天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

慈円

2023年02月26日 | 西行

慈円

慈円
Jien.jpg
諡号 慈鎮和尚
宗旨 天台宗
明雲
著作 愚管抄
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慈円(じえん、旧字体:慈圓久寿2年4月15日1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日1225年10月28日[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したとされることで知られる(杉橋隆夫立命館大学名誉教授 によると、そうではないとする異説がある[要出典])。諡号慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。

父は摂政関白藤原忠通[2]、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。

経歴

幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年天台座主明雲について受戒。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円の兄である九条兼実が慈円に譲らせようと圧迫したと伝えられている。また、行玄から覚快への継承に異論を抱いていた実寛も慈円への継承に反対したため、覚快・実寛両者が没するまで継承できなかったという[3])。

建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。

天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である践祚した懐成親王(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して懐成復位を願う願文を納めている[4]。『愚管抄』には「鳥羽上皇が亡くなった後に動乱が続いて武者(むさ、武士)の世となった」と記しており、建久3年(1192年)や文治元年(1185年)に成立したとされる鎌倉時代以前から武士の時代が既に始まっていたことを、当時から認識していたようである[5]。また、『門葉記』に採録された覚源藤原定家の子)の日記[6]には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。

また、当時異端視されていた専修念仏法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。

歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られる。越天楽今様の作詞者でもある(歌詞はs:謡物を参照)。

関連作品

映画
テレビドラマ

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 慈円』 - コトバンク
  2. ^ 「慈円」―歴史に流れる「道理」を説いた天台僧―”. DANAnet(ダーナネット) (2017年9月15日). 2020年10月11日閲覧。
  3. ^ 稲葉伸道 著「青蓮院門跡の成立と展開」、河音能平; 福田榮次郎 編 『延暦寺と中世社会』法蔵館、2004年。/所収:稲葉伸道 『日本中世の王朝・幕府と寺社』吉川弘文館、278-280・303頁。
  4. ^ 鎌倉遺文』3202号貞応3年正月「慈円願文」
  5. ^ 『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』、2020年10月発行、繁田信一、文芸春秋、P3~P4
  6. ^ 仁治3年正月24日条

参考文献

  • 多賀宗隼 『慈円』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年 (原著1959年)。
  • 多賀宗隼 『慈円の研究』吉川弘文館、1980年。 
  • 鈴木正道 『慈円研究序説』桜楓社、1993年。

外部リンク

  • 國歌大觀. 續 歌集部 - 拾玉集(慈鎭)、木村正辭, 井上頼圀 監修[他] 紀元社書店(国立国会図書館)

※出典

慈円 - Wikipedia https://is.gd/4Mz47Q

 

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藤原忠実2

2016年01月24日 | 西行

人物

  • 孫の慈円は忠実を「執フカキ(執念深い)人」と評している。
  • 朗詠に優れ、藤原宗俊に学んだ箏は管弦の御遊でたびたび演奏し、各種古記録等に記載された御遊での演奏回数は息子・忠通に並んで多い。

摂関家領の復興

道長・頼通の時代までに拡大した摂関家領は、後三条天皇による延久の荘園整理や、代々の親族への分割譲渡により縮小してきていたが、忠実は摂関家の再興のために摂関家領の復興を行っている。

頼通の所領は正室の隆姫女王・嫡男の師実(忠実の祖父)・娘の寛子後冷泉天皇皇后、忠実の養母)にそれぞれ分割譲渡されていたが、忠実はこれを全て相続。加えて忠実は母・藤原全子(藤原俊家の娘)、祖母・源麗子(師実正室、源師房娘)の所領も相続した(『近衛家文書』)。忠実は自ら相続したこれらの所領を合わせて、殿下渡領とは別の摂関家の不分割家領とした。

また忠実は個々荘園の拡大も行った。代表的な例として、平季基が開発し頼通の時代に摂関家に寄進した島津荘薩摩国)がある。これは当初数百町歩しかない小規模なものであったが、忠実の代になって大隅国に約千五百町歩の新たな出作地を獲得している。

また、前述のように忠実は忠通に摂関の地位を譲った後も広大な所領(「宇治殿領」)を引き続き保有しており、後に「宇治殿領」は忠通に与えた「京極殿領」と娘の高陽院に与えた「高陽院領」に分けられたが、預所補任などは引き続き忠実が行った[5]。さらに前者に関しては仁平年間に忠通を義絶した際に悔返を行って頼長に与え(近衛家所領目録「庄々相承次第」)、後者は高陽院没後は回収するなど、依然として忠実が実質上の所有者であり続けた。この状況は保元の乱後に「宇治殿領」全てを忠通に譲渡するまで続いた[6]

こうした努力により忠実は豊富な財力を手にし、その邸宅は富家殿と呼ばれた。

官歴

系譜

脚注

  1. ^ その一方で、法皇は自分以外の者には決して見せなかった父・後三条天皇の宸記から部類記を作成するように忠実に命じて、完成した部類記をこの年の10月23日に堀河天皇に与えている(『中右記』、作成経緯については『中外抄仁平元年7月6日条)。これは天皇の補佐である摂関に必要な秘事を忠実に伝授すると同時に摂関である忠実を治天の君の指揮下に置こうとする方針があったと考えられている(松薗斉『王朝日記論』法政大学出版局、2006年。 ISBN 978-4-588-25052-1 P43-47)。
  2. ^ 公実は鳥羽天皇の生母藤原苡子の兄にあたる。
  3. ^ もっ とも、この謹慎期間にあっても忠実は大殿として摂関家領の経営を独占しており、後の政界復帰後に権力を振るえた背景には藤氏長者でありながら自領をほとん ど持ちえなかった忠通が、忠実の経済力に依存せざるを得なかったからだとする見方もある(樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史 研究』484、2002年/所収:樋口『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年)。
  4. ^ 上皇へ入内した后妃が皇后になった前例はなかった。「太上皇以夫人立后例不聞」(『長秋記』)。
  5. ^ 鎌倉時代に忠通の子孫である近衛家で作成された所領目録によれば、京極殿領は51か所・高陽院領は49か所あったという。
  6. ^ 樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史研究』484、2002年/所収『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年。
  7. ^ 『後二条師通記』『中右記』。『公卿補任』は22日とする。

関連項目

 

※出典

藤原忠実 - Wikipedia https://is.gd/ehrk5b

 

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藤原忠実1

2016年01月24日 | 西行

藤原忠実

 1 生涯

生涯

白河院政期

栄花物語』の続編の最後(40巻「紫野」)は当時15歳で中納言となった忠実が奈良春日大社春日祭を主催して帰京する場面で締めくくられ、忠実の元で摂関家が再び興隆する期待感をもって終わっている。

しかしながら現実には康和元年(1099年)に父の師通が急死した際、22歳で権大納言の忠実は、最年少で摂政となった曽祖父・頼通の26歳という年齢を大きく下回っていたこと(しかも頼通は就任から10年近く父・道長の後見を受けた)に加え、まだ大臣に任官されていなかったことにより、関白には任じられず内覧にとどまった。また、既に引退していた祖父・師実にも忠実を支える余力はなかった。ただし、内覧であっても過去には藤原時平や道長のように摂関同様の実権を振るった例もあり、忠実にも挽回の可能性が残されていたが、源義親の濫行や東大寺僧の赤袈裟着用問題では自らの判断を下すことが出来ず、政治的未熟をさらけ出した。特に致命的であったのは康和4年(1102年)に大衆に対する取締の不徹底を理由に、白河法皇が忠実の叔父である興福寺別当覚信を解任しようとした際、これを取り成そうとして却って法皇の怒りを買ってしまい、8月1日に法皇から政務関与への拒絶を通告された事件であった(『中右記』)[1]

こうした一連の事件のために摂関家は完全に院政の風下に立つ事になり、忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求する事になる。

忠実の最初の妻は源俊房の娘・任子だったが、子の早世により婚姻関係は消滅してしまう。その後に正室となった源顕房の娘・師子は忠実より8歳年長で、既に白河法皇の子・覚法法親王を産んでいた。『今鏡』によると、師子に一目惚れした忠実が祖母の麗子に頼み、法皇から譲り受けたとする。

康和2年(1100年)に右大臣となり、長治2年(1105年)に堀河天皇の関白に任じられる。嘉承2年(1107年)、忠実と摂関家にとって最大の危機が鳥羽天皇践祚と共に起こった。鳥羽天皇の践祚に尽力した藤原公実が天皇の外戚[2]である事を理由に摂政の地位を望んだのである。白河法皇も一時迷うが、院庁別当・源俊明の反対でその望みは斥けられ、忠実は辛くも摂関の地位を保持することができた。

嘉承3年(1108年)年正月の除目は、平正盛が「最下品」でありながら「第一国」である因幡国受領となるなど法皇の近臣が多く受領に任じられたが、この除目を主催したのは他ならぬ忠実であり、法皇への従属は決定的なものとなっていた。永久元年(1113年)には再び関白に転じるが立場の弱さは相変わらずで、永久の強訴では藤氏長者として興福寺の説得を試みるが効果はなく、防御に向かった北面武士が上洛を目指す興福寺大衆と衝突して流血の惨事が起こるなど失態が続いた。事態打開のため、各地に摂関家領荘園を形成して経済基盤の建て直しを図るが、法皇の警戒を招き荘園の拡大は抑制される。

この頃、法皇により長男・藤原忠通と藤原公実の娘・璋子の婚姻の話がもちあがるが、璋子の素行に噂があったことや、忠実が閑院流を快く思っていなかったこともあって、破談になっていた。同時期、忠実は娘の勲子を鳥羽天皇に入内させるよう、法皇に勧められるが固辞している。ところが永久5年(1117年)、璋子は鳥羽天皇に入内する。衝撃を受けた忠実は鳥羽天皇の希望もあって、保安元年(1120年)、 勲子を入内させようと工作を始めた。だが、以前入内の勧めを断りながら鳥羽天皇の希望を受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し、ただちに忠実の 内覧は停止された。内覧は天皇に奏上される文書を見る職務であり、この職務を剥奪されることは事実上関白を罷免される事に等しかった。驚いて駆けつけてき た中御門宗忠に、忠実はただ「運が尽きた」と語った(『中右記』)。この時、法皇は忠実の叔父・花山院家忠を関白にするつもりだったが、藤原顕隆の反対により翌保安2年(1121年)、忠通が関白となる。この後、忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。なお、次男・頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである[3]

鳥羽院政期

大治4年(1129年)に白河法皇が崩御、鳥羽院政が始まると忠実は政界に復帰を果たし、天承2年(1132年)再び内覧の宣旨を得る。また、白河法皇の遺言に反して、長承元年(1133年)忠実は自らの娘・勲子を鳥羽上皇の妃とし、異例の措置[4]で皇后となり(勲子は泰子に改名する)、さらに院号宣下を受けて高陽院となる。忠実は前回の失脚の反省からか、鳥羽上皇の寵妃・藤原得子(美福門院)や寵臣・藤原家成とも親交を深めて、摂関家の勢力回復につとめた。

しかしながら、忠実が再び内覧となり政務を執る一方で、名ばかりとなってしまったとはいえ忠通にも関白としての矜持があり、父子の関係は次第に悪化していく。忠通に男子が生まれない事を危惧した忠実は、忠通に頼長を養子にするように勧め、天治2年(1125年)に頼長は忠通の養子となった。しかし康治2年(1143年)に忠通に実子の基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望んだ忠通は頼長との縁組を破棄する。さらに久安6年(1150年)正月、頼長が養女・多子近衛天皇に入内させると、忠通も養女・呈子を入内させて頼長に対抗した。忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも忠通が拒否したため、久安6年(1150年)9月、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。仁平元年(1151年)には忠実の尽力により頼長が内覧の宣旨を受け、関白と内覧が並立するという異常事態となった。忠実は鳥羽法皇と良好な関係を保っていた一方で、忠通も美福門院の信任を受けていたこともあり、鳥羽法皇は忠実と忠通の和解を望み、忠通と頼長の片方に肩入れするようなことを避けてきた。しかし、久寿2年(1155年)、近衛天皇が子なく崩御し、忠通の推す後白河天皇が即位すると、頼長は近衛天皇を呪詛した疑いをかけられ鳥羽法皇の信任を失い、再び内覧宣下を受けることなく失脚してしまう。忠実はパイプ役である高陽院のとりなしで法皇の怒りを解こうとするが、高陽院の死去で失敗に終わった。

保元の乱

保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、検非違使が召集されて京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

謀反人の烙印を押された頼長は崇徳上皇と ともに白河北殿に立てこもるが、天皇方の夜襲により敗北する。頼長の敗北を知った忠実は宇治から南都に逃れた。重傷を負った頼長は忠実に対面を望むが、頼 長に連座して罪人になる事を避けるため忠実は苦渋の末これを拒み、頼長は失意の内に死んだ。15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。 摂関家の事実上の総帥(大殿) だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われ る。しかし忠実は当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官 すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じ られている。20日になって、忠実から忠通に「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」と「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長師長隆長範長)や藤原教長らの貴族、源為義平忠正家弘ら の武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。この乱で摂関家は、武士・悪僧の預所改 易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになる。自立性を 失った摂関家の勢力は大幅に後退し、忠実の摂関家の栄華を再び取り戻すという夢は叶わずに終わった。

こういった経緯のためか、忠通の十一男慈円は著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記述している。

 

※出典

藤原忠実 - Wikipedia https://is.gd/ehrk5b

 

 

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西行文献資料

2014年08月06日 | 西行


西行文献資料

藤本有紀『平清盛』http://goo.gl/XCKH9n

渡辺淳一『天上紅蓮』http://goo.gl/6WbFsK

瀬戸内寂聴『白道』 http://goo.gl/eXdJ7x

辻 邦生『西行花伝』http://goo.gl/ZbGHW3

『保元物語』岩波文庫  http://goo.gl/pX9hBf

慈円『愚管抄』講談社学術  http://goo.gl/4ViQit

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保元の乱4

2014年08月05日 | 西行

脚注

  1. ^ 『古事談』には父子の対立の原因として、崇徳天皇が白河法皇の子であり、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
  2. ^ 妾腹の男子がいたが、母の身分が低いためか早くに出家している。
  3. ^ 「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」(『山槐記』永暦元年12月4日条)
  4. ^ 為義については摂関家の家人であり北面ではないとする見解が一般的であるが、『愚管抄』に「キタオモテ(北面)」と明記され、院主催の流鏑馬行事や強訴防御にも登場することから、北面に在籍していたとする説もある(横澤大典「白河・鳥羽院政期における京都の軍事警察制度-院権力と軍事動員-」『古代文化』527、2002年平成14年))。
  5. ^ この警備については、近衛天皇の崩御時と同様に、混乱一般の防止にあったとする説(河内祥輔)、動員の規模が大きく高松殿も警備の対象になっていることから、法皇没後に崇徳上皇や藤原頼長が兵を起こす危険に備えたという説(元木泰雄)がある。
  6. ^ ただし、後白河天皇も崇徳上皇同様に法皇の見舞いにも死後の対面にも行っておらず、崇徳上皇のみを拒絶の対象にしていた訳ではないとする指摘(河内祥輔)がある。
  7. ^ 法皇の遺体を棺に納めたのは、信西・藤原惟方・藤原成親源資賢・源光保・藤原信輔藤原信隆高階盛章の8名だった(『兵範記』7月2日条)。その後の政治的動向を見ると、信西と惟方が主導的立場にあったと思われる。
  8. ^ な お、背後で画策したのは忠通とする説(河内祥輔)もあるが、頼長を追い落とすためとはいえ、摂関家の威信を失墜させる「氏長者の謀反人認定」という措置に 踏み切れたかどうか疑問が残る。一方、信西は低い身分からのたたき上げで死刑復活や寺社統制を断行するなど、伝統や権威に縛られない人物だった。摂関家に 対しても畏敬の念はなく、むしろ倒すべき障害と認識していた可能性もある。
  9. ^ 「当時マコトニ無勢ゲナリ」「勢ズクナナル者ドモ」(『愚管抄』)
  10. ^ 『保元物語』では為朝だが、『愚管抄』では為義が献策したとする。
  11. ^ 忠 通の逡巡の本質について、河内祥輔は合戦そのものへの逡巡と説き、山田邦和は夜討という戦術に対する逡巡と説いて軍事行動にはむしろ積極的であったとみ る。山田は夜討につきものであった放火によって法勝寺などの六勝寺に炎上させることで貴族社会内部からの反感を買うことを危惧したと見る。
  12. ^ 東三条殿に一時的に皇居を移したことについては、高松殿が手狭で軍事拠点に不向きだった、摂関家の屈服を示す狙いがあった、薬子の変承和の変の先例に従ったなどの説があるが、正確な理由は不明である。
  13. ^ 『保元物語』は為朝と景義の戦闘を白河北殿の門内とするが、『吾妻鏡』は大炊御門河原であったとする。
  14. ^ 山 田邦和は残敵の中でももっとも重要な存在であった上皇と頼長が逃亡の際、上皇は内裏のある高松殿の周辺を逃げ回り、頼長も平安京を横断するというもっとも 目につきやすいルートを用いて逃亡しているのに、残敵掃討の指揮にあたった義朝がこれを顧慮しなかったことを指摘して、「手抜かりというレヴェルですらあ るまい」として、義朝を「十廿騎の私事」といった小競り合いに長けているだけの無能力な人物と酷評している。
  15. ^ 『兵範記』8月4日条には「ただ仏と仏との評定。余人、沙汰に及ばざるか」とある。仏は出家者のことであり、信西と美福門院を指していると見られる。
  16. ^ 東国の武士は朝廷が国衙を通して動員しており、義朝と主従関係にない武士も多く含まれていたという指摘がある(野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年平成19年))。

参考文献

関連項目

保元の乱を扱った作品

ウォーゲーム

歌謡曲

外部リンク

 

※出典 Wikipedia 「保元の乱」の項より
http://goo.gl/Qigg9
 

 

 

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保元の乱3

2014年08月05日 | 西行

 


摂関家の凋落

この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だっ た。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や 氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。

忠通は保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど[15]、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。

乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に 抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持す るグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。

参加者一覧

天皇方

貴族

武士(北面・検非違使・京武者)

清盛軍の武士

義朝軍の武士[16]

上皇方

貴族等

武士

僧侶

後日談

閏9月18日、朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令するが、それに先立つ閏9月8日に以下の宣命を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告した。

後白河天皇宣命案(石清水文書) 『平安遺文』2848

読み下し文

… 前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。 然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の 群を成して、梟悪の謀を企つ。ここによりて同十一日、凶徒を禦がんが為に官軍を差し遣わす。而して宗廟の鎮護により、社稷の冥助を蒙りて、謀反の輩、即ち 以て退散しぬ。頼長朝臣は流矢に中りて其の命を終えにき。これ即ち神の誅するところなり。まことに人の所為にあらず。廿三日に太上天皇をば讃岐国に遷送し 奉る。其の外の党類、或いは刑官に仰せて召し捕らえ、或いは王化に帰して来服す。即ち明法博士等をして所当の罪名を勘申しむるに、首従なきの律により、各 斬刑に処すべきの由を奏せり。然れども殊に念ずるところあり、右近衛大将藤原兼長朝臣以下十三人をば、一等を減じて遠流の罪に治め賜う。合戦の輩、散位平 朝臣忠貞以下二十人をば、古跡を弘仁に考え、時議を群卿に訪いて、かつ法律のままに斬罪に処せり。それ法令は馭俗の始めなり。刑罰は懲悪の基なり。もし寄 せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。これ眇身の為に行わず。ただ国家に私なからむとなり。…

意訳

… 前左大臣の藤原頼長は、ひたすら悪事を凝らし、理由もなく反逆を企んで、太上天皇をそそのかして、天下の秩序を乱し、国家を転覆しようと図ってい るという噂が世上に飛び交った。そのような中、去る7月9日の夜に太上天皇がひそかに城南の離宮(鳥羽殿)を出て、洛東の旧院(白河北殿)に御幸して、そ こを決戦の場所に定め、武士を集めて頼長とともに狼の群れのようになり、凶悪な謀略を企てた。これに対して11日、凶徒を防ぐために官軍を派遣したとこ ろ、祖先の霊廟(石清水八幡宮)の加護により、土地の神の助けを頂いて、謀反の輩は退散した。頼長は流れ矢に当たって、その生命を終えた。これは神の罰で あり、まことに人のなしたことではない。23日、太上天皇を讃岐国に配流した。その他の党類も、ある者は刑吏に捕らえられ、ある者は天皇の徳に従って降伏 した。明法博士らに相当の罪を検討させたところ、主犯・従犯の区別はしないという律の規定により、みな斬刑に処すよう奏上があった。しかし特別に思うこと があり、右近衛大将の藤原兼長以下13人は、罪一等を減じて遠流の罪とした。戦闘員である平忠貞以下20人は弘仁(薬子の変)の先例にならい、公卿らに諮 問して、法律のままに斬罪に処した。そもそも法令は習俗を統制する始めである。刑罰は悪を懲らしめる基本である。もし関係の深さで優遇し、官職の高さを理 由に宥免したりすれば、天下を治めるのは困難になり、後世の者も厳罰を加えることができなくなる。これは私のために行うことではない。国家に私事はないの である。…

内容は、乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰と して、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処 置とするなど、天皇方の勝利宣言といえるものだった。この朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河法皇の側近になって も変わることはなかった。しかし安元2年(1176年)に建春門院高松院六条院九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。

年表

  • 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
月日
宣明暦長暦)
内容出典
 
5月22日 鳥羽法皇、重態に陥る 兵範記
5月30日 鳥羽法皇の御万歳(崩御)の沙汰が始まる 兵範記
6月1日 源義朝源義康等の武士、院宣により内裏、院御所の守護を開始する 兵範記
7月2日 鳥羽法皇崩御 兵範記
7月5日 京中の武士の動きを停止する後白河天皇の勅命が発せられる 兵範記
7月6日 藤原頼長家人、源親治捕えられる 兵範記
7月8日 摂関家荘園の武士の動員禁止の綸旨
高階俊成、源義朝が東三条殿を接収する
鳥羽法皇初七日法要
兵範記
7月9日 崇徳上皇、白河北殿に入る 兵範記
7月10日 藤原頼長、白河北殿に入る 崇徳上皇の下に兵が集まる
高松殿の後白河天皇の下に武士が参集
兵範記
7月11日 後白河天皇方の軍勢が白河北殿に向かって出撃、崇徳上皇方と戦闘が行なわれ後白河天皇方が勝利する

藤原忠通を氏長者にする宣旨が下される
後白河方の武士たちに恩賞が与えられる

兵範記
7月12日 崇徳上皇出家 兵範記
7月13日 崇徳上皇、後白河天皇方へ身柄を遷される 兵範記
7月14日 崇徳方の中心人物・藤原教長が右大弁らによる取調べを受ける
藤原頼長死去
兵範記
7月15日 藤原忠実、藤原忠通に接触を開始する。 兵範記
7月18日 旧藤原忠実領、後白河天皇の綸旨によって藤原忠通に与えられる 兵範記
7月23日 崇徳上皇、讃岐に遷される 兵範記
7月27日 崇徳側逮捕者への罪名宣下(判決) がされる 兵範記
7月28日 平忠正らが処刑される 兵範記
7月30日 源為義平家弘らが処刑される 兵範記
8月3日 藤原教長、藤原頼長子息ら崇徳方に属した者達の流刑が執行される 兵範記

文学作品

物語

俳句

 

※出典 Wikipedia 「保元の乱」の項より
http://goo.gl/Qigg9
 

 

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保元の乱2

2014年08月05日 | 西行

 

 

 挑発の開始

 

鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。

この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される[8]。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

崇徳上皇の脱出

7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に 押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する 直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと 思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。

両軍の対峙

10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲経憲の兄弟、武士では平家弘源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった[9]。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。白河北殿では軍議が開かれ、源為朝は高松殿への夜襲を献策する[10]。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。

これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政源重成源季実平信兼・平維繁が続々と召集され、「軍、雲霞の如し」(『兵範記』7月10日条)と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・徳大寺実能が軍勢出撃後に姿を現しただけである。大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。

清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという[11]

夜襲

7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた[12]

戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される[13]

攻 めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の 刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う[14]。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都へ逃亡した。

戦後

上皇方の投降

合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。

13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。

崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。

摂関家の苦境

15 日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることに なれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされ ており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を 忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられて いるが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。

19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾し、20日には忠実から忠通に「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」 と「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。『保元物語』 には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合 いがあった様子がうかがわれる。

罪名宣下

23日、崇徳上皇は讃岐に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)にこの世を去った。重仁親王は寛暁堀河天皇皇子)の弟子として出家することを条件に不問とされた。

27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長師長隆長範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。

武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたという。

こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。

 

※出典 Wikipedia 「保元の乱」の項より
http://goo.gl/Qigg9
 
 
 
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保元の乱1

2014年08月05日 | 西行

保元の乱

保元の乱
保元・平治の乱合戦図屏風絵
『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」
江戸時代メトロポリタン美術館所蔵
戦争
年月日
旧暦保元元年7月11日
グレゴリオ暦1156年
場所平安京
結果後白河天皇方の勝利
交戦勢力
Imperial Seal of Japan.svg 後白河天皇
Japanese crest Sagari Fuji.svg 藤原忠通
Imperial Seal of Japan.svg 崇徳上皇
Japanese crest Sagari Fuji.svg 藤原頼長 
指揮官
Sasa Rindo.svg 源義朝
Ageha-cho.svg 平清盛
Sasa Rindo.svg 源頼政
Sasa Rindo.svg 源義康
Sasa Rindo.svg 源重成
Ageha-cho.svg 平信兼
Sasa Rindo.svg 源為義
Ageha-cho.svg 平忠正
Ageha-cho.svg 平家弘
Sasa Rindo.svg 源頼憲
戦力
第一陣:600騎
  • 平清盛:300騎
  • 源義朝:200騎
  • 源義康:100騎


第二陣:不明

 
損害
   

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。

背景

近衛天皇即位

永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった[1]。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚である閑院流の勢力は後退した。中御門流村上源氏公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣藤原頼長)という状況になった。

摂関家の内紛

白河院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の娘・藤原泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた[2]。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。

久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・多子が入内、19日に女御となる。しかし、2月になると忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる。鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。同年9月、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する。鳥羽法皇は先の入内問題と同じく曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で頼長に内覧宣旨を下す。ここに関白と内覧が並立する異常事態となった。

近衛天皇崩御

内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁への譲位を法皇に奏上する。この提案は一旦は拒絶されたものの、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった[3]。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に 出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた。忠実は頼長を謹慎 させパイプ役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。

鳥羽法皇崩御

新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。

ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義平清盛北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという[4]。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿源光保平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏源義朝源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)[5]

それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した[6]。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った[7]

経過

『保元・平治合戦図屏風』(神泉苑蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛
 
 
※出典 Wikipedia 「保元の乱」の項より
http://goo.gl/Qigg9
 
 
 
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『保元・平治の乱合戦図屏風』保元の乱 白河殿焼き討ち

2013年06月14日 | 西行

『保元・平治の乱合戦図屏風』保元の乱 白河殿焼き討ち

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平治物語絵詞・信西巻

2013年06月14日 | 西行

平治物語絵詞・信西巻

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日本の元号

2013年06月14日 | 西行

 

日本の元号
飛鳥時代    

    大化645-650
    白雉650-654
        白鳳(私年号)
        朱雀(私年号)
    朱鳥686
    大宝701-704
    慶雲704-708
    和銅708-715

奈良時代    

    霊亀715-717
    養老717-724
    神亀724-729
    天平729-749
    天平感宝749
    天平勝宝749-757
    天平宝字757-765
    天平神護765-767
    神護景雲767-770
    宝亀770-781
    天応781-782
    延暦782-806

平安時代    

    大同806-810
    弘仁810-824
    天長824-834
    承和834-848
    嘉祥848-851
    仁寿851-854
    斉衡854-857
    天安857-859
    貞観859-877
    元慶877-885
    仁和885-889
    寛平889-898
    昌泰898-901
    延喜901-923
    延長923-931
    承平931-938
    天慶938-947
    天暦947-957
    天徳957-961
    応和961-964
    康保964-968
    安和968-970
    天禄970-974
    天延974-976
    貞元976-978
    天元978-983
    永観983-985
    寛和985-987
    永延987-989
    永祚989-990
    正暦990-995
    長徳995-999
    長保999-1004
    寛弘1004-1013
    長和1013-1017
    寛仁1017-1021
    治安1021-1024
    万寿1024-1028
    長元1028-1037
    長暦1037-1040
    長久1040-1044
    寛徳1044-1046
    永承1046-1053
    天喜1053-1058
    康平1058-1065
    治暦1065-1069
    延久1069-1074
    承保1074-1077
    承暦1077-1081
    永保1081-1084
    応徳1084-1087
    寛治1087-1095
    嘉保1095-1097
    永長1097-1097
    承徳1097-1099
    康和1099-1104
    長治1104-1106
    嘉承1106-1108
    天仁1108-1110
    天永1110-1113
    永久1113-1118
    元永1118-1120  西行 生
    保安1120-1124
    天治1124-1126
    大治1126-1131
    天承1131-1132
    長承1132-1135
    保延1135-1141
    永治1141-1142
    康治1142-1144
    天養1144-1145
    久安1145-1151
    仁平1151-1154
    久寿1154-1156
    保元1156-1159  保元の乱
    平治1159-1160
    永暦1160-1161
    応保1161-1163
    長寛1163-1165
    永万1165-1166
    仁安1166-1169
    嘉応1169-1171
    承安1171-1175
    安元1175-1177
    治承1177-1181
    養和1181-1182
    寿永1182-1184
    元暦1184-1185

鎌倉時代    

    文治1185-1190  西行 死
    建久1190-1199
    正治1199-1201
    建仁1201-1204
    元久1204-1206
    建永1206-1207
    承元1207-1211
    建暦1211-1214
    建保1214-1219
    承久1219-1222
    貞応1222-1224
    元仁1224-1225
    嘉禄1225-1228
    安貞1228-1229
    寛喜1229-1232
    貞永1232-1233
    天福1233-1234
    文暦1234-1235
    嘉禎1235-1238
    暦仁1238-1239
    延応1239-1240
    仁治1240-1243
    寛元1243-1247
    宝治1247-1249
    建長1249-1256
    康元1256-1257
    正嘉1257-1259
    正元1259-1260
    文応1260-1261
    弘長1261-1264
    文永1264-1275
    建治1275-1278
    弘安1278-1288
    正応1288-1293
    永仁1293-1299
    正安1299-1302
    乾元1302-1303
    嘉元1303-1307
    徳治1307-1308
    延慶1308-1311
    応長1311-1312
    正和1312-1317
    文保1317-1319
    元応1319-1321
    元亨1321-1324
    正中1324-1326
    嘉暦1326-1329
    元徳1329-1331(大覚寺統), 1329-1332(持明院統)

大覚寺統    
元弘1331-1334
持明院統    
正慶1332-1333
南北朝時代
室町時代    

    建武1334-1336(南朝),1334-1338(北朝)

南朝(大覚寺統)    

    延元1336-1340
    興国1340-1347
    正平1347-1370
    建徳1370-1372
    文中1372-1375
    天授1375-1381
    弘和1381-1384
    元中1384-1392

北朝(持明院統)    

    暦応1338-1342
    康永1342-1345
    貞和1345-1350
    観応1350-1352
    文和1352-1356
    延文1356-1361
    康安1361-1362
    貞治1362-1368
    応安1368-1375
    永和1375-1379
    康暦1379-1381
    永徳1381-1384
    至徳1384-1387
    嘉慶1387-1389
    康応1389-1390
    明徳1390-1394

    応永1394-1428
    正長1428-1429
    永享1429-1441
    嘉吉1441-1444
    文安1444-1449
    宝徳1449-1452
    享徳1452-1455
    康正1455-1457
    長禄1457-1461
    寛正1461-1466
    文正1466-1467

戦国時代    

    応仁1467-1469
    文明1469-1487
    長享1487-1489
    延徳1489-1492
    明応1492-1501
    文亀1501-1504
    永正1504-1521
    大永1521-1528
    享禄1528-1532
    天文1532-1555
    弘治1555-1558
    永禄1558-1570
    元亀1570-1573

安土桃山時代    

    天正1573-1593
    文禄1593-1596
    慶長1596-1615

江戸時代    

    元和1615-1624
    寛永1624-1645
    正保1645-1648
    慶安1648-1652
    承応1652-1655
    明暦1655-1658
    万治1658-1661
    寛文1661-1673
    延宝1673-1681
    天和1681-1684
    貞享1684-1688
    元禄1688-1704
    宝永1704-1711
    正徳1711-1716
    享保1716-1736
    元文1736-1741
    寛保1741-1744
    延享1744-1748
    寛延1748-1751
    宝暦1751-1764
    明和1764-1772
    安永1772-1781
    天明1781-1789
    寛政1789-1801
    享和1801-1804
    文化1804-1818
    文政1818-1831
    天保1831-1845
    弘化1845-1848
    嘉永1848-1855
    安政1855-1860
    万延1860-1861
    文久1861-1864
    元治1864-1865
    慶応1865-1868

明治以降    

    明治1868-1912
    大正1912-1926
    昭和1926-1989
    平成1989-

白鳳と朱雀は日本書紀に現れないが、地方の歴史書等に多数散見される元号


    日本の元号

 

 

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元永――日本の年号

2013年06月14日 | 西行

 

元永

元永(げんえい)は、日本の元号の一つ。永久の後、保安の前。1118年から1119年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。
改元

    永久6年4月3日(ユリウス暦1118年4月25日) 天変と疫病により改元
    元永3年4月10日(ユリウス暦1120年5月9日) 保安に改元

出典
元永期におきた出来事
    1118年、諸国飢饉で、京中の道路に餓死者あふれる[1]。
西暦との対照表
※は小の月を示す。
元永元年(戊戌)     一月※     二月     三月     四月※     五月     六月※     七月     八月※     九月     閏九月※     十月     十一月※     十二月
ユリウス暦     1118/1/24     2/22     3/24     4/23     5/22     6/21     7/20     8/19     9/17     10/17     11/15     12/15     1119/1/13
元永二年(己亥)     一月※     二月     三月※     四月     五月     六月※     七月     八月※     九月     十月※     十一月     十二月※    
ユリウス暦     1119/2/12     3/13     4/12     5/11     6/10     7/10     8/8     9/7     10/6     11/5     12/4     1120/1/3    
元永三年(庚子)     一月     二月※     三月     四月※     五月     六月※     七月     八月     九月※     十月     十一月※     十二月    
ユリウス暦     1120/2/1     3/2     3/31     4/30     5/29     6/28     7/27     8/26     9/25     10/24     11/23     12/22    
脚注
    ^ 水野章二「中世の災害」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年 148ページ

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西行

2012年04月24日 | 西行

Saigyo Hoshi    drawn by Kikuchi Yosai

西行
 
西行法師(菊池容斎画/江戸時代)西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

目次
1 生涯
2 出家の動機
3 評価
4 逸話
4.1 出家
4.2 旅路において
4.2.1 源頼朝との出会い
4.3 晩年の歌
5 関連著作
6 備考
6.1 西行を題材にした作品
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
 
1 生涯

秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。

仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えら、これは後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。

後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

2 出家の動機 

友人の急死説
現在、主流となっている説。「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

 失恋説
『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。
瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。しかし、この典拠は不明である。
五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬しているが、根拠薄弱である。

3 評価

『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。

和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。

しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。

後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

4 逸話

4.1 出家
出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る[1]。

                                                                     

4.2 旅路において

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。
松島「西行戻しの松」
秩父「西行戻り橋」
日光「西行戻り石」
甲駿街道「西行峠」
紀州宇久井村(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井村)での歌
「目覚山下す有らしのはげしくて 高根の松は寝入らざりけり」
高野山にて修行中、人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとしたが、心の通わぬ化け物が出来上がったため恐ろしくなり、人の通わぬ所にうち棄てて逃げ帰ったという逸話がある。このように、西行の逸話にはその未熟さを伺わせるものが多く存在する。

4.2.1 源頼朝との出会い

頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、一切忘れはてたととぼけたといわれている。
頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

4.3 晩年の歌
以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。国文学研究資料館 電子資料館において続古今和歌集の原典を実際に画像で閲覧できる。詳しくはそちらを参照。

5 関連著作

『山家集 新潮日本古典集成』 後藤重郎校注、新潮社
『新訂 山家集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 同ワイド版
『山家集』 風巻景次郎校注 日本古典文学大系29、岩波書店
『山家集』 伊藤嘉夫校註 日本古典全集・第一書房 1987年
『西行法師全歌集』 伊藤嘉夫編 第一書房 1987年
『西行全集』 久保田淳編 日本古典文学会、貴重本刊行会、1990年
『新訂増補 西行全集』 尾山篤二郎編著、五月書房、1978年
『西行全集』全2巻 伊藤嘉夫、久曾神昇編、ひたく書房、1981年
『西行物語』 桑原博史訳注、講談社学術文庫 1981年
『西行物語絵巻』 小松茂美編 〈日本の絵巻19〉 中央公論社
『新訳 西行物語』 宮下隆二訳 選書版:PHP研究所 2008年
『絵巻=西行物語絵』 千野香織編 〈日本の美術416号〉 至文堂 2000年

6 備考 

西行庵(吉野山)西行庵 - 西行が結んだとされる庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治26年(1893年)に、当時の庵主・宮田小文法師と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名である。
高杉晋作 - 「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。
6.1 西行を題材にした作品
[能 ]
江口
西行桜
[落語]
西行
西行鼓ヶ滝
[長唄]
時雨西行
[義太夫節]
軍兵富士見西行
[文学作品]
上田秋成『雨月物語』「白峯」
幸田露伴「二日物語」(全集第5巻)
白洲正子『西行』ISBN 4101379025
瀬戸内寂聴『白道』ISBN 4062638819
辻邦生『西行花伝』ISBN 4101068100
火坂雅志『花月秘拳行』ISBN 4043919050
中津文彦『闇の弁慶―花の下にて春死なむ』 ISBN 978-4396630164
[テレビドラマ]
平清盛 - NHK大河ドラマ。主人公・平清盛と出家前の西行(演:藤木直人)が親友だったという設定。本作においては、西行の出家の原因を、待賢門院璋子との愛憎劇によるものとしている。

7 脚注
[1]史実かどうかは不明だが、仏教説話としてオーバーに表現されている面はありうる。

8 関連項目

似雲
西行の娘
木下勝俊(木下長嘯子) - 最晩年、西行出家の寺の近くの寺、勝持寺に居を構えた。
「ペテロ」勝俊こと長嘯子の作風は、近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は俳諧師・松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えた。
奥の細道#福井あわら市 吉崎

9 外部リンク

西行の研究http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm
山家集の研究http://sanka11.sakura.ne.jp/
digital西行庵http://www.saigyo.org/

10カテゴリ:

 佐藤氏   平安時代の武士  日本の僧  平安時代の歌人  鎌倉時代の歌人
 1118年生  1190年没

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E8%A1%8C&oldid=42074888
「西行」の項より※一部改変してあります。真言僧と神道の統一を一身に体現した人間として考察してみたい。

 

 

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