真珠の耳飾りの少女
ここに描かれているのは、明らかに妙齢の婦人ではない。幼児でもない。少女である。まだ女性になる前の。彼女は振り返るようにして、私たちを見ている。
その二つの瞳の視線が交流するその焦点は、この絵の前に立って少女を見つめている私の眼の位置に合わせられている。そのことによって、平面の運命を免れないこの絵が、彫刻のような三次元の立体感をかもし出し、あたかもこの少女と、同じ時間、同じ空間を共有しているかのような存在感に捉えられる。
少女は私を見ている。その瞳も、鼻も、やさしくあどけなく開いた色鮮やかで健やかな唇も、まだ小さく幼っぽく清らかで柔らかい。かといって幼児のそれでないこの少女の小ぶりな顔は、これからの彼女の成長を暗示するかのように、まだ開き切っていない莟のようにかわいらしい。内に静かに秘められた成長するエネルギーを感じる。
この少女のふたつの瞳は何を見ているのだろう。声を掛けられて振り返った一瞬を捉えたようなこの瞳は、否応なく私に彼女と二つの精神の出会いを自覚させる。それは、この絵に描かれた少女の心の、短い履歴を一瞬の内に想像させ、また、一方で、世の中の塵と芥に薄汚れてしまった私自身の過去の来歴を思い出させる。この体験は作品にこめたフェルメールのテーマなのだろう。
この少女は、教会に飾られたマリアではなく、地上に降りてきて私たちと生活をともにする少女マリアである。フェルメールはこの少女の面影に、明らかに聖母マリアを見ている。私たちの世俗の中のどこかに生きるマリアを思い出させる。
漆黒の闇のなかに、画面の左から差し込む光に照らし出されて浮かび上がる少女の肖像は、レンブラントの肖像画の技法と同じである。ターバンの先端と彼女の胸と背中によって、二等辺三角形に画面の中に大きく揺るぎなく据えられた構図は、単純で骨太く落ち着きを感じさせる。
トルコの民族衣装風の青いターバンと、銀の耳飾りの輝きと、白い襟は、互いに響きあって、この少女の純潔を印象づける。たしか白と青は伝統的にマリアを象徴する色彩ではなかっただろうか。
フェルメールという画家は、きわめて寡作な画家である。日本では人気のある画家である。この少女像はモナリザほど高貴ではないが、それだけ親愛感を抱かせる。さまざまな折りに触れたい名品である。