で、十分に熟れたトマトをもいで口にしたときに舌に残った甘みの記憶。トマトのあの特有の香りもまだ消えてはいない。やがて夏の終わりとともに、生命の宴も終わりの準備を始める。

その一方で、遠く冬を見てニンジンや大根の種を蒔く。たった一ミリか二ミリにも足らない小さな種子から、あの大根やニンジンの姿が現れて来るはずである。すでに青い小さな可愛い芽生えがある。人間すらあの小さな卵子と精子から成長してくるのだから。自然の「概念」の神秘に打たれる。季節も宇宙も生命も全て回帰してゆく。八月の夏もすでに遠い。

理性のかけらもない現在の虚しい日本の政局主義政治を離れてしばし「芸術?」の世界に遊ぼう。欧米の歌曲にすら夏の情感を共鳴するようになってしまったのは、西洋に毒された私たちみじめな敗戦国戦後世代の宿命か。いったい誰に日本の夏の新しい物語を語れるか。

 

Looking For The Summer 

All summer long 

Chris Rea : On The Beach

Sweet Summer Day...

 

 


ソルジェニーツィン氏とサイクリング

2008年08月04日 | 日記・紀行

ソルジェニーツィン氏が亡くなられたそうである。若い人の中にも、この小説家の名前もすでに知らない人が多いだろう。スターリン時代にスターリンを批判したという理由で収容所に送られ、そこで流刑生活を過ごした。そのときの体験を小説にして、後にノーベル文学賞を受賞することになる。

スターリンを批判したフルシチョフがその後を継いでも、毛沢東中国との軋轢はさらにいっそう激しさを増したし、その結果、アメリカ、中国、ソ連と世界が三国志まがいの様相を呈し始めていた頃である。そうした東西冷戦のはざまにあった私たちの青年の時代に、やがてソビエト連邦の国内外から、体制批判の声が、海外に、この日本までも漏れ伝えられた。ソルジェニーツィン氏らの作品が、地下で人々に回し読みせられていることも報じられていた。

有名無名の多くの体制批判家が輩出する中で、物理学者のサハロフ氏やこの文学者のソルジェニーツィン氏らが代表格ではなかっただろうか。共産主義政治体制という、ソルジェニーツィン氏に言わせれば、「収容所群島」とまで化した政治体制をうち破るには想像を絶する苦難があり、流血もあった。彼らの血と汗なくして今日のロシアもないにちがいない。そして、北朝鮮や中国、アフリカのスーダンなど、私たちに知らされているか否かを問わず、世界の至る所で抑圧政治が現在もなお存続しているといわれている。

東西冷戦のさなかで、ソルジェニーツィン氏のノーベル賞など、政治的な思惑が働いていなかったわけではない。そうした影響の中で『収容所群島』など文庫本で氏の作品も読もうとした記憶はあるが、結局まともに読んだのは、『私のソルジェニーツィン』とか題された、元恋人か元夫人かの女性の手になる作品だった。ソルジェニーツィンとともに過ごした青春の日々や、友人たちとの交流を回想し綴った半ば伝記のような作品だった。彼女が深くソルジェニーツィンを愛していることだけは伝わってきた。

その本の細部はほとんど記憶から失われている。けれども、ただ印象に残っているのは、彼らロシア人たちが祖国の広大な草原で、短い夏の日々の余暇を悠々と楽しんで過ごしているらしいことだった。その女性やソルジェーニツェンら友人たちが、時には哲学的な議論も交わしながらサイクリング旅行を楽しんだ若い日々のことも懐かしく描写していたことを記憶している。

ロシアの夏については、いずれも文学作品からも深い記憶を刻まれている。アンナ・カレーニナなどはアイススケート場の冬の場面もさることながら、草いきれの激しい広大な農地を、農奴たちとともに草刈りに汗を流す光景の描写などを通じて、まだ見ぬロシアの大自然にも親しんだ記憶がある。

そうしたロシア文学の影響を受けた芥川龍之介などには、ロシアの小説家ツルゲーネフやトルストイたちの夏のある日の交友をモデルに描いた『山鴫』という印象深い作品を残している。これも教科書で読んだことがあり、ロシアの夏のイメージに影響している。(『
山鴫』)

やがて生活の中にサイクリングをはっきりと位置づけて、自分の頭の片隅に意識的に少しでもそれを刻むきっかっけになったのも、たぶんその頃に彼女とソルジェニーツィンの伝記を読んでから以降のことだったように思う。もちろん、自転車そのものは二十歳代の頃から使い慣れていたし、吉田川端のアパートから出雲路橋のたもとまで通って行くときも、青年時代以降も自転車から離れたことはない。車を持ってからも自転車は手放したことはない。その中でもやはり懐かしく思い出すのはのは当時に私が乗っていた自転車で、後輪の脇に籠が取り付けられてあった。最近はこういうタイプの自転車は見なくなったけれども、若い頃の記憶とともによみがえってくる。いつ処分したのかすらももはや思い出せないけれど。

                                            

たまたま昨日、自転車を新しく手に入れて、嵯峨野の広沢の池から嵐山をめぐって走ってきたばかりである。最近は変速機もずいぶん進歩しているらしく、スピードもよく出る。自転車は今もなお、お気に入りの乗り物である。ただ、道楽家でもないから、自転車に凝るつもりはなく、少しはスポーツタイプにはなったけれど、これまで私の乗ってきた普通のありきたりの自転車でしかない。それで十分である。

それにしてもロシア人やヨーロッパ人の夏の休暇の過ごし方などを伝え聞くと、人間にとって本当に豊かな暮らしとはどういうものだろうという思いもする。その一方で、日本車の販売台数がアメリカでGMなどのビッグ3の総計を超えたなどというニュースを聞くと、複雑な思いになる。

久しくマスコミのニュースから消えていたソルジェニーツィン氏の動向について、記事を眼にしたのはほんのつい一週間ほども前だった。氏が過去の自分の作品の推敲や集大成に専念しているというニュースで、ソルジェニーツィン氏の健脚ぶりを想像していたばかりである。だからニュースをとくに記録しておくという気にもならなかった。それなのに、今日ふたたびソルジェニーツィン氏の名前をネット上に読んだとき、それはもう帰らぬ人の名前としてであった。そして、その名はいつもサイクリングとつながっている。きのう嵯峨野を走っているころ、氏はこの世を後にしていたのかも知れない。享年八九歳だという。

 

 


おとこえし

2008年08月01日 | 日記・紀行

 


八月に入る。今日から八月。この頃は七時をすぎても、まだ薄墨のように明るい。光明寺の前を散策する。寺の門はすでに閉じられている。女性が、正面に立って遠く本堂に向い祈りを捧げていた。

寺の脇を通り抜けようとすると、男郎花が咲いていた。確かそうだと思う。しかし植物の知識に詳しくないから確信はもてない。

そういえば昨年の秋は、野原のどこかで女郎花との出会いを期待していたはずなのに、叶えられなかった。撫子にも出逢えなかった。それなのに、今年の夏は、人里の中、思いもかけないところでオトコエシに出会う。ただ、やはりオミナエシだけは秋深く人里遠くひっそりと眺めたいと思う。

このあたりまで来るとやはり二三度は気温も下がるのだろうか。青田の向こうから流れてくる風もさわやかに感じる。ヒグラシの鳴き声もすでに耳につき始める。

                          


今日、突然と云ってよいと思うけれど、福田内閣の改造人事があった。改正か改悪か私にはよくわからない。しかし、与謝野馨氏や野田聖子氏を閣内に入れたことからもわかるように、かっての小泉「改革」路線からの決別は明確にし始めたようである。しかし、いずれにしても小さなことである。類は友を呼ぶ。小粒がトップでは改造は到底おぼつかない。長期的かつ個人的には、日本の政党政治が、自由党と民主党に再編されて行くことを期待している。

 


ナスビ

2008年07月23日 | 日記・紀行

 

駅を降りてから我が家へと向かう途中の景色も、一昔から見ればずいぶんに様変わりしたものだ。要するに畑や稲田などの農地が減って宅地が増えたということである。

市街の中心部に通勤通学する人たちのベッドタウン化が進みつつあるとはいえ、それでも市街地からは少し外れているので田圃はまだまだ残ってはいる。朝夕に徒歩か自転車で稲田の間を抜けるとき、青サギや白サギが田圃で餌を啄んでいる姿も見られるし、遠く南の方角から、青い稲を波打たせながら涼しい風が吹いてくるのを感じることもある。

そうして道々に農家の人たちの労働の結晶であるその青い稲田や畑を眺めたり観察したりしながら帰ることも多い。

水田の間に混ざってところどころにかなり大きなナスビ畑がある。農家が近隣のマーケットなどに、ナスビを商品として納入しているのだろうと思う。ナスビの葉や茎が畑の畝に見事に育っている。ナスビの茎や葉を支えるためにつるされた白い紐の、そのきれいに整然とした配列は、遠くから見ると製糸工場で紡織機が列んでいるようにも見える。

ちょうど夕方に私が歩いているとき、まだ農家の人が畑でたまたま仕事をしてしているようだった。道路の片側に軽トラックを寄せていた。その荷台には丸い大きな口の開いたポリタンクも載せられていた。日焼け予防の帽子と手ぬぐいで顔を隠した農家のおばさんがホースを手にしながらそこに腰をのせていた。エンジンかポンプ機の回転する音がする。見たところどうやら農薬を散布しているらしい。

この人の旦那さんはどこにいるのだろうと眼で探すと、畑の真ん中あたりに白い帽子の先が見え、散布するホースから霧が吹き上がっていた。よく見ると旦那さんは白いマスクをして作業をしていた。何か薬を散布しているようだった。マスクをしなければならないということは、直接にその霧を吸い込むと身体によくないということなのだろう。

そういえば、山に私が植えているナスビは、葉っぱがかなり虫に喰われたのか、茎や葉脈だけ残って錆びた金網のようになってしまっているのもある。葉や茎や実を支えるために、農家の人と同じように私も茎を麻紐でつるしてナスビを支えているが、それだけである。だからナスビの花に実がなっても、形はいずれもいびつであるし、収穫の後れたものは、熟れすぎて裂け目さえ見える。

都会の女性の多くが化粧によって容姿を整えているように、マーケットなどに出回っているナスビは、その薬の撒布によって「きれいな姿」が保たれている。撒布しているのはおそらく防虫剤などなのだろうけれども、しかし、マスクをして農作業をしなければならないというのは、吸引すると身体の健康によくないからにちがいない。虫食いのない見栄えのよいナスビでないとマーケットでは売れないからだ。その美意識のために、不健康をも甘んじている。考えてみればおかしなことである。

こうした労働と生産の現実は、単に農家の生産にとどまらないだろう。現代の資本主義的な生産様式に大きな意義のあることは確かである。しかし、そこには多くの矛盾もある。また人間の「生産労働の概念」にかなってもいないようである。だとすれば、それらもいずれは変革されて行かざるを得ないということなのだろう。

 


幼子

2008年07月12日 | 日記・紀行

 

帰りの電車の中で、サラリーマンやOLなどが乗り降りするのに混じって、若い夫婦がベビーカーに子供を乗せて乗り込んできた。それほど混んでもいなかったので、奥さんの方は座席に腰を下ろした。そして、ベビーカーの引き手を押さえながらそのまま立っていたご主人と何かにこやかに話していた。

私の座席からはちょうどすぐ斜め向かいあたりで、ベビーカーの中で気持ちよさそうにすやすや眠っているまだ三つぐらいの男の子の寝顔がよく見えた。
私は電車内のつれづれに任せて、かわいいその男の子の寝顔に惹かれてしばらく興味をもって眺めていた。

確かに私たちは、あまりにも余計な重い鎖を引きずり過ぎている。この子のように天真爛漫に受け入れるのでなければ神の国には入れないのだ。

 

 


市街地眺望

2008年07月09日 | 日記・紀行

市街地眺望

山に登る。高いところから眺望するのは好きだ。さまざまな思いに浸れるから。キュウリが食べきれないほどなっていた。ヨナのとうごまのように一夜にして育つ。トマトもはじめてもぎ取って食べた。少し早すぎたようだ。まだ青臭い。もっと真っ赤に熟れてからだ。
みんなと草を刈っているとき、アンナ・カレーニナの隠れた主人公であるレヴィンが農夫たちと草刈りを競う場面を思いだした。

 


七夕は

2008年07月07日 | 日記・紀行

今日は七夕。ブログで生活の記録をたとえ断片的にであれ、残し始めてからすでにというか、まだわずか3年ほどにしかならない。しかも、その七夕の記憶も、2005年と去年の2007年の記録はあるのに、2006年の七夕の記憶がない。

さらに古い七夕の記憶を思い起こしてみる。まず浮かんでくる情景がある。少し年の離れた弟が、お風呂に入ったあと、あせも予防の白粉を塗って浴衣を着せて貰い、短冊を飾り付けた笹を手にして微笑んでいる。それから、近所の人たちと一緒に近くの淀川へ笹を流しに行った時の子供たちの声のさざめき。

しかし、二十歳代、三十代になってからの記憶はほとんどない。その頃の自分は、今頃何をしていただろう。自我の目覚め始めた中学生頃から始めた古い日記を探れば、何とか記憶をたどることは出来るだろうが、そんな気にもならない。

一昨年2006年7月7日前後の、ブログ記事を探してみると、

民主主義の概念(1) 多数決原理(2006年7月6日)
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20060706
阪大生の尊属殺人事件(2006年7月8日)
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20060708
雅歌第八章(2006年7月3日)
http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20060703

などがあるぐらいで、2006年の七夕の日の記憶は残していない。おそらく世事に紛れて、七夕のことなどすっかり忘れてしまっていたのかも知れない。私のアナログ日記(日記帳)を見てみると、確かに2006年7月7日(金)の記録はある。しかし、株価の下落や理論的能力の低さについての記述はあっても、この年の七夕の宵についての論及はない。ほとんど宇宙の彼方に消えてしまっている。

2005年の七夕は、確かまだブログも開設して間もない頃で、かなり激しい夕立のあったことを記録している。「七夕の宵」という日記では、その宵のつれづれを、伊勢物語の中の場面を思いだし『渚の院の七夕』と題して書いた。http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050707

阪急京都沿線の水無瀬駅近くに、平安時代の昔に惟喬親王や在原業平たちの遊んだ別荘があった。「渚の院」と呼ばれていたが、桜の美しい頃そこで彼らは七夕にちなんだ歌を詠んで残している。

2007年の七夕は、『VEGA』と題して書いた。
http://blog.goo.ne.jp/sreda/d/20070707 そこで七夕の宵に紫の上の一周忌を迎える光源氏の寂しさを回顧した。

七夕がなぜ人々の心を引きつけるのか。織り姫と彦星という星の出会いに、人と人が出会うという奇跡が、象徴されているからだと思う。
何千万人、何億人という人間が存在する中で、妻や夫の関係として、あるいは恋人の関係として私たちが出会う相手は、確率的に言えば本当に奇跡のようなものだ。その出会いが嬉しくないはずはない。

その一方で、本来出会うべき伴侶が、運命や神のいたずらで、一寸一秒のすれ違いに互いに相見えることなく生涯を終えるということもあるにちがいない。私たちの人生の舞台裏をのぞき見ることが出来るとすれば、そんな悲運に流される涙は尽きないのではないだろうか。無数の出会いと別れの織りなすものが私たちの人生に他ならない。

今年の七夕はとくにこれと言った感慨もないし、夜空に星は見えるけれどもさほど美しくもない。牽牛、織姫たちを探す気にもならない。

それでも、少しでも触れて記憶に留めておこうと思う。昔の人が七夕を詠っても、それは陰暦のもっと暑い夏の盛りのことだったけれど。

1264    七夕は   逢ふをうれしと   思ふらむ
                   われは別れの   憂き今宵かな

西行が七夕を詠ったものとしてはさほど優れているとも思われないが、彼が昔七夕の日にどのような感慨をもったかはわかる。

私たちが生きること自体の中に死が秘やかにまぎれ潜んでいるように、「出会い」そのもの中に「別れ」が寄り添っている。別れのつらさを厭うなら、出会わないに越したことはない。

それでも、なお人間は出会いを願うものである。しかも単に出会いを願うだけではなく、出会った相手を独占したいとさえ思う。こうした心情は今も昔も変わらない。

1265     同じくは   咲き初めしより   しめおきて
                   人に折られぬ   花と思はん

 

 


夏野菜を植える

2008年05月14日 | 日記・紀行

 

昨年の秋にかろうじて間に合うようにして植えた冬野菜のブロッコリー、ネギ、水菜、壬生菜などは、ブロッコリーのほかはとても食べきれないぐらいに成長して、薹が立つほどにもったいないことをしてしまった。次からはできるだけ誰かにお裾分けして無駄のないようにしたい。ネギも水菜も柔らかくて甘く香りもいい。

ここしばらくは他に集中したいことが出来て、ブログの更新も場合によれば週に一回程度か、あるいはもっと緩やかになると思う。書くことよりも行動することに生の充実をもとめて行きたい。ただ、行動をそのまま記録しておくとしても、それをすべて公表するわけにも行かないと思う。2、3年経てばまた、ふたたび書くことに集中することのできるときが来ると思う。主よ、願いを叶えたまえ。

イエスの珠玉の言葉もすべて、弟子たちの記録によるものだった。主イエスご自身は筆をもって書き残すことはしなかった。

春も爛熟し、やがて初夏を迎える。時間の合間を縫って今日、ナス、トウガラシ、トマト、キュウリ、トウモロコシなどを植える。畝づくりに余裕がなく、雑草を残したまま植える。トマトの苗を手に取ったとき、久しぶりに懐かしい香りに出会う。

昔、まだ子供の頃、母親に連れられて帰った田舎の庭に植わっていたトマトの、その鮮烈な香りが今も忘れられない。後年になって、茎や葉にその匂いを嗅ぐときはいつも、その思い出とともに切ない思いに駆り立てられる。数多くある香りの中でも、このトマトの匂いと白檀の香りだけは特別な意味を持っている。

畑に行く途中、まだ鯉のぼりが泳いでいた。業平卿紀行録もせめて10回程度は書こうと思っていたのに、残したままになっている。

 


業平卿紀行録2

2008年04月13日 | 日記・紀行

業平卿紀行録2

東山の交差点を西に行くと小畑川と善峰川の合流地点に新上里橋がかかっている。ここから善峰川沿いにのぼる。途中に町家の門塀のブロックの下などにもチューリップなどが彩りを添えていて春らしい。今年の春の記念にとカメラに収める。川沿いの土手にも一本の桃の木の枝から白と薄紅のきれいな花をつけて餅花のように咲いていた。それもカメラに収める。

道なりにさらに西へ走ると墓場があり、そこには先の太平洋戦争で亡くなられた方のものらしく中尉の肩書きなどが墓石に刻まれてある。やがて左手に警察犬の訓練学校がある。宇ノ山の交差点に出る。そこを南に行くと光明寺に到るが、まっすぐに仕出し料亭のうお嘉さんの前を抜けて、灰方郵便局前の三叉路に出て左に折れる。そこを少し南に走ったところに十輪寺の案内標識が立っている。この標識には「業平ゆかりの寺」と書かれてある。この道は散歩コースで、いつも目にしていてよく知っていたが、業平を偲びに訪れるのははじめてだった。

その標識の指示する方向に進むと、右手に大歳神社がみえる。その向かいにミキサー車の誘導をしていたガードマンが立っていたので十輪寺のことを訊ねると、まっすぐに行くと案内板がみえるとのことだった。さらに行くとゴルフクラブの練習場があり、小塩の標識がかかっている。その前の道を北に行くと善峰寺のあることは何度も来ていて知っている。なるほど標識には善峰寺と十輪寺が並んで案内されている。ここから坂は少し上り道になる

少し行くと十輪寺の看板が見えた。そうかこんなところにあったのかとあらためて気づく。この道はこれまでも数え切れないくらい来ているのに、このお寺の前を素通りして気がつかなかっただけなのだ。

十輪寺は業平ゆかりのお寺である。そして業平は伊勢物語とは切り離せない。というよりも、伊勢物語や古今和歌集のゆえに、在原の業平は人々の記憶に留められているといえる。この十輪寺はその業平が晩年隠棲したと伝えられる寺である。今もこのあたりは大原野小塩町という。地名がいにしえのよすがに残されている。

これまでにもさまざまな神社や寺院を訪れてはいるけれども、友人たちとは共通の趣味や仕事の話題がほとんどで、神社や寺院の歴史的な由来などには興味もなく、秋の紅葉や春の花を楽しんだだけで終わる場合も多かった。ただ昨年ぐらいから何となく過去の歴史にやや興味を覚えはじめ、折りに触れ気の赴くままに、それらの旧跡の歴史を調べ始めた。するとさまざまのこともわかって、それなりに興味もわいてくる。

 


業平卿紀行録

2008年04月13日 | 日記・紀行

業平卿紀行録

外出を予定していたのに雨に降られたりで、先日もかなり強い雨と風で、桜も泣いているだろうと思っていた。しかし、きのうになってようやく夕方から本格的な晴れ間がみえはじめた。きっと明日は一日晴れるだろうと確信がもてたので、心にかかっていた十輪寺を訪れることにした。

自転車で行く。とくに春や秋に野に出かけるには、自転車が最適の乗り物である。菜の花や桜並木を眺めながら、土手の上などを風を切って走れば、否応がでも春の到来を実感する。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏さまの御陵の傍を抜ける。このあたりは昔の山背国乙訓郡であって、この地に平城京から遷都されて新しい都が据えられたのである。この皇后様は若くして亡くなられたから、平安京に都が移される前にここに葬られた。というよりも、この皇后の若死になどが桓武天皇の心を不安にさせたことも長岡京から平安京に移るきっかけの一つにもなったといえる。

帰化人の泰氏が多く住んでいた太秦もここから遠くなく、また新しい都の建設にこの帰化人たちの力を借りようという思惑もあったらしい。桓武天皇の母堂は百済王の血を引く娘だったという。

 


短歌日誌

2008年04月10日 | 日記・紀行

2008年4月10日(雨)

短歌日誌

少しでも晴れ間が見えれば散輪にでも出て、きのう夕闇のなかで見た小畑川沿いの桜並木をデジカメにでも収めておこうかと思っていたけれど、晴れ間どころか終日かなり強い雨になってしまった。

一月は行ってしまい、二月は逃げてしまい、三月も去ってしまう。
先月、小野小町について調べて小さな文章に書いたこともあり、三月末には小野の随心院で催される「はねず踊り」を是非に見に行こうと思っていた。しかし、行きそびれてしまった。

伏見醍醐寺の向こうぐらいで、自転車で出かけようと思っていたのに、実際に確認してみるとかなりの距離がある。それだけ時間的な余裕を見ていなければならないのに、随心院までは勘違いで時間の計測を間違っていた。
年に一度の舞台を見落としてしまうと、来年まで待たなければならない。

団地や川岸、町家の軒先などに今年も忘れることなく桜は訪れて咲いている。しかし、まだ今年は桜の名所といえるようなところには行っていない。なぜか気もはやらない。昨年の春に勝持寺で見た桜が本当にきれいだったことを思い出す。
もし、晴れ間がみえれば、まだ一度も訪れていない十輪寺でもせめて行ってみようかと思う。在原業平のゆかりの寺である。桜も間に合えばいいけれど。出来れば小さな「紀行文」にでも書き残しておこうと思う。

もともとこのブログは、日記や紀行を記録して行くつもりで開設したはずだった。それなのに、つい堅苦しい?非哲学的な国民の間にあって、ほとんど誰も興味を持たないような哲学ノートや政治評論まがいの文章でも何でもかでもみんなかまわず放り込んでしまっている。

やはり初心の通りに、このブログは日記や紀行に近い形により戻してゆこうと思っている。ただそれでも音楽やドラマ、映画などだけでなく、政治や経済などの問題などについても気にとまることなら何でも、簡単な感想の覚え書き程度には記録して行くつもりでいる。

そうすれば、もともとのテーマである「作雨作晴」に「日々の記憶」の役割も果たしてゆける。研究ノートや論文などは、目録程度にこの日記には記録しておけばよいと思う。もし万一興味や関心をもたれる人がおられれば、そちらのブログで読んでもらえばいい。そうして行けばこのブログも日記や紀行文としてまとまった体裁に戻るはずだ。

また、たとえどんなにつたないものであるとしても、日々の思いや記憶を「短歌」の形にして残してゆくことにはそれなりに意義のあることは分かった。もともと、西行などの短歌には趣味があったし、短歌を作ることにもまったく興味がなかったわけでもない。最近の記事を読んでいただいている方はお気づきだと思うけれど、恥をも省みず短歌もどきものを載せ始めている。

小野小町考の文章を書いている時、ネットで古今集について偶々調べていて、遼川るかさんとおっしゃる女流歌人のサイトに出くわした。彼女は現代に万葉調の歌風をめざしておられる方である。それ以来、訪れては読ませていただいている。その影響もあるかも知れない。

そんなこともあって、何とか自分でも作ってみることにした。実作によってより深く鑑賞できることも分かった。感情や詩想の開発にもそれなりに意義のあることも分かった。それで、遼川るかさんに倣って私も「短歌日誌」として日記と並行して記録して行こうかと思っている。

時間や推敲に余裕がなく、ろくでもないものしか作れないだろう。それでも継続してゆくことで、無味乾燥な哲学の片時に、芸術の片鱗の潤いを見出せるかも知れない。手遊びで十分だ。

昨夜は珍しく寝つきが悪く、そのうえ夜中に眼を覚ました。めったにないことである。

[短歌日誌]

軒に降りしきる雨音強まりて深夜に目が覚める

雨垂れ  強く音なふて  目覚めし昔の罪に  胸ふたがる

救うべき  十字架もなし  淵に沈みし   
                       恋しき撫子らの   面影そらに見て

 


桜雲

2008年04月09日 | 日記・紀行

(短歌日誌)

夕暮れの街を自転車で走り抜けて小畑川の橋の上にさしかかったとき、眼下の川岸に桜並木を眺めて


夕暮れて  桜雲      薄墨に染まりゆきし    

                      棚引きて中空に流れ行く


 


春の歌

2008年04月01日 | 日記・紀行

春の歌

四月に入る。用事があって大阪梅田に出る。阪急京都線で淀川を渡る。川岸の向こうにビルがさらに高く広がって見える。しばらく来ない間にも変貌を遂げている。人間の経済活動は、不景気であろうが好況であろうが、片時も休むことはない。東梅田や西梅田の地下街もさらに拡張されてテナントの数もさらに増えたようだ。蜘蛛の巣のように細かく大きくさらに広がってゆく。大阪はやはり第二の大都会である。昔と同じように今も人波は絶えず流れ続けている。

学生の頃、卒業後の進路先が内定してから、この地下街でアルバイトをしたことがある。今もあるのかどうかわからないけれど、福助というアパレル会社が出していた店で、ワイシャツやストッキングなどを売っていた。ちょうど同じくらいの年格好の女店員たちと冗談を言い合いながら過ごした時間が楽しく懐かしい記憶として残っている。彼女たちも今はどこかで誰かと結婚して子供もいるにちがいない。なかでもYさんは、おとなしい上品な女の子だった。スキーに行って彼女が唇と顔に怪我していたことも覚えている。しかし、すべてが遠いはるか昔のこととなって、青年時代に出会った人たちの多くは音信もすでに途絶えたままだ。

久しぶりに旭屋書店に立ち寄って本を一冊買う。                              今日から、道路特定財源の暫定税率が失効する。ガソリンの値段も下がるはずだ。参議院で民主党が多数を占めたことによる効果が現れたといえる。これまでのように、与党の提出する法案をそのまま白紙委任するような状況はなくなる。そのため政治が一見停滞し混乱しているようには見えるかもしれないが、民主主義にとっては進歩である。日銀総裁が決まらなかったり、地方の財政が混乱するかもしれないが、それもある意味では支払わなければならないコストである。日銀総裁ポストについても海外の目線を気にする必要はない。日本国よ、我が道を行け。

電車の窓から眺める淀川の河川敷は相変わらず醜くて潤いがない。これもまた現代日本人の精神状況を反映しているにちがいない。幼い頃には橋の欄干から釣り糸を垂れてハゼを釣る人たちの並んでいる姿も眺められたものだ。魚釣りの餌になるゴカイの採れたきれいな砂州も葦影に見えていた。今はそれらすべてがない。

しかし、いつの日か日本人も悔い改め意識も変わって、ビオトープで淀川の河川敷にも昔日の面影を取り戻す日が来ると思う。そのときには、この淀川の土手にも桜並木が彩り、川では悠々とボート遊びもできるかもしれない。ただ、私が生きているうちにそれを眺めることはないだろうけれど。

お隣の韓国では、現在の大統領である李明博氏がソウル市長時代に、ドブ川と化していた清渓川に清流を取り戻している。いつか気宇壮大な風流心のある大阪市長や大阪府知事が現れて、淀川の昔日の面影を取り戻してほしいものだ。その国土に住む人間の質がすべてだ。すでに韓国には追い抜かれてしまったけれど。

まだ西洋人の毒を知らずにいた頃の、ある意味で幸福な美しい夢を見ていた時代の日本人に残された記憶。それでいつも思い出すのは、与謝蕪村の次の歌である。その頃はまだ淀川もこんなに美しかったのだ。

与謝野蕪村  作
               春風馬堤曲
            
余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。
先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。
因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲

やぶ入りや浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し

堤ヨリ下テ摘芳草 荊与蕀塞路
荊蕀何妬情 裂裙且傷股
渓流石転ゝ 踏石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙

一軒の茶見世の柳老にけり
茶店の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且儂が春衣を美む
店中有二客 能解江南語
酒銭擲三緡 迎我譲榻去

古駅三両家猫児妻を呼妻来らず
呼雛籬外鶏 籬外草満地
雛飛欲越籬 籬高堕三四

春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲けり三ゝ五ゝ五ゝは黄に
三ゝは白し記得す去年此の路よりす
憐みとる蒲公茎短して乳を水邑※
むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懐袍別に春あり

春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋辺財主の家
春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅

故郷春深し行ゝて又行ゝ
楊柳長堤道漸くくだれり
矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
待春又春

君不見古人太祇が句
薮入の寝るやひとりの親の側

※正しくはサンズイに邑

(短歌の試み)

赤松の防砂林に延びる遠州浜を散策した昔を思い出して詠む

一    春の日に 優しき光浴びつつ  浜辺に延びる小道を辿る
二    春の陽の   白光浴びてのどけく  蒲公英の路傍に咲けり
三    潮風にそよけく   うち寄せる沖の浦波   君の白き足と遊ぶ
四    磯の香と  寄せくる波と戯れに  沖行く船を指示しつ我に
五    春霞む  大海原眺めおりし君が背に  黒髪潮風に靡ける
六    潮の香の  松の木陰に屈まりて 露草に小水を試みし人
七    赤松の 防砂林に 友待つ鶯の声  鳴き渡る

 Tristan und Isolde finale scene conducted by Bernstein

 


天高群星近