西行法師の桜(二)
勝持寺は西山のふもとに抱かれた山寺である。今でこそ交通の便も良くなって、京都の街中からも半時間もあれば来ることはできるが、西行の生きた時代には、まだ奥深い山の中の寺だっただろう。徒歩か、せいぜい馬、駕篭ぐらいしか交通の手段は当然なかったし、だから、それほど簡単にはこうした寺にも訪れることはできなかった。この寺がどのような位置にあるかは、境内のはずれから、遥か眼下に市街地を眺望することによってわかる。
老人の述懐といふことを、人々詠みけるに
1238 山深み 杖にすがりて 入る人の
心の奥の 恥づかしきかな
求道の歌とも、恋の歌とも言われる。山が深いように、求道の道も奥深く、杖にすがってまでも道を求めて、山に入る老人の心に比べて、私の心の何と浅ましいことよ。
そうしてこの地で西行もまた世俗を離れ、後世安楽をもとめてこの寺で出家し庵を結び、桜の苗木を植え、求道の道を辿る。
不動堂の左脇に池があり、その中にやさしい顔をした魚藍観音像が立っている。どういうわけかこの観音様は手に竹篭を提げられ、その中に一匹の魚が入っている。それで漁師たちに信仰されているのだという。
阿弥陀堂に向う。勝持寺は天台宗である。その教えは中国の智(538年~597年)から日本の最澄(767年~822年)の教えの流れを汲む。天台宗はまた根本経典を法華経に求め、最澄の創建になる比叡山延暦寺は、日蓮や親鸞などの鎌倉仏教の源流となっている。
靴を脱いで阿弥陀堂に上がる。正面には薬師如来像が端正に鎮座していた。小さな山寺にふさわしい仏様である。古い仏像を前にすると、おのずから当時の人々の精神を、たとえ一時なりとも共有できるような気がする。それも、こうした古い寺を訪れる楽しみの一つである。神々しい仏像を自ら刻んで、その前に額づいて祈った当時の人々の、煩悩からの救済の純粋な願いを、少しでも共感できるからだ。西行の心は今は、彼自身が願ったように、浄土に憩らっているにちがいない。
1540 誓ひありて 願はん国へ 行くべくは
西の門より 悟りひらかん
阿弥陀堂のとなりに瑠璃光殿があり、そこに漆塗りの黒く小さな西行像があった。寄木造りで赤子のように抱えて運び出せそうな小さな御像である。髪を下ろした、すでに若くはない西行の面立ちが刻まれていた。室町時代の作で、平安の御世に生きた西行の面影をどれほど正確に伝えているのかどうかわからない。
この小さな西行の背後の両脇に、仁王像が凄まじい形相で見下ろしている。見事な彫刻である。鎌倉時代の作という。いかにも、鎌倉時代にふさわしい武士たちの質実剛健な精神の息吹が感じられる。西行は平安の末期に武士として生まれ、そして、出家して半俗の歌人として死した。時代は、保元の乱、平治の乱と続いて平安貴族の没落の中に、平家や源氏の武家の気風が萌し始めた頃である。その時代は、西行の一見世俗を超克したような歌にも深く刻印されている。
花の散りたりけるに並びて咲きはじめける桜を見て
772 散ると見れば また咲く花の 匂ひにも
後れ先だつ ためしありけり