天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

業平卿紀行録7

2008年04月18日 | 文化・芸術

業平卿紀行録7

伊勢物語はこの時代に生きた在原業平を主人公にしながら、彼を取り巻くゆかりの深い人たちも多く登場する。とくに清和天皇の女御に上ってからは、もはや業平には手の届かない人となった藤原高子、まだ入内するまえの二条の后がただ人の身分であられた頃に業平と出会う。この二人の恋愛関係が物語の核を作る。彼らのことは当時の人々にもよく知られていたらしく、そのときに詠まれたらしい業平の歌が古今集の中にも詞書きとともに多く取り入れられている。伊勢物語にはそれらの歌の詠まれた背景がさらに詳しく具体的な逸話として記録されている。

奈良の都を離れて新しく平安京に遷都した頃の人々の暮らしも、伊勢物語には象徴的に描かれている。伊勢物語の冒頭の初冠の段には、成人式を終えたばかりの少年の初恋の記憶が物語られる。

領地がそこにあった縁で奈良の京に少年が狩りに訪れたとき、そこで美しい姉妹を垣間見た。そのときの心のときめきを、若紫の乱れ模様に染められた狩衣の裾を切りとり、歌をそこに書いてその姉妹に詠んで贈ったという。

           みちのくの    忍ぶもぢずり    誰ゆゑに
                     みだれそめにし    われならなくに 
 
しかし、この歌は業平のものではなく、古今和歌集にも収められている河原左大臣、源 融の詠んだ歌がもとになっている。この和歌の一部が変えられて物語の中に取り込まれたものだ。源 融は嵯峨天皇の第12子で臣籍降下されて源氏姓をいただき、六条河原院を造営したことで知られている。 

724         陸奥の    しのぶもぢずり    誰ゆゑに
                   乱れむと思ふ    われならなくに    

源 融のこの歌はすでに幾度か恋愛を経験して知っている成熟した男の詠んだ歌である。それが伊勢物語の中の歌のように変えられることによって、異性を異性としてはじめて意識し始めた少年の、思いがけずときめき始めた自分の心に彼自身が驚いている若者の気持ちが詠われている。

伊勢物語には、業平以外の和歌も多く用いられているけれども、その多くは古今和歌集にもおさめられているものだ。905年(延喜5年)醍醐天皇の勅命を受けて紀貫之らは和歌を編纂するために、すでに大伴家持らの手によって成立していた万葉集以降の、そして紀貫之よりも一世代上の六歌仙たちの生きていた時代と、さらに当時の「今」でもある紀貫之たちの生きた時代に至るまでの和歌を収集して古今和歌集を編んでゆく。すでに古今集そのものが四季の移ろいや恋の高揚して行く様子を物語る構成になっていた。

この編纂の過程でおそらく貫之たちは、古今和歌集に載せた業平の歌を並べることによって、ひとりの男を主人公にした物語が作れることに気づいただろう。それに万葉時代の素朴な歌風を残している「読み人知らず」の歌も古今集に残されて多くある。そして、源 融のように名の知られた業平以外の歌、あるいはまた歌人でもある貫之ら自身の詠んだにちがいない歌をも含めて、それらをとりまとめて業平を主人公とする美しい一代記の歌物語を完成させようと思ったにちがいない。

 


業平卿紀行録6

2008年04月17日 | 文化・芸術

業平卿紀行録6

その後に嵯峨天皇の跡を継いだ異母弟の淳和天皇とその子恒貞親王は、やがて嵯峨天皇の子である仁明天皇と皇位の継承をめぐって対立することになる。淳和天皇の跡を継いだ仁明天皇は、はじめは淳和天皇の子恒貞親王を皇太子としていたが、仁明天皇の女御はそのとき権勢を誇っていた藤原北家の冬嗣の娘順子であり、その兄が良房だった。良房は妹の子すなわち甥の道康親王を仁明天皇の後継に皇位を望むようになる。

このとき淳和上皇とその子恒貞親王に組みしていたのが大伴氏と橘氏であった。嵯峨上皇が亡くなられたあと藤原北家の良房は、恒貞親王を擁立しようとした大伴氏や橘氏たちと争うことになる。

このとき業平の父である阿保親王は、かって自身が連座した薬子の事件に懲りていたのか大伴氏や橘氏に組みせず、藤原良房や嵯峨天皇の后である橘嘉智子に通じたらしい。その結果842年(承和9年)擁立を阻まれた恒貞親王は太子を廃され、その後出家して嵯峨大覚寺を創建したという。これがいわゆる承和の変で、この変の後、藤原良房の妹の順子の子道康親王が文徳天皇として嵯峨天皇の跡を継ぎ、やがて藤原良房は摂政となった。こうして藤原良房は天皇の叔父として外戚となり、大伴氏、橘氏、紀氏などその他の名族を押さえて権勢をかためてゆく。

大化の改新以前は天皇家は蘇我氏との姻戚関係によって蘇我氏の血筋を引くことになったが、大化の改新以後は、先の桓武天皇のお后藤原乙牟漏に見られるように、藤原氏との姻戚関係によって天皇家は藤原氏と祖先を共通にするようになる。

ちなみに、このときの嵯峨天皇は空海と並ぶご三筆のひとりとして知られ、また承和の変に連座して伊豆に流された橘逸勢もこの三筆のひとりに数えられている。そして、この阿保親王の子が在原業平であり、業平は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に仕えた。そして、文徳天皇の子清和天皇の女御が藤原高子である。

古今和歌集の中に六歌仙として取り上げられている在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、小野小町はいずれも仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の御代に宮仕えをし、とくに、僧正遍昭は仁明天皇の崩御に殉じて出家したものであり、この仁明天皇は深草の御陵に葬られて、小野小町らともゆかりの深い帝として知られている。

 


業平卿紀行録5

2008年04月16日 | 文化・芸術

業平卿紀行録5

朝廷では天皇家や藤原氏を取り巻く皇位をめぐる争いははげしく、天智天皇や天武天皇の御代以前も以後にも絶えなかった。また桓武天皇の即位すらすでに皇位をめぐる権力争いの様相を呈していた。今も昔も政治には権力をめぐる暗闘には事欠かないということである。と言うよりも、権力をめぐる闘争こそが政治に他ならない。それが古今東西にわたる普遍的な人間的な真実なのだろう。

桓武天皇が即位された頃にも、勢力を広げた藤原氏内部の間にも、とくに式家と北家との間には皇位の継承をめぐって争いが絶えなかった。式家の祖は三男の宇合、北家の始祖は次男の房前、いずれも藤原不比等を父とする。そして不比等には天智天皇の落胤という説もあるらしい。

百済王を祖先にもち、身分もかならずしも高くはない高野新笠を母としていた桓武天皇が、それにもかかわらず皇位を継承することができたのも、藤原北家に対して勝利をおさめた藤原式家の後援があったためと考えられる。

桓武天皇が即位してからも天皇家の外戚の地位や皇位をめぐる争いは絶えることはない。桓武天皇の第一皇子である平城天皇は、病弱であった上に、しかもご自分の妃の母である藤原薬子を寵愛したゆえに桓武天皇に疎んじられた。そのためもあったのか桓武天皇は弟の早良親王を太子に立てていた。

しかし、この早良親王は長岡京の造宮使として新京建設の責任者であった藤原種継を暗殺した嫌疑で捕らえられ、淡路島へ配流される途上に無実を訴えながら死んでいったという。平城天皇もこの事件に無関係ではなかったらしい。この早良親王の御霊を鎮めるために造営された神社が上京区にある上御霊神社であるという。

そして暗殺された藤原種継の子供が仲成、薬子の兄妹だった。この兄妹は平城天皇の異母弟である伊予親王とその母吉子を謀反の嫌疑で自害させる。また、平城天皇の寵愛を得て、天皇とともに平城京にふたたび遷都を図ろうとして兵を挙げるが、結局は弟帝の嵯峨天皇に阻まれてその望みを遂げることはできず、平城天皇は出家し、仲成は殺され、薬子は毒を飲んで死んでしまう。これが薬子の変と呼ばれる事件である。

この事件に関与した咎で、平城天皇の第一皇子である阿保親王は、810年(弘仁元年)に大宰権帥に左遷される。また、第三皇子の高岳親王は皇太子を廃され、出家して弘法大師の弟子になる。この親王は仏教の真理を求めて入唐し、さらに天竺にまで赴こうとして消息がわからなくなったという。

この嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にもって生まれたのが在原業平だった。その血脈から言えば業平は嵯峨天皇の第二皇子であった仁明天皇やその子文徳天皇に劣っていたわけではない。むしろ桓武天皇につながる天皇家の嫡流に属していたといえる。しかし父祖たちの事跡が業平の生涯に深く影を落としていることを思うと、個人が引き継がざるを得ない宿命というものを考えざるを得ない。

嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にいただいたがゆえにこそ、当時の権勢家藤原一族からは遠く、権力の中枢からは外れざるを得なかった。おそらくそうした鬱屈した思いが、業平の生涯に特別な色相を添えることになったにちがいない。

 


業平卿紀行録4

2008年04月15日 | 文化・芸術

業平卿紀行録4

その後中臣の鎌足は、娘たちを天皇家の後宮に送り、天皇家の外戚となることによって権力を確立していったのであるが、これは彼らが滅ぼした蘇我氏の一族が勢力を強めたのと同じやり方だった。ここではこの歴史的な事件の背景、その経済的なあるいは政治的な動機などについては、深く論じることはできない。ただこうした政治的な事件をきっかけにして、今日的な用語で言えば、天皇を中心とした天皇全体主義とでもいうべき政治経済体制が確立されてゆくことになったのは事実のようで、それまでにも中国や朝鮮から多くの文物を手に入れてはいたが、遣唐使などの派遣も制度化されて、中国の国家体制に倣って、日本における律令国家体制がさらに整備されてゆく。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏の曾祖父がこの中臣鎌子、すなわち藤原鎌足である。この若くして亡くなられた美しい后の父は藤原良継、祖父は藤原不比等である。こうして桓武天皇のお后であるこの藤原乙牟漏に生まれた子供が後の平城天皇と嵯峨天皇および高志内親王である。

この平城天皇は幼児期をそこで過ごしたためだったのか、父の桓武天皇が長岡京、平安京と遷都した後も、奈良の都を恋しく思ったのだろうか、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後にも、上皇となって旧都の平城京に戻りそこに住んだ。そして、新しい都平安京に住む弟帝の嵯峨天皇から復権を企て、ふたたび奈良の京、平城京に遷都しようとして平城上皇が弟帝と争った事件が薬子の乱であった。

こうしてみると、ふだん散歩の途中にも、その前をただ何思うこともなく通り過ぎていた后藤原乙牟漏の高畠陵を思い出すとき感慨深いものがある。歴史を知るということはこういうことなのかも知れない。「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と『続日本紀』に記され、わずか三十一歳の若さでなくなったこの后の残した二人の兄弟、安殿親王、神野親王がその後に遷都をめぐって地位を争うようになることなど、このお后のご生前には知るよしもなかっただろう。

 


業平卿紀行録3

2008年04月14日 | 文化・芸術

業平卿紀行録3

一昨年の秋に、この十輪寺からもさほど遠くない大原野神社を訪れたときには、昔に読んだことのある伊勢物語をあらためて取り出したり源氏物語のことを思い出したりして少し調べてみた。そして、この洛西地域一帯が、とくに大原野と呼ばれるあたりは伊勢物語や源氏物語などにもゆかりの深いところであることもわかった。また、比叡山に延暦寺を創建した最澄や高野山の弘法大師空海が入唐したのも、業平のまだ生きていた頃と同じ時代であることもわかった。

平城京から長岡京、さらに平安京へと遷都の繰り返されるこの激動する時代の背景は調べてみるとなかなか面白く、学生時代に学んだ日本史が本当に通り一遍のもので「歴史を学ぶ」ということからははなはだ遠かったことが悔やまれた。

しかし後悔は先に立たずで、これをきっかけに自分なりに少しでも日本史のおさらいをしておくことにした。そうすれば、これからも歴史的な遺跡を見ても視点も定まり、またそれらを観る眼も違ってくると思う。これから歴史を考える上で必要な前提になる。

日本の古代史で大きな歴史的な転換点となったのは、大化の改新である。大化の改新を拠点としてその後の日本史の基礎が据えられたともいえるからである。この歴史的な事件のきっかけになったのは西暦645年に起きた「乙巳の変」だった。

ときの中大兄皇子とその家臣である中臣鎌子の二人は、当時の政権を掌握していた蘇我入鹿を暗殺して蘇我一族を滅ぼし、それに取って代わってそれぞれ天智天皇、藤原鎌足として権力の中枢に上り、改新の詔を発して、あらためて帝道を唯一のものとして天皇制を確立した。また、帝を補佐する臣下の筆頭として藤原氏の地位を確立することによって、その後の政治体制の基礎を築いたからである。

 


業平卿紀行録2

2008年04月13日 | 日記・紀行

業平卿紀行録2

東山の交差点を西に行くと小畑川と善峰川の合流地点に新上里橋がかかっている。ここから善峰川沿いにのぼる。途中に町家の門塀のブロックの下などにもチューリップなどが彩りを添えていて春らしい。今年の春の記念にとカメラに収める。川沿いの土手にも一本の桃の木の枝から白と薄紅のきれいな花をつけて餅花のように咲いていた。それもカメラに収める。

道なりにさらに西へ走ると墓場があり、そこには先の太平洋戦争で亡くなられた方のものらしく中尉の肩書きなどが墓石に刻まれてある。やがて左手に警察犬の訓練学校がある。宇ノ山の交差点に出る。そこを南に行くと光明寺に到るが、まっすぐに仕出し料亭のうお嘉さんの前を抜けて、灰方郵便局前の三叉路に出て左に折れる。そこを少し南に走ったところに十輪寺の案内標識が立っている。この標識には「業平ゆかりの寺」と書かれてある。この道は散歩コースで、いつも目にしていてよく知っていたが、業平を偲びに訪れるのははじめてだった。

その標識の指示する方向に進むと、右手に大歳神社がみえる。その向かいにミキサー車の誘導をしていたガードマンが立っていたので十輪寺のことを訊ねると、まっすぐに行くと案内板がみえるとのことだった。さらに行くとゴルフクラブの練習場があり、小塩の標識がかかっている。その前の道を北に行くと善峰寺のあることは何度も来ていて知っている。なるほど標識には善峰寺と十輪寺が並んで案内されている。ここから坂は少し上り道になる

少し行くと十輪寺の看板が見えた。そうかこんなところにあったのかとあらためて気づく。この道はこれまでも数え切れないくらい来ているのに、このお寺の前を素通りして気がつかなかっただけなのだ。

十輪寺は業平ゆかりのお寺である。そして業平は伊勢物語とは切り離せない。というよりも、伊勢物語や古今和歌集のゆえに、在原の業平は人々の記憶に留められているといえる。この十輪寺はその業平が晩年隠棲したと伝えられる寺である。今もこのあたりは大原野小塩町という。地名がいにしえのよすがに残されている。

これまでにもさまざまな神社や寺院を訪れてはいるけれども、友人たちとは共通の趣味や仕事の話題がほとんどで、神社や寺院の歴史的な由来などには興味もなく、秋の紅葉や春の花を楽しんだだけで終わる場合も多かった。ただ昨年ぐらいから何となく過去の歴史にやや興味を覚えはじめ、折りに触れ気の赴くままに、それらの旧跡の歴史を調べ始めた。するとさまざまのこともわかって、それなりに興味もわいてくる。

 


業平卿紀行録

2008年04月13日 | 日記・紀行

業平卿紀行録

外出を予定していたのに雨に降られたりで、先日もかなり強い雨と風で、桜も泣いているだろうと思っていた。しかし、きのうになってようやく夕方から本格的な晴れ間がみえはじめた。きっと明日は一日晴れるだろうと確信がもてたので、心にかかっていた十輪寺を訪れることにした。

自転車で行く。とくに春や秋に野に出かけるには、自転車が最適の乗り物である。菜の花や桜並木を眺めながら、土手の上などを風を切って走れば、否応がでも春の到来を実感する。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏さまの御陵の傍を抜ける。このあたりは昔の山背国乙訓郡であって、この地に平城京から遷都されて新しい都が据えられたのである。この皇后様は若くして亡くなられたから、平安京に都が移される前にここに葬られた。というよりも、この皇后の若死になどが桓武天皇の心を不安にさせたことも長岡京から平安京に移るきっかけの一つにもなったといえる。

帰化人の泰氏が多く住んでいた太秦もここから遠くなく、また新しい都の建設にこの帰化人たちの力を借りようという思惑もあったらしい。桓武天皇の母堂は百済王の血を引く娘だったという。

 


短歌日誌

2008年04月10日 | 日記・紀行

2008年4月10日(雨)

短歌日誌

少しでも晴れ間が見えれば散輪にでも出て、きのう夕闇のなかで見た小畑川沿いの桜並木をデジカメにでも収めておこうかと思っていたけれど、晴れ間どころか終日かなり強い雨になってしまった。

一月は行ってしまい、二月は逃げてしまい、三月も去ってしまう。
先月、小野小町について調べて小さな文章に書いたこともあり、三月末には小野の随心院で催される「はねず踊り」を是非に見に行こうと思っていた。しかし、行きそびれてしまった。

伏見醍醐寺の向こうぐらいで、自転車で出かけようと思っていたのに、実際に確認してみるとかなりの距離がある。それだけ時間的な余裕を見ていなければならないのに、随心院までは勘違いで時間の計測を間違っていた。
年に一度の舞台を見落としてしまうと、来年まで待たなければならない。

団地や川岸、町家の軒先などに今年も忘れることなく桜は訪れて咲いている。しかし、まだ今年は桜の名所といえるようなところには行っていない。なぜか気もはやらない。昨年の春に勝持寺で見た桜が本当にきれいだったことを思い出す。
もし、晴れ間がみえれば、まだ一度も訪れていない十輪寺でもせめて行ってみようかと思う。在原業平のゆかりの寺である。桜も間に合えばいいけれど。出来れば小さな「紀行文」にでも書き残しておこうと思う。

もともとこのブログは、日記や紀行を記録して行くつもりで開設したはずだった。それなのに、つい堅苦しい?非哲学的な国民の間にあって、ほとんど誰も興味を持たないような哲学ノートや政治評論まがいの文章でも何でもかでもみんなかまわず放り込んでしまっている。

やはり初心の通りに、このブログは日記や紀行に近い形により戻してゆこうと思っている。ただそれでも音楽やドラマ、映画などだけでなく、政治や経済などの問題などについても気にとまることなら何でも、簡単な感想の覚え書き程度には記録して行くつもりでいる。

そうすれば、もともとのテーマである「作雨作晴」に「日々の記憶」の役割も果たしてゆける。研究ノートや論文などは、目録程度にこの日記には記録しておけばよいと思う。もし万一興味や関心をもたれる人がおられれば、そちらのブログで読んでもらえばいい。そうして行けばこのブログも日記や紀行文としてまとまった体裁に戻るはずだ。

また、たとえどんなにつたないものであるとしても、日々の思いや記憶を「短歌」の形にして残してゆくことにはそれなりに意義のあることは分かった。もともと、西行などの短歌には趣味があったし、短歌を作ることにもまったく興味がなかったわけでもない。最近の記事を読んでいただいている方はお気づきだと思うけれど、恥をも省みず短歌もどきものを載せ始めている。

小野小町考の文章を書いている時、ネットで古今集について偶々調べていて、遼川るかさんとおっしゃる女流歌人のサイトに出くわした。彼女は現代に万葉調の歌風をめざしておられる方である。それ以来、訪れては読ませていただいている。その影響もあるかも知れない。

そんなこともあって、何とか自分でも作ってみることにした。実作によってより深く鑑賞できることも分かった。感情や詩想の開発にもそれなりに意義のあることも分かった。それで、遼川るかさんに倣って私も「短歌日誌」として日記と並行して記録して行こうかと思っている。

時間や推敲に余裕がなく、ろくでもないものしか作れないだろう。それでも継続してゆくことで、無味乾燥な哲学の片時に、芸術の片鱗の潤いを見出せるかも知れない。手遊びで十分だ。

昨夜は珍しく寝つきが悪く、そのうえ夜中に眼を覚ました。めったにないことである。

[短歌日誌]

軒に降りしきる雨音強まりて深夜に目が覚める

雨垂れ  強く音なふて  目覚めし昔の罪に  胸ふたがる

救うべき  十字架もなし  淵に沈みし   
                       恋しき撫子らの   面影そらに見て

 


桜雲

2008年04月09日 | 日記・紀行

(短歌日誌)

夕暮れの街を自転車で走り抜けて小畑川の橋の上にさしかかったとき、眼下の川岸に桜並木を眺めて


夕暮れて  桜雲      薄墨に染まりゆきし    

                      棚引きて中空に流れ行く


 


春の歌

2008年04月01日 | 日記・紀行

春の歌

四月に入る。用事があって大阪梅田に出る。阪急京都線で淀川を渡る。川岸の向こうにビルがさらに高く広がって見える。しばらく来ない間にも変貌を遂げている。人間の経済活動は、不景気であろうが好況であろうが、片時も休むことはない。東梅田や西梅田の地下街もさらに拡張されてテナントの数もさらに増えたようだ。蜘蛛の巣のように細かく大きくさらに広がってゆく。大阪はやはり第二の大都会である。昔と同じように今も人波は絶えず流れ続けている。

学生の頃、卒業後の進路先が内定してから、この地下街でアルバイトをしたことがある。今もあるのかどうかわからないけれど、福助というアパレル会社が出していた店で、ワイシャツやストッキングなどを売っていた。ちょうど同じくらいの年格好の女店員たちと冗談を言い合いながら過ごした時間が楽しく懐かしい記憶として残っている。彼女たちも今はどこかで誰かと結婚して子供もいるにちがいない。なかでもYさんは、おとなしい上品な女の子だった。スキーに行って彼女が唇と顔に怪我していたことも覚えている。しかし、すべてが遠いはるか昔のこととなって、青年時代に出会った人たちの多くは音信もすでに途絶えたままだ。

久しぶりに旭屋書店に立ち寄って本を一冊買う。                              今日から、道路特定財源の暫定税率が失効する。ガソリンの値段も下がるはずだ。参議院で民主党が多数を占めたことによる効果が現れたといえる。これまでのように、与党の提出する法案をそのまま白紙委任するような状況はなくなる。そのため政治が一見停滞し混乱しているようには見えるかもしれないが、民主主義にとっては進歩である。日銀総裁が決まらなかったり、地方の財政が混乱するかもしれないが、それもある意味では支払わなければならないコストである。日銀総裁ポストについても海外の目線を気にする必要はない。日本国よ、我が道を行け。

電車の窓から眺める淀川の河川敷は相変わらず醜くて潤いがない。これもまた現代日本人の精神状況を反映しているにちがいない。幼い頃には橋の欄干から釣り糸を垂れてハゼを釣る人たちの並んでいる姿も眺められたものだ。魚釣りの餌になるゴカイの採れたきれいな砂州も葦影に見えていた。今はそれらすべてがない。

しかし、いつの日か日本人も悔い改め意識も変わって、ビオトープで淀川の河川敷にも昔日の面影を取り戻す日が来ると思う。そのときには、この淀川の土手にも桜並木が彩り、川では悠々とボート遊びもできるかもしれない。ただ、私が生きているうちにそれを眺めることはないだろうけれど。

お隣の韓国では、現在の大統領である李明博氏がソウル市長時代に、ドブ川と化していた清渓川に清流を取り戻している。いつか気宇壮大な風流心のある大阪市長や大阪府知事が現れて、淀川の昔日の面影を取り戻してほしいものだ。その国土に住む人間の質がすべてだ。すでに韓国には追い抜かれてしまったけれど。

まだ西洋人の毒を知らずにいた頃の、ある意味で幸福な美しい夢を見ていた時代の日本人に残された記憶。それでいつも思い出すのは、与謝蕪村の次の歌である。その頃はまだ淀川もこんなに美しかったのだ。

与謝野蕪村  作
               春風馬堤曲
            
余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。
先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。
因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲

やぶ入りや浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し

堤ヨリ下テ摘芳草 荊与蕀塞路
荊蕀何妬情 裂裙且傷股
渓流石転ゝ 踏石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙

一軒の茶見世の柳老にけり
茶店の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且儂が春衣を美む
店中有二客 能解江南語
酒銭擲三緡 迎我譲榻去

古駅三両家猫児妻を呼妻来らず
呼雛籬外鶏 籬外草満地
雛飛欲越籬 籬高堕三四

春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲けり三ゝ五ゝ五ゝは黄に
三ゝは白し記得す去年此の路よりす
憐みとる蒲公茎短して乳を水邑※
むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懐袍別に春あり

春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋辺財主の家
春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅

故郷春深し行ゝて又行ゝ
楊柳長堤道漸くくだれり
矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
待春又春

君不見古人太祇が句
薮入の寝るやひとりの親の側

※正しくはサンズイに邑

(短歌の試み)

赤松の防砂林に延びる遠州浜を散策した昔を思い出して詠む

一    春の日に 優しき光浴びつつ  浜辺に延びる小道を辿る
二    春の陽の   白光浴びてのどけく  蒲公英の路傍に咲けり
三    潮風にそよけく   うち寄せる沖の浦波   君の白き足と遊ぶ
四    磯の香と  寄せくる波と戯れに  沖行く船を指示しつ我に
五    春霞む  大海原眺めおりし君が背に  黒髪潮風に靡ける
六    潮の香の  松の木陰に屈まりて 露草に小水を試みし人
七    赤松の 防砂林に 友待つ鶯の声  鳴き渡る

 Tristan und Isolde finale scene conducted by Bernstein

 


Laura Branigan - Self Control

2008年04月01日 | 歌詞サ行
 
Laura Branigan - Self Control
 
 
Oh, the night is my world
City light painted girl
In the day nothing matters
It's the night time that flatters
In the night, no control
Through the wall something's breaking
Wearing white as you're walkin'
Down the street of my soul

You take my self, you take my self control
You got me livin' only for the night
Before the morning comes, the story's told
You take my self, you take my self control

Another night, another day goes by
I never stop myself to wonder why
You help me to forget to play my role
You take my self, you take my self control

I, I live among the creatures of the night
I haven't got the will to try and fight
Against a new tomorrow, so I guess I'll just believe it
That tomorrow never comes

A safe night, I'm living in the forest of my dream
I know the night is not as it would seem
I must believe in something, so I'll make myself believe it
That this night will never go

Oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh
Oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh

Oh, the night is my world
City light painted girl
In the day nothing matters
It's the night time that flatters

I, I live among the creatures of the night
I haven't got the will to try and fight
Against a new tomorrow, so I guess I'll just believe it
That tomorrow never knows

A safe night, I'm living in the  forest of a dream
I know the night is not as it would seem
I must believe in something, so I'll make myself believe it
That this night will never go

Oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh, oh-oh-oh
You take my self, you take my self control
You take my self, you take my self control
You take my self, you take my self control
 
 
 
 
Laura Branigan - Self Control
 
 
 
 
 
 

天高群星近