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天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

春の訪れ

2008年03月28日 | 日記・紀行

春の訪れ

今年も春が訪ねてくる。里山は華やぎを増してくる山にひとり静かに咲く梅は小町の肌のようにほのかな紅の中にしっとりと白い。

西行法師のように歌を詠めればいいのだけれど、不肖不才の我が身を嘆いても仕方がない。歌の修行を積んでせめて師のその影でも踏みたい切ない気持ちはあるけれども。

我が師、西行法師の御歌四首を今日の記憶とともに。

     題しらず

756  さらぬだに   世のはかなさを    思ふ身に
                ぬえ鳴きわたる   あけぼのの空

そうでなくても、この世のはかなさを思い沁みている私に、
ぬえこどりのか細い鳴き声が、追い討ちをかけるように、夜明けの空に聴こえてくる。

法師の心の痛みが伝わってくる。

759   世の中を    夢と見る見る    はかなくも 
          なほ驚かぬ    わが心かな

この世を夢のようにはかないものと知りながら、愚かなことに、
いまだ覚めることもなく
悟ることさえできない我が心よ。

760   亡き人も    あるを思ふも    世の中は  
          ねぶりのうちの    夢とこそ見れ

すでにこの世になく時間の彼方に消え去ったあの人も、かってはこの世に私と同じように生きていたことを思うと、すべてが深い眠りのなかの夢のように見える。

薄い紅を染めたようなほの白い梅の花を見て。

1248     色に出でて   いつよりものは    思ふぞと 
            問ふ人あらば    いかが答へむ

いつから思い初めてお前の恋心は顔色に出るの、と訊ねる人がいるなら、梅の花よ、あなたはどう答えるのでしょうね。

 

(短歌の試み)

薄い紅を染めたほの白い梅の
                野山に咲いているのを見て。

         薄紅の唐衣着なれし小梅   小町が面影宿しつ  野に佇みし

気にかかっていたジャガイモの仮り植えを今日ようやく終えた。桃の木とイチジクは木の芽の膨らみから根付き始めたのは何とか確認できた。木の堅い柿はまだわからない。

 


小野小町5

2008年03月20日 | 日記・紀行

小野小町5

また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。

つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。

兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。

そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。

兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
      いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
      つかはせりける
                            あべのきよゆきの朝臣

556   つつめども袖にたまらぬ白玉は  人を見ぬ目のなみだなりけり
           
      返し                   こまち

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず  
                  たぎつ瀬なれば
 


女流詩人

2008年03月12日 | 日記・紀行

聖橋

 

女流詩人

昔、東京の茗荷谷にしばらく住んでいたことがある。近くに小石川植物園もあった。そこからはお茶の水も近かった。お茶の水には聖橋があり、この聖橋を渡ったところにJRの駅がある。

昔のことで今では記憶も薄れてしまったけれど、この駅の近くに一軒の立ち飲み居酒屋(あるいは寿司屋だったか)があった。春らしい宵方、滅多に入らないこの店で私がたまたま夕食を済ませようとしてこの店に入ったとき、私の隣で食事をしていたのがこの人だった。

ど ういうきっかけで話すようになったのかは覚えていない。私はたぶん鮨か何かを注文していたかと思う。彼女はそのときお酒を飲んでいたのかどうかも覚えてい ない。どういう話をしたのかも覚えていない。ただ、そのときの記憶を、おそらく二十年以上経った今もはっきり覚えているのは、まったくの初対面であったの に彼女が「いい顔しているね」などと言いながら私の顔を手で撫でまわしたからだ。

おそらく彼女はいくらか酔っていたのかもしれない。もうはるか昔のこと で、自分のことなどはおそらく彼女の方には記憶にもないに違いないだろうけれど。偶然に隣り合わせただけで、それから二度と会うこともない。

そのとき彼女は名刺もくれた。その名刺は今も探せばあると思う。水上 紅さんと言った。詩人という肩書きが書かれていたと思う。名前が印象深くて今も忘れてはいない。せっかく名刺をいただいたのに、その後ふたたび会うこともなかった。申し訳ないけれども彼女の詩集もまだ読んでいない。

これまで私が詩人と称する人に出会ったのは、後にも先にも彼女一人だった。貴重な出会いだったのにと思う。その後東京を離れてからは再び戻ることはない。けれど彼女は今も詩人として東京で暮らされていることと思う。

 

Nathan Milstein plays Vitali Chaconne

 


桓武天皇皇后陵

2008年03月07日 | 日記・紀行

桓武天皇皇后陵

相変わらず寒い日が続く。久しぶりに自転車で散歩(散輪)にでる。散歩はやはり、何の目的も持たず、気の向くまま、足の向くままがいい。

その途中に、桓武天皇の奥様の御陵に出くわした。たぶん、何度もこのあたりも行き来しているはずだけれども、これまでも、このような御陵に関心も何もなかったので足を止めることもなかった。

しかし、以前と違って最近はどうもこのような歴史的な遺物というか遺産に惹かれるようになったと思う。それには、テレビなどでしばしば世界遺産などをテーマにして、世界各国の歴史的事跡や遺産などが放映されるようになったことも影響しているのかも知れない。

近年にも弘法大師のご開山になった金剛峯寺のある高野山が世界遺産として認められたこともある。それに若いときには未来にしか眼が行かなかったのに、年を経るにつれて、それだけ過去を顧みるようになったということかも知れない。おそらく、与えられた時間としては、すでに未来において想定される時間よりも、事実として過ぎ去った時間の方が長くなってしまったからだ。個人として過去に蓄積された時間の方が長い。時間を線分にたとえればおそらくそうなる。その結果として自分の過去の時間の延長として歴史を見るようになったためだろうと思う。

過去の歴史に眼が行くようになった。それで、最近は散歩にもデジカメを持参して、興味のある対象は写真にとって記録してゆこうと思っいる。そして、それと同時にそれに関連する歴史の事跡や背景もできる限り調べて記録しておこうと思うようになった。その調査も昔と比べて、ネットの普及などでずいぶんやりやすくなったこともある。

上の写真は、桓武天皇皇后の御陵で高畠陵(長岡陵)と呼ばれている。この皇后様は藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)と言うそうで、760年(天平宝字4年)に生まれ、 790年5月2日(延暦9年閏3月10日)に没した。続日本紀には、この皇后について、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り。」と記録されているそうだ。平城天皇・嵯峨天皇の母でもある。物腰が柔らかでしとやかな美しい女性であったようで、妻としても母としても、婦人としてのたしなみ深い人であったようだ。わずか三十一歳の若さで亡くなっている。この人の事跡を読んで、すぐに光源氏の母の桐壺の更衣のことを思い出した。もちろん、この方は皇后として亡くなられたのであって、更衣という身分ではなかった。贈り名は、天之高藤広宗照姫之尊。

桓武天皇は平安京に遷都する前に、今の洛西に位置する乙訓の地、長岡京に奈良の平城京から都を移している。だから、長岡京はわずか10年足らずの造営で終わったらしいが、調べて見ると、その再遷都の背景には長岡京建設の命を受けていた藤原種継が何者かに暗殺されるという事件があったらしい。また「海ゆかば」の和歌の作者で万葉集の編者として知られる大伴家持も、この事件に連座していたらしい。

この桓武天皇の時代は、伊勢物語の主人公である在原業平や藤原高子たちの生きた時代でもあり、空海や最澄も同時代人であるという。とすれば、この桓武天皇の御代は、今日の日本の礎を築いた大変な時代ともいえ、興味をそそられることも多い。できうる限り、そうした歴史的な事跡もたどってみたい思う。

業平の墓も遠くないところにあるようだし、また、三月末の日曜日には小野小町のゆかりの随心院で「はねず踊り」もあるそうだ。忘れずに一度は訪れて見たいと思う。

参照

長岡京

藤原乙牟漏

桓武天皇

 


ルイス・フロイス

2008年01月30日 | 日記・紀行

昨年の秋頃から関わり始めた畑仕事の仲間から、京都府庁で展示会をやっているという話は耳に挟んでいた。しかし、忙しさにかまけてすっかりそのことを忘れていたところ、昨日、リーダーのHさんより電話があり、行ってみられてはどうかというお誘いを受けた。それで、初めて、その展示会が今月末までであることを思い出した。何とか明日中に行くことにしますと返事はしたが、もともと興味がなかった訳ではなく、行くつもりにはしていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。

その展示会は京都府庁の旧庁舎の中で行われていた。人間の原点としての農業とその意義を少しでも伝えようとしたものである。利益と効率を第一におかない農業を目指そうとするものである。それはまた、私たちの生活や人生を本当に豊かにするものとしての農業が目指されている。自然は奥深く苦しいが、美しくまた楽しくもあることが教えられる。

現在の京都府庁の一角に残されたこの旧庁舎本館に一歩足を踏み入れたとき、この洋館造りの建築物の気品に打たれ、その風格に驚いた。重要有形文化財にも指定されているらしい。そこに感じたのは何よりも、「西洋」である。この建築物に足を踏み入れて思ったのは、日本人が初めて出逢って目に映じ感じたヨーロッパの姿である。また江戸期の文化の水準もよくわかる。この府庁旧本館は明治37年(1904年)に竣工されたそうである。だから、すでに百年以上の歳月を閲しているが、このような建築物一つをみても、明治人のヨーロッパ文化、文明に対するその摂取と消化のレベルの高さがよくわかる。昭和や平成の御代の日本人よりもよほど、西洋を奥深く理解していたのではないだろうか。西洋建築といっても、表面的で軽佻浮薄な植民地文化の産物ではない。

以前にも府庁には何度も来たことはあり、確かこの旧本館にも訪れているはずだが、私の方にそうした問題意識もなかったために、文化としての建築について、記憶をとどめることもほとんどなかったのだろう。デジタルカメラに記録しておこうと思ったけれど、あいにく電池切れで動かなかった。

(ネットでその面影は見られます。京都旧庁舎http://www.chigirie.i-ml.com/blog-rutiler/2007/04/post_67.html

久しぶりに京都の「官庁街」にきて、少し懐かしさが募ったのか時間もあったので、若い日に多くの時間を過ごした「土地」と「街」をふたたび訪れてみようと思った。しかし、わざと烏丸通りを北上することなく、少し裏通りの智恵光院通りを北にあがった。とくに洛北の国際会議場とその前にある宝ヶ池プリンスホテル、今は改名されているらしいが、を目的にしようと思った。

このホテルはかって西武鉄道の総帥として権勢を誇っていた堤義明氏が、国際会議場の受け皿となる宿泊施設として、肝いりで建設したものである。村野藤吾という今はなき建築家が設計したヨーロッパの城館をイメージしたホテルである。確かこれが遺作となったはずだ。もし京都に来られて機会があるならぜひ一度宿泊されるのもよい思い出になるかもしれない。

考えればいったい何年ぶりだろうか。話にもならないほど近くに住んでいながら訪れることもなかったせいか、それにしても、紫明通り、出雲路橋からその経路をすぐに思い出せない。鴨川沿いの立派な桜並木は今はすっかり葉を落としているが、そぎ落とされた殺風景なその枝振りの偉容だけでもさすがだ。

とにかく北へと思って走るが、かすかに記憶にある宝ヶ池に通じる道が見あたらない。それで、二度ほども上賀茂神社の裏手の清流が豊かに流れる閑静な町中を間違って走ることになった。そして道を探している間にも、岩倉あたりに出てしまう。この土地も思えば懐かしいところである。学生時代に友人が三宅八幡の駅近くに下宿していた関係でよく訪れたものだ。それも昔のことである。後年になって知り合った女性も岩倉に住んでいて、その関係でよく来たことがある。だから実相院や病院のある一帯もよくうろついていたのでそれなりに土地勘はあって、迷うという感じではなかったものの、探そうとする道になかなか出くわさない。その街の面影は大きく変貌しているとはいえ、ただ懐かしい。

とうとう、柊の別れあたりにまで出てしまう。さすがに方角を大きく間違えてしまったので引き返す。

深泥が池の畔まで出る。この池の印象に残っているのは夏の姿だったが、今はその周辺はすっかり冬枯れの景色になっていて、池の中央の砂州に枯れた葦が群生しているだけだった。水辺でおしどりがくちばしを水中に入れ餌を漁っている。この池を右手に見下ろしながら北に走ってようやく、プリンスホテルの銅さびた屋根が冬の寂れた木立の上に眺められた。

すっかり北に走り過ぎてしまっていたようである。それでホテルの姿を見失わないように南方に戻り宝ヶ池通りに入ってようやく、左手に国際会議場が、右手にプリンスホテルが見えた。この会議場ではかって環境問題が話し合われ、今ではほとんど有名無実になってしまった京都議定書の議決されたところである。余裕があればホテルのロビーでお茶でも飲んで時間を過ごしてもよかったが、それはまたの機会に譲って、まっすぐ市街地の方へ戻ることにした。

トンネルを抜けて少し走ると昔と同じように狐坂があるはずだったが、峠に出てみると、そこにも高架道路が造られ、その高みから市街地が見下ろせるようになっていた。昔は宝ヶ池に出るには、木々のうっそうと繁った山間の狐坂を抜けるしかなかった。デンマークのキルケゴールという詩人哲学者が『反復』という著書の中で、「人生の反復」を試みようとしたが、彼と同じように、「反復」の不可能を実感するしかないようだ。

北山通りに出る。このあたりも変貌著しいけれど、それでも骨格はそのままで、やはり懐かしい。この通りの植物園の傍らに府立総合資料館がある。その通りを挟んだ北側に喫茶店があった。この資料館へは昔、弁当を作ってもらって洛西から通ったことがある。そこを少し通り過ぎてから、時間にまだ余裕のあることに気づき、久しぶりに訪れてみる気になって引き返した。

平日でもあったせいか、持参した弁当でかって昼食をとった休憩室も、今は相席しなくともすむほどには空いていた。そこの自動販売機のコーヒーで一息ついた後、館内に貼られたポスターや並べられてあるパンフレットなどを丹念に読みながら見た。洛西に戻ってきながら、この洛北までほとんど足を運ぶ機会を失っていた間に、コンサートホールなども造られ、三月一日には、バッハの「ヨハネ受難曲」などの演奏会の開かれることも知った。三条の文化博物館では今、「川端康成と東山魁夷」の展覧会も開かれているらしい。それに今年は源氏物語の千年紀だとかで、何かと催し物も予定されているようだ。もう少し文化的な体験を増やして生活に潤いを持たせてもいいと思う。

階段をのぼって閲覧室に入る。以前にはバッグなどの私有物の持ち込み禁止などの注意書きがあったのに、見あたらないので入り口近くに座っていた案内の人に尋ねると、今は持ち込みは許されているそうである。かなり以前からだという。すっかり浦島太郎のような気持ちになる。図書室の利用者が信用されるようになっただけ、進歩であるには違いない。

館内の座席にはまだ十分に余裕があった。その一つの机を確保し、ダウンジャケットをそこに脱いで、書架の間をゆっくり巡って歩いた。本当に久しぶりである。それが何か失われた時間のように感じさせ、永遠に戻ることのない時間と土地の移動を思った。

ついでだから何か摘み読みでもして行こうと思う。何が好いだろうか。こんな時には実用書は十分だが、かといって、たくさんに並んでいるそれぞれの地域の風土史や地域史も手に取る気にならない。

たまたま、定家の『明月記』があった。一冊は漢文の原文で一冊はそれを読み下した本である。また、その近くにルイス・フロイスの『日本史』の翻訳があった。この三冊を抱えて座席に戻る。

九百年ほど前に書かれた『明月記』はあまり見なかった。フロイス『日本史』の翻訳の方は、時間の許す限り読んだ。フロイスは織田信長の時代に日本に来たカトリックの宣教師である。彼の生きた時代からすでに四百年以上の歳月を閲している。彼はインドのカルカッタ、ゴアを経て日本の長崎の横瀬浦から平戸を経て、当時の日本の都であったこの京都にも足を踏み入れている。今でも彼の足跡をたどることができるのだろうか。フロイスは自分の生きた証として当時の日本の世情を克明に記録したが、その量は膨大にのぼるという。彼の書いた原稿自体は教会の焼失とともに失われたがらしいが、その写本が残されたということである。それを四百年後の今日、丹念に訳した翻訳者の労役と執念には頭が下がる。

フロイスの生きた時代からほぼ五百年を経て、今私たちがこうして生きている。そして、私たちの死後五百年の世界に生きる人々はどのような人々なのだろうか。そんなことを考えながら、閉館時間にまだ少し時間を残しながら、この懐かしい資料館を後にした。

 


初仕事

2008年01月06日 | 日記・紀行

初仕事

山へ行く。時間に多少余裕があったので、自転車で行った。途中の道端で南天か何か、紅葉がきれいだったので、写真に撮った。

年末に踏んだ麦の芽が、ものともせず芽を大きくしていた。昔小学校の頃の国語教科書か何かで麦踏みの話を読んだような記憶があるが、今の子供たちには麦踏みなどが生活の教訓になったりするのだろうか。子供も大人も時間の過ごし方として農業は悪くはないと思う。もし、京都の洛西方面で、農業を体験してみたい方がおられれば紹介させてもらってもいいなと思う。

見晴らしの良い場所から市街地を眺望しながら持参したおにぎりをほおばる。近くに野生化した柚の木に実がなっていたので、いくつかいただいて帰って黒砂糖でシロップに煮て飲んだ。

ところで、先の二日の記事で、「子子子子子子子子子子子子 」を小野の篁さんは「猫の子の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んだのでした。ご存じの方も多いと思います。出典は『宇治拾遺物語』だそうです。

小野の篁の詩の事

ご参照

 


明けましておめでとうございます

2008年01月02日 | 日記・紀行

明けましておめでとうございます

2008年、平成二十年の幕開けです。今年もまた希望に満ちた明るい充実した一年になりますように。今年は子年だそうです。平安時代には、正月の初子の日には、野山に出て小松を引いたり若菜を摘んだりして楽しむ習慣があったそうです。春の七草もまもなくです。七草粥など味わえればと願っています。そういえば、昨年の秋の七草には、撫子と女郎花には出会えませんでしたが。ところで「子子子子子子子子子子子子」。さて何と読むでしょう。小野の篁さんに聞いてください。

    

            初音

昨年も私なりにメッセージを送り続けました。もちろん笛は吹けども踊らずであるのはヨハネやイエスの時代以前からのことです。エチオピア人がその黒い肌を、豹が斑の皮を変えられないように、人間もその本性は変わりません。だから何も驚くには当たりません。それでも、世界や現実は、自称平和主義者や理想主義者が考えるはるか以上に、理性的なものです。然るべくしてそうなっています。そして、世界史の歩みはゆったりとしたものですが、その目的は貫徹されます。

その社会にどんなに科学技術の知識や物質の富に豊かになっても、精神の根幹が腐っていれば没落は免れません。それは世界と日本の社会の現実が示している通りです。そして日本の復活の鍵がどこにあるのか誰もがわかっているのに、まだそれを実行できません。

個々人の小さな思惑をはるかに越えて、世界史は進んで行きます。昨年の世界の基本的な変化は、ロシア、中国、インドが目覚ましい経済的発展を成し遂げ、それに応じてアラブ産油国がオイル高騰景気に沸いた一年だったことでしょう。またアメリカ国民の奢れる消費生活がサブプライム問題として神に裁かれようとしています。昨年末にはパキスタンではブット前首相が民主主義のために殉じました。日本国民も現在の民主主義が有名無名の多くの人の血と汗によって勝ち取られたものであることをいつも思い出す必要があるでしょう。

小沢一郎民主党党首はいつまでも国連信仰の夢から覚めることはなく、福田康夫氏には国民を幸福にするほどに政治理念に力量はありません。学力低下は何も日本の中学生、高校生や政治家たちだけの話ではありません。とくに日本の指導者を指導すべき大学および大学院の学力と志の劣化が日本社会の危機の背景にあります。今日の大学の人材の枯渇とその品格の衰えを見るべきだと思います。そこには戦後世代の精神を自明のものとして、それを越えた時代と人格を思考するだけの想像力はありません。

政治の世界でも、自由と民主の理念に従って政界を民主党と自由党とに再編成するのではなく、小沢氏と福田氏は、愚かにも政治家の談合と切磋琢磨なき癒着によって、日本国を茹で蛙のような安楽死への道に開こうとしました。日本の談合文化がすべて悪いとは言いませんが、その悪しき一面の現れたのは事実です。

ところで私にとって青春の日々に、伝道の書や箴言などが聖書への入門書となりました。これからも聖書と共に生き、そこから慰めと歓びを得て、そして、さらに聖書が日本国民の書となり、いっそう品格に富んだ国家と国民になりますように。このブログがそれにいささかでも寄与することができればさいわいです。

伝道の書第三章、第七章から

善き日々は歓び楽しめ、悪しき日には深く考えよ。神は両者を併せて造られた。人には誰も行く末のことはわからない。

人の子の苦痛に満ちた労役がいったいなんの益があるというのか。
彼に課せられた骨折りを私は見てきた。神はすべてを時にかなって美しく造り、彼らの心に永遠の思いを与えられた。それでも人は誰も神のなさる業を初めから終りまで見届けることはできない。・・

私は知っている。神のなさることは永遠に続くことを、それには何も足すことも引くこともできないことを。ただ人は神のみを畏れよ。

幸福と真実の民主主義は小さな少数者のグループにおいて、しかしそれも、ただ比較的に相対的に実現されるだけのものかもしれません。絶対的な理想は、ただ天上にある神の国においてのみ実現されるもので、しょせんこの地上では実現されることはないのでしょう。ですから、私たちはせめて片手に持てるものだけでも十分に歓び満足すべきものだと思います。

私にも、皆さまにとっても、本年もさらにいっそう充実した時間の
訪れますように。

 


道、一年の回顧

2007年12月31日 | 日記・紀行

道、一年の回顧

東山魁夷の「道」は、氏の多くの作品のなかでも、比較的によく知られたポピュラーなものである。一年の終末を迎えて過去を回顧する時を飾るにふさわしい絵画かも知れない。

画面の中央に向かってまっすぐに「道」が延びている。草色の早春に萌えるような草原の丘陵の中を、骨太い一本の土色の道が遥か遠くにまで延びている。そうして画面に単純な構図の奥行きに等辺三角形をかたちづくる中に、この作品を前に鑑賞する者に様々な感慨を引き起こす。この道を前に人はいったいどのような感想を持つだろうか。

この一筋の道を前にして私は戸惑う。いったいこの道は、私がこれから辿り行く道なのか。それとも、私が来し方を振り返って眺め回顧すべき道なのか。この道はいったい上り道なのか、それとも下り道なのか。

今年も一年が終わる。それが時間と空間の一つの道程であったことは確かだ。一年の終末とは、やがて私たちが生の終末という本番を迎えるために、毎年に繰り返す予行演習のようなものである。ただ、この道の終着地は画面の中にはその姿を現すことはない。あるいは、それは生の発端として、すでに私たちの記憶の中にはすっかり消えてしまった母の胎内にまで辿りゆくものかもしれない。

いずれにせよ、私たちに生があるかぎり、過去にも未来にも一本の道が横たわっていることは確かだ。それは終末に向かってただ延びている。時は迫っている。何事にも初めがあり終りがある。そして誰もが明日という日の、来年のあることを信じて生きている。しかし誰にでも終りの日は迫り来る。年末とは、世界と生の終末の一つの予兆にすぎない。ただ、それから眼をそらして真剣に見つめようとしないだけのことだ。「見よ、私は速やかに来る」

愚痴を言っても仕方がないので、一年の後悔は語らないことにしよう。ただ、これ以上の愚行を繰り返すのことのないように願うばかりである。好きなことを楽しく行えればいい。はじめて農事に関わることのできたことが本年になって唯一特筆できることだろうか。今日も時間を見つけて、生まれて初めての麦踏みを体験してきた。桃と柿の木は何とか年内に植えた。予定としてはただイチジクを植えきることができなかった。これらのことだけでも、その限りなき恩恵に感謝すべきかも知れない。

このブログも有形無形に恩恵を受けた多くの人々に感謝して今年の一年を終わりにします。来たる年もまた恵みと平安に満ちた年でありますように。皆さんも良いお年をお迎えください。

 


一粒万倍、一粒の麦も、死なずば

2007年11月30日 | 日記・紀行

一粒万倍、一粒の麦も、死なずば

畝を作って、麦を蒔く。

スコップの手を休めて、麦畑から市街地を望む。柿もたわわに実をつけている。

ヨハネ書第12章第24節の、一粒の麦のたとえ話を思い出す。「一粒の麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、もし死ねば、それは万粒の実を結ぶ。」

この言葉を、イエスは弟子アンデレを通じてギリシャ人たちにくれぐれも念を押して語られた。こうして、イエスはご自分の死の意味をたとえでお語りになった。イエスの死によって、イエスの御霊は聖霊として多くの人々の心に実を結ぶことになる。

そして、奇しくも本日の十一月三十日は、アンデレの十字架に架せられて殉難したとされる日である。アンデレの苦難を想い、アンデレの忍耐に学ぶ。

イエスは大工をなりわいにしていたそうだが、きっと麦を植えられたこともあったに違いない。

願わくは蒔いた麦の種に多くの収穫のありますように。

2007年11月30日 

 


灰谷橋

2007年11月03日 | 日記・紀行

灰谷橋

文化の日。晴天の秋空が広がっている。携帯電話の新しい機種が入荷したという連絡があり、それを受け取りに行った帰途、時間にも余裕があったので少し遠出してみることにする。

テレビ報道によると、福田首相と民主党の小沢代表が密室で党首会談を行ったそうである。福田康夫氏小沢一郎氏などに代表される自由民主党の旧世代に欠けているのは、正しい民主主義の精神と方法についての自覚である。与党と野党の党首がそろって密室会談を開くことに何ら恥じることもない。


密室談義ほど民主主義の精神から遠いものはない。民主主義の考え方では原則的に情報は公開され、国民はその正確な情報の共有に基づいて公論として討議するのである。

与党と野党の党首がそろってこのていたらくだから、民主主義国家日本の看板には偽りがある。食品会社の虚偽表示と同じだ。これからは「民主主義国日本」の前に「自称」を付さなければならない。

こうした民主主義的な政治文化の貧困の背景には、日本の大学、および大学院における教育の貧困というさらなる根本問題が存在する。繰り返し述べているように、政治文化をふくめ国家国民の学術文化の水準は、その国家国民の保有する大学、大学院の哲学的能力の水準に規定され、それ以上には高まらないからである。

それにしても、私たちは短い生涯のうちに世界のごく一部分を見て、これが世界だと納得して死んでゆく。それは日常のこんな小さな散歩にも、新しい発見があることからもわかる。世界は無限であるのに、人間は有限である。この有限と無限との間にある質の違いは言葉にできない。宇宙の大きさに比べれば、吾々をさておいてカゲロウのはかなさを嘆くまでもないことである。世界を知り尽くすことはできない。

久しぶりに向日神社に立ち寄り、北山遺跡の近くから京都の市街地を眺望する。その後、二つの別れ道を左にたどる。少し山道をたどるが苦になるほどでもない。大原野をなお右を行くと長峰寺、左へ行くと小さな私のアルカディアがある。やがて里山に入り、眺望も開ける。

昔、中国の詩人の陶潜が『桃花源記』という奇跡的な散文を残している。そこから「桃源郷」という言葉も由来しているが、西欧にも古代ギリシャにアルカディアがあった。人間はつねに理想郷を求めて止まないのかもしれない。

 


城南宮の秋

2007年10月18日 | 日記・紀行

城南宮の秋

春にこの宮の梅を訪れてから、もう半年以上の時間が過ぎた。

午後の早くに訪れたせいか境内は比較的に閑散としていた。この十日ほど実に秋らしい美しい日が続いている。近頃は里山でも、相当に奥に入っても、野生する秋の七草の姿を眺めることはなかなかできない。しかし、少なくともこの城南宮では、源氏物語にゆかりのある植物が収集されて植えられているから、日本の秋を代表する花々をまとめて観賞するのには都合がいい。それを思い出してさわやかな風に誘われるように行く。

境内の向こうの空には美しい青空が広がっていた。カメラを取り出そうとすると、鳥居の奥のお守り売り場に冠をつけた若い巫女さんの座っているのが見えた。それで無断で写真を撮らせてもらう。私のカメラアングルに気づいた彼女は少し恥ずかしげに横を向く。一人は柱に姿を隠した。

拝殿のあたり一帯も閑散としていたので、普段ではゆっくりとは眺められない神社建築の細部の美しさも念入りに眺めた。そして、賽銭箱に小銭を投げ入れ、帽子を脱いで本殿の神々に敬意を表す。

守り札売り場の前をもどって横切るとき、さっきの金色の冠を被った平安衣装の若い巫女さんに、「写真を撮らしてもらった、ありがとう」と言うと、彼女はにこやかに微笑みを返してくれた。

この春に訪れたときのような華やかさは今の庭園にはない。あの時は梅や桃の花盛りにちょうど出会ったのだ。しかしまだ紅葉にも早い境内には彩りは少ない。ただ、紫苑の花の周りを黄色と白の蝶々が春でもないのに戯れていたぐらいだった。

参道を横切って離宮の庭の入口に近づくと、そこにも若い巫女さんが座っていた。その横手に冊子や短冊が並べられて売られている。その中に、源氏物語にゆかりのある草木を解説した小冊子があった。いつか源氏物語を読むにも何か参考になるかとも思い、一冊買っておくことにした。

この庭で見た今年の秋の花のいくつかを記録しておこうと思う。竜胆はただ一輪だけ、茎の先に小さなつぼみを付けていただけである。もう少し群生するように植えてあれば、地上の竜胆たちに秋空の青を集めたように眺められるのに。その近くに、あの偉大な作家の名をいただいた紫式部も小さな実をつけている。

藤袴もきれいに咲いていた。よい香りがするそうだけれども、においを嗅いでみるのを忘れていた。紫の桔梗も咲いている。

人影もほとんどない庭をゆっくりと歩く。この春と同じように、池には、茶亭の軒を水面に映したその影の下を緋鯉ものんびりと泳いでいる。

千年ばかり前に白河上皇の別荘として造営されたこの離宮の、往年の山紫水明の面影も、今は国道や高速道路に囲まれた小さなこの一角だけに、かろうじてわずかに留められているだけである。

再び参宮道にもどってこの神苑を出るとき、さきほど小冊子を買った巫女姿の娘さんの、居眠りをする後ろ姿が見えた。


2007年10月04日 | 日記・紀行

久しぶりに散歩に出る。今年はいつまでも暑かった。いや、十月も半ばに入ろうとする今日ですらまだ暑い。それでも高い青空には秋の気配を感じさせる風が吹き、地上の稲田では稲穂はほとんど刈り取られてしまった。仲間に置き去りにされたように所々に曼珠沙華が寂しげに咲いている。

重々しく垂れていた稲穂たちが、お百姓さんたちに残酷にも刈り取られてしまったあとに、彼らに代わって畑に彩りを添えているのはコスモスである。彼女は秋桜とも書く。そんな日本名も悪くはないけれど、原語の意味を生かしたよいネーミングはないものだろうか。宇宙の秩序を連想させるような哲学的にしてなおチャーミングな名前でこの花を呼ぶことができれば、哲学愛好家としてはうれしいけれど、まあ、コスモスのままでもいいか。

去りゆく彼岸花は別名、曼珠沙華。この花がサンスクリット語では「天上の花」を意味するらしいことは昨年に初めて知ったばかりである。その妖しげな赤はいかにも毒にも薬にもなるこの花らしい。

この花が日本の歴史にはじめて登場するのはいつの頃だろう。西行などの歌集にはこの花は登場しないようであるから、当時にはインドからもまだ移植されてはいなかったようだ。しかし、仏教の方はとっくの昔にこの極東の日本にも伝来しているのに、どうして、仏教を代表するようなこの花が一緒に持ち込まれなかったのだろうか。西行たちが生きた平安や鎌倉の時代に彼岸花が咲いていれば彼らが詠み落とすはずはない。調べればわかるのだろうけれども、そこまで関心はない。また何かのついでに知るきっかけもあると思う。

         

それにしても本当に和歌に合い、日本の秋の風情をよく象徴するのは、やはり秋の七草である。萩、ススキ、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗などのような、淡泊な色彩の花々が日本の秋の夕暮れにはよく似合う。その一つにもこの秋は出会えるだろうか。初秋であればとにかく、晩秋にまで咲き残っているとすれば、彼岸花は少し毒々しすぎるようにも思う。

 


VEGA

2007年07月07日 | 日記・紀行

                  

VEGA

今日は七夕。しかし、空は曇り空で、織姫も彦星も眺めることはできない。二人のプライベートなデートは他人が干渉する筋合いのものでもないから、かえって織姫もこの曇り空を喜んでいるかもしれない。昨年の七夕は晴れていたのかどうか、2006年7月7日の日記の記録もなく、この日をどのように過ごしていたのか、もう今では忘れてしまっている。その前年の2005年の七夕の日は曇っていたことがわかる。ブログではほとんど瞬時に過去の日記を検索できるのはうれしい。夕方から雷を伴ったかなり激しい雨が降っていたことが思い出される。

西洋の文化の入った現代では、織姫は琴座のヴェガにあたる。西洋には西洋なりに、とくにギリシャ神話などに、この星の名の由来があるのだろうがわからない。映画「コンタクト」では地球外生命体からの発信音はこのヴェガから発せらることになっていた。実際はその可能性はほとんどゼロに近いのだろうけれども、本当に地球外生命体と交流できるなら、人類の世界観も根本的に変わるかも知れない。あるいは、そこで時間の限界を超えて、もう一人の自分に出会うことにもなれば、どんなに奇異な感じに打たれるだろう。

伊勢物語には、七夕にちなんでまことに美しい物語が語り残されているが、現代はそうした物語は生まれにくい時代なのかも知れない。

いと暑き頃、涼しき方にてながめ給ふに、池の蓮の盛りなるを見給ふに、「いかに多かる」などまづ思し出でらるるに、ほれぼれとしてつくづくとおはする程に、日も暮れにけり。蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを一人のみ見給ふは、げにぞかひなかりける。

   つれづれと  我が泣き暮らす  夏の日を
               かことがましき  虫の声かな

蛍のいと多う飛びちがうも、「夕殿に蛍飛んで」と例の古言もかかる筋にのみ口馴れ給へり。                               

   夜を知る 蛍を見ても  悲しきは
              時ぞともなき  思ひなりけり

七月七日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもし給はで、つれづれに眺め暮らし給ひて、星合見る人もなし。まだ夜深う、一所起き給ひて、妻戸押し明け給へるに、前栽の露いとしげく渡殿の戸より通りて見渡さるれば、出で給ひて、

   七夕の  逢う瀬は  雲のよそに見て  
               別れの庭に  露ぞ置き添ふ

七夕の日に正室紫の上の一周忌を迎えようとする源氏の君の寂しさを、さすがに紫式部はよく描いている。その果敢なさからやがて源氏は出家するにいたる。そういえば、来年は源氏物語の千年紀とかで何かと行事もあるらしい。久しぶりにこの巻を読んでみようかと思う。

 


セキセイインコ

2007年06月11日 | 日記・紀行
セキセイインコ
 
もう遠い昔のことになってしまったけれど、懐かしい記憶として残っているは、二羽のセキセイインコのことである。その一羽は黄色の、というよりは全身山吹色といったほうが正確な、濃い美しい羽をもっていた。私がまだ小学生の頃に、父が会社から二羽のセキセイインコを持って帰ってくれた。どういう経路で、またどのような気持ちで父が小鳥を家に持ち帰って来ることになったのか、それは今もわからない。ただ、それまでにも、祭りの縁日で買って来た数羽のヒヨコを、兄弟で鶏になるくらいに育てたり、十姉妹などを飼ったりしていたから、父がそれを思い出して、会社の誰かに貰って来たのかも知れない。

父が持って帰って来たセキセイインコの一羽は、山吹に近い濃い黄色の、本当に美しい羽を持っていた。その鮮やかな色彩が今も目に浮かぶ。もう一羽は普通のセキセイインコだった。この二羽を自分たちは鳥かごに入れて飼っていたが、ある日、私が鳥かごを縁側に出して、餌をやろうと鳥籠のとば口を開けた途端に、一瞬のうちに、この山吹色のセキセイインコの方が、庭の方に向かって飛び去ってしまった。

その時の悔しい気持ちと、そのセキセイインコの美しい羽の記憶が、数十年を経た今でもはっきりと思い出される。それらのセキセイインコはつがいで父が貰って来たせいか、その後、同じ黄色のセキセイインコを父が再び貰ってきてくれた。それは、逃げたセキセイインコほど美しくはなかったように思う。
 
それからしばらく経って、緑の羽のセキセイインコを、今度は二階の部屋で何かの折にまた鳥籠から逃がしてしまった。ちょうど締め切った部屋の中だったので、遠くに逃げ去る心配はなかったが、自分たちの手から逃れるために、部屋の中をそのインコはあちこち飛んで逃げ回って、なかなか容易に捕まえることができなかった。そうして捕り物に四苦八苦しているうちに、とうとうそのインコは違い棚の下の引き戸に激しくその嘴をぶっつけたかと思うと、ようやく落下して止まった。

それで、ようやく捕まえて手のひらに乗せて兄と見たが、小さな丸いまぶたは閉じられていた。たしか兄が嘴をいじって直そうとしていた。その体が温かかったかどうかは記憶にはない。ただその時、その小さな小鳥が、私の手のひらの上で、全身を反り返らせるようにして硬直していった。その時の手の感触が、なんとなく気の毒な思いといっしょに、今もはっきりと思い出せる。これが、生命の死というものについての私の最初の記憶だったと思う。死骸は庭に埋めた。
 
自分の手のひらの上で死んで行ったインコと、どこかに逃げ去った黄色いインコのきれいな二羽の小鳥の悲しい記憶が今も残っている。それから中学生になって伝書鳩を飼うようになるまで、セキセイインコの後は何も飼わなかったように思う。
 
 
※写真は大町市有線放送Blogさんよりお借りしました。差し支えあれば削除します。
 
http://ouh.blog61.fc2.com/blog-date-200610.html
 

風薫る五月

2007年05月02日 | 日記・紀行
 

風薫る五月

五月に入った。風薫る五月と言いたいところだけれど、昨日今日は先の昭和の日の頃のようには快晴にはならず、空も曇りがちで雨模様でさわやかな風は吹いてこない。桜の花もすっかり散って、その跡に新緑がさわやかに眼に入るようになった。早朝、街を走っていると、眼に入る街路樹がとても美しい。晩春からまもなく初夏へと、季節のめぐりはあわただしい気さえする。

明日は五月三日の憲法記念日、さらに鯉のぼりが空に舞う、端午の節句の子供の日へとまことに意義深い祝日が続く。

昔、子供の頃に銭湯で菖蒲湯に浸かったことがある。そのとき匂った菖蒲の葉の香を懐かしく思い出す。今ではそうした風習や伝統もすっかり廃れてしまって、菖蒲湯などに入ったこともない人も多いのではないだろうか。平安時代の枕草子などにも、この日には薬玉を飾り、軒に菖蒲の葉を挿したことが記録されている。

平安時代の菖蒲から、武士の鎌倉時代になって「尚武の日」になったようである。現在では戦後の「平和主義」のためにこうした祝い方は嫌われているようだ。武とは、本来矛を止めることであり、真の平和主義のことだと思うのだが。何事にも表と裏がある。日本国憲法の第9条についても、その意義とともに、その限界について、今日特にその否定的側面について深く研究される必要があると思う。

 


天高群星近