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天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

津山(二)――――種子と土壌の問題

2010年02月16日 | 文化・芸術

 

津山(二)――――種子と土壌の問題

津山では、私も商店街を歩いてみましたが、多くの地方都市がそうであるように、たしかに気がつくかぎり、津山もまた商店街の一部にはシャッターが下ろされていました。それほどに活気があるようにも思えませんでした。

日本国の力強い経済復興は、そして地方都市の再生という困難な課題の解決は、鳩山由紀夫氏のような、夢想家の指導者には望むべくもありません。それどころか、現在の鳩山(小沢)民主党政権の政策のゆえに、やがて一億国民が総化して、かってのアルゼンチンなどのように、いずれ国家破産を招くことになるでしょう。

それにしても、津山で私が思ったことは、「文化の土壌」という問題です。文化の育つ土壌ということを考える時、その土地の歴史と伝統とは切り離せません。文化の一つの象徴的な事例として、キリスト教のことを取りあげてもそうです。

安土桃山時代に南蛮文化が渡来してからも、キリスト教は全国に普及しましたが、徳川政権によって、その切支丹禁教政策によってほとんど息の根を止められてしまいました。

明治時代に入ってキリスト教は解禁になりましたが、しかし、それが受け入れられるとしても、全国津々浦々というわけには行きませんでした。

おなじイエスの教えを聴いても、それを受け入れる土壌がなければ枯れてしまいます。それが育つためには、それなりの土壌が必要だというわけです。このことについては、イエスが「種を蒔く人」にたとえて話されたことで有名です。

その種子がやがてどんなに美しい花を咲かせる可能性を持っていても、その種が道端に落ちてしまっては、鴉が啄んでいってしまって、花も咲きませんし、石だらけの土地に落ちても根付きません。茨の間に落ちても、成長を妨げられて育ちません。(マタイ書第十三章)

これまでも限りなく多くの人がキリスト教についても聴いているはずですが、津山の森本慶三や信州の井口喜源冶のようにそれを根付かせる者は限られていたという事実です。

ここでの私の問題意識は、キリスト教であれ何であれ、一つの文化的な事象が「根付くか根付かないか」その根本的な差異はどこから生まれるか、という問題です。その背景にその土地の文化、その場所の「歴史と伝統」があると考えざるをえません。

森本慶三の育った津山という土地、あるいは場所は、かっては織田信長の小姓であった森蘭丸の弟の森忠政が美作国津山藩の初代藩主となったところでした。しかし、その後、跡継ぎを得られなかった森家は断絶し、津山藩は改易となりました。そうして一六九八年(元禄11年)に越前松平家から、松平長矩(宣富)が美作津山藩を拝領して藩主となり、江戸幕府の直轄地となってそれが幕末、明治維新まで続きます。幕末、明治に日本の洋学の発展に尽くした箕作 阮甫などはこの津山藩主松平家の藩医として抱えられた家系に属していました。

幕府親藩の城下町として、津山という土地は、それなりに高い武家文化を保持していました。それは、歴史民族館を見学していてもわかることです。そして、商人の家系として、銀行の頭取の息子として森本慶三はそうした場所で生育し、明治と東京という時代と場所で内村鑑三のキリスト教と出会い、それを種として津山という土地に持ち帰り根付かせたのです。

とは言え、文化の継承と土着いう問題は、そこに人間の意思という問題が介在するゆえに、たとえ、森本慶三と全くおなじ境遇が存在したとしても、それで必然的に同じくキリスト教が受容されるということにはならないと思います。それが文化の継承という問題が、機械のようには一筋縄には行かない、むずかしいところなのでしょう。

 

 

 

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津山(一)

2010年02月12日 | 日記・紀行

 

津山(一)

所用があって津山まで出張した。前回の時は、京都から岡山駅までは新幹線で、そこから津山線に乗り換えて行った。しかし、今回は中国道を走るJR西日本バスの路線バスに、津山エクスプレス京都号のあることを知り、それを利用した。交通費も安く済んだ。

津山城跡が鶴山公園になっていることを津山駅前の案内所で教えられ、時間に余裕もあったので、そこを訪れることにする。こぬか雨の時折降る中を歩いて行く。先日ほどではないけれどまだ寒い。

やがて城垣が正面に見えたが、その通りの脇に、キリスト教図書館と歴史民俗館の建物があった。その真向かいには自然博物館もあった。歴史民俗館には、森本慶三記念館の表札が掲げられてあった。

森本慶三が内村鑑三の弟子筋の人で、津山の人であることは知っていた。だから思いがけないところで出会ったという感じだった。同じく内村鑑三の弟子で、信州で教育に従事した井口喜源冶のいることも知っていた。ただ、それでも私には、森本慶三も井口喜源冶の二人の区別もよくわからないくらいの知識しかなかった。

記念館の向かいにある自然博物館で入場券を買うようにという張り紙があったので、きびすを返してその窓口まで行き、入場券を買おうとすると、売り場に座っていた男の人が「自然博物館は入場されませんか」と言う。時間も多少に余裕もあったこともあり、ついでに見てみようかという気になって買う。

森本慶三記念館には、内村鑑三ら無教会のキリスト者たちの刊行した多くの雑誌が陳列されていた。わが国おけるキリスト教の受容の歴史と、その特殊性の存在がここにも、一つの客観的な事実として確かめられる。

この記念館には、そのほかにも江戸末期や明治期の商人の暮らしの様子を示すさまざまな民俗品が展示されていた。江戸末期や明治初期の文化の一端に触れることができる。切支丹禁令の高札の実物も、皮肉にもここで見ることができる。この一枚の高札の裏には、さまざまの悲劇が存在したにちがいないのである。

森本慶三氏は津山の商人の家系の出身の人らしく、実家の商家の品々が並べられていた。森本慶三は、教育や実業における貢献によって、初代の津山名誉市民にも選ばれている。知識に断片として残っていた礼拝に使われたオルガンが、かっての小さな伝道の歴史の跡を留めるように、説教台に並んでいた。明治期の日本のキリスト教の、地方の小都市への伝道の、それら小さな足跡をゆっくりと時間を掛けて眺めた。

自然博物館には、それほど期待してもいなかったが、実際に展示されている鳥類、ほ乳類動物の剥製、化石、鉱物など蝶、昆虫など多様多彩なコレクションを見て、その充実ぶりに、地球上のさまざまな生物の多様さ、その豊かさにあらためて感動させられる。

それはおのずからに、神の御手になる創造の、天地自然の壮大さ、人体の構造の神秘などに驚嘆せざるをえないようなものである。自然に対する、神の創造物に対する、こうした展示に見られる限りない知的好奇心と博学は、当然のことながら森本慶三のキリスト教信仰とその思想の帰結として生まれたものにちがいない。

                        

                  

 

 

 

 

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