天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

新春のお慶びを申し上げます。

2010年01月05日 | 日記・紀行

 

上の写真は2010年1月2日午前8時の、忍野富士

富士山ライブカメラ
http://www.fujigoko.tv/live/index.html
 

新春のお慶びを申し上げます。

昨年はアメリカ発の疑似世界恐慌で、全世界が揺れた一年でした。しかし、金融不安からもっとも遠く安全地帯にいたはずの日本が、低温火傷の被害のように、もっとも深刻に、長く経済不況を蒙っているように見えます。鳩山民主党の掲げた、子ども手当や高校授業料無償化、農業の戸別補償などの雇用・環境、景気対策における「バラマキ」は、この緊急非常時に、国民に対して財政再建のための耐乏と貢献、犠牲の覚悟を促すのではなく、むしろ甘やかし政策になっている。これで財政破綻を招くことになれば(その可能性は高い)、国民経済を本当に救うことにはならないのです。一時しのぎのモルヒネ注射にしかなりません。

本当に必要なのは、「バラマキ政策」ではなく、新産業、新事業の開発、新しく若い企業家の育成であり、そのための財政金融支援、教育支援です。経済の再活性化のために重点的、集中的に財政投融資して、とくに人口少子化対策にはあらゆる手を打たなければなりません。今の鳩山政権の経済政策は、後ろ向きの「バラマキ、甘やかし」の弥縫策に終始してます。そんな時期に福島瑞穂少子化担当相など、とうていその任に堪えないブラックユーモアでしかありません。

昨年の一年は、戦後になってようやく曲がりなりにも政権交代らしい政権交代を果たしました(小沢一郎氏などについても悪口を言うばかりではなく、その功罪をきっちりと評価すべきでしょう)。しかし、だからといって日本の政治がまともなものになったとはとうてい言えません。さらに自民党を消滅させ、また、現在の「旧社会党」系民主党をも分解させて、政界の再編成を図ることが当面に残された次の課題になっています。

長く続いた55年政治体制の旧政界の廃墟の上に、新自由党と新民主党による真の二大政党によって、さらに日本国の自由と民主主義を充実させながら、立憲君主国家体制をさらに発展させて行く必要があります。そうして、本当に健全な国家社会を建設して行くことによって、バブル経済の崩壊以来、毎年三万人を越える自殺者が出ているような悲惨な社会状況を改革して行く必要があります。

こうした課題は、新憲法の制定と並行して実現して行く必要のあるものが多い。衆議院、参議院の定数削減、道州制国家体制、公務員制度の全面的な行政改革、全寮制の中高一貫教育(現在の民主党政権で高校教育の実質的な無料化は進んでいますが)や、保育所・幼稚園の統合、国民皆兵制度の制定など、教育制度の全面的な改革などとも並行してゆく必要があります。明治維新を越える平成維新として根本的な国家体制の変革をさらに準備して行かなければならないと思います。

鳩山民主党は、危ういながらも、アメリカ依存からの相対的な独立を実現し始めているのはよい。ですが国家に真の独立を求めることが、国民にどれほどの負担と覚悟を求められるものであるかを、国民に十分に周知、教育、納得させるという前提抜きで、早急にことを運ぼうとしています。こうした歴史的な課題の実現には、十分な歳月と準備が必要です。向後百年を要する政治的な課題でもあるのですから、工程表を明らかにして、着実に腰を据えて実行してゆくべきでしょう。

今年も世間に対する愚痴から、新年のご挨拶を始めてしまいましたが、何はともあれ、どうか本年が多くの人々にとって、平安と歓びに満ちたさらに豊かな一年になりますよう、ささやかな祈りを込めて、新年のご挨拶をお送りします。

相変わらず和歌の修行も余裕のない私には、自分の言葉で春の心を詠むことができません。せめて西行法師の心を懐かしむばかりです。

        世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々、寄レ霞述懐といふことを       詠める 

722  そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思い立つかな

    おなじ心を

724  世をいとふ 名をだにもさは  留め置きて  
       数ならぬ身の  思い出にせむ
       
        世を遁れける折り、ゆかりありける人の許へ 言ひ送りける

726 世の中を   背きはてぬと 言ひ置かん 思ひしるべき 人はなくとも

 

 

 

 


今年もまたクリスマス

2009年12月25日 | 日記・紀行

 

今年もまたクリスマス

今年は残念ながらクリスマス・イブの12月の24日にブログ記事を投稿できなかった。また、送るべき多くの人にクリスマスカードを送って、ご挨拶することもままならなかった。毎年、年を経るごとに、不義理、わがままの度が強まってゆくような気もする。

これまで2005年に記事の投稿をはじめてからも、クリスマスに投稿を欠かしたことはない。今年は余裕もないけれど、かろうじてクリスマスに間に合うように、やっつけ仕事のように記事をとにかく作成。最近は聖書の繙読さえもおろそかになっている。聖書詩篇の註解もほとんど中断したままになっている。主よ、許したまえ。

12月に入り、年末が近づくと、近年になって町中にイルミネーションの明かりが目立つようになった。夕暮れや夜間に、町中を歩いていたり、自転車で走っていると、とくに、最近では発光ダイオード(LED)の普及によるせいか、鮮明な色彩のクリスマスの飾り付けが至るところに見られる。

ひと昔は遊園地や教会やイベント会場などの場所に限られていたクリスマスツリーなどの明かりも、最近は普通の民家でも飾り付けられるようになってきた。それだけに、キリストのご降誕祭が日本国民においてもすでに完全な国民的な行事になったということなのかもしれない。

イエス・キリストの真実の誕生日はわかってはいない。だから、その日は永遠に隠されたママなのだろう。しかし、マリアを母として誕生日のあったことはまちがいのないことなのだから、象徴的な一日を選んで、そのご降誕を祝うのはかならずしも悪いことではない。ある宗派のように、お誕生日がわからないのだから、クリスマスを祝わないというまで「偏狭」でなくともよいと思う。主の苦難の十字架のその道行きに、三十数余歳の御生涯が象徴されているように、主イエス・キリストの短い一生は愛と犠牲そのものだった。その苦難と忍耐は、主のすべての弟子に受け継がれている。

今年になっては京都国立近代美術館において、12月27日までボルゲーゼ美術館展が開催されている。おそらく今度も鑑賞の機会も逃してしまうにちがいないが、この展覧会にはマドンナの肖像画で有名なラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」も飾られているという。わが国にはすでに滝廉太郎のようなクリスチャン音楽家は生まれているが、画家についてはまだ知らない。しかし、いずれはこの非キリスト教国日本にも、ラファエロのようなクリスチャン画家も生まれてくるのかもしれない。

ブログ上の交流でも私の不精のゆえにさほど深まったとは言えないけれど、hishikaiさんやmatubaraさんやpfaelzerweinさんのブログには折りに触れて訪れている。とくに今年になっての菱海孫さんとのブログ上の交流は楽しかった。少なくとも氏のように思想的に哲学的に近い(私の独断と偏見か?)ブログ上の論者を発見できたことはうれしい。私もまた僭越にも、ブログでも少なくともなにがしかの思想なり哲学を主張している。今後も言論の立場から私なりに終生国家に貢献してゆきたいとは思っている。

21世紀に入って隣国中国の台頭に比べて、日本国の衰退の傾向は著しいが、やはりその根源は人材の枯渇にあるのだと思う。第二次世界大戦における大日本帝国の敗北とマッカーサーGHQの占領政策がボディブローのように効き始めているということか。しかし、ポーランド、ハンガリーなどに見るように、真実のキリスト教民族、キリスト教国家に亡国の運命はまだ聞いたことはない。

退廃した自民党に代わって政権交代を果した民主党の小沢一郎氏は、今、明仁天皇のご意思も左右する小沢新天皇として権力の絶頂を極めつつあるように思える。かって小沢一郎氏は、高野山で金剛峯寺の松長有慶会長と会談したときも記者団に対して、「キリスト教は排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」とのたまうたそうだ。この一言に、小沢一郎氏の「思想と哲学と人物」の水準とその「罪と罰」が明らかになっている。

欧米社会と日本国のどちらが行き詰まっているか、私にはよくわからないけれども、選挙で多数を得るためならどんなことでも言うようなキリスト教嫌いの小沢一郎氏が、中国や韓国などにご拝謁と贔屓とを賜るために、くれぐれも国を売ることのないように願いたいものである。

バッハはその音楽創作でプロテスタント国家とキリスト教化に貢献した。今夜のクリスマスの楽曲としては、久しぶりにマタイ受難曲の片鱗でも聴いてお茶を濁すことにしよう。せっかくバッハ全集を所有しているのに、鑑賞と論評に能力の余裕のないのは残念なことではある。だけれどもそれも先の楽しみとして、またここでお得意の言い訳をする。

今年のクリスマスの宵をともに過ごすことの出来なかった人、友人たちに、お詫びを込めて、また、とにかく曲がりなりにも平安のうちにクリスマスの夜を迎えることのできたことに感謝を込めて、この拙記事でご挨拶を送ります。

皆さん、クリスマスおめでとう。


Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"
http://www.youtube.com/watch?v=gIdNBgyC88o&feature=related

 

 

 


春の息吹

2009年03月19日 | 日記・紀行

 

冬の寒さが厳しければ厳しいほど、春の訪れが歓ばしいものになる。今年の冬は生暖かくて何か物足りない気がする。ともあれ、春の足音が聞こえる。

春霞む市街地

 最近は西洋タンポポがはびこり、在来種はすっかりかげを潜めてしまったようだ。

                                          

 蕾も可愛い。

 

                                

どこか、フリードリッヒの絵を思い出す。

 梅の花が美しい。

 

 せっかく植えたイチジクの木も、野鹿には新芽がおいしい餌になったようだ。イチジクには過酷な運命だ。

        

                                          

   

 

           

    

神は黙して語らず。

 


明けましておめでとうございます(3)

2009年01月05日 | 日記・紀行

 

 

明けましておめでとうございます(3)

日本の根本的な課題は、「道州国家」の実現を追求してゆくことです。それによって現在の国のかたちを変え、中央集権的官僚政治を壊してゆくことです。その上で、教育を変革して「地方主権」の行政を実行できるようにすることです。全国民がこのことを理念として深くよく自覚して行動すべきです。

政治家などに働きかけてゆくことも必要でしょう。そして、東京への一局集中による経済行動の不効率な弊害の多い現状を変えて行くことです。もし私たちが「道州国家」「地方主権」を実現することができれば、現在の官僚の天下りの問題も、妊産婦のたらい回しによる死亡事故のような医療行政の破綻、また哀れな教育の現状――それは東京大学を頂点とする大学入試制度によって起こされる愚かしい受験戦争に現れていますが、これらの問題はよほど改善されてゆくのではないでしょうか。

多くの面で起きている日本の閉塞の状況は、徳川幕府から明治期へ、さらに戦前戦後を通じて今に至るまで続いている現在の中央集権的な行政機構と、その上にたつ官僚制度(公務員制度)に根元的な原因があることは明らかです。この現状を打開するためには、まず「道州国家」を実現して「地方主権」を確立することです。それによって現在の硬直した中央集権的官僚制度を破壊することなくして、日本の抱える多くの問題の解決はできないと思います。

日本の発展を阻害している「中央集権的官僚制度」を破壊するキィワードは「道州国家」と「地方主権」です。このブログでも引き続き、「道州国家」と「地方主権」の実現に向けてさらに論考を深めてゆくつもりです。今年も志を同じくする皆さんとの議論も活発に交換できることを期待しています。

正月早々、長々と政治や経済のことを論じてしまいましたが、せめて正月くらい、芸術の香気もほしいものです。

折に触れて開く西行の和歌、山家集などはいつ詠んでも味わい深いです。そのいくつかを詠んでみます。せめて西行の足の踏む砂粒ぐらいの歌でも自前で詠じることができればよいのですが。

716     わがやどは    山のあなたに    あるものを
            なにに憂き世を    知らぬ心ぞ

719     思ひ出づる  過ぎにし方を  はづかしみ   
            あるにもの憂き    この世なりけり

1227    かかる世に    かげも変わらず    すむ月を
            見るわが身さえ    うらめしきかな

1261    折る人の    手には留まらで    梅のはな
            誰がうつり香に  ならんとすらむ

1514    ささがにの    糸に貫ぬく    露の玉を
            かけて飾れる    世にこそありけれ

1544    友になりて    おなじ湊を    出舟の
            ゆくへも知らず    漕ぎ別れぬる

今年もみなさんまた良いお年でありますよう。

 

 

 


明けましておめでとうございます(2)

2009年01月04日 | 日記・紀行

 

明けましておめでとうございます(2)

正月の記事がとんでもない方向にそれてしまいましたが、もう少し続けます。

昨年の秋に、アメリカの証券会社リーマンブラザースの倒産に端を発して金融危機が全世界に波及しました。あれほど大きな収益を上げていたトヨタ自動車も一転して赤字予想を発表するなど、それ以降に世界の経済状況が一変しているようです。アメリカのそうした金融資本主義の動揺にも左右されることのない経済構造を、本当はわが日本国において造り上げてゆくべきなのでしょうが、対米従属国家の日本には、それは困難な課題であるようです。国民にその自覚はありませんし、指導者にもほとんど問題意識もなく、あっても、その努力すら怠っています。その付けが回ってきているというべきでしょう。国家も政府も多くの国民もそれぞれきびしい局面に立ち至っているようです。その打開は困難ですが、一人一人が何とか立ち向かって行くしかないようです。

年末年始の報道によると、東京の日比谷公園では、民間のボランティアが「派遣社員村」を開き、また、そのテントが足りないとかの理由で、桝添要一厚生労働大臣や大村副大臣などに、食料や住居など追加の要請をしていました。しかし、本当に必要なことは彼らが働いて暮らすことのできる「仕事」でしょう。もし、日本が本当のキリスト教国家、キリスト教の政府であるならば、民間のボランティアの要請を待つまでもなく、住む場所も食べるものもなく年を越さざるをえない人々のために、すでに中央政府も地方政府も十分な対策を講じていたはずです。またその事実は日本の現在の地方政府や中央政府の民主化がどれほど進んでいるかの尺度でもあります。

日本の国においても遅かれ早かれ、中央政府、地方政府ともに民主化されてゆくはずです。そのことによって2008年末の日本のように、住居や食料もなく年を越さざるを得ない人々もいなくなる時がくるでしょう。ただ、そうした時代の早く訪れることを期待したいものです。

今後の20年、50年の日本のさしあたっての課題として、具体的にはどのようなことが考えられるでしょうか。次のような目的を追求してゆくべきだと思います。

まず、日本において「道州制国家」の実現を全国民的な自覚的な運動としてゆくことです。そして現在のような東京の一極集中を分解して、それぞれの地方が政治と行政の権限を確かなものにして「地方主権」を確立することです。現在のように、中央官僚たちが全国の行政を一律に規制することによって生まれる役人利権という弊害が国家の癌になっている現状を改革してゆくことです。これを目的意識として国家の指導的位置にある人たちがもっと強烈にリーダーシップを取ることです。

現在の日本では、大企業の本社のほとんどが東京に一局集中しています。そのために、地震や戦争などの災害に脆弱な国家になり、また、交通渋滞などによるエネルギー消費や経済活動における無駄、不効率、環境破壊などの多くの問題が生じています。日本国におけるこの中央集権的な東京一局集中を破壊してゆくことが解決の根本的な方向になることは明らかです。またそれによって、新宿歌舞伎町に見られるような、退廃的な都市構造も解消してゆくでしょう。

中央集権的な上意下達式の、儒教的な官尊民卑の不効率な行政が、封建政治の遙か昔からの名残として現在も日本に残存しています。日本国民の意識と国家の制度もまだ事実として半封建社会にあると思います。地方の行政に自立性や主体性は育っていません。これを「道州国家」を実現してゆくことで解決してゆくことが鍵になります。歓楽街なども完全には無くならないかもしれませんが、「道州国家」によって「地方主権」を確立することで、少なくとも東京の歌舞伎町に代表されるような巨大な現代のソドムとゴモラのようなその醜い容貌はその様相を変えてゆくことでしょう。

しかし、たとえ「地方主権」が日本に実現したとしても、現在のような江戸時代のちょんまげの跡を残したままの日本人の意識では、衆愚民主主義になるだけかもしれません。今も「裏金問題」や労働組合の「闇専従」、地方行政の「情報公開」の不徹底、地方議会と議員などによるお手盛り行政、知事や市長、自治体議員などを選ぶ地方選挙の投票率のあまりの低さなど、地方行政の現状は、中央政府以上にひどく、とても「民主主義」の体をなしているとは言えないと思います。

 

 

 


明けましておめでとうございます(1)

2009年01月03日 | 日記・紀行

 

明けましておめでとうございます(1)

今年は当地では元旦は少し天気がぐずったりしたようですが、全体として晴れやかで美しい天気が続きました。富士山も三ヶ日、きれいに見えたようです。

静岡から京都に戻って来て残念に思うことの一つは、お富士さんのきれいな容姿を容易に眺めることができないことでしょうか。しかし通信技術の発達した今は、実物でないけれどライブでその姿は眺めることができるようになっています。

富士山ライブカメラ
http://www.fujigoko.tv/live/index.html

歌人の西行も生涯を旅に生きました。晩年になって東大寺料勧進のために東北地方に旅したときに、富士の山を見て次のような歌を詠んでいます。

                   あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

aa                 風になびく     富士の煙の     空にきえて
                           行方も知らぬ     我が思ひかな

この歌は、新潮社版の山家集にはありませんが、岩波文庫版には「覊旅歌」の中の和歌として載っています。藤原定家の編纂になる新古今集の中にもおさめられているらしいですが、手元にこの本がないのでわかりません。この歌からもわかるように西行にあっては旅そのものが仏道修行でした。この歌も「我が思ひ」をどのように解釈するかで、さまざまに詠みとることができるようです。たんに旅の叙情を歌ったものではなく、無常の歌とも恋の歌とも言われています。

昨年の秋に待賢門院璋子のゆかりのお寺の法金剛院を訪ねたり、また、桑子敏雄氏の著書『西行の風景』を読んだりして、西行についてもかなり理解も深まったと思います。この本は、まだ書評も書き上げていないのに、すでに図書館に返却してしまいました。

とにかく西行が日本の歴史のなかでも文化史的に大きな位置を占めている歌人だということはあらためてよくわかります。これまで山家集の西行しか知らなかったのですが、西行がとくに晩年にみずからの芸術の価値をよく自覚して残した「御裳濯河歌合」や「宮河歌合」などは、伊勢神宮に奉納もされたそうです。また、西行が和歌のなかで、月に仏教を、櫻に神道を象徴させているらしいことも、今になってはじめて知ったことです。

当時にあっても仏教は外来の思想、宗教であり、それが古来の神社信仰とは異質の、時には忌み嫌われる関係にあったこともあらためてわかりました。西行はこの矛盾する神社信仰と仏教の二者を、神仏冥合の思想によって、しかも和歌の世界でその統一を実現しようとしたようです。西行をはじめとするそうした試みは日本の先人たちの優れた思想的な営みだったと思います。

ところが、せっかくのこの優れた西行の頃からの伝統的な遺産も、明治期になると狂信的な「廃仏毀釈」運動によって破壊され、その生命を絶たれてしまったようです。明治維新や明治政府の指導者たちが、せめて西行などの神仏冥合の思想を正しく理解することができていれば、その後に昭和の時代の狂信的な国家神道もなく、太平洋戦争も避けることができたかもしれません。狂信的で破壊的で生ける命を殺してしまう悟性的思考の害悪を思うばかりです。たんに真言僧の歌人と思っていた西行が、神仏冥合の考え方のうえで文化史的にも大きな位置を占めていることを知りえたこともうれしい新しい発見でした。

さまざまな宗教の和解という問題は、たんにその昔に西行が仏教と日本の民族宗教である神社神道との関係で思想的に苦闘したばかりではなく、今もなおイスラム教とユダヤ教のあいだをめぐってイスラエルとパレスチナで殺戮の応酬が続いています。また、アフガニスタンやイラクでのアルカイダのテロ行為にもイスラム教とキリスト教との関係が背後にあります。

ヒンズー教と仏教の軋轢をめぐって、正月早々にセイロンでも戦闘が行われています。昨年の晩秋にインドのムンバイで起きた同時多発テロの背景にも、イスラム教とヒンズー教の軋轢があります。諸宗教の調和の問題は今世紀においても、引き続き人類の大きな問題であることに変わりはありません。このブログでもテーマにしてゆくつもりです。

 

 


この一年を振り返る

2008年12月31日 | 日記・紀行

 

今年も今日で終わりです。この一年を振り返ってみても、残念ながら決して大きな進歩があったとも言えません。それは個人的にも社会的にもそうでした。

それでも小さな成果があったと言えば、今年になってニンジン、ダイコン、生姜、タマネギなどの野菜を、はじめて自家製で食卓に上らせることができたことでしょうか。農作業にかかわり始めてまだわずか一年の初心者ですが、果樹も本当に最初の一歩で、イチジク、モモ、柿などを植えました。もちろん果実を収穫できるようになるのは、もっと先のことで、それも柿の根づけすら第一年目のハナから失敗しました。

本当はもっと若い時から、自分のめざすべき道を進みたかったのですが、しかし、後悔先に立たずですから愚痴を言っても仕方がありません。生活のスタイルを新しく作って行くしかないようです。

この秋に始まった金融恐慌の嵐は、今も吹き荒れています。トヨタやホンダなどの自動車会社は、好況時には兆単位の収益を上げておきながら、いったん不況になると、真っ先に人員解雇を行っています。

こんなことでは、どんなに魅力的な自動車をこれらの会社が生産していようが、社会的にはまったく「つまらない会社」と言うしかないでしょう。人々の労働力を活用し利用して儲けていながら、不況時には冷たく従業員の生活手段を奪うことに何らのためらいもないようですから。現在の株式会社が雇用よりも利益を優先する社会的組織であることがこうしたことからも明らかです。これらの会社の株主たちも、また、いわゆる「正社員」たちも、配当や利ざやや自分たちの給料が肝心で、臨時社員の生活などどうでも良いのでしょうか。

これもやはり日本にはまだ本当の宗教が支配的な社会にはなっていないからです。政府は言うまでもなく、国家にも国民の間にもまだその精神が十分に浸透していません。それを実現するのもまだはるか遠い先のことかも知れません。しかし、いずれにせよ、願うことはこの日本国が世界に先駆けて、失業や貧困の不自由から解放された国家になることです。

来年は個人的にはさらに農的生活の方面をさらに充実させていきたいと思っています。できれば、生活の場もさらに農村地域に移せれば良いのですが。昨今の中国製の食品の安全性や畜産飼料の価格の高騰などによって、私たちの生活の根本である食料に問題のあることもわかっています。日本の食糧自給率なども話題になりました。それらは国民のすべてが食料生産に携わるようにすれば解決することだと思いますが、それにしても現在のあまりにもずさんで有害無益の農業政策を転換してゆくことでしょう。もはや現在のように、無能な政治家や官僚たちに任せていればいいという段階ではないようにも思います。自分たちでみずから行動してゆくことでしょう。

この国を少しでも良い国にして行くために、農業の現状など、さらに理論研究を深めてゆく必要もあります。また、たんに理論のみならずNPOなどで志を同じくする人々といっしょにその可能性を追求してゆくべきかもしれません。来年は少しでも夢が深められ、一歩でも前に進むことができますように。

袖触れ合うも他生の縁とも言います。この一年、つたなき当ブログを訪れてくださったみなさん、来年も良いお年でありますよう。

 

 


クリスマスおめでとう

2008年12月24日 | 日記・紀行

クリスマスおめでとう。


今年もさまざまな出来事があった。このブログでもさまざまに記録したけれども、今宵のひとときはすべて忘れて。
さて、今年もまたクリスマスがめぐり来る。2008年ももう終わり。
食卓のケーキとローソクだけではなく、パンとぶどう酒と祈りで、人それぞれのささやかなクリスマスを祝うことにしよう。十年ほど前の美しかったクリスマスの宵を今年は思い出しながら。
みなさん、さまざまな境遇におられるすべての方それぞれに慰めのありますように。どうか今年も良いクリスマスを!

詩篇第百二十一篇

1   都もうでの歌
    私は山々にむかって目をあげる。私の助けは、どこから来る。
2   私の助けは、天と地を造られた主から来る。
3   主よ、どうか私の足をよろめかせることなく、
    私を見守る者がまどろむことのないように。
4   見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。
5   主はあなたを守る者、主はあなたを庇う蔭、あなたの右にあって支える手。
6   昼は太陽があなたを撃つことなく、夜も月があなたを撃つことはない。
7   主はすべての災からあなたを守り、あなたの命を守られる。
8   いずこに行くも帰るも、主はあなたを守られんことを。
    今もとこしえに至るまで。

主の祈り

天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。


心とことばと行いと生活によって
Herz und Mund und Tat und Leben


Wohl mir, dass ich Jesum habe,
O wie feste halt ich ihn,
Dass er mir mein Herze labe,
Wenn ich krank und traurig bin.
Jesum hab ich, der mich liebet
Und sich mir zu eigen gibet;
Ach drum lass ich Jesum nicht,
Wenn mir gleich mein Herze bricht.

私にとって幸せなことは、私にはイエス様があること。
おお、どんなに堅く私は彼を抱きしめていることか。
主は私の心を慰め勇気づける。
私が病み、悲しんでいる時も。
私はイエス様のもの。彼は私を愛され、
そして、御身を私のために捧げられた。
ああ、だから私はイエス様を離さない。
どんなに私の心が張り裂けようと。


Jesus bleibet meine Freude,
Meines Herzens Trost und Saft,
Jesus wehret allem Leide,
Er ist meines Lebens Kraft,
Meiner Augen Lust und Sonne,
Meiner Seele Schatz und Wonne;
Darum lass ich Jesum nicht
Aus dem Herzen und Gesicht.

イエス様はいつまでも私の歓び、
私の心の慰めであり命の水、
イエス様はすべての災いを防がれる。
主は私の生きる力、
私の眼には快い日の光、
私の心には幸せな宝もの、
だから、私はイエス様を離さない、
私の心と眼から。

Dinu Lipatti plays J.S. Bach - Cantata BWV 147

テキスト

 


 


勤労感謝の日

2008年11月23日 | 日記・紀行

今日は勤労感謝の日。山で畑仕事に関わりはじめたのも昨年の十一月だったから、まだ一年にもならない。ずいぶん長い時間が経っているいような気がしているが、まだ一年にしかならないのだ。先日からタマネギと麦のために畝づくりをはじめた。

去年はタマネギの苗をもらって育てたが、今年は種を播いて苗を育てることからはじめた。一ミリにも足りない小さな種から苗を育てる農業がこれほど繊細な仕事であるとは思わなかった。それはとくに箱庭農業の日本だけの特色なのかもしれない。アメリカやオーストラリアのような広大な農地を相手に耕作をやる場合は、ここまで繊細にはならないだろうと思う。私の大雑把な気質としては、トラクターを駆って大地を掘り起こす方が向いているように思う。
とにかく出遅れた種まきだったけれど、何とか人並みに苗は育った。

先の記事でも歌人の西行を取りあげた関係で、ネットで検索してみると、さすがに昔からの国民的な歌人らしく多くの人がブログやサイトで西行を取りあげ論じていた。とくに『digital 西行庵』さんなどは西行周辺の資料としてはこれ以上望めないほど充実している。また管理者の新渡戸広明さんという方は、理科系の人らしく、西行についての解釈をおこがましく語ることなく、ただひたすら客観的な資料そのものに西行の人となりを語らせようという謙虚な姿勢に徹しておられる。その他にも、西行に関する優れたホームページも少なくない。お気に入りに記録しておく価値のあるブログやサイトも少なくない。

いくつかの西行関連のネットサーフィンをしていて知ったことは、とくに、栂尾高山寺の開山として知られる明恵上人が、西行について聞き書きを残していることだった。知れば知るほど西行の姿が大きく重くなってくる気がしている。とくに西行の和歌も本当に知るためにも、仏教思想も知っておく必要もありそうだ。

また、東京工業大学教授の桑子敏雄氏に『西行の風景』(NHKブックス)という著書のあることを知った。それで先日、京都の図書館にその本のあることを知って借り出した。そして、今日読み始めた。

本を読んで、新しく視界が開けるという体験はそうざらにあるものではないけれど、桑子氏の『西行の風景』は、西行を見る新しい一つの視点を持たれているようで、示唆に富むように思われる。一言でいって、私には和歌の世界を思想的に哲学的に軽く見ているきらいがあったかもしれない。

書評は書いておこうと思っている。この本のキィワードは「空間」と「言語」である。私などはそんなときすぐに、なぜ「時間」がないのか、と生意気な反論を思い浮かべるが、大切なことは、私自身がどれだけ西行の真実に迫れるか、ということであるにちがいない。
桑子氏の「空間と言語」論は興味が持たれる。まだ三十ページほど読んだばかり。

先日、右京花園の宝金剛院を訪れたときのことを、紅葉紀行としてブログに書き始めた。偶然かどうか、ヘーゲルを読み囓っている私には「すべての個人は時代と民族の子である」という命題がつねに頭にあって、西行や待賢門院璋子などの歴史的な人物を論じる場合にも、場所と時代と伝統文化の視点で捉えようとする。おそらく私にとっての「場所」が先の桑子教授の「空間」と重なるところが多くあるのだろうと思う。この「場所」の概念は西田幾多郎などの哲学のなかでも重要な位置を占めているようだ。

先の記事でも、待賢門院が再建を尽くした宝金剛院が花園双ヶ丘という「場所」にあることを重視して、私の視点からその地理的な位置をできるだけ記録しておこうと思った。また、写真もいつになく多く撮ってしまったけれど、その風景もまた私という主観によって知覚せられ切り取られた客観的な世界の記録である。それが「風景」でもある。ただ残念ながら西行のようにそれを言語によって和歌として表象する力はない。
次は待賢門院璋子をめぐる歴史紀行にしたいと思っている。調べれば調べるほど、歴史についての無知が明らかになる。

 


紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝

2008年11月22日 | 日記・紀行

 

紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝


それでも庭園の事跡に、わずかながらも待賢門院璋子の面影を偲ぶことはできるのか。とくに御堂の北東に木立の影に宝篋印塔をめぐって静かに端座している供養仏のたたずまい仏足石を眺めたとき、藤原璋子の信仰の名残を見たような気がした。

そこから少し南に歩いたところに青女の滝がある。名は滝でこそあれ、私が訪れたこのときには、流れ落ちる水はなく枯れていた。梅雨や夏の雨の季節にこの滝が蘇るのかそれはわからない。この滝が待賢門院の意思によって造られたことは確かで、それは璋子の当時の関係者の日記にも残されている。その後彼女の意向に添って、さらに滝の高さを増し加えられたことなども記録されている。青女の滝の水涸れの跡が、涙の枯れ果てるまで泣いた待賢門院や西行の面影のように思えた。

    秋深く芹なき野辺の滝枯れは恋ひしき人の涙の跡しも  

      
さらに池に添って歩いてゆくと歌碑が目に付いた。見ると西行のではなく待賢門院堀河の和歌が刻まれていた。

ながからむ心もしらず黒髪のみだれて今朝は物をこそ思へ(千載和歌集)

堀河の局が仁和寺に住んでいたことは山家集にも記録されている。往時この法金剛院も仁和寺の敷地の一部とされていたからこのあたりに暮らしていたのかもしれない。和歌自体は待賢門院とは直接関係はなく、後朝の思いに乱れる堀河の局の気持ちを詠ったものである。

いつどこで詠まれたのかわからないが、西行は次の歌を詠んでいる。

1033   なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけむ人の心知られて

これは美しい后の姿に恋心を抱いた殿守りが、ふたたびその姿を見たいと思って御簾近くに芹を供えたという故事によるもので、この歌からも、また西行や堀河の局たちが待賢門院を追悼して交わした和歌などからもわかるように、中宮璋子に仕えた人々のあいだには共通する思慕の情があった。

西方浄土への道案内として西行を頼りとしていたという堀河の局に、その甲斐が本当にあったのかどうか、もし生きているなら訊ねてみたくて詠んだ歌。

    黒髪の思ひみだれしきぬぎぬにたのみしひとのしるべ有りしか

さらに池の廻りを巡って行く。池の端に立って紅葉の向こうに御堂を眺める。夏にはこの池も美しい蓮の花で埋め尽くされるらしいけれども、秋の深まりつつある今はその面影はない。嵯峨菊の彩りが木陰に覗かれるだけである。

池の畔に植えられた山椒薔薇やナナカマドや黒椿、紺蝋梅などの木々の名前をその標識によって記憶しながら歩いた。紫式部も池に風情を添えていた。すでに葉を落とした沙羅双樹が、薄く曇った空に梢の枝先を突き刺すようにして立っていた。

南門の傍に小さな鐘楼が残されている。これも往時を偲ばせるものかもしれないけれども、青女の滝がわずかに小さく発掘されて残されているように、待賢門院の生きた頃の古図に描かれてある寝殿造りの御所は失われてないし、五重の塔も南御堂もない。かっては池もはるかに広く舟で渡ったという。

池の紅葉を振り返り見ながら歩いていると、背中に誰かとぶつかった。振り返ると異国の、きれいな女性が微笑んでいる。灰色の眼の柔和な表情で立っていた。嵐山などとは異なってほとんど人影もないこの古寺をひとりで訪ねて来たらしい。彼女の清楚な面影を思って詠む。

    夏過ぎてなほ咲きのこる外つ国の青き瞳の撫子の花

御堂の中に入れなかったこともあり、西行や堀河の局たちの面影を髣髴させるようなものはなかった。そして保元の乱で兄の崇徳院が讃岐に流された後、妹君の統子内親王、上西門院は1160年にこの地に隠棲したらしい。その面影も、庭先のどこを見回してもない。確かに待賢門院璋子は皇子や内親王の不遇を知ることなく亡くなった。しかし、それを幸いと言えるはずもない。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も若き日には蔵人としてこの統子内親王に仕えていたという。その縁で上西門院統子に仕えた女房たちにも鎌倉幕府に縁のある者もいるという。また、不遇のうちに晩年を過ごしたらしいこの上西門院統子は、母に似て容姿が美しく、弟宮の雅仁親王(後の後白河天皇)と法華経読誦の早さを競い合ったりしたことが当時の歴史書、今鏡や愚管抄などにも記録されている。愚管抄の作者である大僧正慈円は、西行や藤原俊成などとも交流のあった歌人でもある。

今となっては法金剛院の境内に西行や待賢門院璋子らしき面影を偲ぶことのできるものはない。過去の歴史の中に消え去ったこれらの人々を蘇らせるためには、平家物語や保元、平治物語などの軍記物、また今鏡、愚管抄、栄花物語などの歴史物語をあらためて繙くしかないようである。また、そこに転変する時代の狭間に生きた人々の哄笑も落涙もともども映し描かれているようである。

駐車場を出ると来た道を戻り、仁和寺の前を南に向かい、嵐電の御室駅の前を過ぎて帰る。                                                                                              

                           

 


紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

2008年11月21日 | 日記・紀行

 

                                                                                                                              紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

私が訪れたときには、駐車場にも、またそこから拝観受付所に通じるあたりにも人影はなかった。紅葉は目に付いたが、その色つきからまだ絶頂を迎えていないことはすぐにわかった。

拝観受付所で呼び鈴を押すと、ご住職とおぼしき袈裟姿の男性が奥の方から出てきた。拝観料と引き換えにパンフレットを受け取る。東の御堂の方に向かって歩きはじめて間もなく、後ろから二人連れの女性の歩いてくるのがわかった。私はその時お寺の中をゆっくりと見回りたかったし、またカメラにも記録しておきたかったので、彼女たちに先に行き過ぎてもらうことにした。それで御堂の間の道に入り、脇に咲いていたこれまで見たこともないような大きな鶏頭の花や、黄色い実をつけた千両などを眺めていた。

仏殿は修理中のために拝観できなかった。待賢門院璋子たちによっても多くの仏画、仏像などが寄進されたのだろうが、来年四月まで見ることができない。落ち着いた桜の季節の頃にふたたび訪れてもよいと思う。

藤原冬嗣を祖とする藤原北家の公実の女として待賢門院璋子は1101(康和三)年に典侍藤原光子を母に生まれている。七歳の頃に父と死に別れ、白河天皇の猶子となった。このことが藤原璋子の生涯を決定づけることになった。

藤原氏の摂関政治の全盛を誇った藤原道長の没した11028(万寿4)年からこの頃すでに八〇余年を経過している。藤原氏が外戚となり摂政関白の地位によって実権を握る政治は続いていたが、白河天皇には藤原氏とは姻戚関係はさほど深くはなかった。

白河天皇の治世については、平家物語のなかでも「みずからの意のごとくにならないものは、賀茂川の水と、双六の賽と山法師のみである」と語られている。歴史的にも白河天皇は院政をほしいままにしたことでも知られている。白河天皇の後を嗣いだ堀河天皇が若くして亡くなられて、孫の鳥羽天皇がわずか五歳で即位する。このとき白河天皇は法皇として幼い新天皇を後見し、藤原氏の外戚を排除してみずから親政を執り行うことになる。

鳥羽天皇もその誕生と同時に母である藤原苡子を失ったために、鳥羽天皇もまた祖父白河天皇に引き取られ養われていた。だから時を経てほとんど運命的に璋子は入内し、そして鳥羽天皇の中宮となった。もともと璋子も鳥羽天皇も白河法皇の猶子どうしである。二人は白河法皇の寵妃、祇園女御に養われていた。しかも鳥羽天皇の母である藤原苡子はまた璋子の父である藤原公能の姪でもあった。

歌人の西行法師は出家前にはこの鳥羽天皇に北面の武士として仕え、藤原璋子の兄である藤原実能の家人であった。だから藤原璋子は西行と関わりが深かったはずである。

仏殿が工事中であったので拝殿することもできず、藤原璋子の事跡を偲ぶことのできるものは境内に見あたりそうもなかった。ただ、いかにも嵯峨野にある寺らしく、御堂の傍らに色とりどりの嵯峨菊が鉢に植えられて並べられていた
西行が法金剛院を訪れたときに、いつどの場所で待賢門院を懐かしんだ和歌を詠んだのかはわからない。しかし、出家して間もなく西行は嵯峨野に庵をもって隠棲していたし、嵯峨野から内裏までの途上にあるこの双ヶ丘の地に仁和寺や法金剛院は位置しているから、西行も折に触れて立ち寄ることもあっただろう。

鳥羽天皇の譲位にともなって璋子は待賢門院の院号を賜る。この待賢門院に生まれた皇子顕仁親王(崇徳天皇)が鳥羽天皇の皇子ではなく祖父の白河天皇の落胤であるという噂は昔からよく知られていたらしい。それは歴史的な文書である古事談などにも記録され、また鳥羽天皇が崇徳天皇について「叔父子」であると語ったことなどが伝えられていることによるらしい。

また、それらを根拠にされたのだろうと思われるが、現代において待賢門院璋子の生涯を詳細に考証された角田文衛氏などは、女性の月事なども手がかりにそれ事実として立証されようとしている(『待賢門院璋子の生涯』朝日選書)。しかし、果たしてそれは真実であっただろうか。

ただ、若い日の待賢門院璋子がかなり放埒であったことは確かであったようである。しかし、この時代の人々を現代人の倫理意識によって批判しても真実を洞察することにはかならずしもならないと思う。ただ、この藤原璋子が養父である白河法皇の深い愛情を受けて育ったことはまちがいはなく、またその影響を受けたことによるのか、自身も仏教に深く帰依されたことは明らかだ。この法金剛院の建立に尽くされたことや、また、たびかさなる熊野参詣などによっても、待賢門院の信仰と立場が推測されうる。

もともと平安期のはじめに清原夏野が建てた山荘のあとに文徳天皇が天安寺を建立し、そのあとに待賢門院によって再建されたのがこの法金剛院であるといわれる。白河法皇や鳥羽上皇に寵愛されて待賢門院璋子は栄華を誇った。その歴史的な事跡として今も残されているのがこの法金剛院である。

そして彼女が熱心に行った寺院建築や熊野参詣が当時の荘園制度の発達と、そのうえに立った経済基盤の上にあったことは明らかで、院政によって強大な権力を保持しえた白河法皇の時代の背景には、すでに藤原道長の摂関政治の全盛期は過ぎ、その力が弱まっていたこともあった。

また荘園の発達は法皇やその庇護を受けた寺社に大きな富をもたらす一方、その権益を実力で保証する武家が、公家や貴族に代わって台頭して来ており、世相にはすでに末世的な時代の転換期を予感させるものがあった。

待賢門院璋子はこうした時代に生きた女性で、彼女自身は生前にその悲劇を目撃する不幸は免れたものの、その没後十数年にして皇子である崇徳天皇は反乱の廉で(保元の乱)讃岐に流されることになる。そうした時代の不安は晩年の璋子にも忍び寄っており、それがいっそう深く彼女を仏教に帰依させることになったにちがいない。

京の町ではすでに璋子の時代にも多くの邸宅が放火によって焼失することも少なくなかった。その後さらに時代をさかのぼる応仁の乱など、度重なる戦火によっても、内裏の邸宅など京都の多くの市中が灰燼に帰している。この法金剛院も待賢門院が建立した当時とは大きく姿を変えているともいわれる。さらに近代現代の都市の発達で、この法金剛院も敷地の多くは切り取られ失って、待賢門院往時の壮大な光景は失われている。

 


紅葉紀行(1)宝金剛院――地理

2008年11月20日 | 日記・紀行
 

紅葉紀行(1)宝金剛院――地理

焦かれる思いで出かけたけれど紅葉にはまだ余裕があった。春の花にせよ秋の紅葉にせよ、そのもっとも美しい盛りに巡り合わせるのはむずかしい。

だいたい京都に出るときはまっすぐ東に走って桂大橋の西詰めまで出る。そして洛北を目指すときには橋を渡らずそのまま桂川の左岸をまっすぐ北に上がる。洛中に出る場合はこの橋を渡って行く。

この桂大橋の西詰めには桂離宮がある。これほど近くを何度も通り過ぎながらこの離宮の中にまだ一度も入ったことがない。いや遠いむかしに誰かに連れられて来たことがあるかもしれないが、すでに多くの観光地名所と一緒になってしまって定かではない。それほどに神社仏閣にはさしたる関心もなかった。しかし今は、この桂離宮はできるかぎり近い内に見ておきたいと思うばかり。

洛西から洛央に入るためには、いずれにせよ桂川を渡らなければならない。桂大橋でなければ上野橋を渡る。桂川に架かる橋にはその他に久世橋、久我橋、羽束師橋、五条西大橋などがある。行き先によって渡る橋も代わる。紀貫之たちの生きた昔は土佐日記にもあるように、難波から京に入るためにはみな淀川からこの桂川を上って行った。

山家集で待賢門院に寄せた西行の歌を詠んだ縁で宝金剛院を訪れてみようと思い立つ。場所は花園近くと聞いていたから、距離としては桂大橋を渡っていた方が近い。けれど途中に嵐山にも立ち寄ろうと思い上野橋から行くことにする。

上野橋を渡り桂川の右岸に沿って北に走るとやがて左手に松尾橋が見える。さらに北に走ると嵐山や遠く愛宕山の山容が姿を見せ始める。桂川のせせらぎは午後の陽光を川面に照り返していた。ススキの穂が川面の光を背に風に揺らいでいる。荻と区別ができない。

遠くの小倉山や愛宕山のあたりをながめても、まだ紅葉には間があるように見えた。西行が詞書きに詠っていたように「紅葉未だ遍からず」で、「かつがつ織れる錦」にも至っていなかった。

それでも秋は秋で、ところどころの黄葉と紅葉は美しい。画布に向かい油絵の具を手にすることもできないから、持参したデジカメにせめて秋の名残を留めておこうと数葉の写真を撮る。できるだけ人出を避けるために平日を選んできたけれど、すでに秋の観光シーズンに入っているのか、嵐山にはもうかなりの人出があった。

渡月橋の橋のたもとは観光客で混み合っていた。その間を抜けて大堰川の右岸にそって往くと右手には何軒かの料亭が列んでいる。このあたりの料亭で宴会に出た記憶も今はもう忘却の淵の中。時雨殿の前を通って夢窓疎石の開山になる天龍寺の境内に入る。境内の紅葉はよく色づいていた。

勅使門から出て山陰嵯峨野線を横切り新丸太町通りまで出る。このあたりは観光客と自動車の列で混み合っていた。嵯峨小学校の脇を抜けてそのまままっすぐに往けば清涼寺に出る。ここから大覚寺や落柿舎も近い。またいつの日か時間を掛けて歴史探索に訪れる日を期待して、今日は東にまっすぐ目的の新丸太町通りを行く。二時を少し回っていた。

京福常盤駅を過ぎ双ヶ丘の交差点を横切り、花園黒橋のバス停に至ったときふと脇を見ると法金剛院の標識のある駐車場が目に入った。地理を探すのに手間取るかもしれないと思っていたのにあまりにもあっけない。

 


歴史の探求

2008年10月27日 | 日記・紀行

 

このブログの記事のなかでも、これまで小野小町や西行や在原業平などの事跡を取りあげたことがある。とは言え、もともとそうした歴史上の人物に私がとくに興味や関心をもっていたというわけでもなく、ただ昔に学校で習った日本史や古典の中に、それら聞き覚えていた人物の名前があったにすぎない。

日々の散歩や散輪に出かけるおりに、昔授業で教わった歴史上の、すでに過去になったそうした人々の足跡が、たまたま訪れる近所の寺社に残されているのを知って、興味ひかれて少し調べてみようと思い立ったのがきっかけになった。また最近のインターネットの発達もあって、文献や資料に当たるにも調べやすくなったということもある。

先に業平卿の人物の背景について調べていたときに気がついたのだけれども、とくに奈良朝から平安朝への移行期が、それ以降の日本史の基礎を据えるような重要な歴史的な転換期に当たるのではないか、と感じたことである。

そんなことは日本史の常識かもしれないが、学校教育で私の受けた日本史や古典の授業などは通り一遍で、また青年時代にそれだけの理解力もなかったということもあるのだろうけれども、私の歴史認識などその程度のものだった。これまでとくに歴史に興味や関心を駆り立てられると言うこともなかった。

しかし今こうして、未来の時間よりもむしろ過去の時間の方が長くなっていることを実感し始めると、すでに歴史の彼方に隠れてしまった過去の人々の面影が、私自身の過去の時間の延長に色濃く浮かび始めてくるのをどうしても感じる。

近所などを散策していて、藤原乙牟漏様などの旧跡などに出くわすと、そこにすでに眠りに就いている人々の姿が、先に逝った父や母の向こうに現れてきて、若かりし昔よりはよほど歴史に断絶感のなくなっていることに気がつく。

桓武皇后陵や業平卿の終焉の地とされる十輪寺や西行がそこで剃髪したらしい勝持寺などを訪れて見たりするとき、そして、その折りにあらためて彼らの生きた時代の背景なども調べてみると、今まで無造作に頭の中に散らばっていた彼らの人物像が、それぞれ生きてつながってくるようでなかなか面白く興味深くなってくる。

とくに業平たちの生きた平安時代の初期は、「伊勢物語」などの舞台でもあって、業平と同じ時代に生きた藤原高子小野小町などの人物像の輪郭をもっと深く明確に浮き彫りにしたいという誘惑にかられる。現在のような曖昧模糊のままでは何となく物足りないような気がする。

また、現在の私には在原業平の背後にちらちら瞥見しうるに過ぎない空海や最澄などの面影の方に、むしろ強く惹かれるような気がしている。彼らはいずれも日本史上の頂点に位置するような人々でありながら、その実像についてあまりに疎い自身の現実に驚いている。そのせいか遅まきながらも学生時代の不勉強のやり直しをかねて、この時代を中心に調べなおして見ようと思うようになっている。

幸いにして今は昔とちがってネットの発達によって、文献資料は――もちろんその精確さについては批判的に吟味されなければならないとしても、よほど手に入れやすくなっている。それを実際のフィールドワークで確認してゆくのも、歴史科学の探究として充実した時間になりそうだ。

折りしも今年は源氏物語千年紀とされている。けれども、その作者である紫式部について、その実像については、ただ昔に「紫式部日記」の断片を読んだ記憶がある程度のものでしかない。小説よりもむしろ歴史に惹かれるのは私の性だとしても、今さらながら学生時代に怠った歴史についての空白が多すぎる。生きた証に少しでも埋めてゆくために、自分なりに調べてゆこうかと思っている。

歴史の帳に隠れておぼろげにしか見えていなかった人々の姿を、より明らかに捉えることは興味の尽きないことかもしれない。さしあたってとくに、最澄、空海の生きた平安初期に焦点を絞るべきだろうか。いずれにしてもどれだけ時間を要するかは分からない。そろそろやって行こうかと思う。また、もし同好の士がおられれば歴史散策などにご同行していただければとも思っている。

 

 


きれいな満月

2008年10月13日 | 日記・紀行

 

この連休は美しい秋晴れの日が続いた。体育の日の今日草取りに山畑に行く。怠けて放っていたニンジンの周囲の草取りをする。ブロッコリー、大根、水菜、壬生菜、菊菜、タマネギなどの芽は、ズボラにわか百姓をも免じてそこそこに芽を出していた。自然は慈悲深い。農家のように生活がかかっていないからのんきなものだ。秋ナスとシシトウと最後の葉生姜を抜いて帰り、食卓に添える。

日が落ち、夕闇が濃くなってくると、東の空に満月が輝きはじめる。空から落ちてくる月の光はわが姿を影絵のように道ばたに写しだした。象牙を丸く掘り出したような月が浮かんでいる。地球のようには青くはない。紫式部や西行も見た月だ。

ここしばらく、マスコミはどこでもアメリカの「金融恐慌」を取りざたしている。プロテスタント・アメリカに対する罪と裁きということか。そして昨日、そのアメリカはなりふり構わず、テロ国家北朝鮮を指定リストから外した。そして、アメリカに泣きつくしかない日本は、いつものように悪女のように愚痴の泣き言をたれるばかりだ。口に出しては誰も言わないが哀れなものである。

また三浦和義氏がロスアンジェルスの拘置所で自殺したことが報じられていた。取り立てて語るほどのことでもないかもしれないが、それでもエポックを象徴する小さな事件として記録しておいてもよいかと思った。

三浦氏の事件についてはさまざまな点から論評できるだろうし、またその論評自体が評者の立場や思想をあらわすことになるだろう。

三浦氏はよかれ悪しかれ日本の戦後を象徴する人物としてみていた。ある社会に病理が伏在しているとすれば、おりに触れて吹き出物がある個所から現象してくるものである。

太平洋戦争の日本の敗北とその後のアメリカ占領軍統治。その帰結としての「半植民地文化」、その土壌に咲いた戦後日本文化を象徴する仇花。アメリカ文化の表面的な模倣と日本人の民族性の一面とがミックスされた土壌の上にのみ咲く。

三浦氏が犯罪者であったかどうかは分からない。しかし、三浦氏の言動はやはり戦後日本人のものであったと思う。そして、日本の司法においては無罪が宣告されたが、アメリカの司法当局は死に至るまで追求の手を緩めなかった。アメリカの「半植民地文化」の申し子が、もう一つのアメリカによって裁かれようとしていたのである。アメリカは広く懐も深い。それを知らずして傲った戦前の日本は戦いを挑んで破れた。これが私にとっての三浦氏の死のもつ意義である。

日本の戦後はまだ終わらない。太平洋戦争の敗北以降の、戦後という区分とその終焉についての定義は人によってさまざまだろうけれど、少なくとも私には戦後はまだ終わらない。

日本の戦後の終焉とは、日本国内からアメリカ軍基地がすべてなくなり、戦前の日本のように、自国の軍隊の独力で国土の防衛を果たす日である。その日が来るまで私には日本の戦後は終わらない。

今晩、NHKで――NHKも公営放送として少なからず問題を感じているが今ここでは触れない。もちろん評価できる点もある――『月と地球46億年の物語』という番組が22時からあり、月探査機「かぐや」が伝えてきた映像とデータにもとづいた月と地球の新しい宇宙像を伝えていた。

今夕おりしも山合の畑から見た白い月も、昔かぐや姫が月の世界から天上の使者の迎えに来るのを知ってひどく泣きじゃくったのと同じ月だ。かぐや姫はこの洛西の竹林のどこかに生まれ育ったそうだ。


[短歌日誌]⑤2008/10/13


満月の浄き世界を捨ててまで穢土の翁媼に泣いてすがりし

 

 


ヒヨドリバナ

2008年10月01日 | 日記・紀行

 

今日から十月、神無月である。神無月とは日本全国の神社に祭られている神々が、この月に出雲大社に集まるためにいなくなることに由来するそうだ。その真偽はとにかく、そこに古来からの土着的な宗教の起源について何らかの真実が語られていそうで奥ゆかしい。

陽暦ではただの10月で数字の順位が示されるだけで味も素っ気もないけれど、歴史的にはそのほとんどを陰暦の下に暮らしてきた日本人にとっては、当然のことながら、その呼称の裏には人々の季節感や生活感、自然観が籠められている。

陰暦の月呼称と別称
http://www.taka.co.jp/okuru/engi/inreki01.htm

はるか昔、出雲地方から日本全国に散らばった豪族たちが、自分たち氏族の出自と団結を確認するために、年に一度自らの出身地に帰り集結するという、民族の遠くはるかな記憶がそこに刻み残されているのかもしれない。

山畑へ行く。青紫蘇がいよいよ薹がたち実を付けはじめて、もはや柔らかく薫り高い若葉がなくなり始めて残念に思っていたところ、青紫蘇の実がいい佃煮になり鉄分も豊富であることを教えられた。それで、ざるに一杯ほど摘んで帰ることにする。

自宅に戻ってから、その青紫蘇の実を採っていると、指先が濃い茶色に染まるほどだった。それは葉や実に含まれる鉄分によるものかもしれないと思った。そして、教えられたとおりに、油と醤油と酒と味醂で――あいにく切らしていたので黒砂糖を代わりに、佃煮にした。

美味しいご飯に合う。鉄分の不足しがちだといわれる日本の女性におすすめかもしれない。今年の夏、この青紫蘇は冷や奴などにもよい香りを添えてくれた。

また、それほどたくさん育ったわけでもないけれど、小さな畑の一角から葉生姜を引き抜いて帰った。洗ってそれに八丁みそを付けて食す。ささやかな山の幸であり味わいではある。
はたして、いつの日か本格的に農に打ち込める日は来るのだろうか。それも神様の思し召ししだいか。

何をきっかけに見て知ったのか、アフリカの若い娘から詐欺メールが届いていた。さまざまなところから送られてくるスパムメールに現代人の精神状況の一端が知られる。最近の犯罪も「ネット文明」と決して無関係ではないと思う。それは人間を獣性に駆り立てる。

注文していた『HYMNS  ANCIENT  &  MODERN  NEW  STANDARD』が届く。

[短歌日誌]①2008/10/01 

山合の道を歩いているとき、白い素朴な花に出くわした。一見フジバカマの風情で一瞬歓んだけれど、色が白くて赤みがない。花先が絹綿のようでふっくらとしているからオトコエシのようにも思われない。家に帰ってからネットで調べてみると、どうやらヒヨドリバナと言うらしい。その呼び名は可愛いけれど、花の姿とどうしても結びつかない。ただ、暮れなずむ山野の中で、その野草の花の白さだけが印象に残った。

 

初秋の人影もなき山野辺に名も知らぬ花の潔く白けし

 

 


天高群星近