天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

2007年07月19日 | 文化・芸術

                          

        

 

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

 

新潟でまた地震があった。日本はそもそも地震列島とも呼ばれ、大陸プレートと海洋プレートがひしめきせめぎ合う地殻の上に国土がある。その上に生活する国民の運命の悲哀というべきか。いや決してそんなことはない。科学の発達した今日、地震による死亡事故などの大半は、国家と国民の危機管理能力の欠陥による人災である。

 

地震列島はその一方で、豊かな天然地下温泉を湧き出し、変化に富んだ美しい自然景観を造りだす。その天然の恵みは決して小さくはない。地下マグマの自然エネルギーを善用活用して国民の幸福に役立てるか、それとも、その前に、無力に手をこまねいて地震災害被害に泣くかは、国家と国民の危機管理能力しだいであるといえる。

 

日本などのような地震国では、そして、これほど深刻な環境問題を抱え込んだ現代においては、原子力発電以上に、国家プロジェクトとして強力に地熱発電の研究・開発に取り組まれるべきものである。地熱エネルギーの最大限の有効利用に取り組むべきである。そうしたことができないのは、科学技術などのハードの未発達に原因があるいうよりも、国家の組織機構に、政治や教育といったソフトに、国家の頭脳、その指導性に欠陥があるためである。経済産業省や国土交通省などの各省庁を横断して、欠陥の多い原子力発電に代わるものとして、地熱発電や太陽光発電、風力・海洋エネルギー発電などに強力に取り組まれていてよいはずである。

 

十余年前の阪神淡路大震災で、当時の村山富市首相の対応の遅れによる震災被害の拡大の教訓がいまだ十分に生かされていないように思われる。地震が起きてからの事後危機管理も充実させる必要のあることはいうまでもないが、不備を感じるのはとくに「事前の」危機管理である。

 

それにしても、ひとたび地殻が変動し、大地が揺らぐたびに家屋は倒壊し、そのために多くの犠牲者が出るというのはあまりにも惨めである。先の阪神淡路大震災でも、多くの家屋が全壊半壊し、その倒壊によって多くの人々が圧死した。そして、それに引き続く火災によっても多くの人が犠牲になった。今回の新潟沖地震ではそれほど多大な人的被害は出てはいないが、阪神淡路のような地震が来れば、日本のどこであれ、またふたたび家屋倒壊などに起因する大災害になりかねない。現代のような科学技術の発達した時代において、そうした人的被害を防ぎ得ないというのは、天災ではなく行政の不備による人災と考えるべきであろう。その根本的で重要な対策の一つに、住宅、工場、公共施設のさらなる耐震構造化を進めてゆく必要があると思う。

二十一世紀に入ろうという現代において、住宅家屋の倒壊による圧死というような後進的な災害が現代において繰り返されてよいのかという率直な印象を受ける。地震による被害が深刻なものになるのは、根本的には旧来の日本家屋の耐震構造があまりにも脆弱で、かつそれが放置されたままであるためである。それは素人目にもあきらかだろう。商店街を歩いてた婦人が商店の倒壊により下敷きなったり、また、お寺の屋敷が倒壊して老人が下敷きになって死亡するなどというのは決して天災などではない。商店や寺屋敷の建築物が耐震構造になってさえいれば防ぎえた人災である。

 

自然の威力を前に右往左往させらるのが人間の尊厳であるとは思わない。地震であれ台風であれそうした自然の威力に対抗し克服してゆくところに人間の尊厳があると思う。人間は神の子であり、「空の鳥と地の獣は海の魚とともにすべて人の手に委ねられている」(創世記9:2)。人間は自然の奴隷ではない。

国家の危機管理の問題である。危機管理には、事前危機管理と事後危機管理がある。以前と比較すれば改善されてきているとはいえ、とくに地震やテロ、戦争などの対策において、首相を頂点とした統一性のある事前・事後の危機管理対策が十分に構築されているとは思えない。とくにあまりにも貧弱なのが、「事前の」危機管理対策である。国家の頭脳としての意思決定と、その全国津々浦々への迅速な伝達を担う神経組織が十分に効率よく組織立てられているとは思えない。


 
これだけ国内に地震災害が多発することがわかっているのにもかかわらず、いまだ住宅や工場、原子力発電所などの公共施設の耐震化が十分に進んではいないようである。日本には地震に弱い老朽木造住宅がまだ1,000万戸あるともいわれている。建築基準法は改正されてきているとはいえ、こうした現状が放置されているのも、国家の危機管理能力の低さの現われではないだろうか。

 

こうした事前の危機管理対策が不十分であるとしても、それは日本の科学技術が未発達であるためではない。それよりも、縦割り行政や、公務員制度、旧弊の都道府県制度といった、危機管理を支える国家組織や体制機構など、政治や行政の劣悪さに起因する部分がはるかに多いのではないだろうか。国家を一個の有機体として、どれだけ美しく完全で効率的な国家体系にしてゆくかは国民自身の課題である。

 

その中でも、とくに緊急性のあるのは、震災による死亡事故の原因の大半を占める、旧来の木造日本家屋の老朽化した脆弱な住宅の耐震対策である。この弱点を克服しえていれば、地震後の火災発生件数も含めて、震災による圧死や焼死などの死亡者数もはるかに少なくなると思われる。

 

伝統的な木造家屋の耐震構造の弱点や欠陥を克服するために、国土交通省や産業経済省などが結集して、国家的な規模で「国民的家屋」のモデル住宅を開発すべきではないだろうか。それによって、震度8ぐらいの地震にも十分に耐える耐震構造を持ち、生活上の利便性、効率性も極めつくし、なおかつ伝統的な日本建築の美しさも生かした、日本の風土、自然景観とも調和したモデル住宅建築を、国民住宅(フォルクスハウス)として、二十か三十程度も提示できないものだろうか。それを国家プロジェクトとして、安藤忠雄氏などの建築家をはじめ、美術家、耐震工学者、宮大工など国家の頭脳を総結集して設計できないはずはないと思う。必要なのは強力なリーダーシップである。

 

かって、ヒトラーのナチス・ドイツの下で、国民車(フォルクスワーゲン)とアウトバーンが整備されたという。ナチスドイツの国家犯罪は真っ平ごめんであるとしても、日本においても、国民住宅(フォルクスハウス)が構想されてもよいのではないかと思う。それが普及すれば、少々の地震にもびくともしない国民性が培われるとともに、何よりも、この上なく醜くなった現代日本の自然景観、都市景観の改善が見られるようになるはずである。

 

そうして現代日本人の殺伐とした精神構造を反映するかのような、むき出しの電柱と電線と雑然とした雑居住宅の醜悪さそのものも改善され、癒されてゆくのではないだろうか。それとも願わくは、地中海の美しい海に照り映えるギリシャの町並みと同じ美しさを、この日本に再現することを夢見るのは、かなわぬ一夜の夢物語に過ぎないか。

 

 

柏崎刈羽原発の防火体制 05年に不備と指摘 IAEA(朝日新聞) - goo ニュース

「補強する金なく」高齢者の家に犠牲集中…中越沖地震(読売新聞) - goo ニュース 

 

 

 

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バッハの言語――②無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

2007年07月18日 | 文化・芸術

バッハの言語―――②無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

 

Milstein's Last Public Concert at 83 Years Old: Chaconne (7.1986)

ヴァイオリンという弦楽器が奏でる響きが伝える世界は、純粋抽象の天上の世界で、時間的な系列における啓示である。その表現技法のおそらくこの上なく困難なこの楽曲を、たんなる技巧に陥ることなく、質朴だけれども深い彫りで骨太く演奏しているのは、円熟を迎えたロシアのヴァイオリン奏者ナタン・ミルシテイン。たった一丁の弦楽器ヴァイオリンが、主題とその変奏の反復のなかで、ヴァイオリンの持つ可能性を極限に至るまで引き出しすかのようにその魅惑的な声で歌う。

バッハの自我の感情の、明朗、活発、苦悩、歓喜などの無限の起伏が、音の連続と断続、対立と混交の中でさらに高みへと上りつめながら、時間の終焉に向かって私自身の自我と絡み合い、やがて一体化しながら流れてゆく。ヴァイオリンが、ここではバッハの魂のもう一つの声となって響いてくる。優れた作曲には天衣無縫という言葉があるように、思わせぶりな天才ぶった技巧や創作の跡はない。職人芸のようにすべてが自然で、破綻がなく神の創造物のようにそこにある。

それにしても音楽を、このもっとも抽象的な芸術を分析するのはむずかしい。的確に音楽作品の精神を分析し、把握し、評価するには長年の修練を要するのだろう。しかし、多くのカンタータを創作したバッハには、その歌詞による詩的表現に通じることによって、バッハの音楽の抽象的な内面の表現も、その象徴的性格の把握にもより明確に慣れることも容易になるだろう。それゆえソナタやパルティータにおける純粋な器楽演奏による精神的な内面性の表現についても、バッハの音楽の形式における絶対者の把握へと導かれやすいのではないだろうか。


もちろん、音楽は音楽として、ソナタやパルティータにおいては言語は音楽との結びつきがとかれ、自由により純粋に音調そのものとして、内面的な主観を表現するようになる。それゆえ、純粋音楽という「言語」を通じてのもっとも抽象的な感情把握には、もともとの天賦の感覚とさらなる高度の修練とが求められるに違いない。バッハ自身も、この器楽曲を練習課題曲としても作曲したのではないだろうか。それによって、バッハは今日においても最大の音楽教育者であり続けている。バッハの受容と止揚は、現代の日本でも最重要な課題であると思う。今日においてもそれなくして新しい音楽芸術の創造は不可能ではないだろうか。それはちょうどバッハがヴィヴァルディたちを梃子にして自分の芸術を完成させたのと同じだと思う。

 

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2007年07月07日 | 日記・紀行

                  

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今日は七夕。しかし、空は曇り空で、織姫も彦星も眺めることはできない。二人のプライベートなデートは他人が干渉する筋合いのものでもないから、かえって織姫もこの曇り空を喜んでいるかもしれない。昨年の七夕は晴れていたのかどうか、2006年7月7日の日記の記録もなく、この日をどのように過ごしていたのか、もう今では忘れてしまっている。その前年の2005年の七夕の日は曇っていたことがわかる。ブログではほとんど瞬時に過去の日記を検索できるのはうれしい。夕方から雷を伴ったかなり激しい雨が降っていたことが思い出される。

西洋の文化の入った現代では、織姫は琴座のヴェガにあたる。西洋には西洋なりに、とくにギリシャ神話などに、この星の名の由来があるのだろうがわからない。映画「コンタクト」では地球外生命体からの発信音はこのヴェガから発せらることになっていた。実際はその可能性はほとんどゼロに近いのだろうけれども、本当に地球外生命体と交流できるなら、人類の世界観も根本的に変わるかも知れない。あるいは、そこで時間の限界を超えて、もう一人の自分に出会うことにもなれば、どんなに奇異な感じに打たれるだろう。

伊勢物語には、七夕にちなんでまことに美しい物語が語り残されているが、現代はそうした物語は生まれにくい時代なのかも知れない。

いと暑き頃、涼しき方にてながめ給ふに、池の蓮の盛りなるを見給ふに、「いかに多かる」などまづ思し出でらるるに、ほれぼれとしてつくづくとおはする程に、日も暮れにけり。蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを一人のみ見給ふは、げにぞかひなかりける。

   つれづれと  我が泣き暮らす  夏の日を
               かことがましき  虫の声かな

蛍のいと多う飛びちがうも、「夕殿に蛍飛んで」と例の古言もかかる筋にのみ口馴れ給へり。                               

   夜を知る 蛍を見ても  悲しきは
              時ぞともなき  思ひなりけり

七月七日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもし給はで、つれづれに眺め暮らし給ひて、星合見る人もなし。まだ夜深う、一所起き給ひて、妻戸押し明け給へるに、前栽の露いとしげく渡殿の戸より通りて見渡さるれば、出で給ひて、

   七夕の  逢う瀬は  雲のよそに見て  
               別れの庭に  露ぞ置き添ふ

七夕の日に正室紫の上の一周忌を迎えようとする源氏の君の寂しさを、さすがに紫式部はよく描いている。その果敢なさからやがて源氏は出家するにいたる。そういえば、来年は源氏物語の千年紀とかで何かと行事もあるらしい。久しぶりにこの巻を読んでみようかと思う。

 

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